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zoom RSS 村上春樹『騎士団長殺し』を読む

<<   作成日時 : 2017/03/03 00:47   >>

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(ネタをばらしています。未読の方はご注意あれ)


1. どんな作品か――参照作品は『ねじまき鳥クロニクル』
村上春樹の『騎士団長殺し』を読み終えた。
読み始めてまもなく気がつくことは(多くの人がそうではないかと推測されるが)、『ねじまき鳥クロニクル』の舞台や人物の設定に、かなりの部分で重なっているということだった。
主人公は、妻に理由もわからないままに別れ話を持ち出された30代の男性。『ねじまき鳥』でも、突然、妻が失踪した、という導入になっている。そして両作ともに、妻を探し求めるというモチーフが、全編を貫いている。さらに今回は「絵描き」という職業設定がされているが、基本的に村上作品の主人公は、自由業であり、自由に使える時間をたっぷりともつ、というのがお決まりの設定になっている。
そして家のそばに掘られた「穴」。『ねじまき鳥クロニクル』における「井戸」よりは大きめで、「室・むろ」のような穴で、なぜ掘られたかは不明。著者の一貫したテーマである「存在と非存在」の、「有と無」の世界を行き来する通路、つなぎ目という役回りも同様である。

『騎士団長殺し』に即していうならば、この室(=井戸)は、それが登場するときには物語のギアチェンジが行われる、1速目から2速目へ、2速目から3速目へ、そして4速目へ、というように、物語の階層を1段ずつ上げていく装置となっており、これもまた両作に共通する。
さらには人物たち。少女(ここでは、秋川まりえ)の存在。悪を深く内在させ体現している男(「スバル・フォレスターの男」)。そして「騎士団」はじめ、絵から登場する様々な「メタファー」たち。
重要な影を落とす「昭和の戦争」も、同様である(この、戦争のモチーフは、『ねじまき鳥クロニクル』よりもさらに深められていると感じた)。などなど。
物語(ストーリー展開)の骨格も、ほぼ『ねじまき鳥クロニクル』を踏襲している。
とは言っても、著者の物語の基本構造は『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』以来、彼岸(冥界)と此岸(現世)、実在と非在の往還という物語構造を、パラレル・ワールドとして描き出すことを一貫させてきた。
しかしそれでもやはり、『ねじまき鳥クロニクル』を参照項として取り出しておきたいのである。そんなふうに、わたしの読みは要請している。

小説家としてきわめて身体能力の高い村上春樹が、わたしごとき凡庸な人間でさえ気づくこうした事実≠ノ(そのようには思わない、という主張もあるかもしれないので、断言することには、いささかのためらいはあるが)、無自覚だった、気づかなかったとはとても思えないのである。
気づかなかったとすれば、新作『騎士団長殺し』は『ねじまき鳥クロニクル』の自己模倣ではないか、という批判や疑義が予想されるところだろうし、それはこの世界的名声を手にしている作家≠ノとって、名誉なことには思えないからだ。いや、むしろ最も避けたい批判ではないか。

従って、今回わたしが引く最初の仮説(補助線)は、なぜ17年を経て『ねじまき鳥クロニクル』を色濃く想起させる作品を書かなくてはなかったのか、というものになる。
意図的ではなかったのではないか、結果的にそうなってしまったのではないか、という疑義は、いったん脇におく。意図的かそうではないか、どちらの解釈が妥当かという論議は、どうしたところで決着などつかないのだから。
本の中で著者も言うように、「想像力を巡らせれば、そこからいろんな寓意やメッセージを読み取ることは可能」であり、「いくら説を組み立てたところで、結局のところすべては裏付けのない仮説に過ぎない」(第1部p429)からだ。
まったく著者の言う通りだと、わたしも思う。
ただし、ここでいう「裏付け」が、作家が残したメモや発言、創作ノート、日記のような資料を指すのかもしれないが、ではしかし、作家が遺す資料が、いかに虚実のないまぜになったものであるかは、少しばかり伝記的あるいは考証の領域に足を踏み込んだことがあるものならば、比較的容易に理解されるだろうと思う。一方で、著者が「絶対的に正しい真実というものはない」とくり返し書きつけているように、「裏付け」もまた検証と、相対的な正しさのなかにさらされることになる。

2. 3.11を通過した後の『ねじまき鳥クロニクル』
「なぜ17年を経て、『ねじまき鳥クロニクル』を強く想起させる物語を書いたか」
先ほど、そのように補助線を引いた。この補助線から導かれる二つ目の仮説は、物語全体を構成する時間についてのものである。
書き出されてから間もなく(これは『ノルウェイの森』や『国境の西、太陽の東』『スプートニクの恋人』などの作品と手法的に同じものだが)、妻と別れてからの9カ月ほどの物語が終ったところから、その間の出来事が回想される、という設定になっている。冒頭すぐ、そのように語られる。そして末尾に、東日本大震災が置かれる。

したがって、作中の、9か月間の出来事に現在進行的に体験していく主人公(私)は、3.11東日本大震災をまだ通過していないのだが、しかしこれを語っているナレーターは(作者は、でもなければ、主人公は、でもなく、ナレーターである)、すでに東日本大震災の経験を経ている。
東日本大震災を体験したナレーターが、それ以前の(ラストになって数年後、と書かれるから数年前のことになるわけだが)、9か月間の出来事を語っていく。そのような時間構成を持つテキストになっているのである。

物語の出発点・数年前(ナレーターは数年を経ている)・・・物語の終着点・・・数年後(現在)3.11を体験する主人公(ここで主人公とナレーターの時間が一致)

ということは、ストーリー上からは「3.11以前」の物語を装いつつも、「3.11以後」のナレーターが語ることによって、おのずと、津波被害とフクシマのメルトダウンの衝撃が、そこには入りこんでくるはずである。重箱の隅を突っつくような指摘をしていいると感じられるかもしれない。端的に言えば、『騎士団長殺し』は、わたしには、村上春樹によって書かれた地震と津波災害、フクシマの事故による放射能被害を経たあとの物語だと思われた。
つまりは、著者はひそかに、「3.11以後」の世界へのメッセージをもそこに潜ませているのではないか。そのような第2の仮説(補助線)が導かれるのである。
『ねじまき鳥クロニクル』は、直接にはオウム真理教のサリン事件などを深いモチーフとして見え隠れさせ、より深層の水脈には、1971年から72年における連合赤軍による総括≠ニ呼ばれた大量の殺戮事件が、底のほうで流れていた。なぜならば、戦時中の、大陸で日本軍が犯した現地住民の大量虐殺と、その死体を穴に埋めて行ったというエピソードは、連赤の事件を想起させるものだったからだ。

この『騎士団長殺し』には、東北を襲った神の暴力≠フごとく津波被害と、人知の象徴としての科学技術の破綻・敗北でもあるフクシマの放射能汚染が、じつは作中に、深く密かに刻みこまれているのではないか。
「巨大な暴力や悪を経験した後の、その回復の物語」。手軽なコピーを付すとすれば、そんなところになるのだろうか。しかし手軽なコピーが、深いメタファーとして作中に配置されていることを受け取るならば、3.11のもたらした傷の大きさが、作中に刻まれている。
あくまでも一つの読み≠ナはあるのだが、わたしがたどりついたのは、そんなところだった。

傍証を挙げてみよう。
主人公は妻と別れて家を出た後、東北や北海道を車で回る。とくに東北の太平洋沿岸でのある町での出来事が、第1部での重要なエピソードの一つになっている。そこで偶然遭遇する一人の男(「白いスバル・フォレスターの男」と呼ばれる)と、一人の女(この女を相手にセックスしているさ中、主人公は疑似的な殺人を行ない、そのイメージは最後まで持続されている)。
二人の存在とも、悪や激しい憎悪の寓意として描かれている。

つまり、『騎士団長殺し』にあって「東北」が重要な場所となっていることが一つ。
さらには、主人公小田原の山中に移り住むことになるが、かつての小田原での地震や、関東大震災に、ところどころで、さりげなく言及されることも、傍証の一つとしてあげておこう。
そして東北を回っているときに、眠っている妻に対し、合意なしにセックスをする、という夢≠見る。この夢の中の性行為によって、妻は妊娠する(正確にいえば、妻の妊娠は、このときのセックスによるのではないか、と「私」は考え、やがて確信する。もちろん根拠はない)。この舞台も東北である。

この夢をとおした「妊娠と出産」という出来事は、第二の主役とも言えるもう一人の人物である色免という男のセックスと、対照的な位置づけとして描かれている。いわば「私」と色免を対とする世界が、雨田具彦や騎士団長や、東北で出会った二人の人物、という『騎士団長殺し』の人物配置をつくっている。そして「父と子(娘)」というもう一つの重要なテーマが伏在することを、この人物配置は教えている。
ちなみに言えば、もう一人の重要人物、画家である雨田具彦――「騎士団長殺し」とは、彼の隠された重要な作品のタイトルである――と、「私」の友人であり、具彦の子である雨田政彦にも、父と子のモチーフが(あるいは「父になる」というモチーフが)、託されている。

もちろんここでは、子(娘)であるという確証は、保障されていない。いかにも村上春樹的に、「夢の中での性行為によって受胎し、誕生した娘(室・むろ・と名付けられている)であり(「私」)、もう一方は、別れに当たって突然訪ねてきて行われた激しい性行為によって、受胎し、誕生した・かもしれない・娘(秋川まりえ)である(色免)。保証されていないことによって、それを確認したいという色免の意思・欲望が、物語前半の重要な動力源となっている。
「私」にあっても、冥界・魔界、非在の世界を通過することによって、言い換えればいくつかの試練を乗り越えることによって、我が子を引き受ける(この点のみに注目すれば、大江健三郎の『個人的な体験』に連なる作品である、ともいえる)。

ラスト近く、「私」は室≠ニいっしょに、東北を襲った津波のニュース映像を見る。ただし室≠フ眼をふさぎながら、と描かれる。ここはいくつかの解釈が可能だろうが、ここでは書かないでおく。
ともあれ『ねじまき鳥クロニクル』とは大きく異なるのは、次のように結ばれていることだ。

「私は騎士団長や、ドンナ・アンナや、顔ながの姿を、そのまま鮮やかに浮かび上がらせることができる。手を伸ばせば彼らに触れることができそうなくらい具体的に、ありありと。(後略)
私はおそらく彼らと共に、これからの人生を生きていくことだろう。そしてむろ(原文傍点)は、その私の小さな娘は、彼らから私に手渡された贈りものなのだ。恩寵のひとつのかたちとして。そんな気がしてならない。」(第2部p540)

ここで語られているのは、「希望」である。「騎士団長殺し」の絵に描かれた人物たち(彼らはまた、異界あるいは非在の世界の住人でもあるのだが)、その彼らからもたらされた「小さな娘」は、「恩寵」だという。
そしてわたしの記憶に間違いがなければ、村上作品にあって、作品のラストをこのような未来に託す希望の言葉で語ったことは、これまでは見られなかったことではないかと思う。
『ねじまき鳥クロニクル』では、妻にも会えず、どこへも行けず、ラストは宙づりにされたままだった。しかし『騎士団長殺し』では、妻との再会を決意し、会って同居を願い、もう一度やり直すことを、そして室≠我が子として引き受けることを、作者は主人公に決断させている。
このラストこそ、3.11以後を描いた作品であることの、有力な傍証ではないかと思う。3.11をきっかけとして、わたしたちの間に、「未来の人類」や「子どもたちの未来」が、不問に付してはおけない主題として浮上してきたからだ。

3. なぜ「画家」だったのか
思いがけず長くなっているが、主人公の職業を「画家」としたことについて、触れておきたい。
仮に著者が「この芸術家(作家)は、誰それと誰それの影響が濃厚であり、影響を脱ぎ捨てて行くようにして自立した芸術家(作家)となっていった」と指摘されたと仮定しよう。反論の意思を持ったとき、著者は、その指摘に直接反論するような論理を積むのではなく(この作者にあって、それは容易なことだろうと思う)より本質のところで、「芸術家(作家)はどのように、芸術家(作家)たり得ていくか」を示そうとする。
芸術(文学)の作品が、どのようにして立ち上がってくるか。作家(芸術家)がどのようにして、より深い、個性あふれる作家(芸術家)として自立していくか。著者のそのようなモチーフが、絵描きという主人公を選ばせたのではないかと推測する。
つまりここで主人公に託して語らせている絵画や芸術、作家についての記述は、作者自身の芸術・文学の作品への見解であると読み解くことができる。当然「メタファー」として、著者の見解や洞察は書かれているわけだけれど。
このことは逆に言うこともできるだろう。
『騎士団長殺し』において、これまで積み上げてきた小説技法の粋を尽くして、作家は、芸術論をやってみせたのだ、と。芸術論をやってみせる必要があった。これが第三の仮説である。
もしこの第三の仮説にいささかの妥当性があるとするならば、それはこの著者にとって、一つの転向、というのが大げさであるならば、態度変更を意味するのではないか。そのようにわたしには感じられた。
どういうことか。
かつて著者は「誤読というものはない。私はこう読んだと言えば、それは正しい読み方です」と、朝日新聞でのインタビューに、自信をみなぎらせながら応えていた(2005年10月3日夕刊)。これは、私の作品は、まだいささかも読み解かれていない、という言明ではないかと感じさせるほど、自信と自負が溢れる言葉だったと思う。

しかしどのような契機があったからなのかは分からないが、いや芸術(文学)作品は、ある先行する作家の影響から生み出される、などというような、そのような生まれ方はしない、それはいかにも表層の理解であり、もっと本質的な、内的契機や必然をへて(乗り越えて)生み出されるのだ、というように。
これが作中の「イデア」や「メタファー」である。「イデア」や「メタファー」が、とても高度なメタファーとして描かれている。
この著者ならではの発想・アイデア、技量には畏敬を感じつつも、一方、自作の解説≠述べ始めたのではないか、という危惧も抱かざるをえなかった。あのイスラエルでの受賞講演、「壁と卵」の話も然り。
言い換えるならば、誤読≠ノ対して、やや狭量になっている、ある種の牽制を始めている、ということになる。しかしこの危惧、あるいは疑義がどこまで妥当かは、作品が決するはずである。

公平を期してもう一つのことを指摘しておきたい。
『騎士団長殺し』で描かれている絵画についての様々な見解。対象がデッサンされ、数多くの線が引かれ、そこから一本の線が定められ、形(フォルム)をつくり、どの色が適切か厳密に鑑定された色が塗られ、マティエル(質感)をつくり、作品として仕上げられていく過程の記述。
あるいは、技術的には高くても一般的な肖像画と、ポートレートではあるが、質的にまったく異なる肖像画がどんなもので、なぜそれが他を圧しているのか、というあたりの記述は、とても見事なものであった。

それ自体が見事だったばかりではなく、画家の才能や能力が、いかに魔的なもの、デーモニッシュなものを必要とするか。すぐれた作品が生み出されるためには、人智を超えたジャンプ力を己のものとして要するか。これらの記述が、作品進行における重要なメタファーとして、物語の進展と深く連動させられているところが、この作品の重要な読みどころの一つであると思えた。

物語を組み上げていきながら、絵画論や芸術論が挟みこまれる。それが物語の奥行きをつくることに加担し、終結に向けた進展が、一つの芸術作品が仕上がっていく過程と深く連動している。そのような小説作品は、過去にあったろうか(トーマス・マンやゲーテを思い起こし、何かあったのではないか。『トニオ・クレーゲル』?『若きウェルテルの悩み』? しかしいま、しっかりとは思い出せずにいる)。

物語の前半、上巻では『ねじまき鳥クロニクル』を想起させ、参照し、たどり着いたところはこのような感想であった。もちろん、入口は、他にいくらでもつくることができるだろう。解釈は一つではない。
(2017.3.3)




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