(連載31)「障害のある先生」への支援、理念と現実のはざまで(その1)


超えるのを難しくするハードル

ここまで車椅子の中学校教師三戸学さん、途中から視覚をすべて失い、学校教員から大学の研究者に転じた中村雅也さんなど、障害当事者の方たちへの取材を続けながら「障害のある先生」の問題を考えてきました。間もなく新年度が始まります。三戸さんは、念願の担任希望がかなえられるかどうか、私信で期待と不安を語っていました。お伝えしてきたように、管理職は、それは三戸さんへの「配慮」に基づく決定である、と色々と理由を述べていました。しかし私には、その「配慮」に合理性は感じられませんでした。

また(これまでの2回の記事では書き留めていませんが)、取材のなかで個人史について尋ねたとき、中村さんは次のように述べていました。自分は教師という仕事が好きで、人並み以上に打ち込んできた人間だと思っている。弱視ではあったが、生徒にも積極的にかかわったし、視覚教育の専門的な勉強もしたし、肢体不自由の養護学校に転勤になったときは、その方面の勉強にも取り組んできた。教師集団の中心的存在として仕事ができて、とても充実していた。そう言います。ところが、家庭の都合で他県に移ったところで事情が変わっていきます。新しく赴任した病弱の養護学校時代に視力が急速に落ちていき、全盲の教員として盲学校に異動しますが、そこで同僚教員の自分への見方や対応が、がらりと変わったのを感じたといいます。病気休暇に入り、間もなく退職。

「ごく普通に教員をやってきて、視覚障害者になってごく普通に色々と困ったことが起きて、ごく普通に排除されて教員を辞めた。そういうありがちな話です」

インタビューの冒頭、中村さんから、障害当事者ではなく、研究者・中村雅也として話したい、そこはきっちりと分けておきたいという要望が伝えられていたので、それ以上の質問を重ねることは控えました(私自身は、こうした考えは理解できます。研究者はその研究内容が問われるのであって、それを書いた人間に障害があるかどうかとか、どういう人間かといった問題は、二義的以下のことに過ぎない。障害があろうとなかろうと研究者は対等である。そういう基本的な考えを持っているのだろうと推察され、私は強く同意します)。そして中村さんは、ありがちな話だと述べるにとどめていましたが、教員集団のなかにあって、関係のあり方に相当苦慮されたであろうことは推測されます。

ここまでの取材を通し、私がいま強く感じていることは、「障害のある先生」と同僚教員との「関係」という問題です。「健常」の同僚たちが、「障害」や「障害者」という存在をどう理解し、日常的にどんなかかわりをつくろうとしているのか。教育行政の職員、管理職など、教職員に対して指導的な立場にある人についても同じことが言えます。いや、もっと重要なはずです。文科省が障害者雇用についてのさまざまな方針を打ち出すことは、もちろん大事です。法や制度を整えていくことは、何をなすべきかの根拠が示されることですから、それもまた重要です。しかし、法や制度や方針をどこまで命の通ったものにするか、骨抜きにして形骸化させるか、あるいは悪用するか、それは「ひと」次第です。やはり「ひと」という課題が最後まで残るようなのです。そこにどんな「関係」がつくられているか。

そしてこの課題は、日常的なかかわりの積み重ねである分、微妙ななかに置かれます。関係はあくまでも個別性です。「合理的配慮」という言葉にしても、それをどう受け止め、具体的な関係のなかでどんな形で示されるかは、一人一人によってさまざまなニュアンスを帯びるはずです。逆に言えば、当事者たちにとっては、言いたいことはあるけれども、この人にはどう伝えればいいのか難しいと感じたり、これは言わないほうがいいと考えたり、言っても理解してもらえないだろうと思ったり、なかなか口にしにくい事情が必ずそこには付随しているだろうと思います。

同僚教員の支持的なかかわりをどう引き出していくか。〝仲間外れ〟を導くような排除的なかかわりを、どう防いでいくことができるか。この問題を考えていきたいというのが、今回以降のテーマになります。

教員採用試験における「障害者特別選考」について

私の脳裏に真っ先に浮かんだのは、横浜市の公立中学校で教員として定年まで勤務していた赤田圭亮さんでした。赤田さんと岡崎勝さんが編者となった『わたしたちのホンネで語ろう 教員の働き方改革』(日本評論社)については、以前、紹介しています。その際のメールのやり取りに、50代の発達障害のある先生のサポートをした経験があるということが書かれており、いつか詳しい話を聞かせていただきたいと機会を待っていたのでした。

赤田さんについて簡単に紹介しておきます。著書を拝見するたびに、私は教員としての腕の確かさを受け取ってきました。学校現場の労働問題についてのエキスパートでもあり、少人数の独立系の教職員組合を立ち上げ、その代表を務めるなど、組合活動にも長く専心してきました。とは言っても、イデオロギーを前面に出して論難していくタイプとは異なっています。教育の現場は矛盾の塊であり、理念やイデオロギーで押し通そうとするだけではいかんともしがたい局面がたくさんあることを、熟知している実践者です。著書の記述はそのことを十分に伺わせるものでした。

先のメールを読むと、窮地に陥った50代教員へのサポートが、そうとう踏み込んだところまでなされていることを感じさせました。赤田さんがどんなかかわりかたをしたのか。同僚教員はどんな反応を示していたのか。管理職はどうだったのか。この点について話していただきたいというのが、私の問いの1点目です。2点目は、学校という現場で、あるいは教員集団のなかで、「障害のある先生」と一緒に仕事をするにあたって何をどう考えていくことが大事なのか。こうした二つの質問を用意していたのでした。

赤田さんは中学校を退職した後、ある大学の教職課程で「教職実践演習」を担当しています。今年度はオンラインでの授業を続けてきたのですが、なかに聴覚障害のある学生がいました。その学生から、教員になりたいのだが、受け入れの現状がどうなっているか、どんな準備が必要か教えてほしい、という依頼があったと言います。

「彼は4年生で間もなく卒業していきますが、ある競技のアスリートとして一般企業への就職が決まっています。そこで何年か働いた後、教
職に就きたいという希望を持っているのです。私は聴覚障害のある教員とは一緒に働いた経験がないものですから、佐藤さんの連載を紹介して、「今から準備しておいたほうがいいよ」と伝えてきました。佐藤さんが書かれていた奈良県や熊本県のように、進んだ取り組みをしているところがあるということは私も知りませんでした。そこで、横浜市の選考試験の受験案内を見てみました。選考の方法自体が遅れているというか、旧態依然というか、そんな印象を受けました。様々な特別選考枠のなかで、取ってつけたように最後に書かれているのです」

横浜市の選考区分を紹介してみます。一般選考(通常の選考枠)と特別選考とに、大きく分かれます。特別選考の①が教職経験者。資格を満たすための取り決めがありますが、こちらは省略。一次試験は学習指導案の提出のみ。②は社会人経験者と国際貢献活動経験者。やはり学習指導案の提出のみ。③が大学推薦。一次試験は免除。書類選考で不合格の場合は一般選考に回る。④スポーツ推薦。指導案のみ。⑤横浜市教育委員会が設置するアイカレッジ卒塾者という枠。一次試験は免除。

そして⑥が障害者特別選考です。受験資格は、一般選考区分を満たすこと。障害者手帳、療育手帳(知的障害者であることの判定書)、精神障害者保健手帳が交付されていること。一次試験は「各選考区分に従う」とあります。また〈配慮の具体例〉としては 〇視覚に障害のある方(具体例は抜粋(以下同):点字による出題、盲導犬の同行、問題用紙の拡大、試験時間の延長など) 〇聴覚に障害のある方(説明文の書面による配布、手話通訳者の配置(二次試験)など) 〇下肢等に障害のある方(スロープ、エレベーターの利用できる試験会場、車椅子が使用できる試験会場)、といった内容が記載されています。

赤田さんの指摘に示唆を受け、他県の「障害者特別選考」についても調べてみました。それぞれ特徴があり、主な点のみの記載ですが、以下のようになっていました。

秋田県。「一般選考に示した受験資格を有する者。身体障害者手帳(1級から6級)の交付を受けている者、また指定医による診断を受けている者」とありますが、療育手帳や精神障害者保健手帳の記載はありません。留意事項には「申し出により障害の種類や程度に応じて、受験方法や設備面での配慮をする」旨が書かれています。

東京都。教育委員会の選考試験に関するホームページには、「障害に配慮した選考」と題されたページが2ページ費やされ、他県にはない特徴になっていますが、「配慮の具体例」の欄は「視覚」「聴覚」「下肢」の3区分だけです。目を引いたのが、「過去の実施状況」として、平成27年度から令和元年度に実施された配慮事項、そこでの受験者数と合格者数が表になって示されていることです。配慮区分は、点字、拡大文字、手話、車椅子、その他とされ、各年度の申込者数と合格者数は次の通りです。合計数のみを(申込者/合格者)として示します。27年度(43/5)、28年度(47/9)、29年度(32/8)、30年度(34/10)、元年度(32/2)。

ちなみに大阪市の受験資格は、身体障害者手帳、療育手帳、精神保健福祉手帳の交付を受けている者、となっています。身体障害だけか、療育手帳や精神保健福祉手帳も記載されているか、このあたりで分かれるようです.

(ここには厄介な問題があって、私は6、7年ほど前に大学や高等専門学校を回り、「発達障害の学生」にどんな支援がなされているか、取材をさせてもらったことがあります。九州のある高専(高専の卒業生は即戦力としての期待が高く、採用率は非常に高いものでした)では、受験学生に発達障害があることを事前に伝えてしまうと採用にあたって不利になる、そのあと受験していく卒業生にとってもいい印象は持たれない、それで伏せたままの受験となっているが、それがアフターケアの難しさにつながっている、という話を担当者より聞きました。残念ながらそれが当時の現状でした)。

教員採用の「障害者特別選考」を詳細に見ていくと、ユニークな受験資格を定めている教育委員会や、全国の範例となるようなケースが見つかるかもしれません。「障害のある学生」に対しこうした情報がどこまで届いているか、その点が気になるところですが。

場を変える、方法を変える、関係を変える、視点を変える

赤田さんの話に戻りましょう。最初に若い先生2名について話し始めました。いずれも障害者手帳はもっておらず、発達障害という診断は受けていません。しかし、そうした傾向を強く感じた人たちだったと言います。
「教員生活の最後に出会った若い人は、理系の国立大学を出ている正規採用の教員です。能力的に高く、パソコンはとても詳しい。ところが相手の気持ちを察することが難しい。ときに、自分の理解の範囲だけで行動してしまうことが見られ、そのことが、同僚には協調性がないと思われてしまうのですね。厳しく指摘されるとパニックになったり、自信を喪失して激しく落ち込んだりするのです。一部の生徒とはうまく付き合うことができましたが、30人以上もの生徒を一斉に相手をする授業は、厳しいところがあると私は感じていました」。

管理職は「あなたは正規職員として採用されたのだから、できて当たり前でしょう、これくらいのことはできないと困るよ」というような、きつい対応が多かったといいます。周りの教員も同じことが何度か続くといらだち、この仕事に向いていないんじゃないか、とそんな言葉を向けることもあったといいます。

「あからさまな排除はしないけれども、軽視するという感じは明らかにありました」

赤田さんはどうしたか。「私は他の学年で主任をしていたので、私の学年に来てもらうように管理職と交渉しました。そして入ってもらったのですが、飲み会も含めて、とにかく彼の話を聞こうというところから始めました。ときには奥さんも呼んで一緒に話を聞いたのです」

赤田さんがやったのは、まず場を変えること、所属する学年を変えること。そしてとにかく話に耳を傾ける。そういうことだったといいます。
「同僚や管理職からお前はだめだとか、こういうときにはこうしなければいけない、といくら言われても、できないのは仕方がないわけです。それならばどうするかという話です。次に心がけたことは、彼の生徒に対する対応の優れている点をきちんと評価し、それを伝えていくことです。自信を持ってもらうことですね。それから、何かをするときには誰かと一緒にやる。あなたは一人ではないというメッセージでもありますが、要するに取り組むときの方法を変える。そして最後は視点を変えるということ。彼に、変わるようにと要求するのではなく、こちら側の視点を変えていく。こちらがどう自分の視点を変えていくか」

話に耳を傾け、関係を変えていくことを赤田さんは心がけたわけですが、おそらくここでの「関係の変容」は、若い教員と赤田さんたちとのあいだに信頼関係ができあがっていった、そういう変容だったろうと思います。もう一つ、次の指摘にも強く納得しました。

「集団のリーダーがどういう対応をするか、そのことで若い教員たちはずいぶんと変わります。だからこちらは、具体的な彼の失敗にこだわって感情的に受け止めるのではなく、一般化して受け止めるようにしました。これが生徒だったらどう考えるか。自分の家族だったらどうか。いろいろな視点で考えながら、思考を深めていくように心がけたのですね。私は「視点の転換」と言っていました」

障害をもつ人たちに対し、リーダーがどういう対応をするか。学校では管理職が、また学年主任が、教室では担任がどんな対応するかによってそれぞれの場に大きな影響を与えるという指摘は、まさに我が意を得たりです。場を変える、方法を変える、関係を変える、視点を変える。これが赤田さんがとったスタイルです。私は、「支援」という関係のポイントは、いかにして相互変容のきっかけを作っていくことができるか、そこにあると考えていますから、まったく異論がありません。強く賛同します。

「結果的に彼は教員を辞めていくのですが、私は、個人的な教授関係では優れたものを持っていると思っていたので、知り合いの個人塾を紹介し、そこで1,2年働いたのです。そのあと川崎の町工場に行き、工員として働き始めます。小さな町工場で働いている昔からの職人さんは、できれば食事は一人でしたい、一人でじっと機械に向かっているのが好きという個性的な人たちが多いですね。彼にはそんな環境が合っていたようで、そこでの仕事を何年か続け、いまは家族で生まれ故郷に帰り、別の仕事に就いているようです」

当時の学年の教員たちとはメールでのやり取りが続いているといいますから、良好な関係は保たれているようです。教職を辞めるにあたって何が原因となったのか、私は気になりました。校長との話し合いの中で、退職を決めないといけないところに追い込まれたということはないですか。そんなことを尋ねてみました。

「最後は副担任として私の学年で一年間勤めたのですが、管理職との話合いのなかで決めたとだけ本人は言いました。辞めると決めた後で私は聞かされ、相談に乗るとか翻意させるとか、そういう状況ではなかったですね。教員を続けていてもこれ以上の期待は持てない、そういうことではなかったかなと思います」

これが一人目の報告でした。身体に障害のある人たちとはまた異なる難しさが、如実に表れているケースでした。最後に赤田さんはこんな言葉で締めくくっています。

「彼の発達障害的な面を中心にお話しましたが、学生時代からバンドをやっていたこと、教員を辞めてからは全く畑違いの日本舞踊を習い始め、同僚の何人かが発表会を見に行ったこと。今でも日本舞踊を続けていること。そんなエピソードもあります。「発達障害」は彼のごく一部です。教職は挫折してしまったけれど、やった意義はあったし、再挑戦することがあってもいいと思っています。なにより受け止める側にとって、重要な提起をしてくれました。そんなことを感じています」

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ガマフヤー・具志堅隆松さんに「戦後七〇年」の沖縄戦を聞く   聞き手・佐藤 幹夫 「飢餓陣営」44号(2016年冬号より)


沖縄戦の遺骨はまだたくさん残っている


「ガマフヤー」というのは、沖縄戦の遺骨を掘る人、という意味ですね。
ぼくはここで生まれ育ったので、小さい時からこの真嘉比の山に入って遊んでいました。山には鉄兜をかぶった骸骨があって、大人からは、「触ってはいけない、近づいてはいけない、あとで家族が捜しに来るから」と言われていたのです。実際、沖縄が復帰した後、遺骨収集団が来ましたね。ぼくはいま六一歳ですが、二八歳の時から関わり出しました。最初は糸満や南部の方でやっていました。あの頃は気楽でしたね。一人で行って、一人で探せばいいわけですから。

でも、新都心の開発のとき、あそこには遺骨がたくさんあるから収集作業をするべきではないか、とマスコミにも役所にも言ったのですが、相手にされませんでした。もっとぼくも押せばよかったんでしょうね。それからは、これをやらないのは絶対におかしいという姿勢で臨むようにしました。

おかしな話ですが、工事現場から古い茶碗のかけらが出てくると、工事は止まるのです。でも、人間の骨が出てきても、工事は止まらんのですよ。警察を呼んで、事件性がないかどうかの確認作業をしてもらうのですが、戦没者遺骨だということになると工事は止まらんのです。
物の場合には文化財保護法があります。でも、遺骨発掘には法律がないのです。人間は古い茶碗以下なのか、それはおかしいだろうとずっと言ってきたのです。やっともうすぐ、法律ができます。衆議院を通り、参議院で審議されるときに日程切れになってしまいました。今度の臨時国会が開かれたときには、この法律が通ると思っているんですが、ぼくはそれがゴールだと思っていたのですけれどね。

一日で掘れる作業なんて、本当にたかが知れています。駐車スペース6台分できればいい方です。最初の市民参加で収集作業をしたときには、作業をする人が八〇人、マスコミの人たちが二〇人くらいいたと思います。それでもまだ手付かずのところは多いし、その手付かずの所が整地され、どんどん家が建っていく。不発弾が出たときには国による対応策がとられ、自衛隊が処理してくれるようになったのですが、遺骨については何も法律がないのです。

だから待っているのですが、ただ法律が通ったとしても工事規制にまで及ぶかどうかはまだ分からない。遺骨収集は国がやらなくてはいけない作業だという根拠を示した法律ですが、でも国が考えているのは、南方の太平洋の島々に遺骨収集に行く、というそのための法律です。沖縄戦で、激戦地だったところでまだ遺骨収集がされていない場所はいくつもあるから、とぼくはいっているのですが、開発のときには相手は市や県の行政だから向かっていけるのですが、個人が家を建てるときには非常に苦しいものがあります。工事が止まってしまったら、当然その人は怒りますよね。なかなか苦しいです。それから、整地をする土建屋さんが、遺骨が出てきたときにちゃんと対応してくれるかどうか、という問題ですね。

向こうにシュガーローフという丘がありますが、その工事のときにはたくさん出ていたと言われているのですが、遺骨収集は、まったくされなかったですね。土砂といっしょに運び出されたといいます。それはひどいじゃないかとぼくは思いましたね。

真嘉比の丘のモニュメントに立って

以前、この真嘉比はまったくの山で、山のなかにお墓が点在するようなところでした。戦前の墓地地帯だったのです。東西に延びている丘で、半月状なのでハーフムーン・ヒルと呼んでいますが、このあたりから向こうに小さな尾根が伸びていたのです。この右側から出てくる遺骨は、全員、陸軍のもちものをもっていて、尾根の東側から出てくる遺骨は、全員海軍の遺骨をもっていました。陸軍と海軍とは、作戦の担当を区分けしていたんだろうと思います。

開発は二〇〇九年からですから、それまではずっと残っていたのです。墓地地帯だったのでなんの工事もなく、下水道などのインフラもなくて、手をつけにくかったんでしょうね。本当に何もなかったですよ。一〇年ぶりくらいにここに来る人は、あまりの変わりように、分からないでしょうね。開発するにしても、遺骨収集をしないで開発をするのは、これはおかしいだろう、遺骨収集は戦没者墓地に反して終わりではなく、この人たちが帰るのは家族のもとじゃないか、というのがぼくの考えなのです。

沖縄県庁も、戦争とともに転々としていくのですが、県庁の体はしていなかったのです。戦禍を避けて、役人が警察と一緒に避難しているという状況でしたからね。那覇も、「10・10空襲」で壊滅的な被害を受けますから。

このモニュメントは、ここはかつて激しい戦闘がおこなわれた場所であり、ここで遺骨収集がおこなわれた、ということを後世に残すために作ってほしいと那覇市にお願いをして作ってもらったものです。

二〇〇九年の一〇月九日から一二月一〇日までの約二カ月間、緊急雇用創出事業を導入して、ホームレスの人たちに掘ってもらいました。本土から沖縄に来て公園で暮らしている方が、半数近くいたんじゃないでしょうか。あとは沖縄のホームレスの方ですね。

モニュメントをつくる時、現場に残っている物を活用してほしいということで、この石材は墓石ですし、ところどころ小さくへこんでいると思いますが、弾痕ですね。ここは向こう側に貫通していますが、こうした穴に、子どもたちがよく石を詰めて遊んでいます。山の頂上だと、それほど遺骨の上に堆積はないのですが、裾に降りるに従って上から流れてきた土が堆積して、深いところだと四メートルくらいありました。

ここに見える物も収集品の一部ですが、一番多いのは砲弾の破片です。小銃弾もあったのですが、地上戦の跡が見てとれるように銃だとか水筒だとか、アメリカ軍の持ち物が出ていますが、それもここまでですね。つまり、戦場に残っている武器というものは、持ち主が戦死したことを表していて、アメリカ軍が犠牲を出すのも、地理的にここまでだということです。

アメリカ軍は読谷村から上陸し、北と南に分かれて進撃していくのですが、ここは南に向かう師団との激戦になった場所です。もう少し南の嘉数高地とか浦添の前田高地とか、末吉とか首里でも、アメリカ軍はそれなりの犠牲を出しているのですが、ここが最大の激戦地と言われるように、アメリカ軍の犠牲者がとても多いのです。ここと、すぐ近くのシュガーローフですね。一帯が、日本軍の一連の陣地です。アメリカ軍は首里城地下の、第三二軍の本部を目指すのですが、その西の守りの要衝がここです。ここでの戦闘が五月一二日から一八日まで約一週間続きます。ここは地下壕になっていて、丘のあちこちにだいぶ強力なものが作られていたのです。

ここには大きなクレーターが残っていました。着弾孔ですね。八一ミリ砲か、一〇五ミリ砲ですね。ここはもともと墓地があったのですが、開発のときに点在していたものを一か所に集め、現在のようになったのです。わたしたちが遺骨収集をして、それから工事に入り、そのときにお墓をここに集約したのです。向こうが真嘉比小学校。大きなビルが二つ見えますね。その下に白い水タングが見ますが、あれがシュガーローフです。あそことここが一連の陣地で、日本軍はここで待ち受けているのです。

那覇市と交渉をして分かった意外な実態

この場所の遺骨収集を手掛ける以前はほとんど南部に行っていましたが、ここが激戦地だったことは昔から知っていました。緑が残っているあの辺りには、まだ遺骨があるはずです。新都心が開発され、開発がここに及んできたとき、那覇市が遺骨収集をするもんだと思っていたのです。新都心の開発のときにもそう思ったのですが、ところが何もなされないまま開発されていった。

それで、ここでは開発の工事を止めてでも遺骨収集をしないといけないだろうということで、最初の遺骨が出たのは、目の前に白い建物がありますね、あそこなのですが、工事が止まっている日曜日にその工事現場に入っていって、遺骨を動かさないようにして周りの土を掘り下げていって遺骨があることが分かるようにし、そこに新聞記者を呼び、こんなふうに遺骨があるにもかかわらず、遺骨収集が行われないままに開発が行われているんだという話をしたのです。

那覇市にもその旨を申し出たら、話し合いがしたいということで応じると、遺骨収集は厚生労働省がやっています、沖縄県においては県の援護課がやっています、私たち那覇市にはその予算がないのですという。こっちは別に予算化してくれという話ではない、私たちが日曜日に工事現場に入って遺骨収集することを認めてくれたらそれでいい。そいう話をしたのです。結果は、いいということになりました。

本当は困ったことで、「私たち」じゃなくて、「私一人」なのです。役所との交渉なので、できるだけ団体であるかのようにして話をしていたのです。二〇〇七年か二〇〇八年ごろでしたね。そこで考えたのが、市民参加の遺骨収集でした。多くの市民に「一緒に遺骨収集をやりませんか」と訴える取り組みを考え、その呼びかけをしたときには那覇市も共催になってくれたのです。

それをおこなったのが〇八年の六月二八日。そのときにはたくさん来てくれました。そして遺骨もたくさん出ました、二回目を八月三日にやったのです。午後から、ものすごいどしゃ降りになって、午後からは中止にしたのですが、何人かで壕のなかで雨宿りをしていたら、別に掘らなくても土を少し寄せるだけで遺骨が出てくるもんだから、それならと皆で掘りはじめたのです。

それから二、三日して不発弾が出てきて、警察に届け、来てもらって確認し、今度は自衛隊に来てもらったのです。自衛隊が持っていったあと、どうも毒ガス弾のようだということが分かったという。それで市民参加は即中止です。毒ガスが出るような現場に不特定多数の市民を動員することはできないということで、環境省が入ってきました。地下水、土壌、空気にも漏えいがないということで、安全宣言は出たのですが、一般市民の公募はもうできないと思いました。

その頃から手伝いたいという人が、何人か手を上げてくれるようになってきたのです。そういう人たちといっしょに日曜日だけやっていて、我々が調べた所から那覇市が工事に入る、という取り決めをしていたのです。もっと早くできませんかと言われ、ボランティアの日曜だけの作業だからこんなものだろうと思っていたのですが、でも我々のせいで工事を遅らせるのは悪いから、ここからは国にやってもらおうかということで、国にお願いをするために県を訪ねたのです。厚生労働省の出先がなくて、県の援護課というところが遺骨収集を所管していました。そこに訪ねていって、真嘉比での遺骨収集を厚労省がやってくれませんか、とお願いをしたのです。

すると、とんでもないことを言われました。「国も沖縄県も、沖縄の遺骨収集はもう終ったものだと捉えている」、というのです。収束したものと捉えていると言ったって、現に出ているじゃないですか、といったのですが、それでも譲らないので、不思議だなと思いながら、じゃあどうすればやってくれるんですかと聞くと、「埋没壕があったらやります」というのです。入口が塞がっている壕ですね。それは建設機械をもってきて掘らないといけないので、民間のボランティアではできないだろうということでした。国の遺骨収集は終っていて、埋没壕だったらやるというのも、おかしな話ですよね。

それからもう一つ分かったことは、遺骨収集というのは国がやるのではないのですね。企業がやるのです。土木会社が委託をされてやるんです
よ。それも業者を入札で選んでやるというのです。このあたりから私も段々腹が立ってきて、あんたがた、じゃあ、遺骨収集を業者の金もうけにさせているのか、それだったら止めてくれということで帰ってきてしまったのです。お願いしに行って、やるなといって帰って来たようなものでしたけれどね。

緊急雇用創出作業としての遺骨収集

次に考えたことは、こちらはボランティアで日曜日しかできないし、少人数。国が金を出してもいいと言っている、周りを見てみるとホームレスの人たちがいっぱいいて、失業者もたくさんいる。それなら、仕事がなくて困っている人が、戦争で亡くなった人の遺骨を探す。そういうのはどうか。

ぼくはそのとき、戦争で亡くなった人たちの遺骨は、弱者のなかの弱者だと言っていたんだけれども、お互いを援けるという構図が書けるんじゃないか。ホームレスを支援しているNPOに「フロンスキーパーズ」という、キリスト教会関係のNPO法人があるのですが、そこを訪ねていってお願いをしてみたのです。

すると、それならやりますということで、国に対して、我々がホームレスの人たちを集めるから、彼らを作業員とした遺骨収集作業をやってほしいという要望書を、正式に出したのです。そうしたらある国会議員が、「厚労大臣に会えるとしたら、会ってみるかい」というので、「ぜひ、会いたい」と答えました。実現したのが〇九年の三月ごろでしたが、当時の厚生労働大臣は増添要一さんでした。会って話すと非常によく理解しておられ、話が速かったです。「沖縄戦の戦後処理と雇用対策・失業対策が同時にできて、いいアイデアだと思います。国も全面的に協力しますから、ぜひやってください」。そう言われたのです。「緊急雇用創出事業としてやりませんか」ともいう。内容をある程度知っていましたし、こっちが言っていることと変わらないので、「ぜひお願いします」というと「そのためには早く沖縄県から厚労省に、事業計画書を上げて下さい」という。

沖縄に帰ってきてすぐに県を訪ね、国がこういっているから、緊急雇用創出事業の事業主体としてぜひ沖縄県がやってほしいというと、「駄目だ、駄目だ」の一点張りです。どうしてですかと聞くと、「沖縄の遺骨収集はもう終わっている」という。「でも現に出ていますよ」というと、「しかし戦後処理は国に責任がある」と答えるので、「その国がやってくれと言っているんですよ」といっても、「駄目だ、駄目だ」なんです。

困ってしまったので、次には国会議員に一緒に行ってもらったのですが、県は同じことをいうのです。どうして一部署の個人がそういうことを言うことができるのか、ぼくには不思議だったですね。それで困ってしまって、都市開発の工事をやっているのは那覇市なので、市を訪ねていって、「那覇市が、国の緊急雇用創出事業の事業主体になることはできませんか」というと、「できます」というのです。

それはぜひお願いしたいというと、関係する部署をすぐに集めてくれたのです。そこではこちらが説明をし、県の方たちが「自分たちの仕事と関係があるところから問題点を洗い出すから」ということで持ち帰り、二日後にまた集まり、いろいろな部署から質問がありました。ど、やろうということになりました。それでこの真嘉比地区での遺骨収集作業を二カ月間、緊急雇用創出事業としてやったのです。

この事業は、本来半年間の期間をもらっていたのですが、工事の関係でできるだけ急いでほしいということで、最初は一か月でやってほしいといわれました。こちらは四ヶ月くらい粘りたかったのですが、それなら二カ月で、ということでした。そこで一人あたりの発掘面積を割り出したのですが、通常の労務作業と、教育委員会がやる考古学の発掘作業の中間をとったのです。結果として五五人のホームレスと失業者の人たちを、ハローワークを通じて募集し、遺骨収集をやってもらったのです。

宜野座村の捕虜収容所の埋葬地を掘る

現在、北部地区の捕虜収容所の埋葬地を手掛けています。始めたばかりです。宜野座村で、場所が大きいので数名で行っていますが、未収用の遺骨にはまだたどり着いてはいません。宜野座村だけで一一の収容所があって、九つの埋葬地があるのです。宜野座村などの北部に、当時の人口の三分の二が移されていたと言います。強制的に捕虜となってから移動させられています。

収容所の中ではたくさん人が死ぬのです。我々も認識を新たにさせられたのですが、最近分かったのは、遺族の方は、病気で死んだという言い方をするのです。マラリアのことを言っているのですが、マラリアに罹る以前、栄養失調になっているのです。戦闘地域で米軍の捕虜になれば、収容所で衣食住をあてがわれ、あとは助かったんだと我々は思っていたのですが、ところがそうではないことが分かった。

収容所から逃げようとしたら、射殺されることもあったと言われます。そういう強制収容であるにもかかわらず、食糧が十分になくて、食べられるものは何でも食べたと言います。桑の葉もほとんどなくなったというし、そんな中でみんな栄養失調になり、そこにマラリアが蔓延し、弱い者からどんどん死んでいった。死亡者の年齢を見てみると、ほとんどが子どもと年寄りなんです。

写真では子どもに優しくしたり、人道的な処遇をしたかのようなものがたくさんあります。一面では確かにそうなのですが、集められた人たちへの対応となると、まったく違いますね。収容所によっても差があって、コザ、石川、宜野座、辺野古、国頭というように、北に行くほど劣悪になっていきます。米軍が発給する食糧が、端に行くほど届かなくなるわけです。辺野古の次の大川という収容所では、四〇〇〇人余り収容されているうちの一〇一三人が死んだと言われます。たとえば南部で、九人家族だったかな、全員生きて捕虜になり、収容所で七人死んだと言います。収容所のなかも決して生き延びられる状況ではなかった。

亡くなった人たちがどうなったか。仮埋葬されます。家族が残っていれば、戦後、家族が掘り出しに来ます。しかし、一人で収容されて一人で死んだという人が少なからずいたわけです。年寄りと子供だけでいて、年寄りが死んで子どもはなす術を知らなくて、ただ見ていた。宜野座の埋葬地を掘るということが分かったとき、遺族から電話が来て、今からでも探せませんかという。やりますが、遺骨が出てこないことにはDNA鑑定まで持ち込めない。出てくれば、国に、まだ残っているんだから、遺骨収集をやってくれと言えるのです。DNA鑑定は厚生労働省にお願いすることになります。厚生労働省は、やってはいるのですが、鑑定するための条件をつくっていて、遺骨が見つかったときに、名前のある遺品を伴っていること。それがあれば遺族に照会し、遺族がDNA鑑定を了解すればやってもいいというのです。

でも、名前のある遺品を見つけ出すのは、とても至難の技で、兵隊ですら一〇〇体堀り出して五体もないです。いままで、沖縄戦の戦没者でDNA鑑定をやり、四体帰っているのですが、全部こちらが出した分だけです。この真嘉比からも三体帰りました。一番新しいのが、浦添・前田の、前田小学校の校門前から出てきたタバタコウゾウさんという方の遺骨です。

宜野座の収容所の場合、名前のある遺品がなくとも、そこに収容者名簿があてもなくても、やってほしい。どうしてかというと、名前の分からない埋葬者がいるのです。沖縄戦の特徴は、誰がどこで死んだのかが分からないということです。分からないのです。それで沖縄では、最期に見かけた場所を死に場所とし、そこから石を拾ってくるのです。それを遺骨代わりに納めています。

遺骨のDNA鑑定の問題

いま、収容所の名簿があるところを調べているのですが、摩文仁の平和の礎にも、沖縄戦の犠牲者は刻印されていますね。平和の礎の情報は、資料館に検索機があって、氏名を入れると、ある程度取り出すことができるのです。どこに刻銘されていますよ、ということが分かるのですね。発掘現場で名前が見つかると、沖縄戦の犠牲者かどうかを、その検索機を使って確認しているのです。

名前の書かれた万年筆が遺骨といっしょに出てきた、これを遺族に返すということでこれまでは済んでいたのですが、DNA鑑定というものが出てきたので、今度はそちらをやらないといけなくなった。遺骨と、遺族との血縁関係が、DNA鑑定で確認できるかということですね。

自分は、遺骨に持ち物がなくても、ある程度状況証拠がそろえばDNA鑑定をやってくれと言っているのです。遺族が浦添の前田で亡くなったと言っているのであれ、前田から見つかった遺体のDNA鑑定をすることに、何か無理がありますか。ほとんどの遺骨に名前がないわけですから、せめてそうやって亡くなったと言われている場所で鑑定をするのが、国の戦争責任ではないですか。そう言っているのです。本当だったら、本土の遺族に「沖縄のどこで亡くなったんですか」と聞くこと自体が、ぼくは不謹慎だと思うのです。沖縄の地名もよく分からないですよね。この小さな島で亡くなったのであれば、遺族とDNA鑑定をすることくらい、やってくれてもいいではないですか。ところがそれをやってくれないのです。

このまま何もしなかったら、遺族の方から、何もしてくれなかったと言われるから、戦後七〇年にしてやっと遺骨収集の法案をつくり、やりましたというポーズにはなるでしょうが、ぼくらとしては、七〇年を追い風に、できるだけのことはやりたいと思っているのです。

これまでも、遺骨収集をする人はいました。ぼくは彼らに、一生懸命DNA鑑定の話をするんだけれど、たくさん掘り出して、たくさん県に渡せばいい、というこれまでのやり方をずっと守り続けているんです。でもぼくとしては、見つかった遺骨は戦没者霊園に収めるのではなく、家族の元に帰るべきだろうと思うのです。

国にも言うのです。沖縄に遺骨がある理由は、日本全国の各家庭の父親や成人に達した息子たちを、召集令状一枚で呼び出し、沖縄の戦地へ送り、戦死させた。その遺体がまだ家族の元に帰っていないんだから、国は家族の元に返す責任があるでしょう、とそういうんです。するとはいっていう。でも身元が確認できないんですという。今はDNA鑑定というものがありますよというと、さっきいったように名前のある遺品があるという条件が整えばやるようにしています、と答えるのです。

今年は戦後七〇年で、マスコミも沖縄戦のことを取り上げるようになりましたが、これが最後のチャンスだと思います。戦後八〇年は、存在しないですよ。遺族はいないですからね。ほんとうは遺族の方たちがもっと国に対して、このままじゃ死ねないぞと言っていいんじゃないかと思うのです。遺族会も、個々人では、なかなか自由な発言はできないんでしょうね。わたしは遺族が生きているこの五年ないし一〇年にはけりをつけるという、それくらいのものにしてほしいなと思いますね。

沖縄は、工事をすれば不発弾が見つかるということになるはずです。我々がやっていた場所でも、あと一〇センチ掘っていれば、不発弾が出たということはありますし。

戦争遺跡をどう継承し保存するか
――いつまでも過去を向いているのではなく、将来を、明日のことを考えないといけない、という声が大きくなるにつれて、戦争の記憶も遺跡も風化していく。「戦後八〇年はもうない」と先ほど言われましたが、戦闘の当事者はもち論、家族も遺族もいなくなっていく。それにつれて、戦跡の保存とか、遺骨収集とか、どんどん難しくなっていきませんか。

この真嘉比の開発もそうですね。こうやって開発されるのは、だれにも止めることはできない。だからこそ、沖縄戦の継承と検証はむしろいま生きている自分たちでやらないといけないだろう。アジア太平洋戦争のなかでの沖縄戦の位置づけは、一五年戦争のなかで、自分たちは被害者ではあるけれども、加害者の側でもあったという面もありますね。そうした面もしっかりと継承していかないといけないわけで、その責任が私たちにはあるわけですね。そうすると継承は自分たちがやらないといけない。いずれは、当事者だった人たちがいなくなり、物がなくなり、記憶も薄れ、はじめて騒ぎ出すのは目に見えている。あの時もっと聞いておけばよかった、こういう記録をきちんと残すべきだった、ということになるだろうし、そうならないようにやっているのが南風原文化センターとか、宜野座村の博物館ですね。宜野座村ではいま収容所の特別展をやっています。

 ぼくは、ここから遺骨が出ている段階で何とか保存できないか、ということを申し出たのです。ここは戦闘の様子もわかる現場であるということで、何とか後世に残したい。相手が行政だけだったらがんばりようがあったのですが、個人の地主さんがいて、みんな早く家を造りたいんだと言っている。そういう話を聞くとさすがに悩みます。他の場所に換地してもらうというやり方ができなかったんだったら、せめてこの場所の一角だけでも残して、様子が分かる戦跡公園にする。遺骨は残すわけにはいかないから、レプリカと置き換えることもできる。

 沖縄のリゾートに遊びに来た本土の人たちにとっては、冷や水を掛けられるようなことになるかもしれないと思うのと同時に、沖縄が明るくて楽しい場所だけではなかったんだよということも知ってもらいたい。現在もそうですね。勝ったアメリカ軍は出ていってくれなかったんだよ、今度は、自衛隊という名前になった日本軍もやってきたんだよ、ということも知ってほしい。アメリカ軍も自衛隊もどんどん増えていくばかりで、このままだったら、また本土のための「南の防波堤」にされてしまうんじゃないか。そういう危機感を、我々は持っているんだよということを、知ってほしいのです。

――戦跡や戦争記念館の遺し方は、地域の人たちの意見を二分させると本には書いてありますね。できれば街おこしの機会にし、たくさん人を呼び寄せたい、「観光」の一つとして組み込みたいという意見。いや、戦跡を商売にするのはおかしい、失礼な話だとする意見。『「知覧」の誕生』という本を読むと、戦跡をもつ多くの地域が、意見を二分させている、と書かれていますね。

 地元の人や学者の人たちがいろいろなことを言っていますが、そこらへんに関しては、自分は何とも言えないですね。要は、たとえ観光という軽い気持ちで訪れたとしても、そこで知ることが、その人が戦争を真剣に考えていくきっかけになるかもしれないし、逆に、残す側がまじめに重く準備をしていても、来る人間が、もういいよ、おれは遊びに来たんだから、ということもあるでしょう。

押しつけることはなくても、そういうものが残っていると、とにかく見てくれるかもしれない、どう見るかはもうその人に任せるしかない。そのときは感じなくても、後で何かで触発されて、もう一回沖縄に行こうと思ってくれるかもしれない。だから、まったく残さないのではなく、できるだけオリジナルに近い状態のものを残し、押し付けるのではないかたちにして、自分で見て、聞いて、感じて、その時には整理できなくても、あとで自分のなかで消化していき、その人なりの判断に結び付いていけばいい。そう思っています。だからぼくは、はむしろ事実を残し、事実を示す。そういう意味で現場を残すというのは、とても大事なことだと思っています。

――わたしは沖縄戦については全く不勉強でお恥ずかしい限りなのですが、ここに、こういう戦争激戦地の跡があるということは、今日までまったく知らなかったですね。インターネットを見れば、いくつかのホームページがありますが、多くの人は知らないのではないでしょうか。

 そうですね。私たちももっと発信しないといけないのかと思いますね。説明不足なんです。石碑を読んで、帰ってから、それに関連する資料を調べて、それで始めて前後と中とがつながって、だんだん分かってくる。沖縄にはこういう現場は、もっとあります。オリジナルなものが残せる現場にしたいし、そういう現場がいくつも出てきているのです。現場を訪れてほしい。戦争の犠牲者である「遺骨の人たち」と会って欲しい。「その人たち」は声は出せないけれども、なにを言おうとしているのか、そこで自分で感じてほしい。そう思いますね。思うから、きちんとした遺跡を残したい。

 遺骨収集をやった現場を残したいのですが、人道上、遺骨をそこにずっと置いておくことはできないのです。西原では、遺骨が見つかったときにDNA鑑定を国に要求し、遺族の可能性がある人たちが現場を訪れたのです。それが判明したら、遺族の手でそこから取り上げてもらいたいという気持ちがあったのです。だから動かさず、見つかった状態をそのままにしておいたのです。分かった段階で遺族の人がそれを取り上げていく。置いてあった遺骨を見て、どうして収骨しないのかという意見もあったのですが、でも身元が分かったところで家族に取り上げて欲しい。そう考えたのです。

 長いこと南部で遺骨収集をやっていたときに、遺骨を掘り出すと、摩文仁に戦没者遺骨を受け取る事務所があるのですが、そこに引き渡していたのです。三月の末に毎年納骨式があって、そのときいつも呼ばれていたのです。でも、いつも悪いことをしているような気がしていたのです。自分は遺族でもないのに、見つけた遺骨を誰とも合わすこともなく国立墓苑に押し込んでしまった。せっかく明るいところに出せたのに、また暗い所押しこんでしまった。今度はもう二度と出てくることができない。その間、誰にも会わせられなかったわけです。

 もし遺族の人がそこに参加していれば、二〇万分の一の確率ではあっても、相まみえたことになるかもしれない。遺族である人が接するのと、他人である自分が接するのとでは、違うはずだという気がするし、遺族に関わって欲しい。しかし遺族は高齢化していて、もう現場には足を運ぶことができなくなっている。

 国立墓苑に納めるときには火葬され、その上で納骨されるのですが、DNA鑑定が判明して以降、県に対して、火葬中止の要請をおこなったのです。火葬してしまうと、DNA鑑定をして遺族のもとに帰るという道がなくなってしまう、だから火葬しないでほしいということを県議会に上げてもらい、県議会でそれが採択され、火葬が止まったのです。二〇一三年でした。

ところが去年(二〇一四年)の六月二三日の新聞に載っているのですが、仮安置の場所が満杯になったから、県が火葬を再開するというのです。また陳情を出し、これは物ではなくて人だよ、遺族の人にとって、DNAをして帰ってくるというのは希望であり、権利だよ。県が火葬をするというけど、そもそも遺族の了解を得ているの。おかしいですよ。そういう陳情を出したら、また採択されたんです。それで、現在まで六〇〇体余りたまっているという。

 私一人で陳情を出したのではなく、他の遺骨収集をしているグループもありますし、道路工事で見つかるケースもありますからね。宜野座村の埋葬地については、県とガマフェアと、宜野座村の博物館と、この三者でやっています。

沖縄戦と戦争孤児の問題

 沖縄戦にはじつはもう一つ戦争孤児の問題があって、これについては時期を逃してしまった。北部の収容所で作業をしている段階で分かったのですが、戦争孤児の方たちが、いろいろなケースで戦後を生きていくわけです。身元不明の戦争孤児ですね。あまり小さすぎて、本人が自分のことを語れない。そういう孤児が、収容所のなかの孤児院でどうにか生き延びていく。そしていまだに身元不明のまま生きているのです。
その人たちにはいくつかのパターンがあって、普通に結婚して、おじいちゃん、おばあちゃんになっている人もいる。なかには孤児院を脱走したという人、孤児院からもらわれたけれど、もらわれた先が児童労働のために酷使する場所で、そこから逃げたという人、本人が、自分のことをまったく知らないまま高齢になってしまったという人。

なかには戸籍のない人もいましたね。この人は、ホームレスの支援団体の支援を受けるようになったときに、そのことが分かったのです。自分の本当の名前もわからないし、字も書けない。学校に行っていないですからね。どうやって生きていたのかと聞くと、ずっと労務作業で食いつないでいたという。戸籍がないというので、病院に行くときどうしていたのと聞くと、病院は一回も行ったことがないという。

これを聞いたとき、いろんな問題があると感じた。人権の喪失であり、人格の喪失じゃないか。そういう人間がわたしたちの周りにいたことに対し、我々にも責任があるんじゃないか。ぼくは以前から戦没者遺骨と遺族のDNA鑑定を、と言っているのですが、その中にこの人たちも入れるべきじゃないか。この人たちは、家族にとっては死んだことになっているはずなんです。いま生きている人たちがDNA鑑定を希望すれば、身元が判明する人が出るかもしれない。もちろん色々な問題があり、双方が相手に知らせてもいいという前提があって、初めて知らせる。でも予測できない問題は他にもあるんだろうなと思います。

 このとき思ったのは、中国残留孤児の問題がありますね。あれだけやってもらったというか、少なくとも国が対応してくれたわけです。帰国できた人は何人もいますね。でも沖縄の身元不明の個人については、その人たちが声を上げないまま終わってしまうのかな。いまは結婚して幸せに暮らしている人たちもいます。そういう人たちは今さらと思うかもしれない。家族にはそのことを言っていないかもしれない。このことを少し追いかけたことがあったのですが、個人のプライバシーに立ち入るようなことになるのかなと思い、でもそれでも、国は一度でもいいから、そういう人たちに自らの身元を知りたい人に関しては応援するべきじゃないか。匿名のままでも、身元捜しに協力しますといってもいいんじゃないか。

 自分の支援団体に拾われ、そこで自分の身元を打ち明けた人たちですね。会えないかと聞いたら、これ以上恥をかかせないでくれと言っているというんです。その人たちに共通しているのは、全部自分が悪いと思っていることです。戦争の被害者だという意識はないのです。この人たちが生きている間に、なにかできないか。この人たちは、なにもいらないから、自分が誰であるか、それだけでも知りたい。親の墓参りがしたいと言います。

 何か望むことがあったら、それは国がやるべきだろう。それくらいのことは代わりに言ってもいいと思っています。言ってみれば、「生きている戦没者」ですよ。デリケートで気を使う問題ではあるのですが、この人たちが何もされないまま、年を取って死んでいくというのでは、国の戦争責任を免罪してしまうことになる。

 このまま国は知らん顔をして死ぬを待っているのか、それとも支援の用意があるから、匿名のままでも手を上げてくれませんか、呼びかけるのか。国としてではなく、人として最後の呼びかけをしてほしいですね。そういう幼かった妹弟を探している人はいるのです。自分には幼い妹や弟がいたんだ、収容所まで一緒だったんだん、怪我をしていたんで、アメリカ兵が病院に連れて行って、病院に預けられている間に連絡が断ち切られてしまった人たちですね。

 いまからでもいいから、国がそういう人たちに対応するんだということを、示してほしい。私はできる分だけ、やるだけですけれどね。
これが、戦後七〇年経っての沖縄戦ですね。今も続いているんです。
 (二〇一五年一一月二日 ハーフムーン・ヒルと呼ばれた真嘉比の丘にて)

[佐藤註]
 具志堅氏への取材は、二〇一六年五月一二日に第二回目が行われた(偶然にも、このあたりでの一週間に及ぶ戦闘が始まった日だった)。本稿、一回目のインタビュー後の経過をお聞きしたかったのだが、それは次号以降での報告となる。九月二七日、具志堅氏に、本インタビューの掲載の許諾をいただいた後、次のような「「戦没者遺骨返還のあり方を考える国会内集会」への参加のお願い」というタイトルのファックスが入ってきた。現在どのような進行状況にあるかをよく示しているため、ここに転記する。

呼びかけ団体 沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤ―」
「(前略)皆様ご存知のように、本年4月に施行された「戦没者遺骨収集推進法」では、第1条で、「戦没者遺骨収集」を初めて国の責務とし、第2条において、「戦没者遺骨収集」とは「収容し、本邦に送還し、及び当該戦没者の遺族に引き渡すこと等をいう」と明記されました。

 すでに沖縄戦での戦没者2533名のご遺族(沖縄、北海道、愛知県など)に対してDNA鑑定参加呼びかけ通知が始まっています。沖縄での実施のありようが、遺骨収集を行っている他の地域の先行事例になると私たちは考えます。しかし全国の遺族に今の鑑定が始まった状況が十分知れ渡っていないのが現状です。

 また法案の国会審議においては、参議院厚生労働委員会を中心に、一体でも多くのご遺骨を家族の元に戻すために、活発な議論が行われました。まず「照合する遺族」の鑑定については、現在、出土地点に関連する部隊の希望するご遺族に限定されていますが、ご遺族の照合範囲を拡大すべきという議論や、ご遺族の高齢化に鑑み、すべての希望するご遺族から検体を取るべきという議論がなされました。

 さらには、これまでご遺骨のDNA鑑定は「歯」のみに限定されていますが、「歯」だけではなく「手足など四肢骨」も対象にすべきであるとの議論が提起されました。これらの議論を踏まえ、2月18日には「戦没者の遺骨から抽出したDNA情報のデータベース化に当たっては、できるだけ多くの遺骨の身元を特定し遺族に引き渡せるよう、遺族からの幅広いDNA検体の提供の仕組みについて検討すること」との附帯決議が、参院公労委の全会一致で可決されています。国会ではさらに、朝鮮戦争時の遺骨収集を行っている韓国では「歯に比べ四肢骨の方がDNAデータが抽出している」ことが示され、厚労省は、米国や韓国の取り組みについて情報収集をしていくことを表明しています。沖縄では、現在保管されている出土遺骨600体に対し、「歯」は87体しかありません。四肢骨の鑑定は、沖縄戦遺族のみならず南方など他地域のご遺族にとっても大きな希望となると考えます。

 そこで法施行から半年の機会に、厚労省から現状の報告をいただいた上で、関係ご遺族の発言をいただくほか、ぜひ関係団体の皆さまからもご意見をいただき、衆参国会議員の皆様とともに遺骨返還のあり方のよりよい方向を探りたいと思います(後略)。」


(第30回)少しずつ始まっている「障害のある先生」への働き方支援



取り組みの始まった教育委員会と国立教員養成大学

 SNSをのぞいていると、2月4日の読売新聞オンラインに次のような記事がありました。障害をもつ教員志望の大学生、大学院生を支援するために、奈良県教育委員会が「全国障害学生支援ならネット」を立ち上げ、参加者を募集している。学生同士や、障害のある教員とオンライン上で交流できる他に、奈良県内であれば希望者の教育実習も受け入れる。対象は全国の学生。こんな内容でした。奈良県教委の障害者雇用の法定雇用率のアップと、教員を希望する障害のある学生への支援との、両方をめざしたものと説明されています。

 なかなかのアイデアです。奈良県内で受験する場合、一次試験の一般教養と面接を免除するという特典までついています。これは魅力的です。他県の教育委員会にも普及していけばいいなあ、と感じさせる好企画です。特典をどうするかは議論が百出しそうですが。

 また文部科学省のホームページには、「教育委員会における障害者雇用に関する実態調査」の結果が公開されており、次のようなケースが報告されています。

「川崎市:聴覚障害のある教員の情報保障のため、手話通訳者を配置(市単独事業・令和元年度より実施)」「宮城県:県立学校等に障害のある教務・業務補助員を配置し、教職員の業務を軽減(県単独事業)」「熊本市:教育委員会事務局に執務室を設置し、各学校へローテーションで派遣」「静岡県:視覚障害のある教員には、パソコンの読み上げソフトを活用し、職員会議の資料などをテキストファイル化してデータの提供を行っている」

「(島根大学)障がい学生支援室を窓口として、障害のある高校生や特別支援学校生徒の大学見学・体験入学の受け入れ、教員(担任や進路担当教員等)からの質問や事前相談、見学等に対応している」「(滋賀大学)教育学部では独自に、障害のある学生の入学が決定した時点で、個別支援チームを立ち上げ、入学前の3月に高等学校教諭、本人、保護者を含めて打ち合わせを行い、①当面のスケジュール、②修学支援の実情等の共有等を行っている」

 こうした支援体制が、より多くの教育委員会や教員養成大学で充実したものになっていけば、障害のある先生が増えていくための確実な後押しになるだろうと思います。

三戸学さんの問題をどう一般化していくか

 さて前号では、『障害教師論』の著者で研究者の中村雅也さんにご登場いただき、三戸学さんが提示した問題への感想をお聞きしました。三戸学さんは車椅子の中学教師です。秋田県教育委員会の異動命令の是非をめぐる問題、タクシー通勤の自己負担分をめぐる問題、この二点を中心に、秋田県人事委員会に対し異動の無効を申し立てていましたが、いずれも訴えは棄却。その点についての感想を伺ったのでした。

 中村さんは、おおむね次のようなことを述べました。これまで教員採用試験の受験資格として、「自力通勤ができる」という項目があったが、それが撤廃されたことで新たにクローズアップされた問題であること。県教委が示した「タクシー通勤を認め、上限55,000円までの交通費を県が負担する」という決定が、これから全国的にどんな影響を与えていくか、その点が大変注目されるところだ、こんな内容でした。

 ちなみに先に紹介した文科省の実態調査の、職場でなされている「合理的配慮」の具体例には、三戸さんが希望する「修学旅行の引率」や「学級担任」の紹介はありますが、通勤をめぐる記載はありません。通勤に関して中村さんは、かねてから障害のある先生を悩ませてきた問題であり、表面化はしていないだけで全国的に共通する問題ではないか、という見解でした。

 一通り感想をお聞きした後、私は「三戸さんの問題から、「障害のある先生」全体に通じる一般的な問題として、どんなことが取り出せるだろうか」と問いかけました。中村さんは、『障害教師論』のなかに「障害者労働の業務支援理論」というテーマで一章を割いている、これは障害者の労働をどう支援したらいいかというモデルの提案であるとし、次のように話し始めました。

「障害のある教員に人的支援をつけるとき、同僚の教師がサポートしているケースが多いですね。たとえばTT(ティームティーチング)という形で、数学だったら同じ数学の先生が授業のサポートに入る、非常勤の先生を入れて、採点のお手伝いをしてもらう、そういう形です。三戸先生にも一時、人的サポートがついていたことがありますが、これにはいい面があります。数学であれば、数学の専門性のある先生にサポートしてもらったほうが、数学の力があるし、採点の要領も分かっているので都合がいいわけです。しかしその一方で障害のある教員の支援は、教科指導だけにはとどまらないものがありますね」

 それが、今回の三戸さんのケースで典型的に現れた問題だと言います。

「三戸さんの場合は通勤支援がそうだったわけですし、洋服を着るときにもサポートを必要とします。そういう生活のサポートは同僚の教員でなくともいいわけですが、しかしここにはまた、別の専門性を要します」

 三戸さんが明らかにした「通勤支援」という問題は、福祉用語に置き換えると「移動支援」という問題になると指摘し、そして続けます。

「「移動支援」を専門性のない、例えば教頭がやってしまうと、車に移乗させるときどういうふうに乗せれば快適かは分からない、乗せ方によっては三戸さんが怖い思いをする、そうしたことは分からないわけです。身体に不自由のある方の介助はそれなりに慣れていないとできないですね。車椅子の操作にしても、本当は怖いけれど我慢している、本心では専門性のある支援者にやってもらいたい。そういうことをふくめ、支援には様々なものがあり、適格性のある人は限られています」

 中村さんはさらに、次のように述べました。たとえば視覚障害のある数学教員への支援。同僚の数学教員でもテストの採点はできる、しかし点訳の教科書を作ってくれと言っても、それはできない。聴覚障害のある数学教員への支援も、生徒たちの発言を手話で通訳してくれる同僚は、ごく少数ならばいるかもしれないが、では数学という教科の専門的なサポートをしてもらえるかというと、そこはうまくいかないことはありうる、そう言います。

障害支援要件と職業要件

 「ぼくは四つに類型化したのですが、障害のある教師を支援するためには二つの要件がいるのです。一つは教師であることとか、数学の教師であるというような意味での、職業に関する専門性についての要件。これを「職業要件」と言います。

 もう一つは、車いす使用の教員だったら、車いす使用についての専門性。全盲の教員であれば、移動のサポートをしたり点字の教科書をつくったりする、盲という障害についての専門性。聴覚障害の人であれば、手話をしたり、パソコンの要約筆記ができるような専門性です。これを「障害支援要件」とぼくは名付けています」

と障害支援要件の二つを必要とし、

・職業支援要件を満たす人による支援
・障害支援要件を満たす人による支援
・両方を兼ねそなえている人による支援
・特別な要件を必要としない一般の人的支援で充分な支援

 この四つの類型に分類できると言います。
 
「教科の専門性のある人には採点、板書、指導補助、そういうサポートを任せればいい。教科の専門性がなくても、車椅子を押したり、視覚障害の人の移動支援については、ガイドヘルパーのような専門性のある人がいるわけですから、その人に任せればいい。洋服を着る手伝い、給食を運ぶ、といった特に専門性を必要としない支援もあるわけですが、でも、それがなければ障害者は生活ができないですから、これはこれで必要な支援です」

 障害のある先生の支援を、これまでのようにすべて同僚教員に担ってもらう、学校の中だけで完結させてしまうという発想は、これからは改めていったほうがいい。それが中村さんの主張するところでした。

 「三戸さんの場合でも、教科の支援は同僚にやってもらうにしても、通勤は福祉タクシーという移動支援の専門性の人がいるわけだから、その人にやってもらう。必要な福祉タクシーは教育委員会が準備する。社会には障害を支援する資源がたくさんあるわけですから、そういう資源をフル活用して障害のある先生を支援する。必要なものには教育委員会がお金を出して用意する。そういうことが必要性があるということを、「障害者労働の業務支援理論」で書いています」

 ただしこの問題にも、分厚い人材の層がある地域と、薄いところ、場合によっては全くなかったりする地域があります。地域差の問題です。この点については次のように述べました。

「これは学校の教員の問題だけではなく、もっと端的に表れているのは、障害者の自立生活ができるかできないか、高齢になっても一人で生活できるかどうか、そういう問題です。それは地域の社会資源の厚さがどれくらいかによって変わってきます。教育委員会がお金を出すと言っても、使える内容は大きく違ってしまうという課題は残りますね。

 障害者運動では、資源がなければ要請する、資源をつくっていくという運動をするわけです。ひょっとしたら社会資源が少ない地方のほうが、働き手は余っているかもしれません。その潜在的なパワーをうまく取り込んでいく。もちろんそのとき、搾取するのではなく、十分な給料がもらえて、充実した仕事につながるということが前提です。安い給料で障害者の面倒をみてもらうといった、ときにありがちな発想は論外です」

 これが中村さんによる、障害のある教師の「業務支援理論」の基本的な考え方でした。

障害のある先生を「感動の物語」にしないために

 それから中村さんは「三戸さんのおっしゃっていることや佐藤さんの書かれていることを読んで、一番言いたいことを話してもいいですか」と前置きをして、次のようなことを話し始めました。少しばかり微妙な話題になります。
 
「障害のある教師の問題で一番混同させてはいけない、とぼくが感じていることは、障害のある教師の教育的効果という問題と、障害のある教師を支援しなければいけないという問題とを、同じ次元で語ってはいけないということなのです。

 たとえば三戸さんは、自分が障害のある教師であることで、がんばっている姿を生徒たちに見せる、卓球に打ち込んでいる姿を見せることで、生徒たちにいい影響を与えているという主張をしますね。たしかに障害のある先生の強みはたくさんあって、現場に入ることで素晴らしい教育効果があることは確かなんです」

 以前も紹介していますが、文部科学省の「障害者雇用推進プラン」のなかでも次のように謳われています。

「児童生徒等にとって、障害のある教師等が身近にいることは、
①障害のある人に対する知識が深まる
②障害のある児童生徒等にとってのロールモデルとなる などの教育的効果が期待されるところである。さらに、新しい学習指導要領において対話的な学びの実現が求められる中、 障害のある教師等との対話は、児童生徒等にとって、共生社会に関する自己の 考えを広げ深める重要な教育資源となることも期待される」

 この点につながる問題提起だと、私は受け止めました。中村さんは続けます。

 「障害のある先生が学校にいることで、こんなにいいことがある。だから学校で採用しなければいけない、支援しなければいけないと結びつけてしまうのは、趣旨が違っていると思うのです。たとえば数学の教師としての実力をつけたい、それが教師としての自分の目標である、と考える障害のある先生がいたとします。その先生に対して周りから、「君は障害者なんだから、障害のある教師としての特性を生かし、子どもたちの「心の教育」をしなければいけない、というような役割分担を押し付けられるとしたら、これはおかしいわけです。

 あるいは車椅子の先生が管理職に、「三戸先生は車椅子で卓球部の指導をし、あれほど教育的効果を上げている、君もなぜそうしないのか、それをしないのはだめではないか」、と言われてしまう可能性もあるわけです。つまり、障害があることで素晴らしい教育的効果を発揮する、だから採用し、支援する。そういう考え方は筋違いだということですね」

 中村さんはもう少し踏み込んで、次のようにも言いました。

「障害者であることで、その効果を発揮しなさいと求められることは、障害があることによる見返りを求められていることですね。見返りというお土産を持ってくれば、できないところは大目に見てやろう、役割を与えてやろう。そういう発想が潜んでいると思うのです。つまり障害者はできない存在、劣った存在として見られている。そういう障害者差別の発想が潜んでいると思うのです」

 この話から私が連想したことは、少し前にNHKEテレの『バリバラ』で、障害者による感動物語を取り上げて「感動ポルノ」と称していたことでした。ここまでうまいネーミングは私にはできなかったのですが、『ハンディキャップ論』(2003年・洋泉社・新書y)という本で、私は「感動物語」について皮肉を込めて触れたことがあります。その後、「テレビの障害者感動物語は、一般視聴者を感動させてくれない障害者は要らない、感動させてくれる障害者だけがテレビには必要なんだ、要するにそういっている番組じゃないのか」といった趣旨のことを話して、少しばかり叱られたのでした。

 中村さんの言っていることをこちらの趣旨に引っ張れば、「感動させてくれる先生でなければ支援はしない。そう考えるならば、それは本末転倒だ」、そういう指摘として受け止めてもあながち間違いではないのではないか。強い同意とともに私はそんなことを考えたのでした。

「教育効果が高くなることは確かなのでつい強調してしまうのですが、障害のある先生が孤立しがちな中で同僚や保護者に自分をアピールしたり、障害者運動で相手を納得させるためのロジックとしては、あっていいと思います。しかしそのことと支援の必要性を直結させてはいけない。問題は別のことにしておかないといけない。もちろん三戸さんは分かっておられると思います」

 まずは支援の手立てをする。しかしこの手立てもその人を優遇する特別な手立てではなく、社会に参加するときに対等なスタートラインにつくための、当然の準備である。

「これを合理的配慮というのだと思うのですが、権利としての支援です。世の中にはすでに配慮されている人たちと、配慮されていない人たちがいる。健康な人たちはすでに配慮されている。例えば2階に行けるように階段がつけてあり、男女のトイレを間違わないようにシンボルマークが掲げてある。だから困らない。でも障害のある人には階段やマークは配慮にならない。だから困ることが多いわけです」

 対等なスタートラインにつくための配慮、それが合理的配慮である、特別の優遇ではない、中村さんはそう繰り返したのでした。


教職課程 2021年 04 月号 [雑誌]
教職課程 2021年 04 月号 [雑誌]

飢餓陣営52号【編集後記】フーコーの「規律・訓練型権力(生権力)」とコロナパンデミック


 ミシェル・フーコーの『監獄の誕生―監視と処罰―』中の「第三部 規律・訓練」の「第三章 一望監視方式」は、ペストの話から書き起こされている。一七世紀末の或る資料によれば、ペスト発生が宣言された際の採るべき規則は次の通りになっていたという。

 空間の厳重な封鎖、外に出ることの禁止、違反すれば死刑。つまりは「感染か、もしくは処刑」。たえず行われる巡視、いたるところで見張る視線。家に閉じ込められ、巡視者に名前を呼ばれたときには、窓から顔を出して返答しなければならない。これは、生者と死者を調べあげる大掛かりな「査閲」であり、死者を隠していないかどうかが徹底して調べられる。取り締まりのために全住民の名簿が作成され、「世話人」によって調べあげられた事実は毎日記録され、「代官」へ報告される。そこから市役人や市長にあげられ、翌日世話人はそれを持って再び取り締まりに出て行く。このような規律と仕組みをつくることが義務付けられていたという。

 『監獄の誕生』といえば「規律・訓練」と「パノプティコン(一望監視施設)」がひときわ名高い。規律・訓練はやがて生権力や生政治と呼ばれ、フーコーの権力論のもっとも根幹の思想になるのだが、なぜそのような章が、ペスト(感染症)の話から始められているのか。フーコーは、次のように論述を進めていく。

「閉鎖され、細分され、各所で監視されるこの空間、そこで個々人は固定した場所に組み入れられ、どんな些細な動きも取締られ、あらゆる出来事が記帳され、中断のない書記作業が都市の中枢部と周辺部をつなぎ、権力は、階層秩序的な連続した図柄をもとに一様に行使され、たえず各個人は評定され検査されて、生存者・病者・死者にふりわけられる――こうしたすべてが規律・訓練的な装置のまとまりのよいモデルを組み立てるのである」(p200)

 ペスト発生宣言の後の、その対処方法に規律・訓練型権力の初期のモデルを見て取っているわけであるが、なぜ、それは必要とされたのか。規律・訓練的権力装置の背後にあるものはなにか。ペストなどの伝染病のさいに生じる反抗、犯罪、放浪、脱走といった無秩序や暴力への恐怖であり、その強迫観念を読み取ることができるとフーコーはいう。

 では、規律・訓練型の権力とはどんなものか。個人に起こっている事態はなにか、それはどう特色付けられているかを、監視し把握する権力。個人と、個人に属するものを能う限り細分化し、そのすべてに最終的な決定を下す権力。あまねく行きわたりながらも姿を隠し、良き訓育(調教)を施す権力、それが規律・訓練型の権力だという。

 いわば新たな恐怖への対処方法が新たな権力を生じさせているのだが、この時に比較対照されるのが「癩病」(訳者によって選ばれたこの訳語をそのまま使用する)である。癩患者は刻印を押され、だれが患者であるかがはっきりと示される。そして「癩患者/そうでない者」と分割され、刻印された者は社会の外へ追放され、封じ込められる。その集団では分割はなされない。個別化や個々人の差異は重大ではなく、個人は集団内に埋没し、姿を消すがままにされる。しかしペストはそうではない。二元論的な分割ではなく、多種多様な個々人が分離され、そのなかで監視と取り締まりが細分化されていく。そうやって偏在化し、網の目を細かくすることで権力は強化される。

「前者は清浄純粋な共同体への夢想であり、後者は規律・訓練が加わる社会への夢想である」。このように、ペストと癩病への差異が対照的に描かれていくのだが、フーコーによるならば、感染症への対応は(ハンセン病も当時は感染する病と考えられていた)その時々の権力機構にとって重要な試金石となる。感染症の種類によって、あるいは対策の変化によって、権力のあり方に重要な変化を及ぼすという。

 さらに変化が生じる。「《癩者》をいわば《ペスト患者》のように扱うこと」。かつて癩者が閉じ込められていた監禁の空間へ、規律・訓練の緻密な細分化を投影させること。分析的な配分の方法でその空間に対処すること。この排除の空間は「乞食や放浪者や狂人や狂暴者〔犯罪者〕」もまた住民だったのだが、彼らにも規律・訓練的な装置が施されていく。これが一九世紀のはじめ以来、規律・訓練的な権力(生権力)がおこなってきたことだ、とフーコーはいう。

 そうした機能がより効果的に、巧妙に、隅々まで現れるように施された装置が「パノプティコン(一望監視施設)」である。その監視機能がどこまで巧妙で徹底したものなのか、具体的な紹介は割愛するが、フーコーの情け容赦のない分析によって、規律・訓練という権力がいかに私たちのなかで内面化されているか、思い知ることになる。重要なことは、規律・管理が、私たち自身さえ気づかないところで確実に進行していくことだ。

 *

 ところで、冒頭で紹介した空間の封鎖、徹底した監視とその記録という件をもう一度見ていただきたいのだが、ここを読んだとき、コロナパンデミックのさなかに置かれている私たちは、何一つとして変わらない事態に遭遇しているのではないか、と思えたのである。もしこの指摘に妥当性があるならば、次のことが言いうる。

 じつは私たちは自らのなかに強固なイメージとして、「感染か、もしくは死か」という封鎖空間を創りあげている。その中で、何をしたか、どこに行ったか、だれと会ったか、という監視の目にいつの間にか包囲されている。包囲されているだけではなく、誰かによって記憶され、記録されている。もちろん封鎖と監視と記録は、より巧妙に、洗練されたかたちで、さらにいえば自らがそれを望むようにして行われているわけだが、多かれ少なかれ、そのようなイメージを作り上げていないだろうか。ここでフーコーが描き出したものは、言ってみれば〝感染症の原風景〟とでもいうべきものなのである。

 たとえば毎日報じられる「今日の感染者数」などという数値は、私にはあまり意味のないものだと思われる。どのくらいの検査数を分母としてはじかれた数であるかが隠されているし(検査数が増えれば感染者数も増えることは、統計の素人にさえ分かる)、重要なことは感染者のなかにどれくらいの発症者がいて、症状の度合い(重症化率)はどのくらいで、死亡率はどれくらいカウントされるのか、と言ったことであるはずなのだが、より必要なはずの情報は、感染者数に比べたら二次的三次的なものの如く、はるかに少ないままにとどまっている。情報操作とまではいわないが、現状を伝える情報とその伝え方を鵜呑みにはできない、というセンサーが強く働くのである。

 しかし一方で、先ほど指摘した〝感染症の原風景〟という無意識は、私のなかにも間違いなく存在する。ウィルスがいつ牙をむき出しにし、いっときの欧米のような事態が襲来するかもしれないという怯えは、決して皆無ではない。なめてはいけないという心理は、確実に働いている。いわばいまの私は、〝なめてはいけない〟という感知と、根拠のない恐怖の煽りを〝鵜呑みにはできない〟という二つの感知に挟まれて、宙づりになっているようなのである。

 なにが言いたいのか。「今日の感染者数」という数値は、感染状況を正確に伝えるうえではあまり役に立たないものではあるのだが、しかしそれゆえに、ある重要な役割を果たしているのではないか。『監獄の誕生』のこの章を読んで以来、そう考え始めているのである。
 
 為政者(権力者)にとって最も憂慮すべきは、〝なめてはいけない〟が高じ、多くの人間が感染を恐怖するあまり、経済をはじめとする社会生活の維持を不可能にすることだろう。もう一つは〝鵜呑みにはできない〟が高じ、コロナパンデミックそれ自体がフィクションにすぎないとたかをくくり、為政者のメッセージが全く無視されてしまう状況を招来すること。この二つである。つまり「今日の感染者数」というくり返されるメッセージは、この二つの間で、絶妙なバランスシートを作る役割を果たしている。怖がられ過ぎてパニックを招いてもいけない、無視され、勝手な行動に走られてもいけない、その両者をつなぎとめながら、自分たちの政策決定のほうに誘導しなくてはならない。そのような巧妙な役割を果たしているのである。
 
 *
 
 もう一つ、私のなかで氷解した疑義がある。一方では三密の回避を繰り返し言い、ソーシャルディスタンスとか、手洗いとうがいの徹底とか、飲食店舗への自粛要請というようにして予防の努力を強いながら、もう一方では、だれがどう見てもウィルスのバラマキとしか思えない「Go to トラベル」などという愚策を強行するこの矛盾は、いったい何なのだろうか。そういう疑義である。これについての解説の過半が「予防と経済のバランスをどうとるか」という文脈で語られていたのだが、あまりにも当たり前すぎて私を説得しなかった。しかしフーコーの規律・訓練型権力論を読んで腑に落ちたのである。

 ペストと癩患者を比較対照したのち、「《癩者》をいわば《ペスト患者》のように扱うこと」としたフーコーの記述は、さらに次のように進んで行く。

 「規律・訓練には、したがって二つのイメージがあるのだ。一方の極には封鎖としての規律・訓練が、つまり周辺部で確立される閉鎖的な仕組があり、しかもそれは、悪の阻止、情報伝達の遮断、時間の中断などの消極的機能を完全に目指すのである。反対の極には、一望監視方式をふくむ機構としての規律・訓練がある。すなわち、権力の行使をより速やかな、より軽快な、より有効なものにしつつ、それを改善しなければならない機能的な仕掛けであり、来るべき或る社会のための巧妙な強制権の構想である」(P210)

 規律・訓練には二つの極がある、とするこの件は次のような推論を呼び寄せた。為政者(権力者)にとって、自粛の要請と、ウィルスのバラマキのような「go to トラベル」という両極に見える二つの施策は、決して矛盾していない。対立するものとは受け止められていない。むしろ積極的に、対立するものと考えてはいけない、逆接ではなく順接させなくてはならない。そのように思いなされているのではないか。生権力は、引用にあるように両極とも見える志向性を内包させているのであり、「巧妙な強制権への構想」、つまりはより巧妙な規律・訓練という訓育を施す構想を、つねに孕んでいる。フーコーの引用をそう受け取ったとき、得心したのである。

 くり返すが、「決して感染してはならない、しかし感染を恐れるな」、あるいは「死せずに生きよ、しかし恐れずに死の近までに行け」とでもいうべきパラドキシカルなメッセージを、為政者は必要とあらばいつでも送り出してくる(その最たるものが戦争であり、兵士たちへのそれである)。両極の逆接が深ければ深いほど、私たちがそれを矛盾とも思わずに適合し馴致すればするほど、生権力は、私たちのより深い内面に刻み込まれていることになる。感染パンデミックという非常事態は、それが深刻であればあるほど、為政者が送り出すメッセージは逆説を深くするのである。深くすればするほど、規律・訓練型権力は、より深く、広く、強く、私たちの内面を包囲することになる。(ちなみにいえば、
「植松聖」が「世界平和をめざせ」というメッセージと、「心失者のすべてを殲滅せよ」「現今の偽善的ルールを破壊せよ」というメッセージを矛盾なく同居させていたことは、彼がいかに深く規律・訓練の権力を内面化させていたか、そのことを窺わせるものである)。

 もちろん彼ら為政者たちの多くはフーコーなど読んでいないだろうし、ここに書いたようなことを、自覚しておこなったわけでもないだろう。しかし、感染パンデミックという事態にあってどのように振舞えばよいのか、一国の政治を司るものとして何事かを本能的に察知している。結果的にそれが、施策やメッセージに託されることになったという理解は、あながち買い被りではないだろうと、私には思われるのである。

 先の引用に戻るならば、ひときわ注意して読むべきは「来るべき或る社会のための巧妙な強制権の構想である」という一節ではないかと思われる。生権力(規律訓練・良き訓育・調教)は時代の進展とともに、より巧妙に進展していくものである。いま私たちは、為政者たちが示す、何やら迷走と混乱の際立った対応を目の当たりにしており、その無為・無策とでたらめぶりを批判することに忙しい(もちろん、私もその一人である)。しかしじつは、「より速やかな、より軽快」な機能的仕掛けと、「来るべき或る社会のための巧妙な強制権の構想」を、あれこれと試行錯誤しているのではないか。彼らの迷走と混乱こそ、新しい時代に向かうための生権力の更新が目指されているのではないか。そのようなことを明かしているようなのである。

 この後『監獄の誕生』は、監獄がいかなる機能を持ち、どのような作用を受刑者に及ぼすか。そこに寄せられる再犯の温床という批判に対し、フーコーがどんな仮説を示していくか、詳細が検討されて行く。パノプティコンという監視方式に端的に、象徴的に見られるのは、監獄と刑罰において規律・監視権力(生権力)が鋭く現われてくることである。その理解をどこまで私が血肉化するか。それは「植松聖」とやまゆり園事件の全体を、いかに深いところに降り立ってつかむことができるか、という作業とおそらく連動している。本号の特集を、「コロナ・やまゆり園・生権力」としたゆえんである。

 *

 そのようなメッセージを込めて、飢餓陣営52号をお届けする。ご覧の通り通常の二倍近いボリュームとなっているが、決してたんなる水増しでないことはすぐにご理解いただけると思う。編集人の無謀な、ときに強引な依頼に対して、多忙も顧みずにお付き合いくださった執筆者の皆さんに、まずは深くお礼を申し上げます。その一つ一つをじっくりとご堪能いただければ、お一人お一人の全身全力を、はっきりと受け取るはずです。

 それにしても、雑誌の発行を三五年近くもやっていながら、所定のページと、予算の枠内に収めて誌面作りをする、という発行人=編集人が持つべき基本のスキルが、いまだ身につかずにいる。ボリュームを倍にすれば、制作費用も二倍ちかい金額になることは当然であり、自分で自分の首を絞めることになる。その分かり切ったことができない。ルーズというかバカというか、場当たり的というか、発行人の愚かな人となりをまたしても明かしてしまったわけである。終刊号がどこになるかは分からないが、最後まで規律・訓練型の編集とは無縁な編集方針(?)は変わらないだろうと思う。

 津久井やまゆり園の事件も、裁判も、そして「植松聖」も、社会的関心という大海にあってほぼ沈没しかけている。こうした状況の中で、どうすれば少しでも関心を呼び戻してもらえるか。そのための仕掛けをどう作ればよいか。そこが最初の、最大の編集エネルギーの注ぎどころだった。「植松的思考」とウィルス感染のイメージが奇妙にダブっていることは、当初から直感していたが、それをどう具体的な企画として仕掛けるかは、やはり一筋縄ではいかないものがあった。ともあれこのような形で誌面を実現できたことに、深く安堵している。次の作業は、読者の皆さんにできるだけ早く、正確にお届けすることである(京都の三月書房さんが、この一二月に完全店じまい。どれだけ支えていただいたか。ありがとうございました)。

 次号の誌面をどう作るか。発送作業がひと段落したら、やまゆり園事件の本の執筆に没頭していくことになるが、そのなかで何かが作動し始めるだろうと思う。そのときには遠慮なく声をかけさせていただくことになる。おつきいただければ嬉しい次第です。次号は五月ごろの発行を目指したい。カンパ、定期購読での応援をよろしくお願いします。(20・11・20 幹)

■取扱い書店 池袋・ジュンク堂、新宿・模索舎、東京・八重洲ブックセンター、神田・三省堂、東京堂、長野・平安堂、名古屋・ウニタ書店、ちくさ正文館、大阪・梁山泊





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書評 下山 進『アルツハイマー征服』(角川書店)

 評者が全国の高齢者医療とケアの現場を回り始めたのは、二〇〇〇年代の初めだった。当時医師たちは、アルツハイマーの治療薬は十年もすればできるだろう、と大いなる希望を語ってくれた。一〇年代が近づくと、まただめだった、根治薬など無理なのではないか、悲嘆を込めてそう語るようになっていた。

評者は二〇年代の手前で取材を終えたのだが、その時には「治療薬は不可能」というイメージが根を下ろしていた。老化が不可避である限り、アルツハイマーの根治薬は不可能である、それは老化そのものなのだから。しかし本書はその認識を一掃してくれた。少なくとも「不可能」という一語は封印してよいと思えた。

アルツハイマー病は脳内にアミロイドβという蛋白質が蓄積し、脳の神経細胞を死滅させることで引き起こされる。脳は委縮し、認知、記憶、運動などの機能が障害され、やがては人格にも異変をきたす。なぜそうなるのか。どうすれば防ぐことができるのか。

一九八〇年代、遺伝子工学の急速な進展によって一気に研究が加速する。九〇年代になると病変遺伝子が発見され、幾つかの仮説が生まれる。進行を抑制するアリセプトが開発され、脳の病変にダイレクトに作用するワクチン療法も発見された(医師たちが希望を語っていたのはこの頃だろう)。

しかし以降、研究の挫折が続いていく。創薬のためには三段階の治験を経なくてはならないが、そのどこかで、有意性が得られない、副作用が生じるなど研究を中断するケースが相次いでいく(医師たちが悲嘆を語っていた頃だ)。

科学者たちの仮説の検証をめぐる鍔迫り合い、失敗と挫折が繰り返される実験、「最初の一人」を巡る熾烈な戦い。さらには生き残りを賭けた企業の、時に非情な経営戦略。これらを描く著者の取材は圧倒的である。ここに加わる患者と家族の切なるドラマ。

ラスト。著者は、未来のために挑戦は続くのだと書いて本書を終える。評者が「不可能」を封印したのはこのメッセージの力強さの故であった。

アルツハイマー征服 [ 下山 進 ] - 楽天ブックス
アルツハイマー征服 [ 下山 進 ] - 楽天ブックス書評 下山 進『アルツハイマー征服』(角川書店)東京新聞 ‘21、2,20   
「もう1冊」
新井平伊『脳寿命を延ばす 認知症にならない18の方法』(文春新書)


(第29回)「障害のある先生」の声をどう拾い上げていくか


 今号より、『障害教師論』(学文社・2020年7月)の著者である中村雅也さんについての報告になります。本書の「まえがき」でご自身も書いているように、「障害教師論」というのは、「障害のある先生」めぐる様々な事象を調査し、どんな現状にあるかその実態を解明することで、現在の学校や教育の問題に新たな光を当てようとする、そういう意図を持った学問領域とされています。「障害学」の一つのジャンルと見ていいと思いますが、新たな研究領域を確立させようとする、野心に満ちた取り組みだといえます。

 中村さんは研究者ですから、問われるべきはその内容です。著者がどのような生活史的背景をもつかといったことについて、必要以上に筆を走らせるのは逆に失礼ではないかという思いもあるのですが、以下の点について触れておきます。中村さんは視覚障害をもつ障害当事者であり、そして教員としての経験をへたのち、研究者としての歩みを始めています。自身の障害と教師としての体験というこの二つは、中村さんが選んだ研究テーマに深く影響を及ぼしていると考えられます。ただし、当事者であり研究者でもあるという点について、中村さんがどのような姿勢を取ろうとしているかは後ほど報告することにしましょう。

 私が事前に伝えておいた問いは次の2点でした。
このコーナーでは、車椅子の数学教師である三戸学さんを取り上げてきました。三戸さんは、通勤方法についての十分な合意が得られないままの異動命令に対し、またそこで発生する通勤費用の自己負担額の大きさに対し、いずれも不当であると秋田県教育委員会に不服審査請求を申し立ててきました。異動がどのようになされたか、三戸さんが不服とする内容はどのようなもので、何を望んでいるのか、それに対して私がどう考えるか、相当回数にわたって報告してきました。

 そこでの三戸さんの「訴え」(と佐藤のこれまでの記事)について、中村さんがどんな感想を持っておられるか、あるいは「障害のある先生」が働く現在の教育現場に対してどんな要望や考えを持っておられるか。これが1点目の問いです。2点目は、中村さんのこれまでの歩みについて。障害当事者として教員をめざしているときのご苦労、教育の現場に立ったときにどんなことを感じたかというものです。
時節柄ZOOMでも取材となり、取材日を1月4日に設定しました。三戸さんからは12月中に人事委員会による採決が示されると聞いていたのですが、どうしたことか連絡がありません。体調でも崩されたのかと心配していると、ちょうど取材の直前に電話連絡が入りました。人事委員会が示した採決は次のようなものでした。

三戸学さんの不服審査請求について
 結論は、「本件審査請求をいずれも却下する」というものです。

 裁決書は、地方公務員法や市町村立学校職員給与負担法その他、該当する法律に照らしながら、異動が不利益処分に当たるかどうかが検討され、記述されています。そのままの引用では読みにくいでしょうから、できるだけ簡潔に、要点をその趣旨を損なわないよう噛み砕いた文章にして次に示します。

 法律は、異動命令が「不利益」を伴うものでなければ、審査請求を認めていないものであること。また最高裁判例が、身分、俸給に異動を生じておらず、勤務場所や勤務内容について不利益なものでない限り、転任の取り消しを求めることを認めていないとされていること。こうしたことを照らし、今回の異動は「降任や降給を伴わない水平異動」であり、したがって審査請求の対象にはならない、とされています。これが基本の判断です。

 また三戸さんは勤務の場所や勤務内容について、いくつかの点を取り上げて訴えを示していますが、「審査請求人(三戸さん)」が求める合理的配慮への請求は、「転任処分とは直接の関連性を有しておらず、本件転任処分による不利益とはいえない」とされています。その一つ一つは示しませんが、いずれも、同様の理由が記載されています。つまりは、法律に照らせば、それはいずれも異動後に生じたものであり、審査の対象には当たらない。したがって訴えを却下する。そういう判断が示されたわけです。

 もし不服がある場合は、6か月以内に再審査請求ができると言います。しかし三戸さんは、4月より異動して3年目に入ることを考えれば、異動の取り消しを求めるという同じ請求内容で再審査を申し立てることは現実的ではないし、意味がないだろうと言います。異動について法律の観点からは「請求却下」という判断が示されたが、自分の勤務状況を考えたとき、課題は何ら解決されていない、この後どうするか、6か月という時間があるので、これから清水建夫弁護士と相談して決めていきたいということでした。

 そのうえで、積極的に何らかの発信をしていきたいが、現在の見通しとして次のようなことを考えていると言います。今後の方向がある程度見えたところで、今回の結果報告と、これからの活動について記者会見の場を設けて発信したい。

 もう一つは、現在、厚生労働省内に「障害者雇用・福祉施策の連携強化に関する検討会」が設けられているが、そこ懸案になっていることがある。それは現在の「重度訪問介護サービス」(これは専門ヘルパーが、重度の障害をもつ人たちの自宅を訪問し、食事、排泄、入浴などの生活全般にわたる支援を行うものです)が、勤務時の支援は対象外となっている、それを勤務にも使えるようなものに制度を改められないか、そういう議論が始まっている。またその対象者が「障害区分4以上」と定められており、自分(三戸さん)は「区分3」であり、やはり対象からは外れている。その点についても提言していきたいと言います。

 さらに地域格差の問題も三戸さんは指摘しました。あと数年で定年退職ということであれば別だが、自分はこれから20年以上勤務することになる。秋田市内に自宅があれば学校数も多く、設置区域も集中している。これまでのように3年で異動になったとしても、認めてもらったタクシー利用の上限55,000円の範囲内での通勤が可能になる、しかし現在の自宅からの通勤ということになれば、20年以上にわたって数万円の自費負担が生じてしまう。通勤支援にしてもタクシー代の上限額の設定にしても、現在の制度の中でどうすればよいか、教育委員会は最大限の配慮をしてくれたということは理解している、ただ自分にとっては、これをどう解決できるかという課題は依然として解消されていないと言います。

 そして三戸さんは、裁決書を読んで佐藤はどうか思ったかと尋ねました。この後の中村さんの談話の内容とも関連しますので、できるだけ簡単に述べておけば、以下の3点について伝えました。一つは、「人事異動についての不服申し立て」については、現行の法律の対象とはならないという判断であるから、「労働条件の整備についての訴え」と方向を変えていったらどうか(ただしどこにどう訴えるのがより効果的かは、清水弁護士と相談してほしい)。もう一つは、今回、タクシー利用に対する交通費の支給は、現在の法律の範囲内で認めてもらえたのだから、同様に、他の内容についても解釈と運用のし直しをする余地はあるかもしれない。その検討を重ねていくこと。3つ目は、現行の法や制度が実状に追い付いていないのであるから、先ほどの重度訪問介護事業のように法や制度を改正していく、場合によっては新たな仕組み作っていく、そうした提言ももっとなされてよいのではないか。おおむね、このようなことを伝えました。

研究者としての立場、障害当事者としての感想、
 三戸さんの報告が長くなりましたが、中村さんは次のように述べました。
 
 冒頭、障害当事者の感想ではなく、研究者としての意見を述べたい。当事者としてということであれば現在頑張って勤めている方たちがおられるし、彼らのほうが適任だろうと思う。自分(中村さん)は障害のある教員について研究をしてきた者であり、最も適任者だろうと自負もしている。当事者としての感想ではなく、これまでの研究を踏まえての客観的発言だと受け止めてほしい。そう言ってから話し始めました。
 
 そして私の二つ目の質問については、次のような留保を述べました。自分の研究は、障害のある教師として勤務してきた中での様々な思いをバックグラウンドとしたものであることは間違いない。しかし研究を続けていく中で大きな課題になったことは、当事者性と、研究者としての客観性が混同されて受け取られてしまうことだ、とそう言います。

「ぼく自身は、はっきりと切り分けているつもりですが、研究として提出している論文を、当事者としての個人的な感情に基づいたもののように取られることが、しばしばあるのです。今回の取材においても、ぼくが何らかの発言をし、それを佐藤さんがまとめ、そして公表するわけですが、二つの内容が併記されてしまうことで、同じように混同されてしまうのではないかという危惧を持っています。三戸さんの問題についてぼくがどう受け止めてきたかといえば、研究者としての捉え方と、当事者としての捉え方はやはり違うのです。先ほど言ったように、三戸さんの問題については、研究者の立場からの発言だと受け取っていただきたいと思います」

 よく納得できる話でした。以後、中村さんが伝えた趣旨を踏まえて記述していきますが、もし誤解が生じるような場合、文責はもちろん佐藤です。この点を明確にして進めていきたいと思います。

三戸さんが提示した「新たな問題のかたち」
 中村さんは、まず、三戸さんの問題は大きく二つの側面があると言います。一つは通勤手段が確保されていないなかで転勤が行われたこと。その交渉の中で、もう一つの問題として通勤費の問題が出てきたこと。この二つは分けて考えたほうがいいといいます。
 
「この問題は、従来の教員採用試験の募集要項のなかに、自力通勤できることと介助者なしで勤務が遂行できること、という二つが受験資格として書かれてきたのですが、やっと昨年度、募集要項の中から削除されました。そのことに端を発しています」
この改正は、文科省がこの条項への見直しを通達し、それを受けてのことだったといいます。「障害者欠格条項」と呼ばれるもの、あるいはそれに通じるものがあることは私も理解していましたが、その文言が削除されたということは、うかつにも初めて知りました。さらに中村さんは続けます。

 「「自力通勤ができる」ということ自体、定義がはっきりしていなかったと思うのですが、採用者のなかに、自力通勤できない人がいたときにどうしようかということが、教育委員会にあってしっかりと考えられていなかった。「自力通勤ができること」と抽象的に書かれていたものを外したとき、どういう事態が起きてくるか。それが三戸さんのケースによってはじめて具体的なかたちで浮き彫りになったわけです。しかも個人の問題としてではなく、障害のある教師一般に通じる問題として提起してくれたのが、今回の三戸さんのケースです。ぼくはそう理解しています」

 中村さんは、教育委員会の見解や今回の人事委員会の裁定にたいし、個人的には色々な感想をもっているが、判断材料がないので研究者としての言及は控えたいと言い、そして続けました。「一つだけ付け加えるならば、教育委員会の理念が現実に追い付いていなかった、そういう現状があったと思います。その点に関しては教育員会に批判的です」

 私は、同様の問題が他の都道府県でも現われてきても不思議ではない、あるいは異動や通勤という同じテーマでありながら、また異なる問題の形で具体化してくるということも考えられるのではないか。そのように考えています。「全国の教育委員会に共通する問題と受け止めていですね」。私はそう尋ねてみました。

 「そういうことだと思います。ただ、市街と地方では具体的な状況が違うし、秋田と東京では違いますね。今回の秋田の問題が全国の問題に直結するかどうかは分からないのですが、少なくとも障害のある先生の具体的な課題が上がっていて、それについての議論がなされているという事実は、ほかの都道府県からは表面化していません。でも潜在的には必ずあると思います」

 異動の問題や通勤の問題で改善を求め、声を上げている「障害のある先生」は、三戸さん以外、いまのところいないようです。しかし潜在的にはいるはずですし、そうした声をどうやって拾い上げていくか。それもまたこれからの重要な課題ではないか。私のそうした問いに、中村さんは次のように答えました。

「長年にわたり、視覚障害、および肢体障害の教師にとって、通勤問題は深刻で困難な課題でした。訴えたり、交渉したり、妥協したり、あきらめたりしてきたわけですが、佐藤さんがご指摘のとおり、すくいあげられず、不可視化されてきたのです。自己負担でタクシー通勤していた先生もいますし、家族などの送迎でしのいでいた先生も多くいます。

 三戸さんのタクシー通勤というのは、初めて現れたモデルだと思うのですね。この点に関しての秋田県教育委員会の判断は、多くの人が評価していると思うのです。今までは、よその都道府県でもタクシー通勤に通勤費は出せないと考えていたと思うのですが、秋田の判断が一つのモデルとなって、こういうことができるということが示されたわけです。これがすべての解決策ではないにしても、こうして一つのケースが現れると、それがきっかけとなって全国的に影響を与えていく、そういうことは起こりうるだろうと思います」

 ただしここでもう一つ、難しい問題があります。三戸さんも述べていたように、地域間の格差の問題です。秋田県にあっても秋田市内と周辺の地域では違うし、東京と秋田では大きく事情が異なります。この問題をどう考えるか。

 「間違いなく、分厚い人材の層があるところと薄いところ、場合によっては全くなかったりするところもあります。これは学校の教員の問題だけではありません。端的に表れるのは障害者の自立生活ができるかできないか、高齢になっても一人で生活できるかどうか、地域のサービスの厚さがどれくらいかによって、大きく変わってきます」

 地域格差に対して制度がどこまで補うことができるか、なかなか難しい問題です。中村さんは「障害者運動では、資源がなければそれを要請するという運動をするわけです」と言い、次のような試案を示しました。「資源がなければそれを作っていくという運動ですが、ひょっとしたら企業が少ない地方のほうが、働き手の潜在的なパワーはあるかもしれないですね。そうした人材をうまく取取り込みながら、さまざまな支援を社会資源として事業化していく。もちろんそのとき十分な給料がもらえて、充実した仕事につながることが前提です。安い給料で障害者の面倒を観させるという発想ではだめですよね」

 この問題は、三戸さんの問題から何を一般化できるか、という私の次の問いと、それにたいする中村さんの答えにつながっていきます。『障害教師論』に「障害者労働の業務支援理論」としてまとめられたテーマであり、次回は、この点を中心として報告していきます。

教職課程 2021年3月号 (2021年度自治体別 小学校全科:出題傾向分析)
教職課程 2021年3月号 (2021年度自治体別 小学校全科:出題傾向分析)

(第28回)「独り立ちする」ためには「独りでは立てない」

〝教育〟はどこに届くのか

巣立つことと「この時代の難しさ」

 発達心理学者・浜田寿美男さんについての2回目です。前回は、障害の引き受けとは「周囲の人間が「ともに」これをどう引き受けていくか」、ということが重要であり、合理的配慮という言葉には、「ともに」なされる障害の「引き受け」が含まれているのではないか。そう書いて締めくくりました。今回はここから始めてみます。

取り上げるテキストは『子どもが巣立つということ』(ジャパンマシニスト社・2012年)。「この時代の難しさのなかで」とサブタイトルされているように、現代に特有の難しさが背景をながれる主題となっています。本書を着地させようという終盤になって、浜田さんは「時代の難しさ」を、「この国ではあらゆるものが与えられているが、希望だけが与えられていない」という言葉に絞り込んでいます。これは小説家の村上龍氏が『希望の国のエクソダス』(文芸春秋)で、主人公の子どもに言わせている言葉です。『希望の国のエクソダス』は2000年の作品であり、それから20年、時代はさらに難しさと混迷を深めています。タイトルは「子どもの巣立ち」ですが、職業人(教員)となってからの〝独り立ち〟という問題も関連させながら、このあたりのことにも触れてみたいと思います。

 まず浜田さんはひとつの前提を置きます。それは「人間は自由ではない」ということ。自分の意志であれこれしようとしても、ままならないことはたくさんある。同じように「心も不自由なものだ」といいます。「自己決定」とか「自分のことは自分で決める」という言葉が大手を振っている昨今、奇異な感じを持たれるかもしれません。しかし例えば恋愛、友人や親子の関係のあり方、職業選択。自分ひとりの力ではいかんともしがたいことの連続です。本誌の11月号で、「教職〝お悩み相談〟32+α」という特集が組まれていましたが、先生という職業に就くことが叶ったとしても、次から次へと、うまくいかない、思い通りに進められない、ということがたくさん出てきます。だからこそ悩み事も生まれてくるわけです。

「独り立ちすること」と「独りでは立てない」こと

 次に浜田さんは「人は独りでは立てない」といいます。〝巣立ち〟という言葉には、自立とか、独り立ちといったイメージがあります。しかし自立や独り立ちは孤立することではない、新たな人間関係を作ることだ、周りに自分を支えてくれるネットワークをいかに作るか、それが独り立ちしていくときに大事なことだ、といいます。このメッセージが本書の基本主題になっています。巣立つためには、人は支え合う存在であることを知ること。「独り立ちする」ためには「独りでは立てない」ことを知ること。なんだか禅問答めいていますが、これは前号での「合理的配慮は「ともに」なされる障害の引き受けではないか」という論点に、つながっていくものです。

しかし浜田さんは、関係に支えられる重要性を言う一方で、昨今の心理学における「関係論」のブームに触れ、浜田さんは「人との関係ばかりを強調することにも、私は抵抗があります」と、釘を刺すことも忘れていません。あたり前のことですが、関係は支えや喜びになると同時に、葛藤や苦しみのもとにもなります。「ともに」なされることの難しさですね。先ほど取り上げた「教職〝お悩み相談〟」にしても、人とのかかわりに関するものがいかに多いか。サリヴァンというアメリカの精神科医に『精神医学は対人関係論である』というタイトルの本があるくらいですから、いかに人間関係が難しいか。

ここに現代社会に特有の困難が加わります。浜田さんがこの本のなかで取り上げているのは、子どもたちを取り囲む「つながってなくちゃなんない症候群」(初出はノンフィクション作家の小林道雄氏)と呼ぶ、仲間とつながることへの強迫的なあり方です。一人だけ目立ってしまうことを避けたい気持ち。排除され、いじめのターゲットとされてしまうことへの恐怖。メールやLINEはもはや子どもたちにも広く浸透していますから、この傾向はさらに深刻になっていくことが考えられます。とはいえやはり、「独り立ちする」ためには「独りでは立てない」、この重要性は変わりません。

学ぶことの「実質的な意味」と「制度的な意味」

三つ目の論点。ここは浜田さんの子ども観のとても独特なところなのですが、巣立つことができるのは成熟したからではない、人は未熟のまま巣立っていくのだという考え方です。最初にこの考え方に触れたとき、なにか意表を突かれたような感じがしました。このもうひとつのバージョンが、障害をもつ子どもたちの発達発達、といわれる昨今だが、〝発達をするため〟に生きているのではない、〝障害をもっている〟というそのままの姿で、いまある力を使って自らの生活世界を生きていくのだと、いう考えであり、それを横に置いたとき、なるほどと思ったのです。「できないからできるへ」、「未熟から成熟へ」、「障害から障害の軽減へ」というような考えに、教育や療育にある人間は、いつのまにかそのことで頭をいっぱいにしています。そうした傾向への戒め、と受け取ってきたわけです

ところが今回読み直し、ちょっと立ち止まりました。この考えは、浜田さんの子ども観や障害観にとって、じつは重要な位置にあるのではないか。そう考え始めたのです。この先になにがあるかといえば、「発達を強いる」、「できるを強いる」、「理解を強いる」、「成熟を強いる」、そういうところに入り込んでしまうあり方です。障害のある子どもたちは発達を強いられる。通常クラスの子どもたちは成績向上を強いられる。それが学校での学びになっているのではないか。そういう警鐘につながっていく。

〝学び〟とか〝育つ〟というのは、ある意味では自然で、自発的なものです。教えられることで学んでいくことはもちろん多いわけですが、生活世界がそれなりに安定したものであれば、自分で学んでいこうとする力が立ち上がってきます(「サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん」という番組がありますが、あれが典型的ですね)。そのことで身に着けていくものには、とても大事なものがある。ところが、学びを強いられるあまり、それが奪われてしまう。そのことを浜田さんは、子どもたちにとって学びが「実質的な意味」ではなく、「制度的な意味」になっているからだと言います。

たとえば先ほどのTV番組にしても、子どもたちが見せている旺盛な「学び」は、成績評価とか、受験偏差値の向上といった学びの「制度的な意味」にはほとんど直結しません。けれども親御さん(多くは母親)は、子どもが大好きそのことに理解を示し、もっと知りたい、学びたいという気持ちを大事にし、応援しています。それなりの葛藤はあっただろうとは思いますが、決して枠にはめようとしたり、もっと学校の勉強をしなさいとブレーキをかけるようなことはしていません。もちろん経済的な問題とか、お母さんに応援できる時間の余裕があるとか、いくつかの条件は必要です。子ども自身にも、何かに強い好奇心を持ち、集中し、継続して取り組むことができる、という内発的な力が必要とされるでしょう。誰にでもできることではないのですが、諸々の条件が整えば、とてつもない力を発揮することにいつも驚かされます。

ここから次のメッセージになっていくのですが、子どもにとって巣立つために重要なことは、「学ぶことの実質的な意味を知る」ことの大切さだいいます。学校で教わっていることは間違いなく重要なことだと書いた後、次のように続けます。

 「たしかに、小学校の教科書をあらためて読んでみると、なるほどこういうことは知っていなければと思う大切なことばかりです。たとえば、社会科では憲法を教えられますが、そこに書かれている基本的人権などは、それを学ぶことがそのまま子どもたちの生活のなかに浸透するとすれば、すごいことです。だからこそ先生は、大事なことだからしっかり身につけなさいというのでしょうが、ここで奇妙なことが起こります」

 どんな奇妙なことが起こるかといえば、学ぶことの意味が子どもたちの生活から離れ、試験の成績のほうに引き寄せられていく。とにかく成績の向上につながることが、子どもたちにとって学びの意味になる。そして「学校制度のはしごをより高く上っていこうとする」ことが「いまの学校教育の最大の問題」になっており、これこそが、「子どもたちの巣立ちを妨げる最大の要因になっている」のではないか。そんなふうに論理が展開されていくのです。

ひょっとしたらここが、『子どもが巣立つということ』という本の、最大の論点なのではないか。そう思い始めたわけです。重要なことは、学びの実質的な意味を失わせていることであって、そこに、学ぶことの喜びや楽しみは生じない。そんなふうに批判はつづいていきます。言葉は穏やかで淡々と論を進めていますが、とても厳しい批判です。「いまの学校教育そのものが、子どもの巣立ちを妨げる最大の要因になっている」というわけですから。

別に文部科学省の方をもつわけではないのですが、好意的に解釈すると、問題の発見・解決型学習とか、総合的な学習とか、今回の「対話的で深い学び」とかアクティブラーニングというのは、学びを子どもたちの生活に立ち返るようなものにしたい、「学びの実質的な意味」のほうにできるだけ近づけたい、いくらかは、そういう意図があったのかもしれません。しかし残念ながらうまくいかなかった。

何故うまくいかなかったかはこれで散々繰り返してきたので一言だけにとどめますが、学びを実質的な意味に近づけようとしながら、制度的な意味を強くする方向に推し進めることになった。そういうことなのだろうと思います。おそらく先生たちもまた、自分たちのおこなう授業が、子どもたちにとって生きていく力になってほしい、実質的な意味を持ってほしい、そう願っているはずです。しかしそれは難しい。その難しさは、冒頭で指摘したこの本のサブタイトル「この時代の難しさのなかで」という問題と、どうも直結している。
先ほどの「子ども博士」を見ているとよく分かるのですが、あそこでの学びは、学校での成績評価にも受験偏差値の向上にもあまり結びつかない。社会はそこに直結する学校教育をこそ歓迎する。そういう方向にどんどん進んできた。学校もそれに答えなくてはならない。増々「教育の制度的な意味」に拍車がかかる。「対話的で深い学び」や自主性を育てようとするアクティブラーニングは、そういうジレンマを抱えざるを得ない。そしてこのジレンマが深まっていくことが、「時代の難しさ」なのだろうと思います。

ここにもう一つ、昨今の厳しい就労事情と経済事情が加わり、コロナ禍がさらに追い打ちをかけています。経済のひっ迫は家庭の中からゆとりを奪います。家庭を、つまりは子どもたちの生活世界をとても不安定で、不安の多いものにします。学びをめぐる環境要因が、いつ、どんなふうにして解消されるのか、いっこうに見通せないという事情も、まさに「時代の難しさ」そのものです。

子どもたちのリアリティを手放さないこと

 ところで、ここまで紹介してきて改めて気づくことがあります。それは浜田さんの子ども観のもつ大きな特徴です。「子どもの生活世界」とか「子どもという自然」とか、「身体という場を生きる子ども」いう言い方を、好んで用います。ある本のタイトルには「子どもというリアリティ、学校というバーチャリティ」と対比的な文言が選ばれたりしているのですが、ここに浜田さんの子ども論・教育論の特徴がよく現われているように思われるのです。

どういうことかというと、生身の身体(つまりは自然の言いかえです)を持って、自身の生活世界を生きている、そうした子どもたちのリアリティ、そのことにたえず着眼している、常にそこに戻って思考を立ち上げていくという志向性を強く受け取るのです。制度的に枠づけられた言葉、概念として括られた言葉、まずはそれらを疑ってみるという姿勢です。

 少しだけ自分のことを書かせてもらいます。私は特別支援学校の教師として、20代から40代の時間を「知的障害をあわせもつ自閉症」の子どもたちと過ごしていました。最初、彼らの言動はとても不思議でした。物や事へのこだわり(いま何時かと何回も聞いてくる、同じ道でなければ通れないなど)。常同行動(手をひらひらさせる、体をゆすり続けるなど)。過敏な感覚(機械音がダメ、濡れるとすぐに脱いでしまう)。言葉のオウム返し(「どこへ行ったの」と聞くと「どこへ行ったの」と答えるなど)。ときに混乱し、パニックになります。物を壊す行為も頻発します。これはとても難題でした。

 このときまずぶつかったのが、「問題行動をなくすためにはどうするか」という発想では、とても太刀打ちできないという事でした。たとえば「こだわり行動」を例にしても、ひとつのことがなくなったとしても、すぐに次のこだわりに移っていく。モグラたたき状態が延々と続いてしまうのです。こちらがなくそうとすればするほど、子どもは緊張と不安を強くさせ、パニックになる回数が増えてしまう。悪循環に陥ってしまうのです。そこで次のように考え始めました。

どうしてだろう。どういう世界が体験されているのだろう。毎日そんなことを自分に問いかけていました。やがて、彼らが緊張と不安の強い世界を生きていることが分かってきました。そうとうストレスフルなはずですが、それを解消する手立ては多くはありません。常同行動やこだわりは、不安や緊張を和らげるための彼らなりの対応策であり、自傷他害などのいわゆる「問題行動」はSOSの発信です。そう気づいたのです。

つまり、問題行動の「問題」とは、私(教師)たちや社会の側から見たときの「問題」であり、彼らにとっては、不安や緊張、困りごとが積もりに積もった果ての表現です。うまく受け止めてもらえなかったとき、「問題行動」はエスカレートし、関係は悪化し、悪循環になっていく。そんな道筋なのではないか。大事なことは、不安と緊張をどう和らげるか。混乱や葛藤とどう折り合いをつけてもらえるか。そのためには彼らの言動を受け止めてくれる人、信頼できる人、安心できる場所、それをこちらがどう用意できるか、そこにある。そんなふうに私の考えは進んでいきました。「問題行動」という括る言葉(制度的な言葉)で見えてくるものは、もちろんあります。しかしそのとき以来、子どもたちを見るときにはいったん脇に置くことにしました。だから、子どもの生活世界とそこでのリアリティを手放さずに見ていく、という浜田さんの採っている基本的な姿勢に、身をもって賛同できるのです。

「希望」について触れる余裕はなくなりました。どうすれば希望を失わずにいられるか、私に適切な処方箋があるわけではありません。また安易に示すことは控えたほうがいいだろうとも思います。はっきりしていることは、希望がもてないとき、目標を持つことも難しいだろうということです。目標は次に進んでいくときの強い後押しとなります。先ほどの私の例でいうならば、どうやってかかわりを作っていけばよいのか少しずつ見えてきたとき、ちょっとした手ごたえが希望になり、そのことで、次にどうするかという目標も具体的になっていった。そんな経緯があります。ひょっとしたら、「制度的な言葉」で見ないというこのあたりに、希望など底の底まで払底している時代に子ども論を打ち立てて拮抗しようとする浜田さんの、ひそかな戦略が隠されているのかもしれません。

教職課程 2021年2月号 (2021年度自治体別 一般教養問題:出題傾向分析)
教職課程 2021年2月号 (2021年度自治体別 一般教養問題:出題傾向分析)
 

共同存在であることと「合理的配慮」 〝教育〟はどこに届くのか(第27回)

浜田寿美男さんと発達心理学

 先日、久しぶりに浜田寿美男さんに取材をさせていただく機会がありました。浜田さんは奈良女子大で教鞭をとりながら、発達心理学と供述分析という二つの領域で、50年にわたって刺激的な仕事をされてきた方です。発達心理学がどんなものかは、教員を志望する皆さんはご存じだろうと思います。

 供述分析というのは、逮捕前あるいは逮捕後、被疑者が取調室のなかでどんなふうに供述をとられていくのか、そこに誘導や強引な押し付けはないか、音声テープや供述調書を分析し、えん罪の可能性を実証していくという鑑定作業です。浜田さんはこの領域の開拓者・先駆者と言ってもいい存在で、私はどちらの仕事からもとても大きな影響を受けてきました。

 ここでは発達心理学者としての浜田さんを紹介しながら、私がどこに、どんな影響を受けてきたかを書いてみたいと思います。そして前号まで述べてきてきた「合理的配慮」についての私自身の考えと、つながりを持たせてみたいとも思っています。

 浜田さんの著書と最初に出合ったのは、『子どもの生活世界のはじまり』(ミネルヴァ書房)でした。初版が1984年、私が持っているのは89年の版です。『発達』という季刊誌が同じ版元から発行されており、そこでの連載をまとめたものがこの本です。私が特別支援学校(当時は養護学校ですが、こちらの名称を使います)に初任として採用になったのが79年、26歳のとき。浜田さんの仕事を最初に目にするのは、おそらく勤め始めて5,6年目ごろ、『発達』での連載だったと記憶しています。

 発達心理学といえばJ・ピアジェ。『知能の誕生』という500ページを超す主著がありますが、浜田さんはその翻訳者です(もう一人が谷村覚氏)。ところがピアジェの著書は難解きわまりないもので、当時の同僚たちに声をかけて勉強会を開いたりしていたのですが、そうとう苦労して読み継いでいった記憶があります。そして94年に『ピアジェとワロン』が出たとき(著者はもちろん浜田さんです)、霧が晴れるように、ピアジェも(そしてワロンも)、私なりの像をもつことができるようになりました(浜田さんも書いていますが、ワロンの本は翻訳がひどすぎました)。

「発達」とは共同的・類的なものである

発達心理学については私などが説明するまでもないでしょうが、乳児期から年齢を追いながらその時期の発達的特徴を拾い上げ、それが発達全体のなかでどういう意味を持つかを位置づけていく。簡単に言えばそういう学問です。よく例に出されるのが生後8か月という時期。ハイハイが上手になった赤ちゃんは、何か物を見つけると這っていってそれをつかみ、口に入れて感触を確かめます。これを探索行動と言い、能動性が育つ大事な時期なのですが、同時にお母さんとの愛着も強くなり、その安心感や信頼感があればこそ、お母さんを離れて回りの世界に向かおうとする、個人差はありますが、そういう時期です。

もう一つの特徴が、人見知りが始まることです。これも、とても大事な発達の指標だとされています。このとき赤ちゃんはお母さんと自分、お母さんとそれ以外の人というように、区別がつくようになっています。お母さん以外の人が分かり、その人の登場に不安を感じる。それが人見知りの発達的特徴である。こんなふうに明らかにしていくのが発達心理学であり、ピアジェはそれを、これ以上のないほど精緻に拾い上げて意味づけていきました。その一部始終を記述したのが『知能の誕生』です。

ところが浜田さんは、ピアジェの発達論に疑問を呈します。『ピアジェとワロン』のサブタイトルが「個的発想と類的発想」となっているように、ピアジェの発達論は「個的発想」、つまり赤ちゃんという個体に訪れる変容だけを取り上げ、それが一人でになされていくような観察と記述になっている。しかし人が育つということはそういうものではない、生まれ落ちた時点ですでに人とのかかわりの中に置かれ、そこからたくさんの働きかけを受けている、この働きかけがあればこそ発達はなされていく。それが発達についての浜田さんに基本的な考え方です。いわば従来型の発達心理学を批判する発達心理学者が浜田さんです。

「人は一人であって、一人ではない。個‐類の両義性という、生き物としての一つの明らかな現実を組み込むことなく、心理学の理論が十全なかたちで成立するはずがない」「そのとき感じたピアジェの理論への異和感を、いまの私の言葉でいうと、その「個からの発想」への異和感ということになる。(略)ピアジェにとって、人間は周囲世界に対処していく構造化されたシェマの集合体でしかない」(『ピアジェとワロン』はじめにより)

一方のワロンには「類的発想」という名称が与えられているように、個体としての人間ではなく、類的存在としての人間、言い換えれば共同的、社会的存在としての人間という発想のもとに発達が考えられている。浜田さんはワロンは難しいと断りながらも、「人間はその脳そのものにおいて社会的であるという過激な言い方が、私には面白く感じられた」と書いています。いまでこそ「医学モデルから社会モデルへ」という言葉が流布し、人は社会や人との関係においてこそ育つ、という考え方は当然のように受け止められていますが、当時はそうではありませんでした。私には新鮮で、とても重要な指摘でした。子どもの育ちや障害について考えるときに、ここで教えられた発想は大前提になりました。

子どもの「全体性」という着眼

発達とは共同的なものであり、子どもが共同存在であるならば、ではどこにどう留意して子どもをとらえたらよいのか。

「子どもは、いかなる子どももみな、ひとつの全体です。しかも、ひとつの個体として全体的だというにとどまらず、子どもが周囲の人や物や場や時ととりむすぶ関係の系のすべてを含めて、ひとつの全体だと言わねばなりません。ですから、子どもが背負うた障害をみつめようとするとき、そこだけをとり出してみることはできず、ひとつをとり出せば、必然的に他のもろもろが一緒に絡み合って引きずり出されてくるのです」(『子どもの生活世界の始まり』はじめにより)

障害という言葉が出てきているので、私なりの説明を加えてみます。たとえば私は「障害」や「障害者」という言葉を使うとき、じつはためらいを感じながら使っています(これまで散々「障害のある先生」と書いてきたのに、いまさら何を言うかというようなものですが)。「障害」はその人の全体ではありません。特性の一つです。これまで紹介してきた三戸学さんを例にさせてもらうならば、身体の「障害」は三戸さんの全体ではありません。私の知る限りでも、熱心な数学教師であり、スポーツが好きで、指導者としても自身が選手であるという面においても強い向上心を持っています。負けず嫌いで努力家のようでもあります。またフェイスブックを見ると(無断でバラシてしまいますが)、おいしいものに目がなく、あちこちに出かけて行っては〝栄養補給〟をしています。ほかにももっとたくさんの三戸学さんがいるはずですが、「障害者」と名指すことでその全体が消え、「障害」だけが三戸さんのすべてであるかのような印象を作りあげてしまいます。言うまでもないことですが、大事なのは三戸さんの「障害」ではなく、三戸さんというその人です。

私は教員になった当初から、次のようなことが不思議でした。学校に一緒にいるときには、その子の「障害」は全体の中に溶け込んでいます。ダウン症も自閉症も知的障害もことさら意識には上らず、A君ならただのA君、B君ならただのB君、そんな存在としてかかわっています。ダウン症や自閉症や知的障害という特性をことさら意識する必要のないまま、その日の交流は終わっていきます。しかし、これは不思議でもなんでもなく、人と人とがかかわるということはそういうことなのだ、「障害」だけを見ているわけではない、その子(人)という全体見ているのだということに、先の引用から気づかされていったのです。

ところで、子どもの全体をみるという着眼は、私自身のオリジナルな考えだといつの間にか思いなしていて、そのようにある本に書いたことがあります。ところが、今回浜田さんの本を読み直してちょっとびっくりしました。浜田さんが書いたことが頭に入っていて、それをいつの間にか自分の発見のように考えていたわけです。他にも似たような経験はありますが、いかに私がいろいろな人の影響のうえで成り立っているか、改めて知らされた気がします。ももの書きにあって、もちろん先生にあっても、まったくオリジナルな存在など存在しません。いろいろな人の影響を受けながらその人の個性は出来上がっていくのであって、それもまた人が共同存在であればこそです。

感情が通じ合うとはどういう体験か

三つ目は、子どもとやり取りをすること、コミュニケーションについてです。特別支援学校に通ってくる子には、言葉のない子、会話でのやり取りが難しい子が少なくありません。当時、私がとても不思議に感じていたことの\一つは、言葉のない子たちとも交流ができている(と感じられる)が、それはなぜなのか、コミュニケーションが成り立っていると思えるのはどうしてなのか、というそのことでした。もちろんこちらからは機会あるごとに話しかけるわけですが、答えが言葉で返ってくるわけではありません。頷いたり、首を横に振ったり、いやだと座り込んだり、身振り手振りで答えてくれる子もいますが、それをしない子もいます。それでも〝何かが伝わっている〟という感覚が、間違いなくあるのです。このことが不思議でした。そのときの私は、コミュニケーションは言葉(だけ)でするものである、言葉がなければ成立しない、そう強く思い込んでいたわけです。

言葉のない子とでも通じ合うことができる、逆に双方が言葉をいくら重ねても、いっこうに通じ合わず、どんどん離れていくばかりだというコミュニケーションもある。一体コミュニケーションとなにか、言葉が伝わるとはどういうことかという問いが、しばらくの間、私の宿題になりました。浜田さんはコミュニケーションについて、次のように書いています。

「このようにみてきますと、言葉が通じる、あるいは通じる言葉が獲得されるということの背景には、先にH君について見た《話し手‐聞き手》の共有状況があることが分かります。つまり、言葉が通じること、そして、その通じる言葉が出てくることの大前提として、人と人とが何かを共有する、つまり人と人とが通じ合うということが必要なのです。(略)むしろ、人と人とが通じ合っているからこそ言葉が通じ合うのだと言わねばなりません」(同前)

言葉を話すというそのことが、交流が成り立たせるわけではない。何かを共有するという状況が、話し手と聞き手の双方にあるかどうか。そういう状況をつくることができれば、言葉の有無にかかわらず交流は成立するというそのことを、この引用は教えてくれます。言葉やコミュニケーションに対する私の考え方が、このとき大きく変わりました。以来、子どもとのかかわりにおいてまずなすべきことは、何かを共有する(できる)状況をどう作っていくか。それが子どもたちを前にしたときの私の基本的な構えになりました。

こんなふうにして、育ちとはなにか、子どもをとらえるときに留意すべきはなにか、かかわるときに大切にすべきことはなにか。浜田さんの本を読みながら、特別支援学校の教員としての基本的な在り方を学んでいった。そのことが今回の再読で思い返されたのでした。

「ともに引き受ける」ことと「合理的配慮」

最後に、もう一つ引きましょう。私が支援者(教師)として、とても重要だと考えている(きた)ことを、浜田さんはズバリ、次のように指摘しています。

「はたして「障害」ゆえに、彼らが自分の現実を見すえ、自分の力が現実とぶつかる機会を奪われているということがなかっただろうか。そう問いたいのです。「障害」をともに引きうけ、共同の生活世界を作りあげていくという私たちの理念は、「障害」者をひたすら現実の世界の苦難から守ってやることではないはずです。現実的には何らかの「介助」なり「配慮」を要する人たちではあるのですが、この私たちの「介助」とか「配慮」という営みが、彼らを現実から遠ざけることになってしまうとすれば、いったい何のための「介助」か分からなくなってしまいます。「介助」とは、「障害」をもつ人たちを現実生活につなげる「介助」であるはずなのですから」(『「私」というもののなりたち』ミネルヴァ書房・一九九二年)

支援や介助、配慮は、支援者による囲い込みではない。やみくもに支援すればよいというものではない。主役は支援者や介助者ではなく、あくまでも彼ら自身である。そういう当たり前のことが、支援者にとって、ときに忘れられがちになることへ注意を促している一節です。支援には、どうしてもそういう落とし穴があります。

ただ、当時の私は、少しばかりアレンジして受け止めた記憶があります。そのころ、「教育」という営みや「教師―子ども」という関係の非対称性がどうしても持ってしまう権威性や権力性というものが、少なからず気にかかっていたときでした。どうしたらそれを解きほぐすことができるか。そんなことを考えていたような気がします(イヴァン・イリッチの『脱学校の社会』をはじめとする脱学校論が、ちょっとしたブームになっていた時期でもあり、そんな影響もあったのでしょう)。この引用は、そのことに対する自戒として、少しばかり自分流に読み替えていったのでした。

ともあれここでは、支援や配慮が生活世界や社会の中で一定の役割を果たそうとするとき、どんな事態が生じかねないか。それを避けるためには、支援者の側はどこに留意しなければならないか。その点についての浜田さんなりの見解が述べられています。最後になぜこの件を引用したのか、その理由はすでにお分かりかと思いますが、いうまでもなく三戸学さんのことを念頭に置いています。

これまで私は、三戸さんになされている「合理的配慮」について、しつこいほど苦言を呈してきました。それがどうしてなのか、その理由が、端的にここに書かれています。月に3万円以上もの交通費の自己負担を強いる異動のあり方について、また20年にわたって、学級担任をもちたいという希望が果たせずにいるという事実について、その改善を求めているにもかかわらず、いずれも「合理的配慮」の名のもとに退けられてきました。三戸さんの望む現実を遠ざけ、むしろ希望を断ってしまうような「合理的配慮」を、ほんとうに「合理的配慮」と呼んでいいのかどうか。

また浜田さんは、この引用の少し前で、「障害」は克服するという問題である以上に、「引きうけ方の問題」なのだと書いた後、次のように続けています。

「そこで「引きうける」というとき、それが「障害者」個人が引き受けるだけではなく、周囲の人間が「ともに」これをどう引きうけていくのかということでもあるはずです」

その通りだと思います。三戸さんは、自分の「障害」を真正面から引き受け、自分にとってのよりよい生活を実現しようとしています。そのために県教育委員会という大きな組織を相手に、訴えを起こしているわけです。そんな三戸さんと「ともに」、周囲の人たちもそれを「引き受け」ようとしているだろうか。浜田さんの書いていることをここでの文脈に引き寄せるならば、そんなふうに問われていると読むことができます。

この指摘は、三戸さんだけにとどまらない問題のはずです。もう一度引用します。「周囲の人間が「ともに」これをどう引きうけていくのかということ」であるならば、「ともに」なされる「引き受け」が、「合理的配慮」という言葉には含まれているのではないか。むしろ含まれていると考えるべきなのではないか。同義反復のようになりますが、なぜ「ともに引き受ける」必要があるのかと言えば、人が社会的存在・共同存在であるからです。「合理的配慮」という言葉のポイントは、どうもこのあたりにありそうです。浜田さんへのインタビューの準備をしながら、こんなことを私は考えたのでした。

教職課程 2021年1月号 (合格者が語る! 教員採用試験突破術)
教職課程 2021年1月号 (合格者が語る! 教員採用試験突破術)

飢餓陣営52号 コンテンツ


飢餓陣営52 二〇二〇年冬 増頁特大号(総頁 約350) 定価1,500円+税

・佐藤和彩■フォト
・宮尾節子■重度の神
・二木志保■回文 沖縄・コロナ 二〇二〇・七・二九~八・二九
・木村和史■家をつくる(15)

●ロングインタビュー(第一部)
・笠井潔氏に聞く■「例外社会」とはなにか
           ――「世界戦争」から二一世紀「世界内戦」の時代へ

●詩と思想の本を読む19
・水島英己■「沖縄」への思い(3)‐目取真俊『ヤンバルの深き森と海より』を読む
・季村敏夫■活弁士の詩文‐季村敏夫編『カツベン 詩村映二詩文』(みずのわ出版)
・鳥居万由実■現場に分け入り格闘を浮き彫りにする。
――宗近真一郎『詩は戦っている。誰もそれを知らない』(書肆山田)
・青木由弥子■全体性の詩学へ‐『ゴースト・ポエティカ』(響文社)を読む
・浦上真二■吉本隆明と『マルクス・エンゲルス農業論集』

【特集】コロナ・やまゆり園・生権力--―-―-―

●ロングインタビュー
・笠井潔氏に聞く(第二部)■戦後社会をどうとらえるか
          ――戦後社会の欺瞞と「本土決戦」/「没落する中流」と暴力化の問題 
・小松美彦氏に聞く(第一部)■相模原障害者殺傷事件を考えるために            
        ――ナチス・ドイツの優生思想/生命倫理学とどこで出会ったか

・渡辺一史(特別寄稿)■植松聖のナックルボール

●時評‐いのちの選別と陰謀史観
・本田徹■コロナ禍といのちの選別‐嘱託殺人、津久井やまゆり園事件、不知火海いのちの祀り
・西脇慧■はたして「大量殺人者予防ワクチン」は可能か

●村瀬学「北海道横超忌〈講演〉録」を読む
・瀬尾育生■感想の連鎖
     村瀬学さんの紙上講演「風を訪ねるものはもういなくなったのか」を読んで
・添田馨■耳の目覚めとアダージオな風の歌‐コロナカ禍で読む「日時計篇」の言葉たち
・宗近真一郎■「風」はどこに召喚されるのか
         ――村瀬学〈講演〉録からコロナ問題に接近する
・村瀬学+佐藤幹夫(往復メール)■やまゆり園事件とウィルス感染が交差するところ
    佐藤より村瀬さんへ▼ウィルスと観念が「うつる」ということ
    村瀬さんより佐藤へ▼1「共同の意志」にとりつく植松聖 2「交わり」と「侵入」
    ――津久井やまゆり園事件と新型コロナウィルス感染の接点を考えて

・浜田寿美男氏に聞く■やまゆり園裁判の問題点をめぐって
         ――「行動は是認できないが、動機は了解できる」?

●児玉真美『殺す親 殺させられる親』(生活書院)を読みながら
・滝川一廣■『殺す親 殺させられる親』を読む‐アシュリー事件を中心に
・横田泉■児玉真美著『殺す親 殺させられる親』を通して相模原事件を考える

●津久井やまゆり園事件と報道
・メディアは何を伝え、何を伝えられなかったか
  ■野口恵里花(読売新聞)+石川泰大(神奈川新聞)+太田泉生(朝日新聞)
   杉浦幹(司会)+平野泰史(やまゆり園元保護者)
・澤則雄氏に聞く■フィルム『生きるのに理由はいるの?』を制作して

●当事者と支援者
・佐々木信行■2020・1 「やまゆり」さいばんがはじまって
・千田好夫■死刑に反対する――「共に生きる」に例外はない
・山崎幸子さん■津久井やまゆり園裁判傍聴記(第一回公判)
・太田顕さん■津久井やまゆり園裁判傍聴記(第十一回公判)

●「津久井やまゆり園事件」を論じる
・西角純志■津久井やまゆり園事件の「本質」はどこにあるか
・脇田愉司■「津久井やまゆり園事件」と「障害・障害学」

●支援と事件の本を読む
・神戸金史■命を奪われたのは誰なのか‐神奈川新聞社『やまゆり園事件』(幻冬舎)を読む
・内海新祐■それは、どうしたって闘いだろう‐熊谷晋一郎『当事者研究』を読む
・佐川眞太郎■私に宿る加害者性
  ――雨宮処凛『相模原事件裁判傍聴記』『この国の不寛容の果てに』(大月書店)を読む
・平岡祐二■多くの問題が提起されている
  ――堀利和編著『私たちは津久井やまゆり園事件の「何」を裁くべきか』を読んで

・佐藤幹夫■津久井やまゆり園「優生テロ」事件
       ――戦争と福祉と優生思想

〔編集後記〕規律・訓練型権力(生権力)とコロナパンデミック

福祉の「恩恵」ではなく、不合理の「是正」を (第26回)

〝教育〟はどこに届くのか(第26回)

三戸学さんが提出した「最終陳述書」から

 前回は車椅子の中学校教師、三戸学さんの「第1回口頭審理調書」を読み、率直な感想を書かせてもらいました。その後、さらに動きがあり、口頭審理から2か月近くを経た9月24日、秋田県人事委員会に「最終陳述書」を提出したという報告を三戸さんよりいただきました。手短に紹介してみます。

 三戸さんは次の3点を秋田県教育委員会(県教委)に要求しています。

(1)前回の異動命令は、合理的配慮を欠いたものである。これは障害者差別であって、身体的・心理的苦痛を受けており、その点について謝罪を求める。
(2)今後は異動の条件(交通手段、居住条件など)を整えたうえでの移動となるよう、確約してほしい。
(3)タクシー利用に対しての交通費支給となったが、それでも2万8千円の自己負担であり、この速やかな是正を求める。

 以上のようなものですが、これまでほとんど使うことのなかった障害者「差別」という言葉を使い、自分が受けた心身の苦痛に対して「謝罪」を求めています。「確約」という言葉で要求を示すなど、以前よりも、踏み込んだ要求になっていると感じました。

 次に、口頭審理の際の証人の答えに感じた課題を指摘していますが、大まかにまとめるならば次のようになります。
管理職による通勤支援を受ける身に証人自身がなったときどう感じるかをたずねたが、明確な答えはなかった。これは自身が返答に困るような通勤方法を、自分(三戸さん)にさせていたことにならないか。腰痛等の不都合を訴えても検討されなかった。さらに説明がないまま、当初の
「ボランティア」から「公務」に切り替えられていたが、それは適切だったのか。こうした通勤支援は、ほかの障害のある教職員にも適応されるのか尋ねたが、明確な回答はなかった。これでは、自分に対する対応はその場しのぎのものだったのではないかと考えざるを得ない。

 またこの支援方法が踏襲され、同僚の教員が公務として通勤支援にあたった場合、過度の負担となることが危惧されるが、それでよいのか。三戸さんの補助にあたる加配教員の有無が勤務する学校によって異なっているが、これでは合理的配慮の理解が学校によって変わってしまうことになるのではないか。そして20年間、学級担任の希望を斥けられてきたが、それは「法令等には明白に違背していない」が、2019年に文科省が策定した「教育委員会における障害者雇用推進プラン」には違背しているのではないか。

 概略、これらの点を課題として指摘していました。つまりは、合理的配慮として示されてきた対応は、合理的配慮とは呼べないものではないかということが含意されています。

これまで以上に踏み込んで発せられた問いかけ

 そして以上を踏まえたうえで、秋田県教育委員会へ質問が8点出されています。一つひとつは取り出しませんが、主だったことだけ書けば、次のようになります。障害者差別の解消にとって必要な研修を受けていないが、秋田県で実施した研修・啓発の取り組み状況を教えてほしいこと。文科省の「障害者雇用促進プラン」の内容を、全職員で共通理解することに必要性についてどう考えるか。県内の障害のある教職員の勤務状況の変化について。まずはこうした問いかけがなされています。

 次の質問がとくに目を引いたのですが、八郎潟町の教育長が示した合理的配慮への理解について、それは間違いであるが、県教委はその理解に同意できるのか。自分(三戸さん)のケースを、「障害のある教員」に対する合理的理解がなされている好事例として全国に発信できるのか。合理的配慮をどのように考えているのか、とそのように問いかけています。

 私もまた、三戸さんの今回の申し立ては、秋田県という一地方のローカルな事態にとどまるものではなく、いまや全国の「障害のある先生」たちが注目している、と考えています。ともあれ、自分に対する処遇は大変に不合理なものであり、その是正を求めると真正面から主張を申し述べているのが、三戸さんの「最終意見陳述書」です。

 また、代理人の清水建夫弁護士も10点にわたって意見陳述をしていますが、そのなかでひときわ目立つのが、八郎潟町教育長の「偏見」に対して強く糾弾している点です。教育長は次のように述べていました。……この地域は教育に異常なほど敏感で、すぐに苦情を訴える、そのクレームが三戸教諭に及ばないように多くの合理的配慮をしながら支援してきた……。つまりはクレームが及ばないよう担任をもたせないようにすることを、三戸さんに合理的配慮として示してきた、という見解です。

 清水弁護士もこの点を正面から突き、それは障害者への「偏見」であり、「差別」だと批判しています。少し口を挟ませてもらうならば、まず、障害をもつ教師に対し住民は苦情を殺到させかねないという発言は、地域住民は差別感情をいだいているのだと暗に伝えていることになり、それは失礼な発言ではないでしょうか。仮にそのような地域だとしても、困難を乗り越えられるように全面的にバックアップしていきますよ、ということでなされる支援が、私が考える「合理的配慮」です。困難があってそれはあなたには無理だからその仕事には付けさせません、というのは排除の論理です。担任は無理だという理由は、「障害があるから」というもので、それ以外にはありません。これでは障害者差別だと批判されても弁解のしようがないものです。

 前回同様の批判を繰り返していますが、個人的に糾弾したいのではありません。公職にあり、かつ組織の上層にいる人が、言い換えればそれなりの影響力を持つ人が、「障害」や「障害者」に対してどのような理解を有しているか、かなり厳しく問われる時代になっていることを強く感じます。自戒を込めて書くのですが、そこでなされる合理的配慮が、じつは「上から目線」のものになっていないか、「お情け」をかけていると言わんばかりのものだとなっていないか。そこまで時代の感度は上がっているのだということを、改めて感じます。

 秋田県教育委員会からの「最終意見陳述書」もありますが、こちらは、これまでの見解をそのままなぞったものにすぎません。立場上、簡単に撤回はできないだろうことは理解できますが、県教委は、自分たちの言い分が認められたか、認められなかったかというだけではなく、三戸さんにとっても、何らかの納得が生じるような見解を示していただきたいものだと強く念願します。

理念を空洞化させないために

 ところで、前回私は、教育委員会は教員を志望する「障害のある人たち」に門戸を開いているようでいて、じつは、ハードルを上げたままにしているのではないか、と書きました。そして、学校のもつある種の閉鎖性、身内意識を批判しました。例証として久米祐子さんという方のエッセイを引いたのですが、そこでは、教育委員会の実雇用率が低いのは、雇用に至らないための様々なハードルが存在するのだと書かれていました。

 推測するなら、3年に1回の異動命令や、担任をもった経験がないという三戸さんの訴えの奥には、はっきりと表れてはいないけれども、周りに高いハードルがあって、それが自分を拒んでいる、何度挑んでも打破することができない、そうした強い不全感があると私には推測されるのです。どうしたら少しでもこれを打ち破ることができるでしょうか。

 このコーナーの第19回(2020年5月号)に、特別支援の名のもとで子どもたちの排除や分断が行われている実情を報告しました。私の理解する限りでは、特別支援教育の当初の導入の目的は、どの子も通常の学級で、他の子どもたちと同じように学習の機会を保障するということが目指されたはずでした。教育における社会的包摂(インクルーシブ)が目的とされたはずでした。

 そしてユニバーサルという考え方が、いつのまにか学校スタンダードというものに変質してしまっている現状も書きました。多様性へどうひらいていくかというユニバーサルの理念が、まったく逆に、画一性を押し進めるためのロジックに転用されてしまっていたのです。なぜこのように、社会的包摂もユニバーサルも、学校文化のなかに入ったとたん骨抜きにされ、空洞化してしまうのでしょうか。私がこの間指摘してきたのはこのことです。

 合理的配慮とは障害のある人だけになされているのではなく、いわゆる健常の私たちも様々なかたちで合理的配慮の恩恵を受けているのだと、法律用語としてはいささか逸脱したような見解もあえて示しました。私は法律には詳しくはないのですが、教育公務員であることには様々な義務と禁止を課せられながらも、その範囲において身分は保障されています。労働基準も定められています。有給休暇他、共済組合制度などによって服務に関する保障もなされています。こうしたことを、それは障害者にとっての合理的配慮に相当するだろうといいたかったわけです。

 今回、僭越にも三戸さんの学級担任や異動をめぐる問題に対し、教育委員会や教育長が示した見解に異論を唱えてきたのは、このことにかかわります。社会的包摂やユニバーサル、合理的配慮といった理念が、なぜ学校の中にあって空洞化し、絵に描いた餅になってしまうのか。生きた理念となるためには何が必要なのか。そのことを指摘したかったが故の批判でした。


「社会的障壁」はどうすれば解消できるか
 
 少し視点を変えてみます。

 中村雅也さんという方が、『障害教師論―インクルーシブ教育と教師支援の新たな射程』(学文社)という本を、2020年7月に上梓しました。中村さんは視覚障害をもちながら、高校、盲学校、肢体不自由養護学校などの教員を経て、現在ある大学で研究者としての道を歩んでいる学究です。「あとがき」を読むと、中村さんもまた先の久米祐子さん同様、教員採用の際、ある自治体の二次試験のあと、視力を再検査して診断書を再提出するよう求められたといいます。危惧とともに「低い視力が記された診断書を再提出したところ、採用試験の結果は不合格だった」と書いています。この本は学術書ですのでそれ以上の個人的な感情は洩らしてはいないのですが、やはり障害へのハードルを指摘する記述になっています。

 本書の全体を紹介する余裕はないのですが、かいつまんでいえば、教育政策と労働政策の歴史と現状、聞き書きと調査を通して分析されていく障害教員のライフヒストリー、そこから抽出される教員としての経験と意味づけ、その支援、といった点が主題化されています。いわば、「障害のある先生」をめぐる社会的問題と、個々人が遭遇する教師としての個別的・実存的課題を網羅するようにして本書は編まれています。
ここで紹介したいのは、第4章「障害者が教員になることを阻む社会的障壁」とタイトルされ、「阻む要因」として、次の点があげられていることです(中村さんの記述は視覚障害に焦点があてられています)。

 教員志望の動機として、障害教員が少数のため、障害のある児童・生徒にとってロールモデルとできる機会が少なく、それが教員志望の機会を制限している。教育実習に関しても、通常学校において障害のある実習生を受け入れる体制が不十分であり、排除されやすい構造がある。採用試験において、時代とともに改善されてきてはいるが、自治体によって対応が異なり、適切な試験方法が提供されていない例がいまだみられる。臨時講師として教育現場に参入しにくい状況があり、そのことが採用試験の合格から遠ざけている。おおむね、こうした点を挙げています。これらが社会的障壁となっており、その解消が急務であることを訴えるというのが第4章の主調音です。

 私が指摘してきたことは、空洞化する理念、という学校のなかの「見えざる障壁」とでもいうべきものでした。中村さんはそれに対し、制度や仕組みとそれを取り巻く現状というように、社会的障壁をより客観性のある、広い観点から取り出して指摘したものです。

 さて、問題はこの先です。様々な社会的障壁があり、それを解消するためにはどういう具体的なステップを踏んでいくことが求められるのか。通常学校において、視覚や聴覚や身体に障害のある実習生を受け入れるための合理的配慮とはどんなものか。採用試験にあたってはどうか。非常勤講師としてなかなか任用されないのはなぜか。どうすればそれは可能になっていくのか。その具体的な提言が中村さんにとっての、もちろん私にとっても、次の課題になるだろうと思います。

「言葉のユニバーサルデザイン」について
 
 もう一つ、次のことを指摘したいと思います。

 私の問題意識に引き寄せた読みになってしまうのですが、三戸さんの社会的アピールと中村さんの『障害教師論』から受け取った共通のメッセージについてです。それは二人とも自分の言葉で、自分の考えることを、明確な意図や目的をもって発信しているというそのことです。
自分のことを、自分の言葉で発信するなど当たり前だと思われるかもしれませんが、障害をもつ人がそうやって社会に発信することの重要さが広く認識されたのは、この10年の間のことです。「当事者」や「意思決定」という言葉がある危うさをはらみながらも、とりあえずは当たり前のこととして流布するようになっています。

 しかしここに至りつくまでには、70年代の当事者運動から始まり、2000年代の「浦河べてるの家」の当事者研究を経てここに至ったという、長い歴史があります。なぜそれほどの時間を要したのか。そこでの訴えが、障害者(病者)という「弱者(マイノリティ)」であるゆえに、福祉の恩恵や同情・哀れみを求めているのではない、人として当然の生活と尊厳を求めているのだというそのことに、私たちが気づくまでに要した時間でした。

 熊谷晋一郎さんが(彼もまた脳性まひを持ちながら、小児科医として、あるいは研究者として一線で活躍している人です)、「言葉のユニバーサルデザイン」という言い方で、次のように書いています。

 「当事者研究は、少数派同士が、自分の体験の中で繰り返されていたり、互いの体験の中で繰り返されたりしているパターンを発見し、そこに新しい言葉をあてはめていくことで、「言葉のユニバーサルデザイン」を実現する実践ともいえるだろう」(強調は原文。熊谷『当事者研究―等身大の〈わたし〉の発見と回復』岩波書店・2020年7月)

 まずは自分の言葉で、自分のことを発信すること。そのことによって、障害をもつ人だけではなく誰にとっても理解され、そこでの訴え(言葉)が受け入れられるようなものとして社会を変容させる試み。そのような言葉をつかむこと。そうした意図を込めて、「言葉のユニバーサルデザイン」と言われているのだと受け止めてよいでしょう。

 三戸さんも中村さんも、「弱者」や「同情されるべき人」として、福祉の「恩恵」を求めているのではありません。自分の目の前にある不合理に対し、一人の確固たる教師として、一人の学問研究に専心する学究として、どうすればそれが是正できるのかと発信しています。くり返しますが、求めているのは福祉の「恩恵」ではなく、不合理の「是正」です。重要なことは、一方がもう一方への、価値の押し付けではありありません。双方の変容です。つまりはユニバーサルな訴えへとつながるものです。

 二人が投げかけているボールをどう受け止めるのか。そしてどんなふうに返すのか。私たちが問われている番なのだと思います。

教職課程 2020年 12 月号 [雑誌]
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(第25回)異動理由と「合理的配慮」をめぐる論理は破綻していないか


教員の実雇用率が低い理由

「障害のある先生」と打ち込んでインターネット検索をしていたら、次のような「エッセイ」を見つけました。タイトルは「障害者が教員免許を持っていないのではない――教育委員会の実雇用率が低い理由」
https://www.dpi-japan.org/friend/restrict/essay/essay0110.html
初出は「障害者欠格条項をなくす会ニュースレター52号」)。

執筆者は久米祐子さんという脳性まひのある教員の方です。執筆時期は2011年11月。以前紹介した「障教ネット」の「準備会会員」とあり、三戸学さんに尋ねると、この時期一緒に準備会の活動をしていたといいます。昭和34年生まれと記載されていますから、おそらく「障害のある先生」のなかでも草分け的な存在だろうと思います。

内容をかいつまんで紹介するならば、ご自身の生い立ちから始まり、教員をめざしたのは、母親が「教師にしたい」と考えたことが最初のきっかけだったこと。教育大学に入学するが、そこで出会った障害当事者の先輩たちがぶつかっている様々な難題と、現実の厳しさ。

そんななか、久米さんは教員免許状を取得して卒業、3回目の採用試験で晴れて合格するのですが、受験前に結婚し合格の前年に出産しています。配偶者や家族は、子どもを育てることだけでも大変なのにその上に教員など務まるわけはない、と受験そのものに大反対。しかし本人は「わたしは結婚や子どもがいるくらいでは、教師になるのを諦める理由にはならないと思っていた」とさらりと書いています。このあたりが〝草分け〟と呼ばれる人たちのすごいところです。色々と紹介したいことはあるのですが、この程度にとどめ、次が本題になります。

なぜわたし(久米さん)がこのような文章を書いているか。「障害者が教師になることへの有言無言のいやがらせ・妨害があるのを知ってもらいたかった」からだ。2007年、厚労省は、教育現場で障害者雇用の達成率があまりに低いと新聞報道されたことを受け、都道府県と政令都市の教育委員会に雇用を改善するよう勧告を出します。文科省はこのとき「雇用率が低いのは教員免許を持っている障害者が少ないためだ」と答えたと言いますが、久米さんは「これは大きな間違いである」と一刀両断します。「障害者が受験しても障害があることを理由に不合格としてきた長い歴史」を伏せ、障害者側の理由に「すり替えている」と。

この訴えがエッセイの主題です。「教員免許を持っている障害者は法定雇用率を満たす程度にはいる」のだが、「不合格として採用してこなかった事実」が「『既成事実』として定着」し、「採用試験の受験すらあきらめさせるような「親切な」助言などになって横行し、それを聞いて断念した障害者が圧倒的に多い」と、手厳しく指摘しています。たとえば、教員免許状取得の際に「健康診断書」の提出が義務付けられているが、大学の一括提出ではなく個人提出の場合、「身体的障害の有無」を目の前で医師に記入してもらわなければならない。医師はどう判断するか迷い、久米さんは、受験のたびに医師を説得しなくてはならなかったと書きます。

「これでは、説得する方法が分からない人〔障害者‐佐藤註〕は「教師になるのは無理だ」と教員免許を取得する段階で断念するケースもあるという事実も存在する」。教員免許状をもつ障害者が少ないのではなく、文科省や教育委員会が「教員免許を、障害者にとらせにくくしてきた」し、持っていても採用してこなかったのが実情である。そう主張しています。

データなどの裏が欲しいところではありますが、ともあれさもありなん、先駆者の証言としてたいへん貴重だとわたしは思います。こんな昔のことをいまさら持ち出してどうしようというのか、文科省も教育委員会も障害者の人権に配慮した取り組みを進めているさなかではないか。そのように感じるでしょうか。

これを取り上げたのは、〝草分け的存在〟の並大抵ではない努力を記憶しておきたいと考えたことが一つです。もう一つは、文字起こしされた三戸さんの「第1回口頭審理調書」を読んだことに関連します。

三戸さんの「口頭審理書」を読んで


前回は三戸さんのインタビューを踏まえ、口頭審理の様子をレポートしました。前回も、そしてそれ以前もそうだったのですが、わたしは自分の見解をさしはさむことを控えてきました。係争中だからという理由もありますが、それ以上に、わたしの不用意な発言が三戸さんに迷惑を及ぼすことを恐れていたからでした。

しかし今回は「口頭審理調書」を読んで、そこでの感想を率直に書いてみたいと、そう決めました。その引き金となったのが「口頭審理書」とともに、先ほどの久米さんのエッセイです。これから批判めいたことを書き進めていくことになりますが、個人攻撃の意図はありませんので、個人名は伏せます。もう一つ、これはあくまでもわたし(佐藤)個人の自由意思によってなされる見解です。

結論めいたことを先に述べてしまえば、秋田県教育委員会(県教委)によって異動を命じる「合理的理由」とされているものが、はたして合理的な理由となっているかどうか疑問を感じざるを得ないということです。もっと率直に言ってしまえば、それらは破綻しているとわたしには感じられます。

異動を命じる理由の一つが、次年度より校舎改修工事が始まり、三戸さんが移動手段として使用していたエレベーターがストップすること、資材などが廊下に置かれることになり安全性が危惧されること、としていました。しかし三戸さんの証言によれば、前任校の職員に尋ね、エレベーターが止まった事実はないと確認をしています。廊下に置かれた資材も隅にきちんと片付けられていて、「三戸さんが電動車いすで移動する際も困ることはないと思う」と話していたともいいます。

三戸さんは20年におよぶ電動車いすのユーザーです。初心者ならばまだしも、その扱いには熟練しているはずです。身体論などを持ち出すまでもなく、慣れ親しんだ機器は「身体」と同一化し、「身体」感覚を拡張させます。野球選手にとってのバットやグローブは、熟練すればするほど手足と同様の「感覚」をもたらすはずですし、ドライバーならば愛車が身体と一体化している感覚は理解されるはずです。もう一つ、安全性について、三戸さんはとても的確なことを述べていました。「資材があちこちに置いてあることが、あなたにとって危険な環境だと感じられますか」と、代理人の清水建夫弁護士に問われたとき、それは考えられないと言い、理由を「まずそこに生活する子どもたちがいるわけで、わたしが安全でない場所は、子どもたちにとっても安全でない場所であると認識しているので、その資材が職務上、何か不便を被るということはないはずですし、ないと考えていました」と答えていました。これ以上ない的確な正論です。

つまりは、事実が裏付けていない、三戸さんの車いす使用に関しても実状と解離している、「学校の安全性」という観点からみても合理性はない。以上の点を考えれば、改修工事が始まるために安全性へ配慮した、それが異動の理由であり「合理的配慮」である、とするロジックは成り立たっていないと思います。

教科指導と部活指導という三戸さんの自負を、なぜ損なう選択をするのか

もう一つ、近隣地域の学校における数学という担当教科のバランスを考慮した異動だとも証人(教育事務所長)は述べていました。わたしは「口頭審理調書」を読んで次の事実を初めて知ったのですが、平成29年度と30年度、前任校では2年生の数学を担当していたといいます。数学の担当は各学年1名。2年生の数学担当は三戸さんのみです。家庭に配布していた校報に「県の学習状況の調査のお知らせ」というコーナーがあり、三戸さんは2年間とも県の平均点を上回っていたと言います。教科の指導について、そこは自分にとって一般の先生たちと対等に競えるところである、だから努力するのだと繰り返していました。いわば三戸さんの自負とアイデンティティを支えている重要なポイントです。

人事は教育委員会の専権事項であり、内情などは絶対に外には出さないでしょうから、以下はわたしの推測になります。と言っても、とても単純なことです。きちんと実績を上げている数学の教科担任を(数学は受験にとって重要科目だということは認識されているはずです)、3年間の期限が来たからといって簡単に手放すということは、ちょっと考えにくいところです。しかも20年間の間、3年年ごとに異動をくり返しており、それがレアケースであることを証人は認めています。一教員の自負を損なってまで、なぜそんなことをする必要があるのか。むしろ不合理な判断です。

あまり強調すると、子どもたちに対する点数至上主義や、教員の能力主義を推奨してしまうことになりかねないのですが、きちんと結果を残している教員はできるだけ手放したくないというのは、通常働く管理者(校長)の心理ではないかと思います(わたしの場合は特別支援学校でしたが、「力のある教員をできるだけ多く集めたい、それが自分の校長としての仕事だ」という趣旨の発言を聞いたのは、非公式の場ではありましたが、一度や二度ではありませんでした。ここでは書きませんが、プライベートなことを含めてその他諸々、「なるほど。校長というのは人事についてこういう思考をするのか」と思ってきました。その経験則がここでの推測の根拠です)。

また以前報告していますが、前任校では三戸さんは卓球部の顧問としても好成績を上げ、保護者の信頼を得ていました。中学校において部活指導に実績をもつことは教員にとってのセールスポイントにこそなれ、積極的に手放さなくてはならない理由とはなりにくい。教科指導にあっても部活指導にあっても、前年度以上の結果を残せるよう条件整備、環境整備に努める、というのが管理者がする「合理的配慮」でしょう。したがってここでの異動理由も説得力を欠く、とわたしには思われます。

三つめは居住環境。三戸さんは自宅で母親との二人暮らしです。自宅はもちろんバリアフリー。母親による生活面のサポートはとても貴重です。しかも前任校は自宅から近距離にあります。清水弁護士の、「障害をもっている三戸教諭が、実家を基本として勤務環境を選択する、それを推進するのが合理的配慮ではないか」と問いかけたのに対し、「勤務される学校の距離が近いほど、それは合理的配慮の部分にあたるかとは思います」と、証人は認めています。加えて、5万5千円のタクシー使用の交通費を認めてなお、月に2万から3万の自己負担が出るが、それは個人の自己負担の額としては高額であることも証人は認めています。繰り返しますが、よりよい環境整備を進めることを「合理的配慮」とこそ言え、より負担の大きい、悪条件への選択を進めることがなぜ「合理的配慮」と言えるのか。この点でも理解に苦しむロジックになっています。見てきたように、異動の理由とされているものはどれも「合理的配慮」とするにはとても無理がある、そう受け取らざるを得ないものです。

「地域特性を配慮した」というロジックの含意するもの

もう一つ、次の事実も「口頭審理調書」を読んで初めて知りました。前任校を管轄する町の教育長が、次のような発言をしていたと言います。「この地域は学校教育に関して異常なほど敏感で、何かあるとすぐさま苦情を訴えに来るという地域性を持っている町であります。本教育委員会としては、保護者のクレームが三戸教諭に及ばないようにと、今まで多くの合理的配慮をしながら学校と連携しながら支援してきております」。したがってこの町で三戸教諭が勤務するのは適切ではない。そういう理屈です。

率直に書かせてもらいますが、これは合理的配慮に名を借りた差別発言ではないか、と指弾されても弁解のしようがない発言ではないか。そうわたしは感じました。三戸さんにクレームがくることが前提とされていますが、その理由は何でしょうか。三戸さんは、3年の間に全くクレームなどなかった、この発言の意味がよく分からないと答えていますが、「身体障害があるのだから、クレームがあって当然」ということが、この発言にはおのずと含意されているのではないか。わたしにはそう感じられます。これが理由の一つ目です。

二つ目は、かように「異常なほど敏感で、何かあるとすぐさま苦情を訴えに来る」のであれば、その対象となるのは三戸さんだけではないでしょう。学校という職場は色々な事情をもつ教員の集団です。親の介護をしながら働いている人、育児に追われながら働いている人、また心身に病気を抱えながら働いている人もいるはずです。様々な事情で有給休暇をフル活用しながら勤めている教員は少なくないはずです。休職‐復職をくり返しながら勤めている教員もおそらくはいるはずです。「異常なほど敏感」であるならば、そういう教員にも苦情は向けられるのではないでしょうか。なぜか三戸さん一人だけがここでの対象となり、異動の理由とされている。これが二つ目の理由です。

ここからは一般論ですが、久米さんのエッセイと言い、この教育長の発言をはじめとする県教委のロジックと言い、ここには共通点があります。多様な人たちを広く受け入れているようでいて、実はそこには様々なかたちでバリアをつくりあげている。そのバリアによって、教育を担う自分たちのメンバーにふさわしいかどうかを峻別している。自分たちにふさわしいメンバーは受け入れるけれども、そうではないと判断したときには、様々なバリアを駆使して、できるだけ峻拒しようとする。そういう体質を根深くもっていることを、改めて感じさせます。

2001年、大阪教育大学附属小学校に一人の男が乱入し、児童8人の命を奪い、教員を含む15人に重軽傷を負わせるという、とんでもない事件が起きました。学校の校門はその時以来頑丈に閉じられ、簡単には部外者を入れないようセキュリティ強化を努めるようになりました。しかしそれ以前の学校は、校門を常時開き、「地域に開かれた学校」というコンセプトのシンボルとなっていました。ところが、門が開いているからと言って、本当に地域住民に開いているかと言えばそうではありませんでした。「開かれた門」をくぐるためには、〝資格〟が必要だったのです。地元の自治会関係の役員、消防・警察の人たち、行政関係者、学校に出入りする業者etc。それ以外の、どこのだれかが分からないような人たちが一歩門をくぐろうものなら、教頭・教務、若手の男性教員がとんで行って、すぐに追い出しにかかりました。それが「地域に開かれた学校」の「開かれた門」の実状です。

2001年以来門は固く閉じられたので、もうこんな〝騒動〟は見られないでしょうが、学校現場というもののあり方をとてもよく示している、とわたしは強く感じてきました。久米さんが批判していたように、障害のある人たちになるべく教員免許を取らせないようにする、受験してもなるべく合格させないようにする。しかし一方では開かれた教育を自称し、宣伝文言とする。こういうダブルスタンダードは、文科省や教育委員会にあっても同様です。こうした体質は、どこまで変わったでしょうか。変わろうとしているでしょうか。

特別支援教育の名のもとで子どもたちの選別が行われている、という報告を紹介しました。ユニバーサルという考え方が学校スタンダードに見事に転用され、子どもたちや先生たちの一挙一動を縛っている、その縛りが年を追うごとに厳しくなっている、という報告もしました。合理的配慮の名のもとで、巧妙に排除を行おうとするという先ほどの例は、見事にここに連なるものでしょう。「合理的配慮」の内実は、それを受ける当事者にとって選択肢が増える、自己決定できる幅が増えるということに通じていく配慮のはずです。残念ながら、それとは逆のことが三戸さんに「合理的配慮」として伝えられています。ほかの選択肢が封じられているのです。

前回の取材の最後に、「たくさん報道で紹介されたようですが、周りの人たちから何か反応がありましたか」と尋ねると、「昨日〔8月4日〕、職場に行ったのですが、子どもたちが、先生、テレビ見たよとか、新聞読んだよ、と言ってくれました。なかに「先生のことを取り上げてくれてうれしかった」という言葉があって、わたしのほうもうれしくなりました」と答えました。自分が働きやすい状況を自分で作っていくことと、仲間の支えの大切さを強調しました。これは自分より大きな〝何か〟に立ち向かっていくときの鉄則だ、とわたしも思います。
 
9月下旬に、三戸さん側からの「最終陳述書」が提出され、年内には人事委員会の判断が示される予定だと言います。期して待ちたいと思います。
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(第24回)「障害のある先生」への合理的配慮・再考


テレビや新聞、そしてSNSでは、新型コロナに関連するニュースが溢れ返っています。東京、大阪、沖縄を中心に増加を続ける感染者数が毎日報じられ、出口は一向に見えません。重症者数や死者数が少ないというデータから、ここまで大騒ぎするような事態なのか、と疑問視する声も一部では報じられ始めています。また一方で、国は、何を、どうしようとしているのかがまったく見えない、そのことが国民の不安を大きくしている最大の原因だ、と不作為が厳しく非難されてもいます。

こんななかで、子どもたちの教育がこれからどうなっていくのでしょうか。学校現場では、学びの機会をどう確保するか、苦慮を重ねながら試行錯誤をしていると報じられます。また、教員の採用試験をめぐっても、わたしなどには想像のつかない〝想定外〟の事態に直面するかもしれません。教育実習がどんなふうにして行われるのか。学習指導案ひとつ書くのでも、微妙に変わってくるのではないか。そうしたあれこれが、わたしにははかり難いところがあります。

このコーナーではこれまで、学習指導要領の改訂と教育改革の問題、ITと学力の問題、忙しすぎる学校現場、働き方改革について、千葉県野田市での小4女児の死亡事件、障害のある先生と働き方支援について、といったテーマを取り上げてきました。
今回は改めて、「障害のある先生」をめぐる問題について考えてみたいと思います。

「車椅子の先生」、三戸学さんとの出会い

登場していただくのは、秋田県の中学校で数学の教師を務める三戸学さん。今年で20年目になるベテランです。三戸さんには先天性の脳性麻痺があり、車椅子を移動手段としています。わたしが三戸さんを知るきっかけとなったのは、2019年6月18日付の一つの新聞記事でした。

昨年(2019年)4月、三戸さんは現在の勤務校へ異動を命じられました。ところが、学校の近隣にはバリアフリー仕様の住居がありませんでした。自宅から通勤するためには、タクシー利用を余儀なくされます。往復で4,200円となり、一部しか通勤手当の対象とはなりません。そこで秋田県教育委員会(県教委)と学校は、同僚教員(主に教頭)の送迎ボランティアによる通勤を「提案」します。

ところが三戸さんは納得せず、異動の取り消しと交通費の支給を求めて、県の人事委員会に不服審査請求を出します。「障害者が不安なく働くことのできる環境を整えてほしい」というのが、三戸さんの訴えでした。記事を見た後、すぐに三戸さんにコンタクトを取り、この間、三戸さんの詳しい主張とその後の事実経過を追いかけてきました。

昨年8月、わたしは三戸さんの自宅に伺いました。そこで三戸さんは次のように述べていました。審査請求を訴えたときは、交通費の全額支給を認めてもらうことが重要な争点だった。しかしその後、れいわ新選組の木村英子さんと舩後靖彦さんという重度の障害をもつ両議員の登場によって、状況は大きく変わった。もはや自分(三戸さん)個人の問題である以上に、「障害のある教員」に対してどう公的に支援していくのか
という方向に問題がシフトし、全国的な関心を呼んでいる。――おおむね、こんなことを語っていました。

8月8日、県教委は、三戸さんの訴えに対して全面否認の答弁書を提出します。そして9月12日、三戸さんはそれに対する反論書を出しました。すると県教委は10月1日付で、次のような通達を県内の公立学校に出します。

市町村立学校職員にあって日常的に車椅子を利用しており、自力での通勤が難しい、公共交通機関の利用ができないなどの事実が認められた場合、タクシーを利用しての通勤を認める。そして55,000円を上限とする通勤費の支給を決定したというものでした。これで三戸さんの自己負担額は、大きく緩和されることになりました。三戸さんの代理人である清水建夫弁護士からは、「一歩前進である点は評価したい。今後の進展を注目していきたい」というコメントがありました。そして2020年8月3日に、口頭審理が公開で行われることが決定します。
 以上がこの間の経緯でした。

どんな口頭審理だったか――異動について

公開口頭審理が行われた8月3日、わたしは傍聴する予定でした。しかしこのコロナ禍のさなかに、「goto トラベル」などという信じがたいキャンペーンが強行された結果、全国で感染者数が激増しました。地方は、東京圏からの移動に対してとても神経質になっています。秋田の実家や友人たちに連絡を入れてみると、「帰省は控えたほうがいい」と明言され、傍聴はあきらめました。そこで8月5日、三戸さんにオンラインでの取材をお願いしました。以下はそのときの三戸さんの報告をわたし(佐藤)がまとめたものになります。

公開審理の当日、傍聴者は三戸さんの元同僚、福祉関係者、知人など秋田県在住の5名だったといいます。メディア関係では秋田さきがけ新報、共同通信、NHK秋田支局、AKTテレビ、読売新聞、河北新報など、県内の主要メディアのほとんどが顔を見せていました。やはり「働く障害者の支援や権利擁護」という三戸さんの訴えは、確実に広がりを見せているようです。

開始は1時半。答弁に応じたのは中央教育事務所の稲田修所長。稲田所長は、三戸さんの異動に当初からかかわってきた方でした。最初は清水建夫弁護士によって証人尋問がおこなわれ、次に処分者側(県教委)の主任代理人による反対尋問がありました。三戸さんも直接尋ねたかったことがあるというので、質問が認められました。三戸さんによれば、ほかにも証人申請を行っていたのですが、認められたのは稲田証人一人だけだったということでした。

最初の質問は異動の内示に関することでした。通常は1回の話し合いで決定するのですが、三戸さんの場合は1月に内々示がもたれ、2回目の2月18日に次の勤務校が内示として伝えられました。稲田所長はやや長めに準備期間を取ったといいます。清水弁護士が「1か月半の期間をとったことで、準備は十分に整いましたか」と尋ねると、稲田所長は「しっかりとは整っていなかった」と答えたといいます。

ここでの「準備」というのは、三戸さんの通勤方法についてです。三戸さんは通勤の方法がどうなるのか、納得できる説明を求めていました。「異動を拒むものではない、納得のいく通勤方法が示されないことには、応じたくても応じられない」、というのが三戸さんの主張でした。しかし2月の内示の時点では示されず、3月28日になって初めて、校長・教頭がボランティアで送迎する旨が伝えられました。

「稲田所長は、通勤に関する準備が整っていないことをはっきりと認めました。わたしのほうはびっくりしました」と、三戸さんは述べました。

8月8日の県教委による「答弁書」を見てみると、通勤方法に関しては県教委と校長・教頭が協議し、三戸さんと話し合いを重ね、双方で最善の結果を探っていった結果の判断である、三戸さん側も「同意した内容」であると、明記されています。三戸さんは同意してはおらず、この見解は対立しています。答弁書で示されている見解と稲田所長がここで述べた発言内容とは、若干の(しかし大きな)違いがあり、三戸さんの驚きはここに起因しています。

清水弁護士はさらに尋ねました。「通勤方法が整っていなかったのに、なぜ異動を命じたのですか。異動を命じる理由が何かあったのですか」。すると稲田所長からは「異動の命じる内容は学校管理者である町の教育委員会と、任命権者である県教育委員会の方針によって決めるものですから、この場でお答えすることはできません」という答えが返ってきました。

清水弁護士は続けて尋ねました。「異動の理由は0、前任中学校で校舎の改修工事が始まる。そのために三戸さんには不便をかけるから、ということで異動の対象になったのではないですか」。稲田所長が、「それも理由の一つであるけれど、それがすべてではない」と答えたので「他に何があるのですか」と重ねて訊いたところ、「それは先ほどと同じ理由で、この場ではお答えできません」と答え、次のように言ったといいます。「県の教育委員会の異動の方針は、中学校の場合は教科で地域間との調整をはかるということなので、三戸さんの場合も理由の一つはこれに該当すると受け止めています」

清水弁護士が次に「三戸教諭は20年間で6度異動し、5回の引越しをしている。こういう異動は、秋田県ではどれくらいの人がやっているんですか」と尋ねると、稲田所長は「とてもレアケースです」と答えました。「レアケースだということですが、どうしてそのレアなことを、障害をもっている人間がやらないといけないのですか」と、清水弁護士が尋ねたところ、「先ほどと同じ理由で、異動は市町村教育委員会と県教委の方針に基づくものであり、この場では答えられない。中学校の場合、教科と地域間の調整なので、それで三戸教諭は異動の対象になっていると受け止めている」と、稲田所長は答えました。

三戸さんは言います。「稲田所長の、レアケースだという答えを聞いて、わたしはびっくりしました。そして複雑な気持ちになりました」。先ほどの「答弁書」を見ると、平成31年度の人事異動実施要項に、「配置換は原則として同一校3年以上の者」とあり、三戸さんはすでに3年間勤務しており、三戸さん側が主張するような「例外的なものではない」と書かれています。齟齬はないのですが、あきらかにニュアンスが異なっています。

次は通勤費の負担額の話になります。「交通費として55,000円支給されるようになりました。しかしそれでも、月額平均で26,000円から28、000円の自己負担があります。この負担額は高いと思いますか」と、清水弁護士が聞いたところ、稲田所長は「高いと思う」と答えたといいます。やはり三戸さんは「これにもびっくりした」ということでした。

「教頭の送迎は出張扱いの公務だった」

三戸さんは、清水弁護士の後に質問に立ちました。
2月18日から1か月半の準備期間があったが、記録によると、一度も同僚の送迎を通勤方法として考えていると言っておらず、初めて伝え聞いたのが3月28日だった。「そのとき突然、4月から同僚の送迎で通勤してもらいたいと言われたのですが、どうして事前に相談してくれなかったのですか」と尋ねたところ、稲田所長は「それに対しては素直に謝ります」と答えたといいます。

三戸さんは重ねて聞きました。「事前に相談してもらえれば、乗れる車種や乗りにくい車種、乗り降りのときにどんな介護が必要か、といった具体的なことも検討できました。万が一事故が起きた場合の補償も、しっかりと考えることができたのではないですか」。この尋問で稲田所長は次の事実を明かしたといいます。

「補償に関しては、6月の下旬から校長が教頭に職務命令をかけて、公務として教頭が送迎に当たっていたというのです。事故のことを考えて公務にし、手当も支給されていた」

この事実は、三戸さんには伝えられていませんでした。「初めて知る事実がここで出てきたわけで、わたしは動揺しました」

三戸さんは強い不信感をもち、公開審理翌日の4日、職場に行って教頭に確認したといいます。

「審査請求でこんな話が出ましたけど、ほんとなんですかと聞くと、教頭は本当だと言いました。いつからもらっていたんですかと聞くと、公務になった6月21日からもらっていたといいます。何の手当ですかと聞くと、出張手当だと答えました。毎日学校からわたしの自宅まで出張教職課程 2020年10月号 (今日から始める! 教員採用試験スタートガイド)
教職課程 2020年10月号 (今日から始める! 教員採用試験スタートガイド)していたというわけです。でも、出張扱いにできるんだろうか」

教頭は、出張扱いであれば、事故があったときにも補償できる。「あなたのことを考えての対応です」と話したといいます。三戸さんが「なんで教えてくれなかったのですか」と聞くと、次のように答えています。

「県の教育委員会からは、直接本人に教える内容ではないので教えなくてもいい、そう言われた、と教頭はいうのです。さすがに昨日(4日)は落ち込みました。わたしはずっと教頭のボランティアだと思っていたので、申しわけないなあ、他にもたくさん仕事があるのに、大変だろうなあと思っていました。でも送迎していた半年間のうちの半分を、公務としてお金をもらってやっていたわけです。これはショックでした」
三戸さんは、公務ということであれば自分の考えも違ってくる、と言います。ボランティアだというのでは合理的配慮には当たらない、適切な合理的配慮をしてほしいと主張してきた、しかし教頭の送迎を公務としたということは、自分への合理的配慮にあたると言い、次のように述べました。

「合理的配慮であるならば、本人がそれを知らないということはあり得ないと思うのです。本人の知らないところで周りが合理的配慮をしている、本人はそれを厚意によるボランティアだと受け止めて感謝している、なんていうことは基本的にあり得ない。本人に伝えるべきだったと思います」

なぜ県教委が三戸さんには伝えなくともよいという判断をしたのか、理解に苦しみますが、「合理的配慮」は「障害者基本法」の第4条に、社会的障壁の除去に関してその実施が定められています。2016年に改正された「障害者雇用促進法」でも、障害者の職務が円滑に遂行できるよう環境整備、支援人員の配置が「合理的配慮」として雇用主に義務付けられています。確認のために繰り返しますが、これは善意や厚意などといったものではなく、努力目標でもなく、はたして当然の「義務」です。

わたしは三戸さんに尋ねてみました。ここまで稲田所長は、譲歩したとも受け取れる発言をしていたと感じたけれども、今後の異動にあたって改善していく意思はあるのかどうか、その点についてはどういう手ごたえでしたか。

「事前に意思確認を丁寧におこない、通勤に関する整備はおこなっていきたい、とそういうことは感じられる答えだと思いました」

三戸さんは、口頭審理を終えた後、そこから受け止めた課題を次のようにまとめました。
・同僚に障害のある教員の通勤支援をするよう、校長が職務命令を出せるのか。
・教頭という管理職であれば、校長は職命令を出せるのか。
・毎日の、職員の通勤送迎費用は出張手当として出せるのか。
・働く障害者の支援に、支援する者を配置するのではなく、同僚に職命令を出してして支援体制を作ることの是非。同僚にとって新たな負担になるだけではないか。

公共交通機関のとぼしい地方にあって、「障害のある先生」がどのような通勤方法を選ばなくてはならないかは、共通する重要課題だろうと思います。三戸さんのここでの「まとめ」は、通勤方法と合理的配慮をめぐって、実務のレベルから問題点を取り出したものと言えるでしょう。
三戸さんは最後に次のように心境を述べました。

「2020年4月から、各地方公共団体で障害者活躍推進計画が作成されました。障害のある教職員も活躍して働くことを求められるようになりました。わたしは、そのための合理的配慮のあり方を問いたいと考えています。単に働くのでなく、活躍しながら働いていきたいのです」

好意的に見るならば、秋田県教委の一連の対応は、まったく前例がないなかで少しでも三戸さんの要望に応えようとしたものだと言えなくもありません。しかし合理的配慮という義務事項についての認識が十分だったのかどうか、今後の課題として残されたように思えます。「活躍しながら」という言葉に込められた三戸さんの思いを、うまく伝えることができたでしょうか。20年間、一人で噛みしめてきた様々な思いが、そこには込められているようにわたしには感じられます。


「Society 5.0」と子どもたちの身体知(連載23)

〝教育〟はどこに届くのか(第23回)               
「Society 5.0」と子どもたちの身体知

ウィルス感染の予防と子どもたちの教育機会の保障。この難しいバランスをどう両立させるか。それがいま、学校の最大の課題だろうと思います。前号では、感染予防対策の行きすぎは、子どもたちの成長にとって重大な支障をもたらすのではないか、という疑義を書きました。すると投稿後、SNSに次のような記事が上がってきたのです。

「学校でのフェイスシールドの着用 ちょっと待ってください 大阪小児科医会からのお願い」と、タイトルされたもので、引用します。
「★フェイスシールドは「うつさないため」にするものではありません。

・フェイスシールドは血液や飛沫から医療従事者を守るためにするもので、他人から「うつされるリスクが高いとき」に使用するものです。/学校生活では、児童・生徒にフェイスシールドの着用は必要ありません。

★フェイスシールドの着用で以下のようなトラブルが心配されます。
・熱中症のリスクが高まります。/物がゆがんで見えたり、光が反射して、授業に集中できません。/転倒などで顔面や眼を傷つける心配があります。」

あくまでも医療的観点からの提言という形をとっていますが、底流にあるのは、子どもたちの育ちへの危惧でしょう。大阪小児科医会の「お願い」は正論そのものです。

AIの時代とアナログ知の復権

わたしの危惧について、もう少し別の角度から光を当ててみましょう。科学技術の発展と情報ツールの拡大は、間違いなく暮らしの利便性を高めました。ただし物事には、作用があればかならず反作用があります。反作用の最たるものが、「身体知」を弱くさせていることだとわたしは考えてきました。いくらデジタル化が進もうとも、人間の「身体」は自然そのものです。理性や科学では統御できないものを、どうしたところで身体は抱え込んでいます。だからこそ教育の重要性があるわけです。近年強調される「自ら学び自ら考える力」とか、「生きる力」といったものは、身体知との相互作用によってこそ涵養されていくのではないか。そういう仮説さえわたしはもっています。

こうしたなか、「ウィルス感染の予防」が最優先される社会とは、人間の行動や暮らしを科学(医学)の名のもとでコントロールしようとする社会のことであり、学校も同様です。子どもたちにたいする管理とコントロールが、感染予防という誰にも反対できない名のもとでさらに強くなっていくならば、子どもたちは自然性から切り離され、身体知と学びはますます脆弱になっていく。それが、過剰な感染予防に感じるわたしの危惧です。

ここから「Society 5.0」の話題に少しずつ転じていくのですが、この間、こんなことがありました。わたしは「人間と発達を考える会」という勉強会を10年以上にわたって続けています(子どもの育ち、学び、発達障害、児童虐待や不登校など、様々な課題を取り上げて議論する会です)。そのメンバーの一人である佐川眞太郎さんより、『デジタル・AI時代の暮らし方』(浅間正通編著・南雲堂)という本を送っていただきました。佐川さんはある大学の相談室で心理臨床に取り組む公認心理師で、本のなかで分担執筆をしています。サブタイトルが「アナログ知のポテンシャル」、帯には「AIが浸透する社会と共存してゆくには――アナログ知の大切さを説く」とコピーされています。「コロナの時代と子どもたちの「身体知」」というテーマを、どう掘り下げていこうかと思案していた真っただ中。センサーが激しく作動し、すぐに読み始めたのですが、膝を叩くようなことばかりでした。

大雑把に分類すれば、情報処理という学問領域に入れていいでしょう。「デジタル学習ツール」「Web教材」「ディープラーニング」「AI学習」というように、学びのデジタル化が加速しているなかで、それぞれの分野のエキスパートがアナログ知の重要性を再認識しよう。そういう意図によって本書は編まれています。

例えば編者の浅間氏は情報リテラシーの立場から、電子辞書の再普及という昨今の現状を取り上げます。電子辞書派(電活派)と印刷辞書派(印活派)に分類し、双方がどのような翻訳をし、そこにどんな差異がみられるか、英単語検索実験を試みます。電活派のほうは一語一訳の罠にはまっており、文脈への配慮という点で印活派のほうが勝っている、という実験結果を導き、Eラーニング(electronic dictionary、電子辞書学習)に先んじるのは、「五感をしっかりと動員したところのアナログ(analog)ラーニングに尽きる」のではないか、とまとめています(第1章)。「五感」は、身体知の涵養にとっての土台です。

第2章の山下巌氏は、自動翻訳機が機能性と精度を高めながら広く普及し、語学学習不要説まで出始めている昨今の現状に注目します。「自動翻訳(デジタル知)」か「外国語学習(アナログ知)」か、と対立的に考える必要はない。自動翻訳機による外国人とのコミュニケーションは、語学学習を始めるきっかけとなる。自動翻訳は補助ツールとして活用してこそ、自力で外国語を話そうとする人が増えてゆく、と主張します。新たな語学の習得とは構文や文法、単語、発音といった技能の習得(身体化)であるとともに、その国の文化や風習を、まさに身体を通して獲得していくプロセスです。

第3章の小川あい氏。黙読の習慣がここまでが進み、スマートフォンが普及したいまだからこそ「音読と暗唱」が重要になっていると主張します。文の読み上げを繰り返すことは、知識をつながりのあるもの〔傍点に〕として記憶に定着させる。現代の教育は単なる情報処理に終始しているが、つながりある知識こそ、分析的思考力や発想力、創造力の基盤であり、音読や暗唱はその土台をつくる、というのが訴えの主眼です。
佐川さんは、以心伝心や「察し」という非言語によるコミュニケーションが、いかに人間交流に重要な役割を果たすか、しかし今それが損なわれていないかと、心理臨床の現場で鍛えてきた人らしい着眼から「身体知」の危機を訴えます(第6章)。わたしが述べてきた危惧がまさに共有されています。ほかにも絵本の読み聞かせ、ペンと紙の問題というような意表を突くような着眼から、その領域でどのようにデジタル化が進んでいるかを述べながら、アナログ知の復権、あるいはデジタル知との共存の重要性を示していきます。

Society5.0とはどんな社会か

さてここまでであれば、まさに我が意を得たりと共感し、本書を閉じたかもしれません。しかし、この本には先がありました。それが第Ⅳ部に収められた論文なのですが、ここでは文脈の都合上、前野博氏(至学館大学准教授、専門は教育情報学)の「2025年の崖への跳躍力― Society5.0実現に向けていま私たちが取り組むべきこと」という論文を取り上げます。おおむね、次のようなことが書かれていました。

Society5.0の5とは、これまでの社会の進展を、①狩猟社会、②農耕社会、③工業社会、④情報社会、と定義づけ、その5番目、次世代社会を指す象徴的な名称だとされます。「超スマート社会」とも称されていますが、「デジタルとアナログを高度に融合させて人間中心の」社会を創生すること、それがこの社会での目標となる。AIがどこまで高度化していくのか、人間の労働力のあらかたが不要になってしまうのではないか、という不安が高まっているなか、これからの社会や人間のあり方をどう構想すればよいか。そうした問題意識のもとで打ち出された国家戦略が、Society5.0をめぐる提言です。前野氏は、「これからの社会を変革していくには、デジタル一辺倒ではなく、アナログ的な思考や手法も融合的に用いながら取り組んでいくことが必須」であると述べます。

もう一つ、タイトルの「2025年の崖」とは何かという問題があります。インターネットはわたしたちの生活の隅々に浸透し、気がつくと、経済・物流・情報といったあらゆるモノとコトが一つのシステムに集中され、統御されている。集中が増せば増すほど利用する側には高い利便性になるわけですが、しかしたった一つのクラッシュが世界経済の破綻、情報や物流システムの大混乱を招きかねない。これまでそのことに気づかれながらも、代替案もないままやり過ごされてきた。しかし、もはやそういうわけにはいかないといいます。
現在、多くの企業で用いているコンピュータシステムは、ブラックボックス化している、管理する技術者の高齢化が進み、このままでは「現行のシステムは陳腐化し、さらにはゴミ化していく」。それが「2025年の崖」と呼ばれる事態だと説明されます(このとき前野氏が参照しているのは、経産省による「DXレポート」という報告です)。

こうした事態への対応は教育にあっても喫緊の問題です。その最重要課題がAI時代の到来に向けた人材育成であり、そのための国家戦略は次の3点。

① 文理を問わず、全高等機関での数理・データサイエンス、AI履修コース設置
② 社会人全体へのAIに関する実践的活用スキルが習得できる環境の用意
③ リベラルアーツ(教養教育)の充実化

リベラルアーツについては、「単に読書をたくさんするといった単純なイメージではなく、幅広く人とかかわりながら自ら学びの幅を広げたり深めたりすることが求められます」と注記されていますから、こちらに、本書の趣旨であるアナログ知につながる問題があると考えていいでしょう。この3点は、文言だけを見ているといいことづくめのような気がしますが、前野氏は次のような楔も忘れずに打ち込んでいます。

「AIを学ぶには相当な数学的知識や統計学的知識が必要であり、あらゆることを数理モデルに置き換えるための社会全般への理解も必要です。AI教育やプログラミング教育と巷間喧〔かまびす‐ルビ〕しいですが、言うは易く行うは難〔かた―ルビ〕しなのです」

前野氏が指摘するように、文理双方にわたるハイレベルな理解や知識を「国家戦略」は求めています。ここでは国を牽引するエリート層が想定されているのでしょうが、このハードルを越えられる人材は一体どれくらいいるのか、という素朴な感想を禁じえません。

「Society 5.0」についての文科省の見解

このあたりで前野論文から離れ、「Society 5.0」について文科省がどのような見解をもっているのか、そちらに目を転じてみます。文科省のホームページを検索していると、「Society5.0に向けた人材育成~社会が変わる、学びが変わる~」というレポートがヒットしました。https://www.mext.go.jp/component/a_menu/other/deta.

内容は3章構成になっており、第1章、その社会像と求められる人材像、学びの在り方(大臣と有識者による懇談会の整理)、第2章、取り組むべき政策の方向性(1章を踏まえた文科省職員による議論のまとめ)、第3章、学びの変革と取り組むべき施策(1章2章を受けて)、となっています。公式見解以前の、Society5.0に向けた文科省内部での議論の集約といってよいでしょう。以下はわたしなりのまとめです。

AI技術の発展によって社会や働き方が大きく変わる、それはかつてないもので、「これまでの延長線を大きく超えた劇的な変化が訪れる」というように、いかに激しい変化を目前にしているか、そのことが繰り返し強調されます。それがこのまとめの特徴の一つだと思われます。こうしたなか、日本のAIの技術開発は米国や中国に比べて大きく立ち遅れており、技術者や研究者の数もはるかに少ない、多くの学生が情報科学のトレーニングを受けていない、こうした現状をクリアしていかなければ先進国のなかでさらに遅れをとり、日本の存在感が発揮できなくなる、という強い危機意識が、二つ目の特徴だと受け取りました。

それを克服するにはどんな力が求められ、どんな教育が必要となるか。前野論文で示された概要が、教育現場に即した形で提言されていきます。AIやビッグデータを活用し、スキルをたえずアップデートできるような「自ら学び続ける力」、「現実世界を意味あるものとして理解」し、新たなイノベーションを創造できる力、そのときに重要な感性や知性や独創性。一方では学力の低下や「貧困の拡大、地域間格差」にもふれ、教育格差の解消は公教育の義務だと言い切ってもいます。さらに、教師を「子ども自身の学びの支援者」と位置付けていることなど、過不足のない提言といえば確かにその通りなのですが、先に指摘した危機意識の表明は、最終的に、急ぎ、大幅な教育改革を断行していかなくてはならないというメッセージに帰着しています。

ここで思い起こされるのが、学習指導要領が、特に20年のスパンで基本のコンセプトをがらりと変えるようにして、大きな改革を打ち出してきたことです。今から20年前、「小泉・竹中構造改革」のもと、新自由主義的教育政策が全面展開されました。その象徴が「総合的な学習」と「生きる力」の新規導入であり、学校と教員への評価制度です。さらに20年をさかのぼると、「ゆとり教育」と称されたように、各教科での習得すべき内容を大幅に絞り込みました。

この二つの大改革が現場にどれほどの混乱を巻き起こしたかは、記憶に新しいところです。どうしてここまで指導する内容が削減されなければならないのか、なぜ競争と評価が学校現場にあって必要なのか、現場の先生たちがどこまで理解し、納得していたか。その十全な説明が行われたのか、わたしはいまでも疑問に思っています。

改訂の時期となった1980年前後、2000年前後、それぞれどんな時代だったでしょうか。戦後の経済繁栄が70年代に「1億総中流」と呼ばれる国民の意識をつくり、その定着を見たのが80年前後です。来るべき時代に武器となるのは、知識の多寡ではなく、時代の変容に自らの手で適応していけるような、そのような力である、これまでの成長じだいとはまったくことなる学びの力だというのが、このときの改訂のメッセージがではなかったでしょうか。

00年代は日本の経済繁栄が終焉し、本格的なグローバリズムの時代に突入したことが、だれの目にも明らかとなりました。構造改革が叫ばれた時代です。ITもまた爆発的に浸透していきます。この時の改訂のメッセージは何だったでしょうか。これまでの家族主義的・共同体的な価値観を、アメリカ型の競争原理や自己責任といった「個」を単位とする価値観につくり変えること。それがこれからのグローバリズムのなかを生きていくための必須の力となる。そのようなものだったとわたしは受け止めてきました。そして今回のsociety5.0、あるいはポストコロナの時代。いかに劇的な変化を目前にしているかは、見てきたとおりです。

いずれも大きな社会の変容を目前にし、そのことへ備えようとした教育大改革であったことは間違いありません。しかしそこで行われた改革が、現場教員や研究者からどんな評価を受けてきたか。改革のたびに現場は混乱し働く環境が過酷になる、と多くが批判の中で語られてきたのが実情です。Society5.0を令和の教育大改革の提言だと受け止めれば、やはりここは立ち止まって注視したいと思うのです。

「教育改革によって、どのような問題が解決したのか。教育のどこが、どう改革されたのか。そうした政策評価のないまま、まるで熱病にとり憑かれたように、私たちは、さらなる改革を求め、推し進めてきた」と苅谷剛彦氏(『教育改革の幻想』・ちくま新書)、あるいは元中学教員の赤田圭亮氏。「子どもが育つためのゆったりとした場所と時間とリズム」。それが人が育つ場である。「教育改革が問題なのは、そうした学校に足りないものを拡充する方向ではなく、(略)学校に対して無用な容喙=カイゼンを繰り返して、「場」を壊し続けていることだ」という慨嘆が繰り返されないことを願うばかりです。
教職課程 2020年 09 月号
教職課程 2020年 09 月号

新型コロナ時代の学校教育、二つの難題について(連載22)

〝教育〟はどこに届くのか(第22回)
新型コロナ時代の学校教育、二つの難題について


いきなり大上段に構えて始めてしまいますが、教育は、身体的な交流によって支えられるところがとても大きいとわたしは考えてきました。21年間(プラス非常勤での2年間)の教師体験が特別支援学校と小学校だったから、余計そのように考えるのかもしれません。ここでの「身体的な交流」とは、文字通りの身体の接触という以上に、感情や情動の交換といったものまでふくむ交流です。一言で「エロス的交流」といってよいのですが、年齢が下がれば下がるほど(あるいは〝特別なニーズ〟がそこに加われば加わるほど)、この、エロス的交流のはたす役割は大きくなります。そして工夫が必要とされます。逆に年齢が上がるほどに、「言語交流」が重要になりますが、身体的・エロス的交流がゼロになるわけではありません。教育という営みは、エロス的な交流と言語的交流の幅のなかで、知識や技能、社会性や文化の伝達がなされていく。それが、わたしが教育というものにもつ基本的なイメージです。

つぎに、では子どもたちはどこから教育に向かおうとする力を得るのか。そう問い方を変えてみます。わたしの教育観に立てば、身体的・エロス的交流が「学びに向かう力」の最大のエネルギー源となる。そういう筋道になります。いわば、エネルギー源をフルに使いながら、エネルギー源そのものを生み出そうとしていく。教育とはそのような営みだとも言えます。

何をお伝えしたかったのか。新型コロナによる休校が終わって新学期が始まりました。学校で過ごす子どもたちのニュース映像が流れるようになり、それを見ながら、当初とても複雑な気持ちになったことによります。「三密回避」は当たり前。いや、いつの間にか絶対的に守るべく社会的ルールとして君臨し、学校でも様々な回避策がとられています。SNSや友人・知人たちからのランダムな情報によれば、それらはおおむね次のようです。

マスクは必着。場合によっては(学校によっては)シールドさえ必携。1メートル以上離れる。給食はもちろん、教室では話をしない(学校によっては、壁を向いて昼食をとるよう指導しているところもある)。接触する遊びはしない。ある学校は、子どもたちは教室にいて、教員が職員室からリモートで授業を行っているともいいます。

もう一つ、こんな話題も出てきました。半数ずつ週2回ないしは3回登校。それ以外は家庭学習。ところがこの家庭学習のあり方や課題の出し方に対し、知人たちから、厳しい注文が出されました。彼らはプロの援助職なのですが、保護者に家庭教師の役割を期待するのはそもそも無理、まだ習っていない領域の予習は子どもにとっても保護者にとっても、なおのこと難しい。オンライン学習を取り入れるようになってはいるが、家庭学習のあり方をよほど工夫しない限り学力差はますます著しくなるだろう。緊急事態宣言が経済格差に追い打ちをかけており、このことも学力格差に直結する。――これらがどの学齢でどの程度の問題となるのか、きちんとした仕分けと吟味は不十分なのですが、その点をお断りしてわたしの考えるところを述べてみようと思います。

少し書いたように、はじめ学校のニュースを見たときに強い異和感を覚えました。ここでとられている回避策は、どう考えてもこどもたちの発達にとって阻害要因です。ここまで細かくルールを取り決めなければ過ごせない学校生活そのものが、まずはストレスそのものでしょう。マスクやシールドをしなさい、離れなさい、話してはいけません、体が触れる遊びをしてはいけませんというのは、子ども同士を隔てる大きなバリアです。通常ならば積極的に奨励したいことが、少なくともわたしの教育観や子ども観では望むべき事柄が、ここでは禁止や抑制の対象になっています。こんなことを、ほんとうに子どもの学びの場でやるのだろうか。これでは社会性や情緒の育ちが阻害されてしまう。精神的に不安定な子をたくさん作ってしまいかねない。ニュース映像を目にするたびに、そんな思いを強くしていました。

ところが、少しずつ方向修正をしていくことになるのですが、まず「社会全体が感染回避を図らなければ、社会そのもの維持が不可能になっている」わけで、最初に書いたように、これが新型コロナウィルスがもたらした最大の社会的課題です。さらに難しいのは、国によって、あるいは医師によって、基本的な考え方や対応策が分かれてしまっていることです。現状は例外的な状態にあり、一過的なものである。誰にとっても初めての事態であるから、確実なノウハウは皆無。そんなななかで、学校現場は試行錯誤をつづけているわけです。まずは、どうしたら子どもたちが学校に出てくることができるか、その目的にたっての試みなのだということをひとまずは認めなくてはならないだろう。そう考えるようになったのです。

学校を一斉休校にするという措置が果たしてどこまで適切だったのかなど、これまでの取り組みの検証はどこまでなされているのか。次にこのことが気になりました。松村むつみさんという医療ジャーナリストであり、放射線科医でもあるという方の記事を紹介します。客観的で中立的な立場に立っていると判断したからですが、次のようなことが書かれていました。(‘20.6.7現代ビジネス https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73072)。

アメリカの研究では「休校単独による感染抑制効果はごくわずか」という報告が出され、イギリスでは「厳しい外出制限に効果はないが、休校と大規模集会の中止には効果がみられたという報告」があった。そう述べられていました。つまりは〝効果なし〟という共通の見解には至っていないわけですから、休校という措置を取りやめることはできないわけです。マスク着用とソーシャルディスタンスには一定の効果があるとWHOも認めているとか、他にも各国の検証データを紹介し、2波3波に対する備え、感染の予防と教育がストップすることの弊害のバランスをどうとるかなど、妥当というか、いまのところはそこに落ち着くしかないだろうなというまとめでした。

身体的交流が損なわれる、とわたしが危惧した感染回避のための措置は、どうもしばらくはやめることはできないようです。いや、それが常態化していくのではないかという危惧を覚えたのは、北九州市内の小中学校でこれまで分散登校を進めてきて、一斉登校をはじめようとしたところ、いくつかの学校でクラスターが発生した、という記事を読んだときでした(西日本新聞6月3日のウェブ版https://www.nishinippon.co.jp/item/n/613723/)。通常授業に復帰したとしても、感染拡大がいつ、どこからどう始まるか分からない。そのことをこの事実は告げています。感染予防を大前提としたあり方が学校のスタンダードになるならば、そこで教育のもつ基本的な身体的・エロス的交流をどんな形で保証することができるのか。そういう課題があるとわたしは感じます。オンライン授業が進んだからといって、一件落着ではない。

逆に、集団になじめない子や発達障害系の困難をもつ子にとっては、教育という営みが身体的・エロス的な交流であるからこそ、そこへの適応に困難を抱えてきました。これまで様々な配慮が工夫されてきたわけですが、感染回避の対応策はおそらくは彼らを直撃します。「~~をしてはいけない」「~~をしなければならない」という新たなルールは、彼らにとっては新しい難題となり、感染予防の措置が、登校を拒否する子を増やさないとも限らないわけです。学校はマスクをつけられない子の登校を、感染リスクが高いと拒むのでしょうか。

ニュース映像はこんなことを考えさせたのでした。
教職課程 2020年 08 月号 [雑誌]
教職課程 2020年 08 月号 [雑誌]

新型コロナ時代の生老病死(連載21)


〝教育〟はどこに届くのか(第21回)
新型コロナ時代の生老病死


「ゆずちゃんが まつえさんのほっぺを/ぺんぺん//まつえさんの目は開かない/でも 言葉をしぼりだす//ゆずちゃ~ん/ゆずちゃ~ん/あと たのむでぇ」

写真家・國森康弘さん。2003年に記者からフォトジャーナリストとして独立。イラク、ソマリア、カンボジアなど戦禍の地にわたり、活動を始め、以後、さまざまな「生と死」の現場をカメラに収めてきました。その國森さんより、『生老病死 そして生』(農文協)と題されたフォトエッセイ集を贈っていただいたのは、3月に入り、新型コロナウィルスの脅威が本格的に飛び火してきた頃のことでした。

各パートが「生」「老」「病」「死」「そして生」と分けられ、それぞれのテーマに沿った写真が選り抜かれています。新しいいのちの誕生と、生まれたばかりの弟を迎える子どもたち。戦禍の地をたくましく生き抜いている若い母親と、腕に抱かれた乳児。そこに付された「ここでは弱い子は生きられない」という國森さんのコメントが、胸を突きます。あるいは3.11の被災直後の現場。障害をもつ子どもと、彼の家族とクラスメートたち。インドのガンジス河ほとりの荼毘の光景。ALSを病んだ女性とその家族、そこに集い、ケアを担ってきた若い学生たち……というようにたくさんの「生と死」が、1冊の本を埋め尽くしています。

どの写真もインパクト十分で、ときに激しい衝撃を残しますが、「陰惨」とか「悲惨」という印象はありません。過剰な演出も、見る者の感情を煽ろうとするあざとさも、安手の「物語」に封じ込めようとする作為も、一切ありません。真正面から被写体に向き合っていることが分かります。撮られる側もそれに応えるように、國森さんに全身を委ねています。そして写真に添えられた國森さんの、贅を削ぎ落した文章。そのコラボによって「いのち」のなんであるかを強く訴えてくる、そのようなフォトエッセイ集です。

この間、私がひときわ心を惹かれてきたのは〝看取り〟の写真でした。自宅で、間もなく息を引き取ろうとするお年寄りたちの満ち足りた表情。いのちが尽きた直後の、家族や集まってきたご近所さんたちの、掌を合わせる姿。私はそこでの子どもたちたちの表情に、しばしば目を奪われました。冒頭の「ゆずちゃん」の文章もその一つで、カバー(書影)になっている写真に添えられたものです。「かぎりがあるから みんなでつなぐ」とサブタイトルされている通り、「いのちとはつないでいくものだ」という國森さんの強い確信(思想)を、私はどの写真からも受け取ります。

なぜ私が〝看取り〟の写真に惹かれたのでしょうか。第二次大戦以降、世界最大の危機をもたらしたと指摘される新型コロナウィルス。ネットには情報が溢れ返っていますが、身体のシステムをどう破壊するか、まだ分からないことのほうが多いと言われます。これを機会に働き方も人との関係のあり方も、暮らし方も大きく変わっていくだろうとも指摘されます。学校のあり方についても、オンライン教育を充実させるいい機会だとか、9月始業にチェンジした方がいいとか、多くの意見が出されています。あるいは在宅の期間が増えることによって、困窮を抱える家庭はますます追い詰められ、子どもたちに及ぼす影響も大きいとか、親からの暴力に苦しむ子どもたちにとって家は居場所にはならならない、と心身の安全を危惧する声も。この連載の主旨から言えば、こちらを率先して取り上げるべきだったかもしれません。

しかし私の関心は「死」のほうに集中していきました。感染者の多くは軽症だと言われながら、突然重症化し、1週間ほどで死に至るケースや、感染者の急激な増加によってもたらされた医療現場の危機的な状況がくり返し報じられました。感染者全員には十分な医療を回せない、誰の治療を優先させるか、数の足りない人工呼吸器の装着の優先順位をどうするか、医師たちが苦悩しているというショッキングな報道もありました。そのとき、「トリアージ」という言葉が、私たちにより身近なものとして降りてきたようなのです。

「いのちの選別」であれば倫理問題として、あるいは人権侵害であるとして強く非難を返すことができます。ところが救命救急の医療現場にあってなされる「トリアージ」にたいしては、それを批判することは難しくなります。現にこれまで多くの災害現場でなされてきたはずの「トリアージ」に、「それはいのちの選別ではないか」という非難が出されたという話は、私は聞いたことがありません。当然の医療判断だと見なされてきたわけです。

ところが今回のコロナウィルスは、現在の危機的な医療状況のなかでは「トリアージ」という形で私たちのいのちが選別されることがある、という現実をはっきりと示すことになりました。つまりは私自身が、いつ、いかなるかたちで「トリアージ」されるか分からない、そのような身であることを知らしめてきたわけです。医療崩壊と呼吸器問題の報道に触れながら、私はそのようにしてもたらされるかもしれない「死」を、少しずつ受け容れていきました。

微妙なところなので急いでお断りをしておきますが、一般論として、いま医療崩壊ぎりぎりにあるのだから、若い人を優先して治療するべきだ、人工呼吸器を回すべきだ、と主張しているのではありません。あくまでも個人的な問題として、03年のMERSや12年のSARSなど、これまでのパンデミックのときには考えられなかったほど自分が「死」に近づいているのを感じ、それを受け容れようとしてきたということです。

そんな心境のなかで、國森さんのフォトエッセイ集に触れてきました。だからこそ看取られるお年寄りたちと、看取る子どもたちの写真に強く惹きつけられてきたのだろうと思います。ゆずちゃんの写真の次に、間もなくいのちが尽きようとする「なみばあちゃん」と、そばにいてその姿を「目と心に焼きつけ」ようとするたいらくんの、2葉の写真があります。たいらくんは小学校2年になったとき作文を書きます。「いのちのリレーでバトンタッチしたぼくは/のびのび大きくなりたいです/いつまでもおおばあちゃんのことを/わすれないでいたいです」

「死」はいつも私たちのそばにあるのですが、普段はなかなか見えません。見ようともしません。まして子どもたちが大事な人の「いのちの終わり」を経験することは、ほとんどなくなっているでしょう。今回のコロナウィルスは、ほんとうは「死」が身近にあるのだということを如実に伝えてよこしました。この脅威のなかで、ゆずちゃんやたいらくんのように、子どもたちが「いのち」と「死」を「のびのび」と体験するにはどうしたらいいだろうか。しきりとそんなことも考えたのでした。こう書くと、学校現場から金科玉条のごとく持ち出される「いのちの大切さ」を思い出すかもしれませんが、ちょっと違います。学校では「死」を教えません。「死とはいのちをつないでいくことだ」ということを教えません。

最後に加えれば、津久井やまゆり園事件の植松聖死刑囚は、おそらく「いのち」を知らなかった。「死とはいのちをつないでいくリレーのことだ」ということも知らなかった。それが最大の不幸だったのではないか。法廷での彼の話を思い起こすにつけ、そう思われてなりません。國森さんの写真集を見ながら、そんなことも考えたのでした。
教職課程 2020年 07 月号 [雑誌]
教職課程 2020年 07 月号 [雑誌]

飢餓陣営51号コンテンツのお知らせ

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 飢餓陣営51 2020年 夏号           6月30日刊行予定
               250ページ 定価1000円+税 (送料200円)
        郵便振替  00160―4-184978 飢餓陣営発行所 
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【作品】
佐藤和彩■(フォト)原始の機能美
宮尾節子■(詩)誰が言った
木村和史■(フォト&エッセイ)家をつくる(14)
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【特集】没後八年の吉本隆明

〔SCENE1〕吉本隆明の「戦争」、橋爪大三郎が解く皇国思想
宗近真一郎■「批評」というジャンルが問われる―橋爪大三郎『小林秀雄の悲哀』
添田馨■〝皇国教育〟の洗脳は解けるか―橋爪大三郎『皇国日本とアメリカ大権』
〔対話〕北明哲+佐藤幹夫■吉本隆明の「戦争」、橋爪大三郎が解く皇国思想
(その1)闇斎・徂徠―丸山―吉本
(その2)宣長―小林―吉本隆明
(その3)『國體の本義』と吉本隆明の「戦争」

〔SCENE2〕吉本隆明の没後出版を読む
佐藤通雅■銀河の流れについて―『宮沢賢治の世界』を読む
萩原健次郎■自然像としての書と文字を見つめる。―『書 文字 アジア』を読む
宮下和夫■没後の企画―僕がかかわったものを中心に-『吉本隆明 質疑応答集』
西脇慧■黙示録的表象としての〈現在〉‐吉本隆明『ふたりの村上』を読む
〔連載〕浦上真二■吉本隆明とサミュエル・ベイリー『リカアド価値論の批判』

〔SCENE3〕比嘉加津夫企画 『ふたりの村上』と編集者小川哲生
比嘉加津夫+小川哲生■(メールインタビュー)『ふたりの村上』と小川哲生
内田聖子■ウォーク・ドント・ラン
刈谷政則■「若き小川哲生さん」の大和書房時代
河谷史夫■ひとりの出版渡世人
齋藤愼爾■〈伝説の編集者小川哲生〉異聞
村瀬学■小川哲生 不思議な「包み」の美学へ
山野浩一■小川哲生さんのこと
佐藤幹夫■私にとっての<ふたりの村上>
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【小特集1】思想と文学を読む
神山睦美■『世界史の構造』の柄谷行人と
宗近真一郎『柄谷行人 世界同時革命のエチカ』
宗近真一郎■「文学システム批判」のスペクトラム
ジョン・ヨンイル『柄谷行人と韓国文学』(転載)
水島英己■神山睦美『終わりなき漱石』を読む
伊藤悠可■知的決断の血脈-西尾幹二『歴史の真贋』を読む
小川哲生■『歴史の真贋』を読む
佐藤幹夫■伊藤悠可『もう一人の昭和維新』を読む(転載)
添田馨■当事者でないことを、恐れない―宮尾節子『女に聞け』
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【小特集2】「障害と支援」の本を読む
内海新祐■共存と共生、対抗言論によってではなく― 横田泉『精神医療のゆらぎとひらめき』(日本評論社)
佐川眞太郎■対話とは何か ― 西研『哲学は対話する』(筑摩選書)
中尾賢史■人が同じ地平に立つために ― 渡辺一史『なぜ人と人は支え合うのか』(ちくまプリマーブックス)
栗田篤志■背理を超えて共存を問う―― 佐藤幹夫『ルポ 闘う情状弁護へ』(論創社)

新刊『ルポ 闘う情状弁護へ――「知的・発達障害と更生支援」、その新しい潮流』(論創社)について



                       
「お願いしたいのは、わたしたちを公正に裁いて欲しいということです。どうかわたしたちを、あなたたち自身が裁いて欲しいと思うやり方で裁いて下さい。」
 ――女性の黒人革命家アフェニー・シェーカーが陪審員に向けた最終弁論のことば  アンジェラデービス編著、袖井林二郎監訳『もし奴らに朝が来たら』(青木英五郎 『日本の刑事裁判――冤罪を生む構造――』(岩波新書)より転用)


〔キーワード〕
「障害」と犯罪、新しい情状弁護、司法と福祉の協働、治療的司法、更生支援と再犯防止 ひきこもり、発達障害、アスペルガー症候群

〔目次〕

はじめに 「障害と司法」というテーマをどう受け止めてきたか
 
プロローグ  パラダイムの転換と〝新しい潮流〟の背後にあるもの


 第Ⅰ部 ドキュメント 大阪地裁判決はなぜ求刑を上回ったのか


第一章 二〇一二年七月、ある判決、噴出する批判
   ――アスペルガー症候群と裁判員裁判

第二章 加害男性の見ていた世界
    ――なぜこのような惨劇がおこったのか

第三章 男性は何を語ったか
    ――大阪に弁護団を訪ねて

第四章 高裁判決と弁護団のふり返り
    ――刑事弁護と情状弁護

第五章 出所者を福祉につなぐ
    ――「地域生活定着支援センター」の現状と課題


 第Ⅱ部 「障害と刑事弁護」、その始まりと先駆者たち

第六章 「知的障害」をもつ人の刑事弁護はどう始まったか
    ――「悪い障害者」は支援しないのか

第七章  副島洋明という刑事弁護人
     ――「金を払って弁護士を雇え!」

第八章 「自閉症スペクトラム障害」を初めて正面にすえて闘う
     ――2005年、大阪寝屋川の裁判で少年の「障害」はどう裁かれたか

第九章 更生支援、まずは支援者こそ発想の転換を
    ――「ふるさとの会」の生活支援と司法との連携
      

 第Ⅲ部 司法と福祉の協働が新たな「人権侵害」とならないために

第一〇章 福祉の仕事は「再犯防止」か
    ――「更生支援計画書」の誕生、ある社会福祉士の危惧

第一一章  治療的司法と新しい「協働支援」
     ――排除型の裁判から社会包摂へ

第一二章 社会内処遇の新たな試み
     ――更生を支えるものは何か

第一三章 協働的更生支援、これからの課題
     ――支援の理論と方法

エピローグ 新しい更生支援のその先へ

故・副島洋明弁護士へ

ルポ 闘う情状弁護へ - 佐藤幹夫
ルポ 闘う情状弁護へ - 佐藤幹夫

「教員の働き方改革」を「障害のある先生」から考える(その1)

〝教育〟はどこに届くのか(第16回)


 秋田県の中学校教員、三戸学さんの連載をひと段落させ、次のテーマをどうしようかと考えているときに、三戸さんより「今度、障教ネットの全国集会が東京あるので、来てみませんか」という誘いをいただきました。主催は日本教職員組合(日教組)。交渉を入れてみると、傍聴ならばOKということなので、足を運んでみました。

「障教ネット」とは「障害のある教職員ネットワーク」の略式名です。日教組のなかの一組織で、参加されているかた全員が「障害のある先生」でした。「取材」ではないので詳しくは書けないのですが、74名が会員として登録しているといい、この日の参加者は20名ほど。とても勉強になりました。三戸さんがここで知り合う仲間たちにいかに支えられてきたか、ということもよく分かりました。

 基調講演をされたのは全盲の弁護士さん。これがとても素晴らしいものでした。さらに印象深かったのが、講演の後、質問に立った先生たちのその内容です。質問ではあるのですが、自分の置かれた窮状がいかに大変か、その相談でもあったのです。常勤の方、非常勤の方、立場はいろいろで、障害も、身体、視覚、メンタルの方とそれぞれ。その方たちに固有の「働きにくさ」が質問(相談)の内容です。うまく補助教員と協力関係が得られない、職場内での人間関係、管理職の対応がひどい、そんな内容でした。三戸さんも、19年間担任を持たせてもらえないことへの解決策はないか、と助言を求めていました。講演者の弁護士さんは一つ一つの問いに、打開となりそうな法律を引き、それをどう使えば解決のヒントとなるかを示唆していくのです。驚くほど的確で、弁護士としての力量の高さを感じさせるものでした。

●「障教ネット」との出会いから

 帰路、この日の出来事を思い起こしながら、これは「教員の働き方改革」に直結する問題ではないか、と直感しました。今日の「障害のある先生」が示した問題は、多くの〝働きにくさ〟を抱える先生たち一般の問題として取り出せるのではないか。「障害のある先生の働き方のサポート」と「働き方改革」の二つをつなぎ、問いの形にできれば、「教員の働き方改革」への提言のようなものを取り出せるのではないか。「障教ネット」に足を運んで以来、そんなモヤモヤが頭のなかで回っていました。

 本連載の第2回目で、「教員の働き方改革」について取り上げています。そのときには教員の労働時間の現状がどんな厳しいものか、データを借りながら触れました。そこからさらに踏み込み、一人ひとりの実情や現場のナマの声を拾い上げている資料はないだろうか。そんなことを考えていたときです。見事なタイミングで、知人の赤田圭亮さんより『わたしたちのホンネで語ろう 教員の働き方改革』(岡崎勝・赤田圭亮編、日本評論社)という著書が送られてきたのです。

 赤田さんは横浜市の中学校で国語科の教員として勤め、いまは退職しています。勤務の傍ら組合活動にも力を注ぎ、教育とは何か、働く教員の労働者としての権利をどう守るか、「教育改革」と称されて行われてきたこれまでの施策が、いかに現場を無視したものであったか、それがどれほど教員の負担を大きくしたかなど、旺盛な執筆活動を続けてきました。教育問題への鋭い批判者ではありますが、分析の的確さとバランスの良さ、文章から垣間見える現場教員としての力量の高さ。私は高い信頼をおいてきました(氏の『教育改革とは何だったのか』・日本評論社・は、非常に優れた仕事です)。そんなこともあって、私が編集・発行する個人誌にもたびたび登場していただきました。そんな赤田さんの手になるムックです。すぐに、のめりこむようにして読み始めました。

 私なりに簡単にまとめてみます。基本は、どうして教員の労働時間がここまで膨れ上がってしまったのか。現状の報告、歴史的経緯、多忙さを作っている学校のあり方への批判的分析。それがアウトラインです。様々な要因が複雑に絡み合っていますが、さらに大雑把に分類するならば、60年代や70年代以降から、法的な根拠はないが、延々と続けられてきた慣習的要因、「教師なんだから」「子どものためなんだから」やって当たり前、というような見なし(社会や保護者のそれであるのみならず、教師自身にも深く内在しています)。

 加えて、2000年代から顕著になる新自由主義的な規制緩和。「教育改革」と称して学校を覆っていく競争と評価と、自己責任の原理。いうまでもなく保護者と子ども、そして教員の意識も変っていきます。個人主義的傾向が肥大化していくわけです。以降、忙しさが質と量を変えて膨れあがっていく。こうした様々な問題が、各執筆者によって俎上に載せられていく。これが本書の概要といっていいでしょう。

 目次を見ると、真っ先に取り上げられているのが部活動問題。さらには労働問題として、減らない残業、取得できない休憩、確保されない研修、保護者との対応などが論じられていきます。忙しさの根本には何があるのか。冒頭で岡崎勝さん(元小学校教員)によって、現代教育の特徴は「上意下達の国民教育」と、「日本型学校教育の総合的指導」である、と指摘されます。いうところは、授業のみならず、しつけや生活指導、部活動、校外活動など、子どもたちを丸ごと世話する教育制度だということです。ここから様々な問題が派生していく。自己責任の原理は管理職にも及びますから、勢い、問題の矮小化、隠ぺい、責任転嫁など、好ましからざる事態は増えていくことになる。それが教員の多忙さを
〝逃げ場のない〟ところへと追い込んでいく要因になります。
読後、学校と教員をめぐる状況はここまできてしまったのか、と思わざるを得ませんでした。もちろんこの本は、赤田さんと岡崎さんを中心とした、強い問題意識をもつ方たちの手になるものなのですから、そこから拾い上げられた〝学校のいま〟であり、これがすべてでないことはいうまでもありません。

●「働き方改革」から抜け落ちている視点

 私自身は大いに勉強になったことは間違いないのですが、一つだけ気付いたことがありました。ここで論じられている「働き方改革」は誰のためか。もちろん教職員です。ところが、ここで想定されているのは「障害をもたない先生」、一般の先生たちです。「障害のある先生」にかんする記述は、一人だけを除いてまったく登場してこない。子どもの人権や、教育労働者としての権利に、鋭敏で高い意識をもつ執筆者の方々です。そのような方たちにあっても、ましてやテーマが、労働条件や労働環境をどう整えるかという「働き方改革」であるにもかかわらず、「障害のある先生たち」への視点が抜け落ちている。赤田さんからせっかくいただいた著書へ、苦言を寄せるような内容になり始めていますが、苦言や批判ではなく、「教員の働き方改革」を考えるにあたっての、新たなヒントとなるような視点を提供できないか。その故の指摘だと受け取っていただけると、私としてはありがたいところです。2018年度の幼稚園を含む教員数は100万人強、障害のある教員の実雇用率は1.90%。文科省のホームページからのデータです。2万人近い「障害のある教員」が雇用され、働いているのです。「障害のある先生たちにとっての働き方改革」とはいったいなんだろうか。

「インクルーシブな学校を創っていくことが教員の働き方改革につながるのです」

 先のお一人はそう書いています。全体が子どものインクルーシブ教育という文脈での指摘なのですが、おとな=教職員についても、もちろん当てはまります。次回はこのあたりを少し掘り下げてみたいと思います。

◆◆教職課程 / 2020年2月号 - Webby
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わたしたちのホンネで語ろう教員の働き方改革 (こころの科学 HUMAN MIND SPECIAL ISSU) - 楽天ブックス
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『飢餓陣営』50号新刊のお知らせ



飢餓陣営50  2019年冬号 「終刊宣言」凍結号
 208p 定価 1000円+税 12月下旬刊行予定

【作品】
宮尾節子■みんなもそう思ってる10‐12
【連載】
木村和史■家をつくる(13)14‐21
阿久津斎木■萩尾望都論(その4)22-29

【追悼・加藤典洋】

瀬尾育生■加藤典洋の仕事と日本の戦後思想30‐47

〔討議 加藤典洋『9条入門』を読む〕(神山睦美氏主宰・書評研究会より)
神山睦美■加藤典洋の戦後観と『9条入門』48‐63
竹田青嗣■普遍戦争と「世界の貧困格差」を縮減する可能性64‐75
笠井潔■加藤典洋の「戦後論」と世界戦争の歴史76‐89

井崎正敏■加藤典洋の「敗戦」90‐93
宗近真一郎■憲法9条がヒロヒト=天皇制を救った
     ―― 加藤典洋『9条入門』の最終メッセージ94‐99
添田馨■天皇の戦争責任・階段を〝もう半分あがった先〟の展望
     ―——『天皇の戦争責任』(加藤典洋、橋爪大三郎、竹田青嗣)からの船出100‐107
水島英己■「戦後」と戦う ―― 沖縄への思い(2)108‐112

神山睦美■加藤典洋さんとの交流と、村上春樹の評価をめぐって113‐136

村瀬学■「神の声」を聞くことをどう考えるといいのか137‐143
望月至高■悼・加藤典洋=「有限性の近代」を抱きしめて144‐147
比嘉加津夫■加藤典洋、そして沖縄148‐155
青木由弥子■〝文学的〟思考――一人一人を想うために156‐159
西脇慧■二つの〈影〉の間で、スパゲッティをゆでる作家
    ―― 加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』をめぐって160‐167

浦上真二■ただ一度の「雑談」168‐169
山下龍一■洞窟の二人170‐178

北明哲+佐藤幹夫■『飢餓陣営』は加藤典洋をどう読んできたか179‐199
編集部編■加藤典洋の著作いくつか、独断的ご案内200‐207

〝教育〟はどこに届くのか(第15回)「障害のある先生」の働き方をどうサポートするか(その3)

(『教職課程』2020年1月号より転載)
 
 秋田県人事委員会に、異動の取り消しと交通費の負担を求めて「不服審査請求」を提出していた三戸学さん。本年10月1日付で、タクシー等を利用しての通勤を認めると秋田県教育委員会(県教委)が決定しました。これは全国初のこと。三戸さんは県教委の英断を評価しつつも、
「主張することの大切さを感じた」といい、こうした仕組みが全国に広がることを願い、不服審査請求はもう少し続けたいと言っています。

 前号での報告はここまです。今号では、三戸さんの教師観や教育観を紹介します。障害の有無にこだわる必要はないのかもしれませんが、次のように問いかけてみました。三戸さんの姿を見て障害のある若い人たちが「自分もがんばれば学校の先生になれるんだ」、そう思うかもしれない。後に続く若い人たちに何かアドバイスをしていただけないか。

 「まず自分のことから言えば、一人の障害者として不便だと感じていること、自分がこうありたい、こういう社会にしていきたいと考えていること。そういうことを子どもたちに語っていきたいし、それはわたしの教師としての役割の一つだろうと思います。今はピンと来ないかもしれないけれども、これから気づいてくれることは大いにあると思うし、どこかで思い出して、生きていくパワーになってくれればと思います」

 そして、障害があってもなくても、教師としてやっていきたいのかいきたくないのか、まずはそれが一番大事だと前置きをして、次のように話し始めました。

 「障害のある方がたは、障害があるゆえに、色々なことを伝えたいだろうと思います。それを大事にしながら、子どもたちと一緒に学校生活を送っていただきたい。障害があるということは、ある意味では強みでもあるわけですから」

 三戸さんらしい、前向きな言葉です。わたしには「障害があるゆえに色々なことを伝えたいだろう」という言葉が、ひときわ強い印象を残しました。なかなか重い言葉でした。そして負けず嫌いでガッツあふれる三戸さんらしく、こんなことも話しました。

 「教師ですから、大事なことは授業ですね。生徒たちにとっては、先生に障害があってもなくても、最終的には授業が面白いか面白くないか、分かるか分からないかだと思うのです。授業で他の教員たちと、どこまで勝負できるか。教師という職業は、授業で健常の教員とサシで勝負できるという魅力があるのです。対等に勝負できる。判断するのは子どもたちです。子どもたちがもし障害のある先生を選ぶのであれば、それは障害の有無ではなく、〝人と人とのかかわり〟というものに動かされたからだと思うのですね」

 これは、19年という経験が言わせる言葉だろう、とわたしは感じました。うまくいかなくて落ち込んだり挫折したりした体験を、たくさん経てきたはずです。一つ一つ乗り越えてきた人ならでの自負であり、矜持でしょう。三戸さんは続けました。

 「それは子どもたちにとって貴重な価値観だと思うのです。障害があるからだめだとか、障害があるから健常者よりも劣っているとか、そういう価値観ではないですね。障害があっても、いいものはいい。それを受け止める心が子どもたちに育っている。逆に言えば、そういう価値観を育てるのが授業です。若い人たちも、ぜひ授業は一生懸命やってほしい。どういう授業だと子どもたちが分かってくれるか。わたしも今一生懸命やっています」

 障害は強みにもなる、という話題は、思わぬ方向へ進んでいきました。

 「いまの学校現場で最も重要な課題は、どうやって子どもたちの自己肯定感を高めるかということです。これは障害のある教師にとっては、ある意味では得意分野です。なぜかといえば、わたし自身にできないことがたくさんあるからです。何かあると子どもたちに『助けてくれ、手伝ってくれ』といって、ものを頼むことが多いわけです。子どもたちは助けてくれる。するとわたしから『ありがとう』という言葉が自然に出てきます。子どもたちにとってみれば、先生から『ありがとう』なんて言われるのは滅多にないことだし、それは自己肯定感が高まる体験のようなんです」

 〝障害をひらく〟という言葉を、わたしは以前、よく使っていたことがあります。三戸さんの話は、このことを思い起こさせました。自らの障害やコンプレックスに閉じこもり、社会や他者と距離を作って生きるのではなく、障害をひらき、自分もひらいて社会のなかに入っていく。そんな生き方のことです。もちろん、社会の方も、障害をもつ人たちに自分たちをひらいていかなくてはならない。今回の秋田県教委は、「障害をもつ」先生たちに一つ、社会をひらいて見せたわけです。三戸さんは続けます。

 「自己肯定感を高める教育はどんなものか」、「自己肯定感を高める授業はどうすればよいか」。そんなふうに方法論はたくさん語られる。しかし日常の場で、ありふれた出来事を通して培われていく自己肯定感こそ大事だろう。そういいます。

 「支え合いが育っていくためにも、社会全体が大きく変わっていく必要があるのかなと思いますね。障害のある教職員がもっと活躍できればいいわけですが、『障害者雇用』だから活躍するのではなく、子どもをいかに育てるかという面でも、障害をもっている教師の刺激は(教師だけには限りませんが)とても大事だと思うのです。教師というのはすごく魅力的な仕事です。若い人たちには果敢に挑戦してほしいですね」

 こうやって積極的に主張する三戸さんですが、わたしは一方で、とても自然体であることを感じていました。三戸さんに『僕は結婚できますか?』(無明舎)という本があります。なかに「図形を書けない数学教師」と題された文章があり、こんなことが書かれていました。黒板に定規で線を引いたりコンパスを使うことが苦手で、うまく描こうとすればするほど緊張してしまう。高校のときの数学教師が「コンパスをうまく使えるようになれば、一人前の数学教師だ」とよく言っていて、自在に美しい図形を描くその教師に三戸さんはあこがれをもった。自分が数学教師を志したとき、定規やコンパスを使って図形が正確に描けず、数学教師が務まるのかどうか、とても悩んだというのです。

 それでも数学教師になりたかった三戸さんは、現場に立ったときにどうしたか。コンパスは特別仕様のものを使い、直線はフリーハンドで描くことにしました。当然、線は曲がります。その図形を見せ、「皆さんはちゃんと定規を使って、きれいな線を描いて下さいね」と冗談をいって生徒たちの笑いを引き出す。そうやって進めるようにしたというのです。それでもときどき、「自分が図形を正確に描くことができれば、生徒たちの成績はもっと上がるのではないか」と悩んだ。保護者に相談すると「先生、考えすぎだ」とひとこと。こんなエピソードが書かれていました。そうやって一つずつ乗り越えながら、自分の「障害」に対して自然体で向き合えるようになっていったのだろう、「障害」をひらいていったのだろうとわたしは推測しました。取材ではこんなことも話してくれました。

 「わたしの話す言葉を聞いて、子どもたちは数学の内容を理解するわけだから、相当難しいと思うのです。でもそれをやっている生徒たちは、客観的に見るとすごいなと思うんです。ただ聞くだけではなく内容を理解しないといけないわけで、生徒たちにとっては相当ハードルが高いんじゃないかと思うんだけど、ちゃんと理解してくれる」

 少しだけですが、三戸さんは〝話し方〟にもハンディキャップがあります。そのことを自覚していて、自分から触れてきたのです。

 「もちろん『つまんない』『わかんない』と言われたときは、自分の指導方法を見直さないといけないなと思います。生徒は正直に言っているわけです。でも障害があるから分からないとは言っていなくて、普通に、純粋に分からないと言っています。だから私も真剣に受け止めます」

 教え方がその生徒に合っていないのではないか。そう考える貴重な経験だと三戸さんはいいます。子どもたちに数学の自信をつけさせたい、それが目標だともいいます。

 取材中、わたしがちょっと驚いたのは前任校で卓球部の顧問をしていた、という話題になった時でした。三戸さん自身も大会に出場する現役の選手だということで、トレーニングをしてきたとも言いますが、2年間、卓球部の監督を務め、女子団体を学校で初めて全県大会への出場に導いたというのです。

 「何がよかったかというと、卓球部の生徒や保護者が、4月の初めに、わたしと生徒たちで、新しいで卓球部を作っいってほしいという合意が、最初にできたことです。わたしは『自分はこういう体だから、卓球をやっているといっても、やれることには限界がある、子どもさん方が本格的にやりたい、勝ちたいということであれば、前年度までコーチがいたので、そのコーチをつけることを考えてもいいですよ』と言ったのです。すると、『三戸先生にやっていってもらいたい。そこにわたしたちは価値があると思っている』、そう保護者が言ってくれたのです」

 他校に練習試合に行くときは、先生の送り迎えくらいしてもいいから、気にしないでやってほしいとも言ってくれ、三戸さんは意を決して一人で卓球の指導をしたといいます。
 
 「卓球も他のスポーツも、いまインターネットのユーチューブ動画があります。子どもたちは動画を観れば、すぐ真似ができるようになるのです。本で読むより動きが分かります。わたしも毎日ユーチューブを観て、使える動画をストックし、必要な時に動画を見せ、技術を教える。そうやって行くうちに、どんどん子どもたちが力をつけていきました。技術指導はそれで十分です」

 言われてみればなるほどと思いますが、目からうろこが落ちる思いでした。障害をもっている指導教員であっても、技術指導は動画がやってくれる。それをフルに活用すれば経験者でなくてもできる。もちろんそれだけではなく、三戸さんはスポーツ指導者としてどうあるべきか、勉強をしたともいいます。

 「指導者で一番大事なのは、自分に競技技術があるか、指導技術があるか以上に、選手のやる気を引き出し、メンタルをどう支えるかです。あとは体のどこをどう使えばもっとよくなるか。練習量をどれくらいやらせるか。ただ球を打っていればいいという時代ではなくなっています。マネジメント力といいますか、それは勉強しました。色々な指導者に会って話を聞くようにもしました」

 三戸さん自身も選手として強くなりたいと考え、専属のスポーツトレーナーを頼み、筋トレをしたといいます。体幹を鍛えるにはどうするか。どのクッションボールを使えばどこが鍛えられるか。まさに選手たちと一緒に学んでいったわけです。

 「女子選手の練習メニューも作りました。うれしかったのは、選手たちが付いてきてくれたことです。ありがたいことに、先生の指導が分からないとか、何のためにこれをやっているのか分からないということがなかったことでした。3年生の春の大会で初めて全県大会に出場し、そこから選手も変わり、わたしも変わりました。親たちも変わっていきました。ほんとうに楽貴重な体験でした」

 最後にもう一つ加えておきたいと思います。内情をきちんと調べないままに部外者が勝手なことを言うのは慎みたいのですが、やはり書き留めておきます。三戸さんの担任問題です。先輩風を吹かせて色々と書いてきましたが、わたしの教員歴は21年。三戸さんは19年。ほとんど遜色はありません。それだけの期間、一度も学級担任を経験できなかったというのは、どうしても不自然さを感じます。

 通勤問題に関しては県教委の英断がありました。秋田は全国に名をはせる教育県です。この問題に関しても、教育県秋田ならではの全国に先駆けた叡智あふれる判断を示していただけるよう、強く願います。授業、部活動と並んで、担任としての学級経営は、なんといっても中学校教員としての腕の見せ所であり、醍醐味なのですから。

教職課程 2020年 01 月号 [雑誌]
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