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zoom RSS 「相模原殺傷事件」について その2

<<   作成日時 : 2016/08/01 13:26   >>

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措置入院制度の見直しという議論が見えなくするもの



「相模原殺傷事件」についての第1回目のブログは、措置入院制度の見直しなどよりも、支援現場で働く職員の方たちの、労働環境、雇用環境、経済条件を、もっと整備していく方向で考えることが先決ではないか、という訴えを中心に書きました。
 そのことは、「障害者は生きている資格はない。殺してよい」などという、おぞましい考え方の、直接の原因に迫ることではないかもしれないが、少なくとも重要な動因になっているだろう、というのがわたしのとったロジックのゆえでした。

 政府や厚生省サイドへの注文、あるいは批判としてあえて述べれば、福祉や介護職員に対し、ぎりぎりの人員と低賃金を改善しようとせず、それなのに、最大限の労働力として収奪してきた政策のツケ、という要因はないのか、そうした側面の議論を、一切封印しようとしているのではないか。そのような疑義となります。

 だから、なぜ2週間ほどで退院させたのか、その判断は妥当だったのか、退院後のフォローアップを取っていなかったのはミスではなかったのか、という方向で言論形成がなされているけれども、むしろそれ以上に、重要なことがある。
 職員同士のかかわりが充実し、そこから、さらに専門的な援助スキルを身に着けていくことができるような体制づくり。事業体全体でバックアップしていけるような、時間的にも精神的にも、ゆとりの持てる体制づくり。利用者の方たちとも、じっくりとかかわりが持てるような、職員の方々の精神的なゆとり=B
 こちらに取り組むことの方が急務ではないか、というのが、前回のわたしのメッセージでした。

 なぜこのことを強調しているか。理由は二つあります。

 殺人などの重大事件に「精神保健福祉」の案件が絡んできたとき、社会防衛の論理が一気に前面に出てきて、「制度のどこかに不備があったはずだ、不備を是正すれば、こうした事件は防げたはずだ」という論調が主流になっていきます。そしてさらに、「危険な言動をし、社会を脅かす人間は、事前に拘束してもよいのではないか」、という考え方が形成され、やがて大きくなります。
 結果、法の整備や制度の厳格な運用、という方向に向かうことになる。
 制度整備のすべては否定しませんが、今回の事件が、このような方向でのみ語られようとしていることへの危惧が、ひとつです。

 もうひとつは、精神科診断(精神科治療)に向けられるもの。
 2週間で退院させた医師の判断は、どこまで妥当だったのか。診断は適正だったのか。
 こうした疑問が出される背後には、はっきりとは口にしないまでも、事件直前に関与した医師にその責任を求めようとする心情が垣間見えます。そして精神科治療(精神医学)への不信を、ますます募らせていくことになる。あるいは、もともと抱いていた不信を、この時とばかりぶつけていくことになる。

「ここまで常軌を逸した人間が、事前にサインを出していたのに、なぜ精神科治療は適切に対応できなかったのか」というように。
 しかし精神科医療は、疾患(失調)の治療が本分であるはずなのに、そのこと以上に、危険な言動をする人間を社会から隔離し排除するようにという、いわば警察的働きで、精神科治療を見ようとする。それを求めようとする。
 ここには、精神科医療に対する大きな誤解、あるいは間違った期待があるように、わたしには思われるのです。

 いま、おそらくこの二つが、メディアで主流になっている、大きな「声」ではないかと思います。
しかしそれでは、この事件の最大のポイント(と私が考えているもの)にたいして、有効なアプローチができなくなる。本質を逆に見にくくする。強く、そのような危惧をもつゆえに、第1回目の主張になったのです。
 
 繰り返しになりますが、この事件でまず明らかにしなければならないことは、植松聖というこの加害者が、どの時期から、こうした「障害者は生きていても意味がない」、というような考えを持つようになったのか。なぜそれを修正する方向にではなく、「生きていても意味がないから殺した方がいい」というような、まったく誤った方向で強化することになってしまったのか。
 そのことが問われなくなってしまう。見えなくなってしまう。そう危惧するからです。
 
 ある報道では、この加害者はかなり早い時期(小学生時代?)から、障害者は生きていても意味がないという類の発言があった、ともいわれていました。それがどこまで強い差別心だったか、どんな性格の意見だったかとうことは分かりませんが、いずれにしても、就職とともに内圧を高めていき、やまゆり園離職後には、一気にボルテージを上げていった。そんな風に、報じられています。

 しかし反面、大学生時代に教育実習をおこなった際、実習先で担当をした子どもが、「すごくやさしい先生だった、卒業したらいい先生になるだろうと思っていた」、といっているのが報じられました。
 また、加害者が通っていた「キックボクシングのジムのトレーナー」も取材に応じ、その人は「最初、容疑者を見たときは、見るからに介護で頑張っている人だ、という印象を受けた」、と語っていました。ところが、それが一変した、と。
 被害者となった利用者の親御さんでさえ、「会うたびに、今日はこんなことをしたんです、こんなことを頑張っています、と明るく声をかけてもらった、だからこそあの人がなぜなんだ。だまされていたのか。そう思えばなおのこと悔しい」、とも言っていました。

 こうした2面性やギャップを、どうしたら埋めることができるのだろうか。
 いつ、なぜ、どんなことをきっかけに、「障害者は生きていても意味がない」などという考えに強く傾き、「殺してしまった方がよい」という狂信に、一気に突っ走っていってしまったのか。実行に移すというところまで、自分を追い込んでいったのか。

 本当のところ(事実)は、完全に解明することなどできないかもしれません。
 結局、ひとつのストーリー(フィクション)を作ることになってしまった、ということに、なるのかもしれません。
 しかしその解明なくしては、無抵抗のままに人生を絶たれていった多くの方たちは、浮かばれないのではないか。クスリの常習者だ、人格異常者だ、徹底的に措置入院させろ、監視しろ、というだけでは、解明にはほど遠いと思うのです。

 人の命が奪われる事件は、どんな事件でも痛ましいものですし、そこに重大性の軽重などがあるわけではありません。わたしのような、事件取材をして記事を書く物書きは、えてしてそんな論じ方をしがちです。
 そのことを承知で、自戒を込めて書き進めていきますが、これまでたくさんの衝撃的な事件がありました。
 思いつく限りでも、89年の幼女連続殺人事件。97年の神戸市須磨区での少年Aによる事件。01年の大阪・池田小学校事件。09年の秋葉原事件。そして14年の佐世保での高1少女による事件……。
 
 そのたびに、次のことを感じてきました。
 事件が起こるたびに、メディアは「報道の自由」と「国民の知る権利」を最大限駆使して、大騒ぎをしてきました。テレビコメンテーターの、これはあまりにも度が過ぎているのではないか、というようなバッシング発言もありました。
 私自身メディアの片隅で仕事をしている身なので、大きなことは言えません。こうした事情はひとまず飲み込んでおきましょう。
 一つだけ強く感じてきたことは、こうした一つ一つの事件から、わたしたちは大騒ぎをした後に、何を教訓としてきたでしょうか。
 司法、医学、教育、福祉、心理。そしてメディア。
 教訓としなくてはならなかったものをつかみ、広く共有し、いつ生じるかもしれない次の緊急事態への備えとして、なにを蓄積してきたでしょうか。おそらくは、それぞれの専門領域の、それぞれの部署では、そうとうな知見の蓄積がなされているはずですが、それは社会の財産として、うまく機能しているとはどうしても思えない。社会の共有すべき財産となっていない。そう感じてしまうのです。

 せめて必要最低限の情報と、その分析や考察などの総合的な知見の共有こそが、社会にとっての「最大のセーフティネット」になる、とわたしは信じて疑わないのですが(もちろん課題はたくさんありますが)、今回の事件にあって、そうした方向で論議がなされていくことを、こころから切望します。

 当然、わたしも、信じがたい所業に手を染めた加害者にたいする嫌悪感も、強い怒りも感じます。
 それをぶつけるだけでは、数年たったら、また同じことが繰り返されるとしか思えないのです。
 *
 被害者の方へのケアも最大限になされてほしい。ご家族も、やまゆり園の職員の方々も含めて。
 半年や一年で、快方に向かうことなどないかもしれません。
 テレビ取材に応じている親御さん方も、テレビの前ではとても気丈に振る舞っていますが、言葉には尽くし難い苦しさや怒りを、押し隠しているはずです。

 わたしがこのようなことを書き記すのは、あまりに僭越にすぎるのですが、お子さんが重度の障害を持って生を受けたこと、そして全力で育て上げてきたこと。そこには子どもの成長を見守る喜びとともに、親としての苦悩、不憫さ、申し訳なさ、といった何ともいえない複雑な感情をも、どこかに持ってきたはずです。そのひとつひとつを、10年、20年、30年とかけて乗り越え、今日にいたっている。

 それが突然、このような非道な目に遭わなければならなかった。全力で守ってきた存在が、理不尽な理屈で奪われた。心情は、察するに余りあります。
 そうであればこそなお、幅広い観点からの解明がなされる必要がある、と痛感するのです。

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