(第25回)異動理由と「合理的配慮」をめぐる論理は破綻していないか


教員の実雇用率が低い理由

「障害のある先生」と打ち込んでインターネット検索をしていたら、次のような「エッセイ」を見つけました。タイトルは「障害者が教員免許を持っていないのではない――教育委員会の実雇用率が低い理由」
https://www.dpi-japan.org/friend/restrict/essay/essay0110.html
初出は「障害者欠格条項をなくす会ニュースレター52号」)。

執筆者は久米祐子さんという脳性まひのある教員の方です。執筆時期は2011年11月。以前紹介した「障教ネット」の「準備会会員」とあり、三戸学さんに尋ねると、この時期一緒に準備会の活動をしていたといいます。昭和34年生まれと記載されていますから、おそらく「障害のある先生」のなかでも草分け的な存在だろうと思います。

内容をかいつまんで紹介するならば、ご自身の生い立ちから始まり、教員をめざしたのは、母親が「教師にしたい」と考えたことが最初のきっかけだったこと。教育大学に入学するが、そこで出会った障害当事者の先輩たちがぶつかっている様々な難題と、現実の厳しさ。

そんななか、久米さんは教員免許状を取得して卒業、3回目の採用試験で晴れて合格するのですが、受験前に結婚し合格の前年に出産しています。配偶者や家族は、子どもを育てることだけでも大変なのにその上に教員など務まるわけはない、と受験そのものに大反対。しかし本人は「わたしは結婚や子どもがいるくらいでは、教師になるのを諦める理由にはならないと思っていた」とさらりと書いています。このあたりが〝草分け〟と呼ばれる人たちのすごいところです。色々と紹介したいことはあるのですが、この程度にとどめ、次が本題になります。

なぜわたし(久米さん)がこのような文章を書いているか。「障害者が教師になることへの有言無言のいやがらせ・妨害があるのを知ってもらいたかった」からだ。2007年、厚労省は、教育現場で障害者雇用の達成率があまりに低いと新聞報道されたことを受け、都道府県と政令都市の教育委員会に雇用を改善するよう勧告を出します。文科省はこのとき「雇用率が低いのは教員免許を持っている障害者が少ないためだ」と答えたと言いますが、久米さんは「これは大きな間違いである」と一刀両断します。「障害者が受験しても障害があることを理由に不合格としてきた長い歴史」を伏せ、障害者側の理由に「すり替えている」と。

この訴えがエッセイの主題です。「教員免許を持っている障害者は法定雇用率を満たす程度にはいる」のだが、「不合格として採用してこなかった事実」が「『既成事実』として定着」し、「採用試験の受験すらあきらめさせるような「親切な」助言などになって横行し、それを聞いて断念した障害者が圧倒的に多い」と、手厳しく指摘しています。たとえば、教員免許状取得の際に「健康診断書」の提出が義務付けられているが、大学の一括提出ではなく個人提出の場合、「身体的障害の有無」を目の前で医師に記入してもらわなければならない。医師はどう判断するか迷い、久米さんは、受験のたびに医師を説得しなくてはならなかったと書きます。

「これでは、説得する方法が分からない人〔障害者‐佐藤註〕は「教師になるのは無理だ」と教員免許を取得する段階で断念するケースもあるという事実も存在する」。教員免許状をもつ障害者が少ないのではなく、文科省や教育委員会が「教員免許を、障害者にとらせにくくしてきた」し、持っていても採用してこなかったのが実情である。そう主張しています。

データなどの裏が欲しいところではありますが、ともあれさもありなん、先駆者の証言としてたいへん貴重だとわたしは思います。こんな昔のことをいまさら持ち出してどうしようというのか、文科省も教育委員会も障害者の人権に配慮した取り組みを進めているさなかではないか。そのように感じるでしょうか。

これを取り上げたのは、〝草分け的存在〟の並大抵ではない努力を記憶しておきたいと考えたことが一つです。もう一つは、文字起こしされた三戸さんの「第1回口頭審理調書」を読んだことに関連します。

三戸さんの「口頭審理書」を読んで


前回は三戸さんのインタビューを踏まえ、口頭審理の様子をレポートしました。前回も、そしてそれ以前もそうだったのですが、わたしは自分の見解をさしはさむことを控えてきました。係争中だからという理由もありますが、それ以上に、わたしの不用意な発言が三戸さんに迷惑を及ぼすことを恐れていたからでした。

しかし今回は「口頭審理調書」を読んで、そこでの感想を率直に書いてみたいと、そう決めました。その引き金となったのが「口頭審理書」とともに、先ほどの久米さんのエッセイです。これから批判めいたことを書き進めていくことになりますが、個人攻撃の意図はありませんので、個人名は伏せます。もう一つ、これはあくまでもわたし(佐藤)個人の自由意思によってなされる見解です。

結論めいたことを先に述べてしまえば、秋田県教育委員会(県教委)によって異動を命じる「合理的理由」とされているものが、はたして合理的な理由となっているかどうか疑問を感じざるを得ないということです。もっと率直に言ってしまえば、それらは破綻しているとわたしには感じられます。

異動を命じる理由の一つが、次年度より校舎改修工事が始まり、三戸さんが移動手段として使用していたエレベーターがストップすること、資材などが廊下に置かれることになり安全性が危惧されること、としていました。しかし三戸さんの証言によれば、前任校の職員に尋ね、エレベーターが止まった事実はないと確認をしています。廊下に置かれた資材も隅にきちんと片付けられていて、「三戸さんが電動車いすで移動する際も困ることはないと思う」と話していたともいいます。

三戸さんは20年におよぶ電動車いすのユーザーです。初心者ならばまだしも、その扱いには熟練しているはずです。身体論などを持ち出すまでもなく、慣れ親しんだ機器は「身体」と同一化し、「身体」感覚を拡張させます。野球選手にとってのバットやグローブは、熟練すればするほど手足と同様の「感覚」をもたらすはずですし、ドライバーならば愛車が身体と一体化している感覚は理解されるはずです。もう一つ、安全性について、三戸さんはとても的確なことを述べていました。「資材があちこちに置いてあることが、あなたにとって危険な環境だと感じられますか」と、代理人の清水建夫弁護士に問われたとき、それは考えられないと言い、理由を「まずそこに生活する子どもたちがいるわけで、わたしが安全でない場所は、子どもたちにとっても安全でない場所であると認識しているので、その資材が職務上、何か不便を被るということはないはずですし、ないと考えていました」と答えていました。これ以上ない的確な正論です。

つまりは、事実が裏付けていない、三戸さんの車いす使用に関しても実状と解離している、「学校の安全性」という観点からみても合理性はない。以上の点を考えれば、改修工事が始まるために安全性へ配慮した、それが異動の理由であり「合理的配慮」である、とするロジックは成り立たっていないと思います。

教科指導と部活指導という三戸さんの自負を、なぜ損なう選択をするのか

もう一つ、近隣地域の学校における数学という担当教科のバランスを考慮した異動だとも証人(教育事務所長)は述べていました。わたしは「口頭審理調書」を読んで次の事実を初めて知ったのですが、平成29年度と30年度、前任校では2年生の数学を担当していたといいます。数学の担当は各学年1名。2年生の数学担当は三戸さんのみです。家庭に配布していた校報に「県の学習状況の調査のお知らせ」というコーナーがあり、三戸さんは2年間とも県の平均点を上回っていたと言います。教科の指導について、そこは自分にとって一般の先生たちと対等に競えるところである、だから努力するのだと繰り返していました。いわば三戸さんの自負とアイデンティティを支えている重要なポイントです。

人事は教育委員会の専権事項であり、内情などは絶対に外には出さないでしょうから、以下はわたしの推測になります。と言っても、とても単純なことです。きちんと実績を上げている数学の教科担任を(数学は受験にとって重要科目だということは認識されているはずです)、3年間の期限が来たからといって簡単に手放すということは、ちょっと考えにくいところです。しかも20年間の間、3年年ごとに異動をくり返しており、それがレアケースであることを証人は認めています。一教員の自負を損なってまで、なぜそんなことをする必要があるのか。むしろ不合理な判断です。

あまり強調すると、子どもたちに対する点数至上主義や、教員の能力主義を推奨してしまうことになりかねないのですが、きちんと結果を残している教員はできるだけ手放したくないというのは、通常働く管理者(校長)の心理ではないかと思います(わたしの場合は特別支援学校でしたが、「力のある教員をできるだけ多く集めたい、それが自分の校長としての仕事だ」という趣旨の発言を聞いたのは、非公式の場ではありましたが、一度や二度ではありませんでした。ここでは書きませんが、プライベートなことを含めてその他諸々、「なるほど。校長というのは人事についてこういう思考をするのか」と思ってきました。その経験則がここでの推測の根拠です)。

また以前報告していますが、前任校では三戸さんは卓球部の顧問としても好成績を上げ、保護者の信頼を得ていました。中学校において部活指導に実績をもつことは教員にとってのセールスポイントにこそなれ、積極的に手放さなくてはならない理由とはなりにくい。教科指導にあっても部活指導にあっても、前年度以上の結果を残せるよう条件整備、環境整備に努める、というのが管理者がする「合理的配慮」でしょう。したがってここでの異動理由も説得力を欠く、とわたしには思われます。

三つめは居住環境。三戸さんは自宅で母親との二人暮らしです。自宅はもちろんバリアフリー。母親による生活面のサポートはとても貴重です。しかも前任校は自宅から近距離にあります。清水弁護士の、「障害をもっている三戸教諭が、実家を基本として勤務環境を選択する、それを推進するのが合理的配慮ではないか」と問いかけたのに対し、「勤務される学校の距離が近いほど、それは合理的配慮の部分にあたるかとは思います」と、証人は認めています。加えて、5万5千円のタクシー使用の交通費を認めてなお、月に2万から3万の自己負担が出るが、それは個人の自己負担の額としては高額であることも証人は認めています。繰り返しますが、よりよい環境整備を進めることを「合理的配慮」とこそ言え、より負担の大きい、悪条件への選択を進めることがなぜ「合理的配慮」と言えるのか。この点でも理解に苦しむロジックになっています。見てきたように、異動の理由とされているものはどれも「合理的配慮」とするにはとても無理がある、そう受け取らざるを得ないものです。

「地域特性を配慮した」というロジックの含意するもの

もう一つ、次の事実も「口頭審理調書」を読んで初めて知りました。前任校を管轄する町の教育長が、次のような発言をしていたと言います。「この地域は学校教育に関して異常なほど敏感で、何かあるとすぐさま苦情を訴えに来るという地域性を持っている町であります。本教育委員会としては、保護者のクレームが三戸教諭に及ばないようにと、今まで多くの合理的配慮をしながら学校と連携しながら支援してきております」。したがってこの町で三戸教諭が勤務するのは適切ではない。そういう理屈です。

率直に書かせてもらいますが、これは合理的配慮に名を借りた差別発言ではないか、と指弾されても弁解のしようがない発言ではないか。そうわたしは感じました。三戸さんにクレームがくることが前提とされていますが、その理由は何でしょうか。三戸さんは、3年の間に全くクレームなどなかった、この発言の意味がよく分からないと答えていますが、「身体障害があるのだから、クレームがあって当然」ということが、この発言にはおのずと含意されているのではないか。わたしにはそう感じられます。これが理由の一つ目です。

二つ目は、かように「異常なほど敏感で、何かあるとすぐさま苦情を訴えに来る」のであれば、その対象となるのは三戸さんだけではないでしょう。学校という職場は色々な事情をもつ教員の集団です。親の介護をしながら働いている人、育児に追われながら働いている人、また心身に病気を抱えながら働いている人もいるはずです。様々な事情で有給休暇をフル活用しながら勤めている教員は少なくないはずです。休職‐復職をくり返しながら勤めている教員もおそらくはいるはずです。「異常なほど敏感」であるならば、そういう教員にも苦情は向けられるのではないでしょうか。なぜか三戸さん一人だけがここでの対象となり、異動の理由とされている。これが二つ目の理由です。

ここからは一般論ですが、久米さんのエッセイと言い、この教育長の発言をはじめとする県教委のロジックと言い、ここには共通点があります。多様な人たちを広く受け入れているようでいて、実はそこには様々なかたちでバリアをつくりあげている。そのバリアによって、教育を担う自分たちのメンバーにふさわしいかどうかを峻別している。自分たちにふさわしいメンバーは受け入れるけれども、そうではないと判断したときには、様々なバリアを駆使して、できるだけ峻拒しようとする。そういう体質を根深くもっていることを、改めて感じさせます。

2001年、大阪教育大学附属小学校に一人の男が乱入し、児童8人の命を奪い、教員を含む15人に重軽傷を負わせるという、とんでもない事件が起きました。学校の校門はその時以来頑丈に閉じられ、簡単には部外者を入れないようセキュリティ強化を努めるようになりました。しかしそれ以前の学校は、校門を常時開き、「地域に開かれた学校」というコンセプトのシンボルとなっていました。ところが、門が開いているからと言って、本当に地域住民に開いているかと言えばそうではありませんでした。「開かれた門」をくぐるためには、〝資格〟が必要だったのです。地元の自治会関係の役員、消防・警察の人たち、行政関係者、学校に出入りする業者etc。それ以外の、どこのだれかが分からないような人たちが一歩門をくぐろうものなら、教頭・教務、若手の男性教員がとんで行って、すぐに追い出しにかかりました。それが「地域に開かれた学校」の「開かれた門」の実状です。

2001年以来門は固く閉じられたので、もうこんな〝騒動〟は見られないでしょうが、学校現場というもののあり方をとてもよく示している、とわたしは強く感じてきました。久米さんが批判していたように、障害のある人たちになるべく教員免許を取らせないようにする、受験してもなるべく合格させないようにする。しかし一方では開かれた教育を自称し、宣伝文言とする。こういうダブルスタンダードは、文科省や教育委員会にあっても同様です。こうした体質は、どこまで変わったでしょうか。変わろうとしているでしょうか。

特別支援教育の名のもとで子どもたちの選別が行われている、という報告を紹介しました。ユニバーサルという考え方が学校スタンダードに見事に転用され、子どもたちや先生たちの一挙一動を縛っている、その縛りが年を追うごとに厳しくなっている、という報告もしました。合理的配慮の名のもとで、巧妙に排除を行おうとするという先ほどの例は、見事にここに連なるものでしょう。「合理的配慮」の内実は、それを受ける当事者にとって選択肢が増える、自己決定できる幅が増えるということに通じていく配慮のはずです。残念ながら、それとは逆のことが三戸さんに「合理的配慮」として伝えられています。ほかの選択肢が封じられているのです。

前回の取材の最後に、「たくさん報道で紹介されたようですが、周りの人たちから何か反応がありましたか」と尋ねると、「昨日〔8月4日〕、職場に行ったのですが、子どもたちが、先生、テレビ見たよとか、新聞読んだよ、と言ってくれました。なかに「先生のことを取り上げてくれてうれしかった」という言葉があって、わたしのほうもうれしくなりました」と答えました。自分が働きやすい状況を自分で作っていくことと、仲間の支えの大切さを強調しました。これは自分より大きな〝何か〟に立ち向かっていくときの鉄則だ、とわたしも思います。
 
9月下旬に、三戸さん側からの「最終陳述書」が提出され、年内には人事委員会の判断が示される予定だと言います。期して待ちたいと思います。
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(第24回)「障害のある先生」への合理的配慮・再考


テレビや新聞、そしてSNSでは、新型コロナに関連するニュースが溢れ返っています。東京、大阪、沖縄を中心に増加を続ける感染者数が毎日報じられ、出口は一向に見えません。重症者数や死者数が少ないというデータから、ここまで大騒ぎするような事態なのか、と疑問視する声も一部では報じられ始めています。また一方で、国は、何を、どうしようとしているのかがまったく見えない、そのことが国民の不安を大きくしている最大の原因だ、と不作為が厳しく非難されてもいます。

こんななかで、子どもたちの教育がこれからどうなっていくのでしょうか。学校現場では、学びの機会をどう確保するか、苦慮を重ねながら試行錯誤をしていると報じられます。また、教員の採用試験をめぐっても、わたしなどには想像のつかない〝想定外〟の事態に直面するかもしれません。教育実習がどんなふうにして行われるのか。学習指導案ひとつ書くのでも、微妙に変わってくるのではないか。そうしたあれこれが、わたしにははかり難いところがあります。

このコーナーではこれまで、学習指導要領の改訂と教育改革の問題、ITと学力の問題、忙しすぎる学校現場、働き方改革について、千葉県野田市での小4女児の死亡事件、障害のある先生と働き方支援について、といったテーマを取り上げてきました。
今回は改めて、「障害のある先生」をめぐる問題について考えてみたいと思います。

「車椅子の先生」、三戸学さんとの出会い

登場していただくのは、秋田県の中学校で数学の教師を務める三戸学さん。今年で20年目になるベテランです。三戸さんには先天性の脳性麻痺があり、車椅子を移動手段としています。わたしが三戸さんを知るきっかけとなったのは、2019年6月18日付の一つの新聞記事でした。

昨年(2019年)4月、三戸さんは現在の勤務校へ異動を命じられました。ところが、学校の近隣にはバリアフリー仕様の住居がありませんでした。自宅から通勤するためには、タクシー利用を余儀なくされます。往復で4,200円となり、一部しか通勤手当の対象とはなりません。そこで秋田県教育委員会(県教委)と学校は、同僚教員(主に教頭)の送迎ボランティアによる通勤を「提案」します。

ところが三戸さんは納得せず、異動の取り消しと交通費の支給を求めて、県の人事委員会に不服審査請求を出します。「障害者が不安なく働くことのできる環境を整えてほしい」というのが、三戸さんの訴えでした。記事を見た後、すぐに三戸さんにコンタクトを取り、この間、三戸さんの詳しい主張とその後の事実経過を追いかけてきました。

昨年8月、わたしは三戸さんの自宅に伺いました。そこで三戸さんは次のように述べていました。審査請求を訴えたときは、交通費の全額支給を認めてもらうことが重要な争点だった。しかしその後、れいわ新選組の木村英子さんと舩後靖彦さんという重度の障害をもつ両議員の登場によって、状況は大きく変わった。もはや自分(三戸さん)個人の問題である以上に、「障害のある教員」に対してどう公的に支援していくのか
という方向に問題がシフトし、全国的な関心を呼んでいる。――おおむね、こんなことを語っていました。

8月8日、県教委は、三戸さんの訴えに対して全面否認の答弁書を提出します。そして9月12日、三戸さんはそれに対する反論書を出しました。すると県教委は10月1日付で、次のような通達を県内の公立学校に出します。

市町村立学校職員にあって日常的に車椅子を利用しており、自力での通勤が難しい、公共交通機関の利用ができないなどの事実が認められた場合、タクシーを利用しての通勤を認める。そして55,000円を上限とする通勤費の支給を決定したというものでした。これで三戸さんの自己負担額は、大きく緩和されることになりました。三戸さんの代理人である清水建夫弁護士からは、「一歩前進である点は評価したい。今後の進展を注目していきたい」というコメントがありました。そして2020年8月3日に、口頭審理が公開で行われることが決定します。
 以上がこの間の経緯でした。

どんな口頭審理だったか――異動について

公開口頭審理が行われた8月3日、わたしは傍聴する予定でした。しかしこのコロナ禍のさなかに、「goto トラベル」などという信じがたいキャンペーンが強行された結果、全国で感染者数が激増しました。地方は、東京圏からの移動に対してとても神経質になっています。秋田の実家や友人たちに連絡を入れてみると、「帰省は控えたほうがいい」と明言され、傍聴はあきらめました。そこで8月5日、三戸さんにオンラインでの取材をお願いしました。以下はそのときの三戸さんの報告をわたし(佐藤)がまとめたものになります。

公開審理の当日、傍聴者は三戸さんの元同僚、福祉関係者、知人など秋田県在住の5名だったといいます。メディア関係では秋田さきがけ新報、共同通信、NHK秋田支局、AKTテレビ、読売新聞、河北新報など、県内の主要メディアのほとんどが顔を見せていました。やはり「働く障害者の支援や権利擁護」という三戸さんの訴えは、確実に広がりを見せているようです。

開始は1時半。答弁に応じたのは中央教育事務所の稲田修所長。稲田所長は、三戸さんの異動に当初からかかわってきた方でした。最初は清水建夫弁護士によって証人尋問がおこなわれ、次に処分者側(県教委)の主任代理人による反対尋問がありました。三戸さんも直接尋ねたかったことがあるというので、質問が認められました。三戸さんによれば、ほかにも証人申請を行っていたのですが、認められたのは稲田証人一人だけだったということでした。

最初の質問は異動の内示に関することでした。通常は1回の話し合いで決定するのですが、三戸さんの場合は1月に内々示がもたれ、2回目の2月18日に次の勤務校が内示として伝えられました。稲田所長はやや長めに準備期間を取ったといいます。清水弁護士が「1か月半の期間をとったことで、準備は十分に整いましたか」と尋ねると、稲田所長は「しっかりとは整っていなかった」と答えたといいます。

ここでの「準備」というのは、三戸さんの通勤方法についてです。三戸さんは通勤の方法がどうなるのか、納得できる説明を求めていました。「異動を拒むものではない、納得のいく通勤方法が示されないことには、応じたくても応じられない」、というのが三戸さんの主張でした。しかし2月の内示の時点では示されず、3月28日になって初めて、校長・教頭がボランティアで送迎する旨が伝えられました。

「稲田所長は、通勤に関する準備が整っていないことをはっきりと認めました。わたしのほうはびっくりしました」と、三戸さんは述べました。

8月8日の県教委による「答弁書」を見てみると、通勤方法に関しては県教委と校長・教頭が協議し、三戸さんと話し合いを重ね、双方で最善の結果を探っていった結果の判断である、三戸さん側も「同意した内容」であると、明記されています。三戸さんは同意してはおらず、この見解は対立しています。答弁書で示されている見解と稲田所長がここで述べた発言内容とは、若干の(しかし大きな)違いがあり、三戸さんの驚きはここに起因しています。

清水弁護士はさらに尋ねました。「通勤方法が整っていなかったのに、なぜ異動を命じたのですか。異動を命じる理由が何かあったのですか」。すると稲田所長からは「異動の命じる内容は学校管理者である町の教育委員会と、任命権者である県教育委員会の方針によって決めるものですから、この場でお答えすることはできません」という答えが返ってきました。

清水弁護士は続けて尋ねました。「異動の理由は0、前任中学校で校舎の改修工事が始まる。そのために三戸さんには不便をかけるから、ということで異動の対象になったのではないですか」。稲田所長が、「それも理由の一つであるけれど、それがすべてではない」と答えたので「他に何があるのですか」と重ねて訊いたところ、「それは先ほどと同じ理由で、この場ではお答えできません」と答え、次のように言ったといいます。「県の教育委員会の異動の方針は、中学校の場合は教科で地域間との調整をはかるということなので、三戸さんの場合も理由の一つはこれに該当すると受け止めています」

清水弁護士が次に「三戸教諭は20年間で6度異動し、5回の引越しをしている。こういう異動は、秋田県ではどれくらいの人がやっているんですか」と尋ねると、稲田所長は「とてもレアケースです」と答えました。「レアケースだということですが、どうしてそのレアなことを、障害をもっている人間がやらないといけないのですか」と、清水弁護士が尋ねたところ、「先ほどと同じ理由で、異動は市町村教育委員会と県教委の方針に基づくものであり、この場では答えられない。中学校の場合、教科と地域間の調整なので、それで三戸教諭は異動の対象になっていると受け止めている」と、稲田所長は答えました。

三戸さんは言います。「稲田所長の、レアケースだという答えを聞いて、わたしはびっくりしました。そして複雑な気持ちになりました」。先ほどの「答弁書」を見ると、平成31年度の人事異動実施要項に、「配置換は原則として同一校3年以上の者」とあり、三戸さんはすでに3年間勤務しており、三戸さん側が主張するような「例外的なものではない」と書かれています。齟齬はないのですが、あきらかにニュアンスが異なっています。

次は通勤費の負担額の話になります。「交通費として55,000円支給されるようになりました。しかしそれでも、月額平均で26,000円から28、000円の自己負担があります。この負担額は高いと思いますか」と、清水弁護士が聞いたところ、稲田所長は「高いと思う」と答えたといいます。やはり三戸さんは「これにもびっくりした」ということでした。

「教頭の送迎は出張扱いの公務だった」

三戸さんは、清水弁護士の後に質問に立ちました。
2月18日から1か月半の準備期間があったが、記録によると、一度も同僚の送迎を通勤方法として考えていると言っておらず、初めて伝え聞いたのが3月28日だった。「そのとき突然、4月から同僚の送迎で通勤してもらいたいと言われたのですが、どうして事前に相談してくれなかったのですか」と尋ねたところ、稲田所長は「それに対しては素直に謝ります」と答えたといいます。

三戸さんは重ねて聞きました。「事前に相談してもらえれば、乗れる車種や乗りにくい車種、乗り降りのときにどんな介護が必要か、といった具体的なことも検討できました。万が一事故が起きた場合の補償も、しっかりと考えることができたのではないですか」。この尋問で稲田所長は次の事実を明かしたといいます。

「補償に関しては、6月の下旬から校長が教頭に職務命令をかけて、公務として教頭が送迎に当たっていたというのです。事故のことを考えて公務にし、手当も支給されていた」

この事実は、三戸さんには伝えられていませんでした。「初めて知る事実がここで出てきたわけで、わたしは動揺しました」

三戸さんは強い不信感をもち、公開審理翌日の4日、職場に行って教頭に確認したといいます。

「審査請求でこんな話が出ましたけど、ほんとなんですかと聞くと、教頭は本当だと言いました。いつからもらっていたんですかと聞くと、公務になった6月21日からもらっていたといいます。何の手当ですかと聞くと、出張手当だと答えました。毎日学校からわたしの自宅まで出張教職課程 2020年10月号 (今日から始める! 教員採用試験スタートガイド)
教職課程 2020年10月号 (今日から始める! 教員採用試験スタートガイド)していたというわけです。でも、出張扱いにできるんだろうか」

教頭は、出張扱いであれば、事故があったときにも補償できる。「あなたのことを考えての対応です」と話したといいます。三戸さんが「なんで教えてくれなかったのですか」と聞くと、次のように答えています。

「県の教育委員会からは、直接本人に教える内容ではないので教えなくてもいい、そう言われた、と教頭はいうのです。さすがに昨日(4日)は落ち込みました。わたしはずっと教頭のボランティアだと思っていたので、申しわけないなあ、他にもたくさん仕事があるのに、大変だろうなあと思っていました。でも送迎していた半年間のうちの半分を、公務としてお金をもらってやっていたわけです。これはショックでした」
三戸さんは、公務ということであれば自分の考えも違ってくる、と言います。ボランティアだというのでは合理的配慮には当たらない、適切な合理的配慮をしてほしいと主張してきた、しかし教頭の送迎を公務としたということは、自分への合理的配慮にあたると言い、次のように述べました。

「合理的配慮であるならば、本人がそれを知らないということはあり得ないと思うのです。本人の知らないところで周りが合理的配慮をしている、本人はそれを厚意によるボランティアだと受け止めて感謝している、なんていうことは基本的にあり得ない。本人に伝えるべきだったと思います」

なぜ県教委が三戸さんには伝えなくともよいという判断をしたのか、理解に苦しみますが、「合理的配慮」は「障害者基本法」の第4条に、社会的障壁の除去に関してその実施が定められています。2016年に改正された「障害者雇用促進法」でも、障害者の職務が円滑に遂行できるよう環境整備、支援人員の配置が「合理的配慮」として雇用主に義務付けられています。確認のために繰り返しますが、これは善意や厚意などといったものではなく、努力目標でもなく、はたして当然の「義務」です。

わたしは三戸さんに尋ねてみました。ここまで稲田所長は、譲歩したとも受け取れる発言をしていたと感じたけれども、今後の異動にあたって改善していく意思はあるのかどうか、その点についてはどういう手ごたえでしたか。

「事前に意思確認を丁寧におこない、通勤に関する整備はおこなっていきたい、とそういうことは感じられる答えだと思いました」

三戸さんは、口頭審理を終えた後、そこから受け止めた課題を次のようにまとめました。
・同僚に障害のある教員の通勤支援をするよう、校長が職務命令を出せるのか。
・教頭という管理職であれば、校長は職命令を出せるのか。
・毎日の、職員の通勤送迎費用は出張手当として出せるのか。
・働く障害者の支援に、支援する者を配置するのではなく、同僚に職命令を出してして支援体制を作ることの是非。同僚にとって新たな負担になるだけではないか。

公共交通機関のとぼしい地方にあって、「障害のある先生」がどのような通勤方法を選ばなくてはならないかは、共通する重要課題だろうと思います。三戸さんのここでの「まとめ」は、通勤方法と合理的配慮をめぐって、実務のレベルから問題点を取り出したものと言えるでしょう。
三戸さんは最後に次のように心境を述べました。

「2020年4月から、各地方公共団体で障害者活躍推進計画が作成されました。障害のある教職員も活躍して働くことを求められるようになりました。わたしは、そのための合理的配慮のあり方を問いたいと考えています。単に働くのでなく、活躍しながら働いていきたいのです」

好意的に見るならば、秋田県教委の一連の対応は、まったく前例がないなかで少しでも三戸さんの要望に応えようとしたものだと言えなくもありません。しかし合理的配慮という義務事項についての認識が十分だったのかどうか、今後の課題として残されたように思えます。「活躍しながら」という言葉に込められた三戸さんの思いを、うまく伝えることができたでしょうか。20年間、一人で噛みしめてきた様々な思いが、そこには込められているようにわたしには感じられます。


「Society 5.0」と子どもたちの身体知(連載23)

〝教育〟はどこに届くのか(第23回)               
「Society 5.0」と子どもたちの身体知

ウィルス感染の予防と子どもたちの教育機会の保障。この難しいバランスをどう両立させるか。それがいま、学校の最大の課題だろうと思います。前号では、感染予防対策の行きすぎは、子どもたちの成長にとって重大な支障をもたらすのではないか、という疑義を書きました。すると投稿後、SNSに次のような記事が上がってきたのです。

「学校でのフェイスシールドの着用 ちょっと待ってください 大阪小児科医会からのお願い」と、タイトルされたもので、引用します。
「★フェイスシールドは「うつさないため」にするものではありません。

・フェイスシールドは血液や飛沫から医療従事者を守るためにするもので、他人から「うつされるリスクが高いとき」に使用するものです。/学校生活では、児童・生徒にフェイスシールドの着用は必要ありません。

★フェイスシールドの着用で以下のようなトラブルが心配されます。
・熱中症のリスクが高まります。/物がゆがんで見えたり、光が反射して、授業に集中できません。/転倒などで顔面や眼を傷つける心配があります。」

あくまでも医療的観点からの提言という形をとっていますが、底流にあるのは、子どもたちの育ちへの危惧でしょう。大阪小児科医会の「お願い」は正論そのものです。

AIの時代とアナログ知の復権

わたしの危惧について、もう少し別の角度から光を当ててみましょう。科学技術の発展と情報ツールの拡大は、間違いなく暮らしの利便性を高めました。ただし物事には、作用があればかならず反作用があります。反作用の最たるものが、「身体知」を弱くさせていることだとわたしは考えてきました。いくらデジタル化が進もうとも、人間の「身体」は自然そのものです。理性や科学では統御できないものを、どうしたところで身体は抱え込んでいます。だからこそ教育の重要性があるわけです。近年強調される「自ら学び自ら考える力」とか、「生きる力」といったものは、身体知との相互作用によってこそ涵養されていくのではないか。そういう仮説さえわたしはもっています。

こうしたなか、「ウィルス感染の予防」が最優先される社会とは、人間の行動や暮らしを科学(医学)の名のもとでコントロールしようとする社会のことであり、学校も同様です。子どもたちにたいする管理とコントロールが、感染予防という誰にも反対できない名のもとでさらに強くなっていくならば、子どもたちは自然性から切り離され、身体知と学びはますます脆弱になっていく。それが、過剰な感染予防に感じるわたしの危惧です。

ここから「Society 5.0」の話題に少しずつ転じていくのですが、この間、こんなことがありました。わたしは「人間と発達を考える会」という勉強会を10年以上にわたって続けています(子どもの育ち、学び、発達障害、児童虐待や不登校など、様々な課題を取り上げて議論する会です)。そのメンバーの一人である佐川眞太郎さんより、『デジタル・AI時代の暮らし方』(浅間正通編著・南雲堂)という本を送っていただきました。佐川さんはある大学の相談室で心理臨床に取り組む公認心理師で、本のなかで分担執筆をしています。サブタイトルが「アナログ知のポテンシャル」、帯には「AIが浸透する社会と共存してゆくには――アナログ知の大切さを説く」とコピーされています。「コロナの時代と子どもたちの「身体知」」というテーマを、どう掘り下げていこうかと思案していた真っただ中。センサーが激しく作動し、すぐに読み始めたのですが、膝を叩くようなことばかりでした。

大雑把に分類すれば、情報処理という学問領域に入れていいでしょう。「デジタル学習ツール」「Web教材」「ディープラーニング」「AI学習」というように、学びのデジタル化が加速しているなかで、それぞれの分野のエキスパートがアナログ知の重要性を再認識しよう。そういう意図によって本書は編まれています。

例えば編者の浅間氏は情報リテラシーの立場から、電子辞書の再普及という昨今の現状を取り上げます。電子辞書派(電活派)と印刷辞書派(印活派)に分類し、双方がどのような翻訳をし、そこにどんな差異がみられるか、英単語検索実験を試みます。電活派のほうは一語一訳の罠にはまっており、文脈への配慮という点で印活派のほうが勝っている、という実験結果を導き、Eラーニング(electronic dictionary、電子辞書学習)に先んじるのは、「五感をしっかりと動員したところのアナログ(analog)ラーニングに尽きる」のではないか、とまとめています(第1章)。「五感」は、身体知の涵養にとっての土台です。

第2章の山下巌氏は、自動翻訳機が機能性と精度を高めながら広く普及し、語学学習不要説まで出始めている昨今の現状に注目します。「自動翻訳(デジタル知)」か「外国語学習(アナログ知)」か、と対立的に考える必要はない。自動翻訳機による外国人とのコミュニケーションは、語学学習を始めるきっかけとなる。自動翻訳は補助ツールとして活用してこそ、自力で外国語を話そうとする人が増えてゆく、と主張します。新たな語学の習得とは構文や文法、単語、発音といった技能の習得(身体化)であるとともに、その国の文化や風習を、まさに身体を通して獲得していくプロセスです。

第3章の小川あい氏。黙読の習慣がここまでが進み、スマートフォンが普及したいまだからこそ「音読と暗唱」が重要になっていると主張します。文の読み上げを繰り返すことは、知識をつながりのあるもの〔傍点に〕として記憶に定着させる。現代の教育は単なる情報処理に終始しているが、つながりある知識こそ、分析的思考力や発想力、創造力の基盤であり、音読や暗唱はその土台をつくる、というのが訴えの主眼です。
佐川さんは、以心伝心や「察し」という非言語によるコミュニケーションが、いかに人間交流に重要な役割を果たすか、しかし今それが損なわれていないかと、心理臨床の現場で鍛えてきた人らしい着眼から「身体知」の危機を訴えます(第6章)。わたしが述べてきた危惧がまさに共有されています。ほかにも絵本の読み聞かせ、ペンと紙の問題というような意表を突くような着眼から、その領域でどのようにデジタル化が進んでいるかを述べながら、アナログ知の復権、あるいはデジタル知との共存の重要性を示していきます。

Society5.0とはどんな社会か

さてここまでであれば、まさに我が意を得たりと共感し、本書を閉じたかもしれません。しかし、この本には先がありました。それが第Ⅳ部に収められた論文なのですが、ここでは文脈の都合上、前野博氏(至学館大学准教授、専門は教育情報学)の「2025年の崖への跳躍力― Society5.0実現に向けていま私たちが取り組むべきこと」という論文を取り上げます。おおむね、次のようなことが書かれていました。

Society5.0の5とは、これまでの社会の進展を、①狩猟社会、②農耕社会、③工業社会、④情報社会、と定義づけ、その5番目、次世代社会を指す象徴的な名称だとされます。「超スマート社会」とも称されていますが、「デジタルとアナログを高度に融合させて人間中心の」社会を創生すること、それがこの社会での目標となる。AIがどこまで高度化していくのか、人間の労働力のあらかたが不要になってしまうのではないか、という不安が高まっているなか、これからの社会や人間のあり方をどう構想すればよいか。そうした問題意識のもとで打ち出された国家戦略が、Society5.0をめぐる提言です。前野氏は、「これからの社会を変革していくには、デジタル一辺倒ではなく、アナログ的な思考や手法も融合的に用いながら取り組んでいくことが必須」であると述べます。

もう一つ、タイトルの「2025年の崖」とは何かという問題があります。インターネットはわたしたちの生活の隅々に浸透し、気がつくと、経済・物流・情報といったあらゆるモノとコトが一つのシステムに集中され、統御されている。集中が増せば増すほど利用する側には高い利便性になるわけですが、しかしたった一つのクラッシュが世界経済の破綻、情報や物流システムの大混乱を招きかねない。これまでそのことに気づかれながらも、代替案もないままやり過ごされてきた。しかし、もはやそういうわけにはいかないといいます。
現在、多くの企業で用いているコンピュータシステムは、ブラックボックス化している、管理する技術者の高齢化が進み、このままでは「現行のシステムは陳腐化し、さらにはゴミ化していく」。それが「2025年の崖」と呼ばれる事態だと説明されます(このとき前野氏が参照しているのは、経産省による「DXレポート」という報告です)。

こうした事態への対応は教育にあっても喫緊の問題です。その最重要課題がAI時代の到来に向けた人材育成であり、そのための国家戦略は次の3点。

① 文理を問わず、全高等機関での数理・データサイエンス、AI履修コース設置
② 社会人全体へのAIに関する実践的活用スキルが習得できる環境の用意
③ リベラルアーツ(教養教育)の充実化

リベラルアーツについては、「単に読書をたくさんするといった単純なイメージではなく、幅広く人とかかわりながら自ら学びの幅を広げたり深めたりすることが求められます」と注記されていますから、こちらに、本書の趣旨であるアナログ知につながる問題があると考えていいでしょう。この3点は、文言だけを見ているといいことづくめのような気がしますが、前野氏は次のような楔も忘れずに打ち込んでいます。

「AIを学ぶには相当な数学的知識や統計学的知識が必要であり、あらゆることを数理モデルに置き換えるための社会全般への理解も必要です。AI教育やプログラミング教育と巷間喧〔かまびす‐ルビ〕しいですが、言うは易く行うは難〔かた―ルビ〕しなのです」

前野氏が指摘するように、文理双方にわたるハイレベルな理解や知識を「国家戦略」は求めています。ここでは国を牽引するエリート層が想定されているのでしょうが、このハードルを越えられる人材は一体どれくらいいるのか、という素朴な感想を禁じえません。

「Society 5.0」についての文科省の見解

このあたりで前野論文から離れ、「Society 5.0」について文科省がどのような見解をもっているのか、そちらに目を転じてみます。文科省のホームページを検索していると、「Society5.0に向けた人材育成~社会が変わる、学びが変わる~」というレポートがヒットしました。https://www.mext.go.jp/component/a_menu/other/deta.

内容は3章構成になっており、第1章、その社会像と求められる人材像、学びの在り方(大臣と有識者による懇談会の整理)、第2章、取り組むべき政策の方向性(1章を踏まえた文科省職員による議論のまとめ)、第3章、学びの変革と取り組むべき施策(1章2章を受けて)、となっています。公式見解以前の、Society5.0に向けた文科省内部での議論の集約といってよいでしょう。以下はわたしなりのまとめです。

AI技術の発展によって社会や働き方が大きく変わる、それはかつてないもので、「これまでの延長線を大きく超えた劇的な変化が訪れる」というように、いかに激しい変化を目前にしているか、そのことが繰り返し強調されます。それがこのまとめの特徴の一つだと思われます。こうしたなか、日本のAIの技術開発は米国や中国に比べて大きく立ち遅れており、技術者や研究者の数もはるかに少ない、多くの学生が情報科学のトレーニングを受けていない、こうした現状をクリアしていかなければ先進国のなかでさらに遅れをとり、日本の存在感が発揮できなくなる、という強い危機意識が、二つ目の特徴だと受け取りました。

それを克服するにはどんな力が求められ、どんな教育が必要となるか。前野論文で示された概要が、教育現場に即した形で提言されていきます。AIやビッグデータを活用し、スキルをたえずアップデートできるような「自ら学び続ける力」、「現実世界を意味あるものとして理解」し、新たなイノベーションを創造できる力、そのときに重要な感性や知性や独創性。一方では学力の低下や「貧困の拡大、地域間格差」にもふれ、教育格差の解消は公教育の義務だと言い切ってもいます。さらに、教師を「子ども自身の学びの支援者」と位置付けていることなど、過不足のない提言といえば確かにその通りなのですが、先に指摘した危機意識の表明は、最終的に、急ぎ、大幅な教育改革を断行していかなくてはならないというメッセージに帰着しています。

ここで思い起こされるのが、学習指導要領が、特に20年のスパンで基本のコンセプトをがらりと変えるようにして、大きな改革を打ち出してきたことです。今から20年前、「小泉・竹中構造改革」のもと、新自由主義的教育政策が全面展開されました。その象徴が「総合的な学習」と「生きる力」の新規導入であり、学校と教員への評価制度です。さらに20年をさかのぼると、「ゆとり教育」と称されたように、各教科での習得すべき内容を大幅に絞り込みました。

この二つの大改革が現場にどれほどの混乱を巻き起こしたかは、記憶に新しいところです。どうしてここまで指導する内容が削減されなければならないのか、なぜ競争と評価が学校現場にあって必要なのか、現場の先生たちがどこまで理解し、納得していたか。その十全な説明が行われたのか、わたしはいまでも疑問に思っています。

改訂の時期となった1980年前後、2000年前後、それぞれどんな時代だったでしょうか。戦後の経済繁栄が70年代に「1億総中流」と呼ばれる国民の意識をつくり、その定着を見たのが80年前後です。来るべき時代に武器となるのは、知識の多寡ではなく、時代の変容に自らの手で適応していけるような、そのような力である、これまでの成長じだいとはまったくことなる学びの力だというのが、このときの改訂のメッセージがではなかったでしょうか。

00年代は日本の経済繁栄が終焉し、本格的なグローバリズムの時代に突入したことが、だれの目にも明らかとなりました。構造改革が叫ばれた時代です。ITもまた爆発的に浸透していきます。この時の改訂のメッセージは何だったでしょうか。これまでの家族主義的・共同体的な価値観を、アメリカ型の競争原理や自己責任といった「個」を単位とする価値観につくり変えること。それがこれからのグローバリズムのなかを生きていくための必須の力となる。そのようなものだったとわたしは受け止めてきました。そして今回のsociety5.0、あるいはポストコロナの時代。いかに劇的な変化を目前にしているかは、見てきたとおりです。

いずれも大きな社会の変容を目前にし、そのことへ備えようとした教育大改革であったことは間違いありません。しかしそこで行われた改革が、現場教員や研究者からどんな評価を受けてきたか。改革のたびに現場は混乱し働く環境が過酷になる、と多くが批判の中で語られてきたのが実情です。Society5.0を令和の教育大改革の提言だと受け止めれば、やはりここは立ち止まって注視したいと思うのです。

「教育改革によって、どのような問題が解決したのか。教育のどこが、どう改革されたのか。そうした政策評価のないまま、まるで熱病にとり憑かれたように、私たちは、さらなる改革を求め、推し進めてきた」と苅谷剛彦氏(『教育改革の幻想』・ちくま新書)、あるいは元中学教員の赤田圭亮氏。「子どもが育つためのゆったりとした場所と時間とリズム」。それが人が育つ場である。「教育改革が問題なのは、そうした学校に足りないものを拡充する方向ではなく、(略)学校に対して無用な容喙=カイゼンを繰り返して、「場」を壊し続けていることだ」という慨嘆が繰り返されないことを願うばかりです。
教職課程 2020年 09 月号
教職課程 2020年 09 月号

新型コロナ時代の学校教育、二つの難題について(連載22)

〝教育〟はどこに届くのか(第22回)
新型コロナ時代の学校教育、二つの難題について


いきなり大上段に構えて始めてしまいますが、教育は、身体的な交流によって支えられるところがとても大きいとわたしは考えてきました。21年間(プラス非常勤での2年間)の教師体験が特別支援学校と小学校だったから、余計そのように考えるのかもしれません。ここでの「身体的な交流」とは、文字通りの身体の接触という以上に、感情や情動の交換といったものまでふくむ交流です。一言で「エロス的交流」といってよいのですが、年齢が下がれば下がるほど(あるいは〝特別なニーズ〟がそこに加われば加わるほど)、この、エロス的交流のはたす役割は大きくなります。そして工夫が必要とされます。逆に年齢が上がるほどに、「言語交流」が重要になりますが、身体的・エロス的交流がゼロになるわけではありません。教育という営みは、エロス的な交流と言語的交流の幅のなかで、知識や技能、社会性や文化の伝達がなされていく。それが、わたしが教育というものにもつ基本的なイメージです。

つぎに、では子どもたちはどこから教育に向かおうとする力を得るのか。そう問い方を変えてみます。わたしの教育観に立てば、身体的・エロス的交流が「学びに向かう力」の最大のエネルギー源となる。そういう筋道になります。いわば、エネルギー源をフルに使いながら、エネルギー源そのものを生み出そうとしていく。教育とはそのような営みだとも言えます。

何をお伝えしたかったのか。新型コロナによる休校が終わって新学期が始まりました。学校で過ごす子どもたちのニュース映像が流れるようになり、それを見ながら、当初とても複雑な気持ちになったことによります。「三密回避」は当たり前。いや、いつの間にか絶対的に守るべく社会的ルールとして君臨し、学校でも様々な回避策がとられています。SNSや友人・知人たちからのランダムな情報によれば、それらはおおむね次のようです。

マスクは必着。場合によっては(学校によっては)シールドさえ必携。1メートル以上離れる。給食はもちろん、教室では話をしない(学校によっては、壁を向いて昼食をとるよう指導しているところもある)。接触する遊びはしない。ある学校は、子どもたちは教室にいて、教員が職員室からリモートで授業を行っているともいいます。

もう一つ、こんな話題も出てきました。半数ずつ週2回ないしは3回登校。それ以外は家庭学習。ところがこの家庭学習のあり方や課題の出し方に対し、知人たちから、厳しい注文が出されました。彼らはプロの援助職なのですが、保護者に家庭教師の役割を期待するのはそもそも無理、まだ習っていない領域の予習は子どもにとっても保護者にとっても、なおのこと難しい。オンライン学習を取り入れるようになってはいるが、家庭学習のあり方をよほど工夫しない限り学力差はますます著しくなるだろう。緊急事態宣言が経済格差に追い打ちをかけており、このことも学力格差に直結する。――これらがどの学齢でどの程度の問題となるのか、きちんとした仕分けと吟味は不十分なのですが、その点をお断りしてわたしの考えるところを述べてみようと思います。

少し書いたように、はじめ学校のニュースを見たときに強い異和感を覚えました。ここでとられている回避策は、どう考えてもこどもたちの発達にとって阻害要因です。ここまで細かくルールを取り決めなければ過ごせない学校生活そのものが、まずはストレスそのものでしょう。マスクやシールドをしなさい、離れなさい、話してはいけません、体が触れる遊びをしてはいけませんというのは、子ども同士を隔てる大きなバリアです。通常ならば積極的に奨励したいことが、少なくともわたしの教育観や子ども観では望むべき事柄が、ここでは禁止や抑制の対象になっています。こんなことを、ほんとうに子どもの学びの場でやるのだろうか。これでは社会性や情緒の育ちが阻害されてしまう。精神的に不安定な子をたくさん作ってしまいかねない。ニュース映像を目にするたびに、そんな思いを強くしていました。

ところが、少しずつ方向修正をしていくことになるのですが、まず「社会全体が感染回避を図らなければ、社会そのもの維持が不可能になっている」わけで、最初に書いたように、これが新型コロナウィルスがもたらした最大の社会的課題です。さらに難しいのは、国によって、あるいは医師によって、基本的な考え方や対応策が分かれてしまっていることです。現状は例外的な状態にあり、一過的なものである。誰にとっても初めての事態であるから、確実なノウハウは皆無。そんなななかで、学校現場は試行錯誤をつづけているわけです。まずは、どうしたら子どもたちが学校に出てくることができるか、その目的にたっての試みなのだということをひとまずは認めなくてはならないだろう。そう考えるようになったのです。

学校を一斉休校にするという措置が果たしてどこまで適切だったのかなど、これまでの取り組みの検証はどこまでなされているのか。次にこのことが気になりました。松村むつみさんという医療ジャーナリストであり、放射線科医でもあるという方の記事を紹介します。客観的で中立的な立場に立っていると判断したからですが、次のようなことが書かれていました。(‘20.6.7現代ビジネス https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73072)。

アメリカの研究では「休校単独による感染抑制効果はごくわずか」という報告が出され、イギリスでは「厳しい外出制限に効果はないが、休校と大規模集会の中止には効果がみられたという報告」があった。そう述べられていました。つまりは〝効果なし〟という共通の見解には至っていないわけですから、休校という措置を取りやめることはできないわけです。マスク着用とソーシャルディスタンスには一定の効果があるとWHOも認めているとか、他にも各国の検証データを紹介し、2波3波に対する備え、感染の予防と教育がストップすることの弊害のバランスをどうとるかなど、妥当というか、いまのところはそこに落ち着くしかないだろうなというまとめでした。

身体的交流が損なわれる、とわたしが危惧した感染回避のための措置は、どうもしばらくはやめることはできないようです。いや、それが常態化していくのではないかという危惧を覚えたのは、北九州市内の小中学校でこれまで分散登校を進めてきて、一斉登校をはじめようとしたところ、いくつかの学校でクラスターが発生した、という記事を読んだときでした(西日本新聞6月3日のウェブ版https://www.nishinippon.co.jp/item/n/613723/)。通常授業に復帰したとしても、感染拡大がいつ、どこからどう始まるか分からない。そのことをこの事実は告げています。感染予防を大前提としたあり方が学校のスタンダードになるならば、そこで教育のもつ基本的な身体的・エロス的交流をどんな形で保証することができるのか。そういう課題があるとわたしは感じます。オンライン授業が進んだからといって、一件落着ではない。

逆に、集団になじめない子や発達障害系の困難をもつ子にとっては、教育という営みが身体的・エロス的な交流であるからこそ、そこへの適応に困難を抱えてきました。これまで様々な配慮が工夫されてきたわけですが、感染回避の対応策はおそらくは彼らを直撃します。「~~をしてはいけない」「~~をしなければならない」という新たなルールは、彼らにとっては新しい難題となり、感染予防の措置が、登校を拒否する子を増やさないとも限らないわけです。学校はマスクをつけられない子の登校を、感染リスクが高いと拒むのでしょうか。

ニュース映像はこんなことを考えさせたのでした。
教職課程 2020年 08 月号 [雑誌]
教職課程 2020年 08 月号 [雑誌]

新型コロナ時代の生老病死(連載21)


〝教育〟はどこに届くのか(第21回)
新型コロナ時代の生老病死


「ゆずちゃんが まつえさんのほっぺを/ぺんぺん//まつえさんの目は開かない/でも 言葉をしぼりだす//ゆずちゃ~ん/ゆずちゃ~ん/あと たのむでぇ」

写真家・國森康弘さん。2003年に記者からフォトジャーナリストとして独立。イラク、ソマリア、カンボジアなど戦禍の地にわたり、活動を始め、以後、さまざまな「生と死」の現場をカメラに収めてきました。その國森さんより、『生老病死 そして生』(農文協)と題されたフォトエッセイ集を贈っていただいたのは、3月に入り、新型コロナウィルスの脅威が本格的に飛び火してきた頃のことでした。

各パートが「生」「老」「病」「死」「そして生」と分けられ、それぞれのテーマに沿った写真が選り抜かれています。新しいいのちの誕生と、生まれたばかりの弟を迎える子どもたち。戦禍の地をたくましく生き抜いている若い母親と、腕に抱かれた乳児。そこに付された「ここでは弱い子は生きられない」という國森さんのコメントが、胸を突きます。あるいは3.11の被災直後の現場。障害をもつ子どもと、彼の家族とクラスメートたち。インドのガンジス河ほとりの荼毘の光景。ALSを病んだ女性とその家族、そこに集い、ケアを担ってきた若い学生たち……というようにたくさんの「生と死」が、1冊の本を埋め尽くしています。

どの写真もインパクト十分で、ときに激しい衝撃を残しますが、「陰惨」とか「悲惨」という印象はありません。過剰な演出も、見る者の感情を煽ろうとするあざとさも、安手の「物語」に封じ込めようとする作為も、一切ありません。真正面から被写体に向き合っていることが分かります。撮られる側もそれに応えるように、國森さんに全身を委ねています。そして写真に添えられた國森さんの、贅を削ぎ落した文章。そのコラボによって「いのち」のなんであるかを強く訴えてくる、そのようなフォトエッセイ集です。

この間、私がひときわ心を惹かれてきたのは〝看取り〟の写真でした。自宅で、間もなく息を引き取ろうとするお年寄りたちの満ち足りた表情。いのちが尽きた直後の、家族や集まってきたご近所さんたちの、掌を合わせる姿。私はそこでの子どもたちたちの表情に、しばしば目を奪われました。冒頭の「ゆずちゃん」の文章もその一つで、カバー(書影)になっている写真に添えられたものです。「かぎりがあるから みんなでつなぐ」とサブタイトルされている通り、「いのちとはつないでいくものだ」という國森さんの強い確信(思想)を、私はどの写真からも受け取ります。

なぜ私が〝看取り〟の写真に惹かれたのでしょうか。第二次大戦以降、世界最大の危機をもたらしたと指摘される新型コロナウィルス。ネットには情報が溢れ返っていますが、身体のシステムをどう破壊するか、まだ分からないことのほうが多いと言われます。これを機会に働き方も人との関係のあり方も、暮らし方も大きく変わっていくだろうとも指摘されます。学校のあり方についても、オンライン教育を充実させるいい機会だとか、9月始業にチェンジした方がいいとか、多くの意見が出されています。あるいは在宅の期間が増えることによって、困窮を抱える家庭はますます追い詰められ、子どもたちに及ぼす影響も大きいとか、親からの暴力に苦しむ子どもたちにとって家は居場所にはならならない、と心身の安全を危惧する声も。この連載の主旨から言えば、こちらを率先して取り上げるべきだったかもしれません。

しかし私の関心は「死」のほうに集中していきました。感染者の多くは軽症だと言われながら、突然重症化し、1週間ほどで死に至るケースや、感染者の急激な増加によってもたらされた医療現場の危機的な状況がくり返し報じられました。感染者全員には十分な医療を回せない、誰の治療を優先させるか、数の足りない人工呼吸器の装着の優先順位をどうするか、医師たちが苦悩しているというショッキングな報道もありました。そのとき、「トリアージ」という言葉が、私たちにより身近なものとして降りてきたようなのです。

「いのちの選別」であれば倫理問題として、あるいは人権侵害であるとして強く非難を返すことができます。ところが救命救急の医療現場にあってなされる「トリアージ」にたいしては、それを批判することは難しくなります。現にこれまで多くの災害現場でなされてきたはずの「トリアージ」に、「それはいのちの選別ではないか」という非難が出されたという話は、私は聞いたことがありません。当然の医療判断だと見なされてきたわけです。

ところが今回のコロナウィルスは、現在の危機的な医療状況のなかでは「トリアージ」という形で私たちのいのちが選別されることがある、という現実をはっきりと示すことになりました。つまりは私自身が、いつ、いかなるかたちで「トリアージ」されるか分からない、そのような身であることを知らしめてきたわけです。医療崩壊と呼吸器問題の報道に触れながら、私はそのようにしてもたらされるかもしれない「死」を、少しずつ受け容れていきました。

微妙なところなので急いでお断りをしておきますが、一般論として、いま医療崩壊ぎりぎりにあるのだから、若い人を優先して治療するべきだ、人工呼吸器を回すべきだ、と主張しているのではありません。あくまでも個人的な問題として、03年のMERSや12年のSARSなど、これまでのパンデミックのときには考えられなかったほど自分が「死」に近づいているのを感じ、それを受け容れようとしてきたということです。

そんな心境のなかで、國森さんのフォトエッセイ集に触れてきました。だからこそ看取られるお年寄りたちと、看取る子どもたちの写真に強く惹きつけられてきたのだろうと思います。ゆずちゃんの写真の次に、間もなくいのちが尽きようとする「なみばあちゃん」と、そばにいてその姿を「目と心に焼きつけ」ようとするたいらくんの、2葉の写真があります。たいらくんは小学校2年になったとき作文を書きます。「いのちのリレーでバトンタッチしたぼくは/のびのび大きくなりたいです/いつまでもおおばあちゃんのことを/わすれないでいたいです」

「死」はいつも私たちのそばにあるのですが、普段はなかなか見えません。見ようともしません。まして子どもたちが大事な人の「いのちの終わり」を経験することは、ほとんどなくなっているでしょう。今回のコロナウィルスは、ほんとうは「死」が身近にあるのだということを如実に伝えてよこしました。この脅威のなかで、ゆずちゃんやたいらくんのように、子どもたちが「いのち」と「死」を「のびのび」と体験するにはどうしたらいいだろうか。しきりとそんなことも考えたのでした。こう書くと、学校現場から金科玉条のごとく持ち出される「いのちの大切さ」を思い出すかもしれませんが、ちょっと違います。学校では「死」を教えません。「死とはいのちをつないでいくことだ」ということを教えません。

最後に加えれば、津久井やまゆり園事件の植松聖死刑囚は、おそらく「いのち」を知らなかった。「死とはいのちをつないでいくリレーのことだ」ということも知らなかった。それが最大の不幸だったのではないか。法廷での彼の話を思い起こすにつけ、そう思われてなりません。國森さんの写真集を見ながら、そんなことも考えたのでした。
教職課程 2020年 07 月号 [雑誌]
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飢餓陣営51号コンテンツのお知らせ

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 飢餓陣営51 2020年 夏号           6月30日刊行予定
               250ページ 定価1000円+税 (送料200円)
        郵便振替  00160―4-184978 飢餓陣営発行所 
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【作品】
佐藤和彩■(フォト)原始の機能美
宮尾節子■(詩)誰が言った
木村和史■(フォト&エッセイ)家をつくる(14)
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【特集】没後八年の吉本隆明

〔SCENE1〕吉本隆明の「戦争」、橋爪大三郎が解く皇国思想
宗近真一郎■「批評」というジャンルが問われる―橋爪大三郎『小林秀雄の悲哀』
添田馨■〝皇国教育〟の洗脳は解けるか―橋爪大三郎『皇国日本とアメリカ大権』
〔対話〕北明哲+佐藤幹夫■吉本隆明の「戦争」、橋爪大三郎が解く皇国思想
(その1)闇斎・徂徠―丸山―吉本
(その2)宣長―小林―吉本隆明
(その3)『國體の本義』と吉本隆明の「戦争」

〔SCENE2〕吉本隆明の没後出版を読む
佐藤通雅■銀河の流れについて―『宮沢賢治の世界』を読む
萩原健次郎■自然像としての書と文字を見つめる。―『書 文字 アジア』を読む
宮下和夫■没後の企画―僕がかかわったものを中心に-『吉本隆明 質疑応答集』
西脇慧■黙示録的表象としての〈現在〉‐吉本隆明『ふたりの村上』を読む
〔連載〕浦上真二■吉本隆明とサミュエル・ベイリー『リカアド価値論の批判』

〔SCENE3〕比嘉加津夫企画 『ふたりの村上』と編集者小川哲生
比嘉加津夫+小川哲生■(メールインタビュー)『ふたりの村上』と小川哲生
内田聖子■ウォーク・ドント・ラン
刈谷政則■「若き小川哲生さん」の大和書房時代
河谷史夫■ひとりの出版渡世人
齋藤愼爾■〈伝説の編集者小川哲生〉異聞
村瀬学■小川哲生 不思議な「包み」の美学へ
山野浩一■小川哲生さんのこと
佐藤幹夫■私にとっての<ふたりの村上>
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【小特集1】思想と文学を読む
神山睦美■『世界史の構造』の柄谷行人と
宗近真一郎『柄谷行人 世界同時革命のエチカ』
宗近真一郎■「文学システム批判」のスペクトラム
ジョン・ヨンイル『柄谷行人と韓国文学』(転載)
水島英己■神山睦美『終わりなき漱石』を読む
伊藤悠可■知的決断の血脈-西尾幹二『歴史の真贋』を読む
小川哲生■『歴史の真贋』を読む
佐藤幹夫■伊藤悠可『もう一人の昭和維新』を読む(転載)
添田馨■当事者でないことを、恐れない―宮尾節子『女に聞け』
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【小特集2】「障害と支援」の本を読む
内海新祐■共存と共生、対抗言論によってではなく― 横田泉『精神医療のゆらぎとひらめき』(日本評論社)
佐川眞太郎■対話とは何か ― 西研『哲学は対話する』(筑摩選書)
中尾賢史■人が同じ地平に立つために ― 渡辺一史『なぜ人と人は支え合うのか』(ちくまプリマーブックス)
栗田篤志■背理を超えて共存を問う―― 佐藤幹夫『ルポ 闘う情状弁護へ』(論創社)

新刊『ルポ 闘う情状弁護へ――「知的・発達障害と更生支援」、その新しい潮流』(論創社)について



                       
「お願いしたいのは、わたしたちを公正に裁いて欲しいということです。どうかわたしたちを、あなたたち自身が裁いて欲しいと思うやり方で裁いて下さい。」
 ――女性の黒人革命家アフェニー・シェーカーが陪審員に向けた最終弁論のことば  アンジェラデービス編著、袖井林二郎監訳『もし奴らに朝が来たら』(青木英五郎 『日本の刑事裁判――冤罪を生む構造――』(岩波新書)より転用)


〔キーワード〕
「障害」と犯罪、新しい情状弁護、司法と福祉の協働、治療的司法、更生支援と再犯防止 ひきこもり、発達障害、アスペルガー症候群

〔目次〕

はじめに 「障害と司法」というテーマをどう受け止めてきたか
 
プロローグ  パラダイムの転換と〝新しい潮流〟の背後にあるもの


 第Ⅰ部 ドキュメント 大阪地裁判決はなぜ求刑を上回ったのか


第一章 二〇一二年七月、ある判決、噴出する批判
   ――アスペルガー症候群と裁判員裁判

第二章 加害男性の見ていた世界
    ――なぜこのような惨劇がおこったのか

第三章 男性は何を語ったか
    ――大阪に弁護団を訪ねて

第四章 高裁判決と弁護団のふり返り
    ――刑事弁護と情状弁護

第五章 出所者を福祉につなぐ
    ――「地域生活定着支援センター」の現状と課題


 第Ⅱ部 「障害と刑事弁護」、その始まりと先駆者たち

第六章 「知的障害」をもつ人の刑事弁護はどう始まったか
    ――「悪い障害者」は支援しないのか

第七章  副島洋明という刑事弁護人
     ――「金を払って弁護士を雇え!」

第八章 「自閉症スペクトラム障害」を初めて正面にすえて闘う
     ――2005年、大阪寝屋川の裁判で少年の「障害」はどう裁かれたか

第九章 更生支援、まずは支援者こそ発想の転換を
    ――「ふるさとの会」の生活支援と司法との連携
      

 第Ⅲ部 司法と福祉の協働が新たな「人権侵害」とならないために

第一〇章 福祉の仕事は「再犯防止」か
    ――「更生支援計画書」の誕生、ある社会福祉士の危惧

第一一章  治療的司法と新しい「協働支援」
     ――排除型の裁判から社会包摂へ

第一二章 社会内処遇の新たな試み
     ――更生を支えるものは何か

第一三章 協働的更生支援、これからの課題
     ――支援の理論と方法

エピローグ 新しい更生支援のその先へ

故・副島洋明弁護士へ

ルポ 闘う情状弁護へ - 佐藤幹夫
ルポ 闘う情状弁護へ - 佐藤幹夫

「教員の働き方改革」を「障害のある先生」から考える(その1)

〝教育〟はどこに届くのか(第16回)


 秋田県の中学校教員、三戸学さんの連載をひと段落させ、次のテーマをどうしようかと考えているときに、三戸さんより「今度、障教ネットの全国集会が東京あるので、来てみませんか」という誘いをいただきました。主催は日本教職員組合(日教組)。交渉を入れてみると、傍聴ならばOKということなので、足を運んでみました。

「障教ネット」とは「障害のある教職員ネットワーク」の略式名です。日教組のなかの一組織で、参加されているかた全員が「障害のある先生」でした。「取材」ではないので詳しくは書けないのですが、74名が会員として登録しているといい、この日の参加者は20名ほど。とても勉強になりました。三戸さんがここで知り合う仲間たちにいかに支えられてきたか、ということもよく分かりました。

 基調講演をされたのは全盲の弁護士さん。これがとても素晴らしいものでした。さらに印象深かったのが、講演の後、質問に立った先生たちのその内容です。質問ではあるのですが、自分の置かれた窮状がいかに大変か、その相談でもあったのです。常勤の方、非常勤の方、立場はいろいろで、障害も、身体、視覚、メンタルの方とそれぞれ。その方たちに固有の「働きにくさ」が質問(相談)の内容です。うまく補助教員と協力関係が得られない、職場内での人間関係、管理職の対応がひどい、そんな内容でした。三戸さんも、19年間担任を持たせてもらえないことへの解決策はないか、と助言を求めていました。講演者の弁護士さんは一つ一つの問いに、打開となりそうな法律を引き、それをどう使えば解決のヒントとなるかを示唆していくのです。驚くほど的確で、弁護士としての力量の高さを感じさせるものでした。

●「障教ネット」との出会いから

 帰路、この日の出来事を思い起こしながら、これは「教員の働き方改革」に直結する問題ではないか、と直感しました。今日の「障害のある先生」が示した問題は、多くの〝働きにくさ〟を抱える先生たち一般の問題として取り出せるのではないか。「障害のある先生の働き方のサポート」と「働き方改革」の二つをつなぎ、問いの形にできれば、「教員の働き方改革」への提言のようなものを取り出せるのではないか。「障教ネット」に足を運んで以来、そんなモヤモヤが頭のなかで回っていました。

 本連載の第2回目で、「教員の働き方改革」について取り上げています。そのときには教員の労働時間の現状がどんな厳しいものか、データを借りながら触れました。そこからさらに踏み込み、一人ひとりの実情や現場のナマの声を拾い上げている資料はないだろうか。そんなことを考えていたときです。見事なタイミングで、知人の赤田圭亮さんより『わたしたちのホンネで語ろう 教員の働き方改革』(岡崎勝・赤田圭亮編、日本評論社)という著書が送られてきたのです。

 赤田さんは横浜市の中学校で国語科の教員として勤め、いまは退職しています。勤務の傍ら組合活動にも力を注ぎ、教育とは何か、働く教員の労働者としての権利をどう守るか、「教育改革」と称されて行われてきたこれまでの施策が、いかに現場を無視したものであったか、それがどれほど教員の負担を大きくしたかなど、旺盛な執筆活動を続けてきました。教育問題への鋭い批判者ではありますが、分析の的確さとバランスの良さ、文章から垣間見える現場教員としての力量の高さ。私は高い信頼をおいてきました(氏の『教育改革とは何だったのか』・日本評論社・は、非常に優れた仕事です)。そんなこともあって、私が編集・発行する個人誌にもたびたび登場していただきました。そんな赤田さんの手になるムックです。すぐに、のめりこむようにして読み始めました。

 私なりに簡単にまとめてみます。基本は、どうして教員の労働時間がここまで膨れ上がってしまったのか。現状の報告、歴史的経緯、多忙さを作っている学校のあり方への批判的分析。それがアウトラインです。様々な要因が複雑に絡み合っていますが、さらに大雑把に分類するならば、60年代や70年代以降から、法的な根拠はないが、延々と続けられてきた慣習的要因、「教師なんだから」「子どものためなんだから」やって当たり前、というような見なし(社会や保護者のそれであるのみならず、教師自身にも深く内在しています)。

 加えて、2000年代から顕著になる新自由主義的な規制緩和。「教育改革」と称して学校を覆っていく競争と評価と、自己責任の原理。いうまでもなく保護者と子ども、そして教員の意識も変っていきます。個人主義的傾向が肥大化していくわけです。以降、忙しさが質と量を変えて膨れあがっていく。こうした様々な問題が、各執筆者によって俎上に載せられていく。これが本書の概要といっていいでしょう。

 目次を見ると、真っ先に取り上げられているのが部活動問題。さらには労働問題として、減らない残業、取得できない休憩、確保されない研修、保護者との対応などが論じられていきます。忙しさの根本には何があるのか。冒頭で岡崎勝さん(元小学校教員)によって、現代教育の特徴は「上意下達の国民教育」と、「日本型学校教育の総合的指導」である、と指摘されます。いうところは、授業のみならず、しつけや生活指導、部活動、校外活動など、子どもたちを丸ごと世話する教育制度だということです。ここから様々な問題が派生していく。自己責任の原理は管理職にも及びますから、勢い、問題の矮小化、隠ぺい、責任転嫁など、好ましからざる事態は増えていくことになる。それが教員の多忙さを
〝逃げ場のない〟ところへと追い込んでいく要因になります。
読後、学校と教員をめぐる状況はここまできてしまったのか、と思わざるを得ませんでした。もちろんこの本は、赤田さんと岡崎さんを中心とした、強い問題意識をもつ方たちの手になるものなのですから、そこから拾い上げられた〝学校のいま〟であり、これがすべてでないことはいうまでもありません。

●「働き方改革」から抜け落ちている視点

 私自身は大いに勉強になったことは間違いないのですが、一つだけ気付いたことがありました。ここで論じられている「働き方改革」は誰のためか。もちろん教職員です。ところが、ここで想定されているのは「障害をもたない先生」、一般の先生たちです。「障害のある先生」にかんする記述は、一人だけを除いてまったく登場してこない。子どもの人権や、教育労働者としての権利に、鋭敏で高い意識をもつ執筆者の方々です。そのような方たちにあっても、ましてやテーマが、労働条件や労働環境をどう整えるかという「働き方改革」であるにもかかわらず、「障害のある先生たち」への視点が抜け落ちている。赤田さんからせっかくいただいた著書へ、苦言を寄せるような内容になり始めていますが、苦言や批判ではなく、「教員の働き方改革」を考えるにあたっての、新たなヒントとなるような視点を提供できないか。その故の指摘だと受け取っていただけると、私としてはありがたいところです。2018年度の幼稚園を含む教員数は100万人強、障害のある教員の実雇用率は1.90%。文科省のホームページからのデータです。2万人近い「障害のある教員」が雇用され、働いているのです。「障害のある先生たちにとっての働き方改革」とはいったいなんだろうか。

「インクルーシブな学校を創っていくことが教員の働き方改革につながるのです」

 先のお一人はそう書いています。全体が子どものインクルーシブ教育という文脈での指摘なのですが、おとな=教職員についても、もちろん当てはまります。次回はこのあたりを少し掘り下げてみたいと思います。

◆◆教職課程 / 2020年2月号 - Webby
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『飢餓陣営』50号新刊のお知らせ



飢餓陣営50  2019年冬号 「終刊宣言」凍結号
 208p 定価 1000円+税 12月下旬刊行予定

【作品】
宮尾節子■みんなもそう思ってる10‐12
【連載】
木村和史■家をつくる(13)14‐21
阿久津斎木■萩尾望都論(その4)22-29

【追悼・加藤典洋】

瀬尾育生■加藤典洋の仕事と日本の戦後思想30‐47

〔討議 加藤典洋『9条入門』を読む〕(神山睦美氏主宰・書評研究会より)
神山睦美■加藤典洋の戦後観と『9条入門』48‐63
竹田青嗣■普遍戦争と「世界の貧困格差」を縮減する可能性64‐75
笠井潔■加藤典洋の「戦後論」と世界戦争の歴史76‐89

井崎正敏■加藤典洋の「敗戦」90‐93
宗近真一郎■憲法9条がヒロヒト=天皇制を救った
     ―― 加藤典洋『9条入門』の最終メッセージ94‐99
添田馨■天皇の戦争責任・階段を〝もう半分あがった先〟の展望
     ―——『天皇の戦争責任』(加藤典洋、橋爪大三郎、竹田青嗣)からの船出100‐107
水島英己■「戦後」と戦う ―― 沖縄への思い(2)108‐112

神山睦美■加藤典洋さんとの交流と、村上春樹の評価をめぐって113‐136

村瀬学■「神の声」を聞くことをどう考えるといいのか137‐143
望月至高■悼・加藤典洋=「有限性の近代」を抱きしめて144‐147
比嘉加津夫■加藤典洋、そして沖縄148‐155
青木由弥子■〝文学的〟思考――一人一人を想うために156‐159
西脇慧■二つの〈影〉の間で、スパゲッティをゆでる作家
    ―― 加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』をめぐって160‐167

浦上真二■ただ一度の「雑談」168‐169
山下龍一■洞窟の二人170‐178

北明哲+佐藤幹夫■『飢餓陣営』は加藤典洋をどう読んできたか179‐199
編集部編■加藤典洋の著作いくつか、独断的ご案内200‐207

〝教育〟はどこに届くのか(第15回)「障害のある先生」の働き方をどうサポートするか(その3)

(『教職課程』2020年1月号より転載)
 
 秋田県人事委員会に、異動の取り消しと交通費の負担を求めて「不服審査請求」を提出していた三戸学さん。本年10月1日付で、タクシー等を利用しての通勤を認めると秋田県教育委員会(県教委)が決定しました。これは全国初のこと。三戸さんは県教委の英断を評価しつつも、
「主張することの大切さを感じた」といい、こうした仕組みが全国に広がることを願い、不服審査請求はもう少し続けたいと言っています。

 前号での報告はここまです。今号では、三戸さんの教師観や教育観を紹介します。障害の有無にこだわる必要はないのかもしれませんが、次のように問いかけてみました。三戸さんの姿を見て障害のある若い人たちが「自分もがんばれば学校の先生になれるんだ」、そう思うかもしれない。後に続く若い人たちに何かアドバイスをしていただけないか。

 「まず自分のことから言えば、一人の障害者として不便だと感じていること、自分がこうありたい、こういう社会にしていきたいと考えていること。そういうことを子どもたちに語っていきたいし、それはわたしの教師としての役割の一つだろうと思います。今はピンと来ないかもしれないけれども、これから気づいてくれることは大いにあると思うし、どこかで思い出して、生きていくパワーになってくれればと思います」

 そして、障害があってもなくても、教師としてやっていきたいのかいきたくないのか、まずはそれが一番大事だと前置きをして、次のように話し始めました。

 「障害のある方がたは、障害があるゆえに、色々なことを伝えたいだろうと思います。それを大事にしながら、子どもたちと一緒に学校生活を送っていただきたい。障害があるということは、ある意味では強みでもあるわけですから」

 三戸さんらしい、前向きな言葉です。わたしには「障害があるゆえに色々なことを伝えたいだろう」という言葉が、ひときわ強い印象を残しました。なかなか重い言葉でした。そして負けず嫌いでガッツあふれる三戸さんらしく、こんなことも話しました。

 「教師ですから、大事なことは授業ですね。生徒たちにとっては、先生に障害があってもなくても、最終的には授業が面白いか面白くないか、分かるか分からないかだと思うのです。授業で他の教員たちと、どこまで勝負できるか。教師という職業は、授業で健常の教員とサシで勝負できるという魅力があるのです。対等に勝負できる。判断するのは子どもたちです。子どもたちがもし障害のある先生を選ぶのであれば、それは障害の有無ではなく、〝人と人とのかかわり〟というものに動かされたからだと思うのですね」

 これは、19年という経験が言わせる言葉だろう、とわたしは感じました。うまくいかなくて落ち込んだり挫折したりした体験を、たくさん経てきたはずです。一つ一つ乗り越えてきた人ならでの自負であり、矜持でしょう。三戸さんは続けました。

 「それは子どもたちにとって貴重な価値観だと思うのです。障害があるからだめだとか、障害があるから健常者よりも劣っているとか、そういう価値観ではないですね。障害があっても、いいものはいい。それを受け止める心が子どもたちに育っている。逆に言えば、そういう価値観を育てるのが授業です。若い人たちも、ぜひ授業は一生懸命やってほしい。どういう授業だと子どもたちが分かってくれるか。わたしも今一生懸命やっています」

 障害は強みにもなる、という話題は、思わぬ方向へ進んでいきました。

 「いまの学校現場で最も重要な課題は、どうやって子どもたちの自己肯定感を高めるかということです。これは障害のある教師にとっては、ある意味では得意分野です。なぜかといえば、わたし自身にできないことがたくさんあるからです。何かあると子どもたちに『助けてくれ、手伝ってくれ』といって、ものを頼むことが多いわけです。子どもたちは助けてくれる。するとわたしから『ありがとう』という言葉が自然に出てきます。子どもたちにとってみれば、先生から『ありがとう』なんて言われるのは滅多にないことだし、それは自己肯定感が高まる体験のようなんです」

 〝障害をひらく〟という言葉を、わたしは以前、よく使っていたことがあります。三戸さんの話は、このことを思い起こさせました。自らの障害やコンプレックスに閉じこもり、社会や他者と距離を作って生きるのではなく、障害をひらき、自分もひらいて社会のなかに入っていく。そんな生き方のことです。もちろん、社会の方も、障害をもつ人たちに自分たちをひらいていかなくてはならない。今回の秋田県教委は、「障害をもつ」先生たちに一つ、社会をひらいて見せたわけです。三戸さんは続けます。

 「自己肯定感を高める教育はどんなものか」、「自己肯定感を高める授業はどうすればよいか」。そんなふうに方法論はたくさん語られる。しかし日常の場で、ありふれた出来事を通して培われていく自己肯定感こそ大事だろう。そういいます。

 「支え合いが育っていくためにも、社会全体が大きく変わっていく必要があるのかなと思いますね。障害のある教職員がもっと活躍できればいいわけですが、『障害者雇用』だから活躍するのではなく、子どもをいかに育てるかという面でも、障害をもっている教師の刺激は(教師だけには限りませんが)とても大事だと思うのです。教師というのはすごく魅力的な仕事です。若い人たちには果敢に挑戦してほしいですね」

 こうやって積極的に主張する三戸さんですが、わたしは一方で、とても自然体であることを感じていました。三戸さんに『僕は結婚できますか?』(無明舎)という本があります。なかに「図形を書けない数学教師」と題された文章があり、こんなことが書かれていました。黒板に定規で線を引いたりコンパスを使うことが苦手で、うまく描こうとすればするほど緊張してしまう。高校のときの数学教師が「コンパスをうまく使えるようになれば、一人前の数学教師だ」とよく言っていて、自在に美しい図形を描くその教師に三戸さんはあこがれをもった。自分が数学教師を志したとき、定規やコンパスを使って図形が正確に描けず、数学教師が務まるのかどうか、とても悩んだというのです。

 それでも数学教師になりたかった三戸さんは、現場に立ったときにどうしたか。コンパスは特別仕様のものを使い、直線はフリーハンドで描くことにしました。当然、線は曲がります。その図形を見せ、「皆さんはちゃんと定規を使って、きれいな線を描いて下さいね」と冗談をいって生徒たちの笑いを引き出す。そうやって進めるようにしたというのです。それでもときどき、「自分が図形を正確に描くことができれば、生徒たちの成績はもっと上がるのではないか」と悩んだ。保護者に相談すると「先生、考えすぎだ」とひとこと。こんなエピソードが書かれていました。そうやって一つずつ乗り越えながら、自分の「障害」に対して自然体で向き合えるようになっていったのだろう、「障害」をひらいていったのだろうとわたしは推測しました。取材ではこんなことも話してくれました。

 「わたしの話す言葉を聞いて、子どもたちは数学の内容を理解するわけだから、相当難しいと思うのです。でもそれをやっている生徒たちは、客観的に見るとすごいなと思うんです。ただ聞くだけではなく内容を理解しないといけないわけで、生徒たちにとっては相当ハードルが高いんじゃないかと思うんだけど、ちゃんと理解してくれる」

 少しだけですが、三戸さんは〝話し方〟にもハンディキャップがあります。そのことを自覚していて、自分から触れてきたのです。

 「もちろん『つまんない』『わかんない』と言われたときは、自分の指導方法を見直さないといけないなと思います。生徒は正直に言っているわけです。でも障害があるから分からないとは言っていなくて、普通に、純粋に分からないと言っています。だから私も真剣に受け止めます」

 教え方がその生徒に合っていないのではないか。そう考える貴重な経験だと三戸さんはいいます。子どもたちに数学の自信をつけさせたい、それが目標だともいいます。

 取材中、わたしがちょっと驚いたのは前任校で卓球部の顧問をしていた、という話題になった時でした。三戸さん自身も大会に出場する現役の選手だということで、トレーニングをしてきたとも言いますが、2年間、卓球部の監督を務め、女子団体を学校で初めて全県大会への出場に導いたというのです。

 「何がよかったかというと、卓球部の生徒や保護者が、4月の初めに、わたしと生徒たちで、新しいで卓球部を作っいってほしいという合意が、最初にできたことです。わたしは『自分はこういう体だから、卓球をやっているといっても、やれることには限界がある、子どもさん方が本格的にやりたい、勝ちたいということであれば、前年度までコーチがいたので、そのコーチをつけることを考えてもいいですよ』と言ったのです。すると、『三戸先生にやっていってもらいたい。そこにわたしたちは価値があると思っている』、そう保護者が言ってくれたのです」

 他校に練習試合に行くときは、先生の送り迎えくらいしてもいいから、気にしないでやってほしいとも言ってくれ、三戸さんは意を決して一人で卓球の指導をしたといいます。
 
 「卓球も他のスポーツも、いまインターネットのユーチューブ動画があります。子どもたちは動画を観れば、すぐ真似ができるようになるのです。本で読むより動きが分かります。わたしも毎日ユーチューブを観て、使える動画をストックし、必要な時に動画を見せ、技術を教える。そうやって行くうちに、どんどん子どもたちが力をつけていきました。技術指導はそれで十分です」

 言われてみればなるほどと思いますが、目からうろこが落ちる思いでした。障害をもっている指導教員であっても、技術指導は動画がやってくれる。それをフルに活用すれば経験者でなくてもできる。もちろんそれだけではなく、三戸さんはスポーツ指導者としてどうあるべきか、勉強をしたともいいます。

 「指導者で一番大事なのは、自分に競技技術があるか、指導技術があるか以上に、選手のやる気を引き出し、メンタルをどう支えるかです。あとは体のどこをどう使えばもっとよくなるか。練習量をどれくらいやらせるか。ただ球を打っていればいいという時代ではなくなっています。マネジメント力といいますか、それは勉強しました。色々な指導者に会って話を聞くようにもしました」

 三戸さん自身も選手として強くなりたいと考え、専属のスポーツトレーナーを頼み、筋トレをしたといいます。体幹を鍛えるにはどうするか。どのクッションボールを使えばどこが鍛えられるか。まさに選手たちと一緒に学んでいったわけです。

 「女子選手の練習メニューも作りました。うれしかったのは、選手たちが付いてきてくれたことです。ありがたいことに、先生の指導が分からないとか、何のためにこれをやっているのか分からないということがなかったことでした。3年生の春の大会で初めて全県大会に出場し、そこから選手も変わり、わたしも変わりました。親たちも変わっていきました。ほんとうに楽貴重な体験でした」

 最後にもう一つ加えておきたいと思います。内情をきちんと調べないままに部外者が勝手なことを言うのは慎みたいのですが、やはり書き留めておきます。三戸さんの担任問題です。先輩風を吹かせて色々と書いてきましたが、わたしの教員歴は21年。三戸さんは19年。ほとんど遜色はありません。それだけの期間、一度も学級担任を経験できなかったというのは、どうしても不自然さを感じます。

 通勤問題に関しては県教委の英断がありました。秋田は全国に名をはせる教育県です。この問題に関しても、教育県秋田ならではの全国に先駆けた叡智あふれる判断を示していただけるよう、強く願います。授業、部活動と並んで、担任としての学級経営は、なんといっても中学校教員としての腕の見せ所であり、醍醐味なのですから。

教職課程 2020年 01 月号 [雑誌]
教職課程 2020年 01 月号 [雑誌]

「障害のある先生」の働き方をどうサポートするのか(その2)

 本年6月、秋田県人事委員会に異動の取り消しと交通費の負担を求めて「不服審査請求」を提出した三戸学さんは、脳性麻痺のために車椅子を使用する中学校の教員です。教員歴19年目。担当教科は数学。前号でもお伝えしたように、8月8日に秋田県教育委員会による答弁書が出されました。それを受けて三戸さんは、代理人・清水建夫弁護士を通して、9月11日付けで反論書を提出しています。このひと月の間で事態は進展しており、三戸さんの側は争う姿勢を鮮明にしています。

 今号ではここまでの経緯について、少し詳しく見ていこうと考えました。不服審査請求に対する秋田県教委の答弁書がどのような内容だったか。それに対する三戸さん側の反論書がどんな異議申し立てとなっているか、深堀りしてみようというのが今回の当初のプランでした。双方のやり取りの内容に立ち入ることになるわけですから、三戸さんに確認を取ると、了解した旨と合わせ、県教育委にはぜひ取材をしてほしいという要望が再度届けられました。わたしは次の3点を質問事項として用意し、電話を入れました。対応をお願いしたのは、内々示のときから話し合いを続けてきた秋田県教育庁中央教育事務所長の稲田修氏です。

・三戸学教諭より、人事委員会に審査請求が出されてからここまでの経緯について教育委員会からのコメントをいただけないか。

・8月2日付で提出された県教委の答弁書の内容について確認させて得いただきたい点があること(ここは具体的な内容になっているのですが、後述する理由のため、現段階ではこのような書き方しかできなくなっています)。

・「障害のある先生」の働く環境とそのサポートについて、全国的にも注目されているテーマとなっているが、教育委員会としてどのようなかたちでの解決を望んでいるか。

 この3点です。やはり、現段階では書面を通してやり取りを続けている最中であり、これから人事委員会が示す決定を待っているところでもあるので、これに対するコメントは控えたいというのが回答でした。答弁書の作成に直接タッチしているのは県教育委員会義務教育課管理班という部署であり、内容等についての質問はそちらに尋ねてほしいということでした。そこで義務教育課に連絡を入れ、同様の質問をしてみました。やはり現段階での回答は難しい、答弁書等の内容についても、審査継続中であり、三戸教諭の反論書を吟味検討し、再答弁書を作成中のところであるため、この段階でその内容が外に出ることは控えてほしいという答えでした。半ば予想されたことではありますが、内容の詳細についての報告は時期尚早ということになりました。ただし1点だけ、これは記事にしてもかまわないという情報が、稲田氏よりよりありました。

 それは次のようなものでした。
 10月1日付で、教員及び学校職員にあって身体の障害ゆえに自力での通勤が難しいと認められ、公共交通機関の利用ができないあるいは困
難である場合、タクシーおよびハイヤーを利用しての通勤を認めることを内規を変更し、県教育委員会独自の判断で予算化し、決定したものである。その旨を市町村教育委員会に通達した。三戸教諭だけではなく、該当する県内の教職員のタクシー利用が可能となった。三戸教諭も10月1日よりタクシーを利用して通勤している。これはおそらく全国で初めてのことで、どこにも例がないものだと思う。――そのような話しでした。

 三戸さんからも、この点についての連絡がありました。清水建夫弁護士からは、「一歩前進である点は評価したい。今後の進展を注目していきたい」というコメントがありました。三戸さんはこの決定を評価しつつも、いろいろと考えるところがあるようです。それがどんなものかは今後の進展に影響を与えるでしょうから、ここでは触れないでおきましょう。わたし個人の感想を述べるならば、前例がなく、ルール策定と同時進行でこうした決断を秋田県教育委員会が下したことは、やはり英断と言ってよいものではないかと感じました。もちろん、これが最終ゴールではありません。「障害のある先生」たちの働く環境をどう整備していくか。課題はまだまだあるだろうと思います。

 公立学校の教職員は、福利厚生において恵まれている職業の一つだと思います。わたしも教員時代、遠慮なく有給休暇を活用させてもらいました。子どもを病院に連れていってから出勤したいので午前中2時間年休とか、熱が出たという連絡が保育園から入ったので早退したいから午後2時間年休とか、同僚職員への負担を危惧しつつもフル活用させてもらったと言っていいくらいです。

 あるとき先輩教員にさりげなく言われました。「あなたたちが当たり前のように使っているその有給休暇は、昔の先輩たちが闘って、ひとつずつ勝ち取ってきたものなんです。覚えておいてほしい」。たしかにその通りです。小学校教員をしていたわたしの母親は、生まれてまだ1年にも満たないわたしを預かってくれるおばさんを学校のすぐそばに見つけ(今に言うベビーシッターですね)、休み時間のたびに駆けつけてきては授乳をし、また戻って授業をしていたといいます。65年も昔の話です。まだ産後休暇とか育児休暇といった制度が不十分だった時代のことであり、女性の先生たちはそうやって仕事を続けてきたわけです。それが少しずつ認められてきた。そんな歴史が間違いなくあります。

 そしていま、「障害のある先生」たちの労働環境をどう整えていくか、新しい福利厚生の在り方をどうつくっていくか。三戸さんは通勤方法とそのサポート、という課題としてわたしたちの前に示しているわけですが、それ以外にも新たな課題は出てくるでしょうし、法的な整備や見直しもますます求められていくはずです。新たな歴史を作る時代に入ったわけです。三戸さんは「まだまだ」と感じていることでしょうが、「まずは一歩前進」という清水弁護士のコメントに感慨深いものを感じたことは、正直に記しておきましょう。

 話題を変え、三戸さんの話に少し耳を傾けてみます。教員という職業をどう考えているだろうか。最初にそんな問いを発してみました。

「教師という職業は素晴らしい職業だし、教師にしか味わえない感動がたくさんあります。とてもやりがいのある仕事だと思います。教師は人を育てる職業であって、そこに仕事としての充実感や達成感を感じます。これほど魅力的な職業ですから、多くの若い人たちに果敢に挑戦してほしいと思います」
 
 自分が教えた子どもたちに街でときどき会い、「先生」と声をかけてもらうことがある。教え子の成長を目の当りにする。そんなときは素直に「うれしい」と感じるし、自分の方も勇気づけられる、と三戸さんはいいます。
 
「教え子からパワーをもらい、自分ももっと頑張らないといけないと刺激を受けますね。生徒には、私自身が挑戦していく姿を見てもらい、そのことで何かを伝えていくことはわたし自身にとって大事なことだと思っています。不服審査請求するときも、一人の人間として、一人の社会人として、一人の障害者として、堂々と主張していくことが大切だし、生徒にもわたしの生き方として伝えていきたいと感じていました。生徒たちにも、自分の考えを主張していける人間になってほしいというのはわたしの願いでもあります」

 
 一人の教師として、障害があるとかないとか、必要以上にこだわる必要はないとは思いつつ、もう少し尋ねてみました。三戸さんは、目指す教師像や障害観を熱く語ってくれました。つづきは次号で。

教職課程 2019年 12 月号 [雑誌]
教職課程 2019年 12 月号 [雑誌]

「障害のある先生」の働き方をどうサポートするか(その1)

〝教育〟はどこに届くのか(第13回)               佐 藤 幹 夫
「障害をもつ先生」の働き方をどうサポートするか(その1)


この6月18日、仙台で発行されている河北新報オンラインの、次のような記事が目に飛び込んできました。先天性脳性まひがある秋田県の中学校教諭三戸学さんが、異動の取り消しや交通費の支給を求めて県の人事委員会に審査請求を行った、というものでした(記事では学校名が記載されていますが、ここでは無記名にします)。今年の4月から異動になった中学校では、管理職の自家用車に同乗させてもらって通勤している。送迎を受けられないときはタクシーになり、往復4200円ほどの料金となる。これは通勤手当の対象にはならない。管理職には申し訳ないし、自分にとっても不本意である。障害者が働くことのできる環境を整えてほしいと訴えている。――そういう内容でした。


教育県秋田がどうしたんだろう。記事を目にした直後はそんなことを思いながらそのまま過ぎたのですが、10日ほどたって急に思い立ち、三戸さんをSNSで探し出して達申請を送ったのです。すぐに承認の返信があったので、いきなりすぎるかと危惧しつつ、是非『教職課程』のこの欄で取り上げさせてほしい旨を伝え、取材依頼を差し上げました。三戸さんからはすぐにOKをいただいたのですが、秋田県教育委員会と自分の顧問弁護士である清水健夫さんにも取材をしてほしい、という要請が入りました。


たしかにその通りです。記事を見て断固応援しなければと決めたものの、審査請求を行ったばかりです。今後の審理にあたって、わたしの拙速な記事が三戸さんに迷惑を及ぼしては元も子もありません。少し考えましたが、取材だけはさせていただこうとスケジュール調整に入りました。三戸さんの住まいは秋田の県北地域。わたしの実家が県南地区。お盆帰省の途中に立ち寄らせてもらうことにしました。


この間、「障害者雇用」をめぐっては様々な問題が出てきていました。例の企業や官公庁での「水増し」問題はその最たるものでしょう。そこで働く人々(いわゆる「健常者」)にあって、「障害者雇用」が数合わせ程度のものとしか受け止められていない現実を、いみじくもあぶり出しました。言い換えれば、「障害」を持つ人々は、同じ働くメンバーの一員としては考えられていなかったということになります。


そんな現状もあってか、「障害をもつ先生」という存在は、これまでほとんど表面化することはありませんでした。迂闊にも、私もまったくノーマークだったのです。さっそくインターネット書店で調べてみると、特別支援教育や発達に遅れのある子の指導についての書籍は、それこそ山のようにヒットします。沖縄のジャーナリスト山城紀子さんの『あきらめない 全盲の英語教師・与座健作の挑戦』(風媒社・2003年)は知っていましたが、それ以外の「障害をもつ先生」について書かれた著書は、『障害のある先生たち』(羽田野真帆他編・生活書院・2018年)が出てきただけでした。ジャーナリズムの目はほとんど向けられず、学術調査も研究も、端緒についたばかりの領域であることが分かりました。

文部科学省のホームページを検索すると「障害のある人が教師等として活躍することを推進する~教育委員会における障害者雇用推進プラン~」というページを見つけました。例の不適切な計上を受けて調査したところ、都道府県教育委員会の雇用状況は他の県関係の機関よりも不十分なものとなっており、その理由は「教師の障害者雇用が進んでいないことが考えられる」としています。実質雇用率は1.90%(法定雇用率:2.4%)で、法定雇用率達成機関(教育委員会)の割合は43.3%にとどまっている。


いわば三戸さんの存在は、「障害をもつ先生」という領域の開拓者・先駆者であり、名前と顔をマスコミに明かし異議申し立てをする、自分の主張するところをまっすぐに訴える、そういう意味でも貴重な存在です。三戸さんと知り合って1カ月ほど後の参議院選挙では、れいわ新選組から車椅子の2名の国会議員が誕生しています。三戸さんの訴えは、これからますます注目を集めていくのではないか。詳しいことは後ほど書きますが、その訴えが、「働く障害者」にあって勤務中は公的支援を受けられないという、れいわの議員の訴えとも同様で、障害を持って働く先生たち全体にとっての死活問題であり、基本的で、とても重要な内容をもつものです。


文科省のホームページでは次のことも謳われていました。


子どもたちにとって、「障害のある教師等が身近にいることは、
① 障害のある人に対する知識が深まる。
② 障害のある児童・生徒にとってのロールモデル〔手本〕となる。
などの教育的効果が期待されるところである。」


と書かれています。まったく同感です。「障害」や「障害者」に対する偏見や不安、心理的なハードルの高さは、知らない、慣れていない、接したことがないなどが最大の要因です。それが解消されれば状況はずいぶんと異なるはずです。このことは一般の先生たちにも当てはまります。特別支援教育が導入されて以降、小中学校で「障害」への理解が深まったかと言えば、どうもそうではないという印象がぬぐえないのです。


また、文科省のホームページには以下のことも書かれています。


「新しい学習指導要領において対話的な学びの実現が求められる中、障害のある教師等との対話は、児童生徒等にとって、共生社会に関する自己の考えを広げ深める重要な教育資源となることも期待される」


 「深い対話による学び」の是非はともかくとして、言われていることには強く賛同します。歩く、走る、話す、聞く、見る、という自分たちが「当たり前」とか「ふつう」と考えていることが、いかに「当たり前」でも「ふつう」でもないことか、たくさんの気づきがあるはずです。「障害をもつ先生」たちが普段、衣服の着脱や入浴、食事などにどんな工夫をしているか、それを知ることはある種の異文化体験ともなるでしょう。人間存在がどれほど多様なものであるか、驚きや感動とともに学んでいく貴重な機会となるはずですし、「共生社会」のなんであるか、生きた知見として理解されるはずです。


 ではなぜ、これまで「障害をもつ先生」たちへの関心が広がらなかったか。働く人の数もごく少数にとどまっていたか。いくつか理由が考えられますが、まず、先生になるためには大学入試から始まって、卒業までどう講義をクリアしていくか。そのあとも教員採用試験、面接といくつかのハードルを越えなくてはなりません。そのときいわゆる「合理的配慮」がどこまでなされているか。


 さらには学校という職場環境に、バリアフリーという発想がまだ希薄であるという課題もあります。エレベーターの有無、段差、電動車いすが移動できるスペースが確保されているか。障害物はないか。職員室の机の周辺もそれなりの空間が必要とされます。改修工事を必要とする場合もあるでしょう。そして受け入れる側の先入観や偏見。先ほども述べたように、教職員に(そして保護者にも)、十分な理解があるかどうか。


バリアを取り除く配慮を「合理的配慮」と呼び、それを求めることは障害者権利条約に定められた権利です。ところが要求を出すことを「特別扱い」とされたり、我が儘な主張だとみなされたりすることが少なくありません(れいわのお二人の登院受け入れの改修工事に対し、一部の議員から、その費用をめぐってクレームや皮肉めいた発言があったことは記憶に新しいところです。国会議員でさえその程度の人権感覚なのです)。発想の転換が受け入れる側にどこまでできるか。


7月13日には、審査請求受理通知書が届き、審査が開始されることになったという連絡が、三戸さんより入りました。三戸さんにお会いするために日程調整をし、清水弁護士とも連絡を取り合いました。そして秋田市中央教育事務所にも電話を入れ、担当者に取材の趣旨を説明し、依頼を申し入れました。残念ながら(当然ではあるのですが)、教育委員会の側としては、審査を開始したところであり、現時点では答えられることはないという解答でした。三戸先生が生徒たちと一生懸命かかわり、がんばっている記事ならばどんどん書いていただきたいとも伝えられました。教育委員会への取材は果たせませんでしたが、こうして夏の真っ盛りのある日、三戸さんのご自宅を訪ねることになったのでした。


三戸さんは教員歴18年。もはやベテランと言っていいキャリアを積んでいます。担当は数学。18年目で6校目の転勤になります。秋田市内の中学校2校に勤務し、県南部の中学校へ。そして県北地区に戻り、そこで2校目。わたしの高校の同期の何名かが秋田県の教員OBです。県教委から中学の校長になった友人に、秋田県の異動のルールや考え方について尋ねてみました。次のような話しでした。


秋田県を県南、中央、県北の三つの管轄に分け、基本的にはそれぞれの管轄内での異動となる。ただし退職するまでに一度は、他の管轄での勤務が暗黙の取り決めとなっている。その時期がいつで、どこに異動するかは教育委員会と本人の相談による。異動希望は出産や育児状況、親の介護など諸般の家族事情は考慮されるが、最終的には教育委員会の判断となる。中学校は3年でワンサイクルと考えられており、3年ごとに異動が繰り返されるケースは必ずしも珍しいものではない。また三戸さんは希望し続けてきましたが、18年間で一度もクラス担任を任されたことがないので、この点を尋ねると、校内人事の決定は校長権限であり、担任の可否については「総合的に判断した」と言われれば、それ以上の反論は難しいだろう。――このような話でした。


三戸さんは異動を拒んではいません。これまでも、学校の近隣にバリアフリーの借家を探し、そこでヘルパー制度を活用しながら一人暮らしをし、通勤にはタクシーを利用してきました。住居手当が満額だと48,000円支給され、交通費はほんのわずか。タクシー代を1カ月2,3万ほど自己負担してきたといいます。そうした条件をクリアしながら、中学校教員としての職務を全うしてきました。ところが平成31年(令和元年)度の人事異動の際、このバランスが崩れます。新任校の近隣に、三戸さんが居住可能なバリアフリー仕様の借家を探しますが、適当な物件がありませんでした。結果、自宅からの通勤を余儀なくされるわけですが、そうすると今度は通勤が問題となります。


教員の異動にあたっては前年度のうちに内示があり、そこで承諾する・しない、調整が必要な場合は調整がなされ転勤校が決定される、という手順が踏まれるのですが、基本的には内示の段階でほぼ決定です。三戸さんは内示の前に内々示があり、転勤校への通勤をめぐる話し合いが繰り返されました。その細かな内容についてはここでは触れません。ポイントだけを書くと、異動は拒まない、ただし通勤方法を明らかにしてほしいというのが三戸さんの言い分でした。しかし通勤方法が明らかにされないまま内示が下されます。


結果的に、新任校の校長と教頭が交代で送迎をするということになるのですが、これは三戸さんにとって本意なものではありませんでした。ガソリン代の出ないボランティアであり、送迎する管理職にとっても負担は大きいし、自分にとっても精神的な負い目となる、納得できる通勤方法ではない、合理的配慮を欠くという訴えが、冒頭の新聞記事にある審査請求という形になります。そこに至るまでは、教職員組合の働きかけや新任校の教職員による話し合いなど、いくつかの細かなプロセスを経るのですが、それは割愛します。


わたしは尋ねました。「三戸さんの訴えは異動の是非と交通費の支給という形になっているが、訴えのポイントは何だろうか」。すると次のような答えが返ってきました。


「審理請求を出した時点では交通費の支給という課題が前面化していましたが、参議院選挙のあと、れいわの二人の議員が訴えている課題が一気に注目されました。いまは私が言っていた2,3万円の交通費であれば自己負担できる、という考え方も淘汰されたと思っています。金額の問題ではなく、働く障害者の通勤に対してどう公的に支援していくのか、そこに問題がシフトしていると思っています」


8月8日、秋田県教育委員会による答弁書が提出されました。内容は「審査請求の趣旨1.異動処分を取り消すこと」は棄却、「同2.タクシー利用による通勤手当の支給」は却下、との裁決を求める、というものでした。それを受けて、三戸さんの側から9月13日まで認否及び反論書を提出する、というのが次の段階だといいます。


教職課程 2019年 11 月号 [雑誌]
教職課程 2019年 11 月号 [雑誌]さて、〝教育〟はどこへ届くのか。共生やインクルーシブ(社会的包摂)をめぐる教育が、新しい時代の教育現場にあってどこまで実質的な力をもてるのか。三戸さんの訴えは、そのことをわたしたちに問いかけているように感じられます。

『小林秀雄の悲哀』『江藤淳は甦る』を読む ―飢餓陣営編集日記

盆休み明けから、この間の読書。「飢餓陣営」次号では、加藤典洋さんの特集を予定しています。原稿の依頼もあらかたすみました。その準備として、小林秀雄と江藤淳を取り上げた以下の2冊を読んできました。私の文芸批評家のマップでは、小林秀雄‐吉本隆明‐江藤淳ときて、次が加藤典洋になるのです。

両著は、方法が全く対照的。橋爪さんの著書は、古事記、宣長『古事記伝』、小林『本居宣長』をテクストとして、徹底して読み解いていくというスタイルです。もちろん、橋爪さんのこれまでの言語ゲーム理論、法理論、朱子学、儒学、古学、神道などの江戸思想(これは前著、『丸山眞男』でも取り上げられました)が、動員されます。小林秀雄が宣長をどう読んだか、あるいはどこが読めなかったのかが、これでもかというくらい「丸裸」にされます。

橋爪さんが何をしたかったか。維新以降、近代(と近代的科学主義や客観主義)を身に付けていったはずの日本が、なぜ天皇を頂点とする超国家主義になだれ込んでいくのを阻止できなかったか。その元凶が宣長にある、と橋爪さんは見立てます。宣長もその学問の方法を実証性や客観性を体現しながらも、『古事記伝』は天皇至上のカルト的解読の著書となっており、しかもその両者が、宣長のなかで矛盾なくつながっている。それはまさに維新以降の、日本の姿でもある。そこを突き止めきれなかったことが、小林の『本居宣長』の最大の弱点だったというのが、橋爪さんの裁断です。これは粗雑な紹介ですが、「超一級の知識人」とはこのようなものか、と読みながら、何度も鳥肌が立ちました。前半はテキストクリティックに費やされますが、後半、一気にドライブがかかっていき、怖いくらいでした。

平山さんの評伝は、文壇、論壇の内情に精通し、そこでの人間関係を調べ上げていること。それは、江藤淳のプライベートな人間関係であり、学者・研究者として、論文・批評文を発表するにあたっての、背景事情であり、アカデミズムのヒエラルキーがどのようなものか、それらが精査されています。取り上げる文献資料も、単行本として刊行された著作物だけではなく、文芸誌に発表され、単行本未収録となっているエッセイ、対談での発言などが、文壇内部にいた人ならではの資料収集力となり、それを裏打ちするリアリティに、満ち満ちている。そのことで、江藤淳という巨大な知性の内側(孤独と苦悩)が描き出されていく。そんな評伝です。

江藤淳の文芸時評を読むと(上下巻として新潮社から刊行されています)、その遠慮のない批判は、ここまで書いて大丈夫かというくらいの激しさを持っています。やはり、暗に陽に遠ざけられ、孤立していた様子が(江藤淳は〝生き埋め〟になった」という言葉で)如実に描かれている。文句なしの圧倒的評伝でした。

両著ともに、現代日本の政治状況や社会状況への直接の言及はありませんが、なぜここにきてカルト的な国家主義の揺り戻しが来ているのか。なぜ日本は「近代」を体現できないのか(橋爪)。敗戦と占領統治に対する江藤のアメリカへの激しい言論を通し、日米関係がなぜこのようなことになっているのか(平山)。それらがおのずと炙り出されてくる。そのような読みも可能だ、という感想ももった次第です。

貯めこんである雑誌や新聞類から、加藤さん関係の記事を探索していますが、どうやって整理し、どうやって飢餓陣営の誌面に反映させるか、思案中です。著作も読み進めていかなければならない。手始めに『9条入門』の再読。(と考えていたら、『教育過程』よりゲラが出てきて、なんと25行もオーバー。頭を抱えながら、削除作業に追われています。ちょっと昼寝もしちゃいましたが・笑・)。

小林秀雄の悲哀 (講談社選書メチエ)
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〝教育〟はどこに届くのか(第12回)                「野田市小4女児虐待死事件」、母親の公判を終えて(その2)

〝教育〟はどこに届くのか(第12回)               
「野田市小4女児虐待死事件」、母親の公判を終えて(その2)


 前回は複数の報道記事を読みながら、野田事件の母親の判決について感想を書きました。傍聴できなかったことで不全感が残り、もう少し取材を進めてみようという気持ちが沸き起こっていました。予めお伝えしておくと、このコーナーは、教育について私の考えるところを述べるように、という依頼をいただいて始めたものです。野田事件の報告は直接教育の問題に触れることはないのですが、子どもたちの生活や、「こころとからだ」を守る仕組みや環境がどうなっているのか、社会で何が課題となっているのか、その点に深く関わります。それは教育が十全に行われるための必要条件といってよいものです。事件報告はそこに関連するテーマであるだということを、予めご理解いただければと思います。
さて、取材を進めることにしたとはいえ、現場職員へのルートづくりはいったん留保し、前稿でご登場いただいた千葉大学大学院専門法務研究科教授の後藤弘子さんに取材を依頼しました。後藤さんは法科大学院生の教育のみならず、現場で、少女たちをめぐる様々な支援に携わっています。後藤さんにとっていわば千葉はホームグラウンドです。判決についてどんな感想を持ったか、まずはその報告から始めましょう。

 後藤さんは何人かの報道関係者から話を聞く機会があったといいます。そして話を聞けば聞くほど、このケースは「児童虐待事件」として知られることになったが、むしろDV(ドメスティック・ヴァイオレンス)のケースとして、もっと早い時期に調べを入れ、対応するべきだったといいます(沖縄取材をした際のK議員も同様のことを強調していました)。ところが事件発覚以前、調査や捜査をした形跡はない、取材も行われていない。DVのために一度離婚し、復縁を迫られた末に再婚しているということは、夫からのストーカー行為があったことが十分に推測される。そこで何か手を打てたはずなのに、何も形跡もない。この時に対応していれば心愛さんの命を守れた可能性はあった、それを考えると極めて無念でならない。――そんな話から始まりました。

「配偶者暴力禁止法」は平成13年に制定され、平成16年の第一次改定を経た後、19年には保護命令や市町村の規定を強化した改正法が制定されます(施行は20年1月)。改正法では、裁判所が本人の申し立てによって「保護命令」を下すことができ、具体的には、接近禁止命令、退去命令、電話等禁止命令です(母親方の祖母が学校や行政にSOSを出すのですが、それが危機感を持って受け止められなかったという報告はすでにしました)。DV被害の深刻さへの理解が不十分だった、この点が悔やまれるといい、それから話が野田市転居後のことに移りました。

母親が沖縄でDV被害を受けていたという情報は野田市にも伝わっていたというが、それが信じられない、と後藤さんはいいます。私(佐藤)はまったく知らずにいたのですが、野田市は、10年ほど前はDVの被害者支援の、全国でも知られるほどの取り組みを行っていた地域だったというのです。野田か佐賀かと言われるくらいで、当時の市長と男女共同参画の部署にいた課長がとても熱心だったといいます。
「野田市が〔市がですよ、と後藤さんは強調しました〕DVのシェルターを作り、ワンストップサービスを市役所のなかに実現するのです。例えば子どもの問題で相談に行くと、担当は子ども家庭課ですね。そこでDVの話が出たら、普通だったら『~~課に行ってください』と言われます。ところが野田では、そこにDVの相談支援員が行くのです。福祉が必要だと言ったら福祉課の担当者が行き、生活保護が必要だといったら生活保護の担当者が行く。住む家がないと言ったら住宅課の人が行く。たらい回しにしないシステムを作ったのです。それだけではなく、自分たち市が保護できるようなシェルターも用意したのです。市役所内ワンストップですね。これは『野田モデル』といわれました」

 調べてみると、確かに2000年代の前半、野田市の「配偶者暴力相談支援センター」には全国から視察者が訪れています。県内外のシンポジウムにあって、野田市の担当主査がパネリストとして発言する記録も散見されます。ただ残念なことは当時の責任担当者が不祥事を起こしてしまい、充実した支援がそこから手薄になってしまったことでした。

 「児童虐待の話になってしまったので児童相談所が介入していくわけですが、DVがあると分かれば、かつての野田市だったらもっとしっかり対応できていたはずなのです。柏児相と野田市のDV担当の部署がどこまで連携できていたのか分かりませんが、私も柏児相とはかかわりを持っています。最近、相談ケースが多すぎてちょっとあやしくなってきてはいるものの、それでも千葉は関東の他地域よりはましだろうと思っていたのです。それがあの野田で、ととてもショックでした」

 重大な事件の背後には、不運としか言いようのない事態が複合しています。繰り返しますが、こうした背景があったことを私はまったくつかんでいませんでした。このことは決定的要因ではないにしても、見逃せない事実であり、子どもたちや家庭を守るシステムがやはり全体的に地盤沈下を起こしている。それを象徴的に表している。そう感じたのです。
ところで、今回の母親の判決では、彼女が受けていたDVをどう評価するのかが、重要な争点の一つでした。判決ではDVの影響がそれなりに評価されているという識者コメントもあったようだが、後藤さんは、全くそうは考えていないといいます。子どもを守るべき母親としての弱さが強調されており、朝日新聞によると、判決には「虐待に苦しむ心愛さんから目を背けたばかりか、監視して夫に報告するなど自らの判断で迎合したことがうかがえる」と批判するくだりもあります。この点を後藤さんは批判します。

 「これだけ激しいDVをうけている被害者だったら、加害者との関係で弱いのは当たり前です。彼女が精神的に弱かったとか、裁判長が判決の最後に『頼るべきはあなたしかいないなか、同調して手助けした責任は重い』などと説諭していますが、DVの被害者が助けられるわけがないですよ。それから今回、求刑2年で、判決は2年6月、求刑越えなんです。これも私には理解できない」
前稿で私も、求刑越えの判決となっていることをどう考えたらよいのか、と問いを提起しておきました。後藤さんは言います。
「執行猶予はついていますが、保護観察も5年もついているのです。しかも罪名が傷害致死ではなく、傷害の幇助です。私はあらためて確認するまで傷害致死幇助だと思っていました。傷害幇助でどうして求刑越えをしなければいけないのか、まったく理解ができない判決です。私が予測したのは1年6月で、執行猶予が付けば4年か5年だろうと思ったのです。どうして2年6月にするか、その意味が分からない。DV被害者への判決が求刑を超えるわけがないし、何もできなかったことを酌量するのではなく、~~すべきだったという『べき論』を述べています。いくら~~すべきだったといわれても、事実問題として彼女はできなかったわけです。そもそもDVの被害者が起訴されるのがおかしいという意見もありましたが、私もまったくそう考えます」

 児童虐待とDVは深く関連している。子どもにとってはDVの目撃自体が虐待になるから、DVが確認されれば、子どもへの虐待も強く疑われることになります。ところが逆に、虐待が発見されたとしても、そこからDVへの疑いが向けられることは、現状では多いわけではないといいます。児相をはじめとする児童福祉全体が、まだDVに対する認識が弱いのではないか。司法(裁判)も、そこまでは証明できなかったのかもしれないが、DV被害者についての適切な理解を欠いていたのではないか。

そしてもう1点、柏児相が加害当事者である父親の実家に心愛さんを返していることは、全く考えられない判断であり、自分がかかわるシェルターで児童相談所からこのような提案を受けたら,全力で反対するといいます。

「私は驚きました。なんでそんなところに帰すのか。母親が子どもに合わせてもらえないということは、孤立した状態に追い込まれているわけです。孤立させるのがDV加害者の常とう手段です」

しかも母親が、そもそも精神的に弱い人であり、生きる力がすごく弱い人だともいいます。そしてここから、後藤さんは次のような仮説を述べます。これは、私にとってはきわめて納得のいく洞察でした。

「勇一郎被告は、彼女(母親)に対するDVの支配とコントロールには成功したわけです。だけど、心愛さんは小学校4年生ですし、母親が入院したりして祖母に預けられ、沖縄時代にはあまり一緒に住んでいなかったのではないか」

心愛さんの両親は、結婚してすぐに離婚。心愛ちゃんが生まれて間もなくのことで、その後は何年か別居生活が続きます。再婚してすぐ母親は二人目の子どもを出産し、直後にメンタルを崩して入院。

「その間、心愛ちゃんは、おばあちゃんのところにいたと思うのです。だから沖縄で父親と一緒に暮らしていたのは短期間だった、と私は理解しているのです。沖縄のおばあちゃんはしっかりしている人のようで、心愛さんはその影響下にあった。言いたいことを言える子だったし、自立心の強い子ではなかったか。虐待を受けるようになってから、短時間で学校に伝えていますね、『私は暴力を受けている、先生何とかしてください』と。ふつう長期間虐待されている子は、そんなふうに言葉にはできないのです。それが言えたのは、一緒に住んでいた期間も短かったこともあり、自分の意見をきちんと言える子だった、それが虐待を激しくさせたんじゃないか。目黒の事件もその他の事件もそうなのですが、虐待で亡くなる事件では、一緒に暮らす時間が長く、長期間虐待を受けています。そうすると外に向かって『助けて』とはいえなくなる」

心愛さんが野田の学校に転校した後、すぐに積極的にクラスで行動するようになっていたことは報道されています。これをどう受け止めるか気にかかっていたのですが、腑に落ちました。

「そうすると、父親にとっては自分のコントロールが効かないわけです。支配できない。でも自分の所有物だと思っているから、虐待に走る。お母さんは自分の所有物なのに、なんでこの子はそうならないんだ。そんなこともあって、彼のコントロールがほとんど効いていなくて、それは彼にとっては絶対にありえないことだった。だから、暴力の向かう先が、心愛さんに集中していくわけですし、野田で一緒に暮らすようになって、短期間で虐待をエスカレートさせていったのだと思います。これは児童虐待という以上に、DVの亜種のような事件ではなかったかと私は考えているのです」

圧倒的な力をもって父親に支配されている母親、その母親に助けてほしいとは、心愛さんには言えなかった。できるわけがない。助けてくれるのは学校だけだと心愛さんは考えたからこそ、「先生、助けてください」と、必死のSOSを発した。しかし、学校は受け止めきれなかった。
「学校現場はいま個人情報保護法の問題もあり、家庭の情報を集められなくなっています。家庭で何が起きているのかなかなか把握できないし、踏み込めない。しかも、学校現場では、DVは家族問題としてあまり認識されていない気がするのです」

ここから後藤さんのテーマは、学校現場の話になっていきます。

「野田市小4女児虐待死事件」、母親の公判を終えて(その1)

〝教育〟はどこに届くのか(第11回)                佐 藤 幹 夫
「野田市小4女児虐待死事件」、母親の公判を終えて(その1)

 今回は、野田市の事件の続報を書いてみたいと思います。
 2019年5月16日、千葉地裁にて、母親に対する第1回公判が開かれました。6月26日には判決公判となり、「懲役2年6カ月保護観察付執行猶予5年」の判決が言い渡されました(求刑は2年)。どちらの裁判も傍聴できませんでしたが、こういう時、フリーとして単独取材をしなければならない限界を痛感します。〝ツキ〟とか、事件との〝縁〟のようなものを得て初めて取材が進められていく。ダメなときはどう頑張ってもダメ。不思議なものだといつも感じます。そんなわけで、今回は各種報道記事を借りての報告になります。

 まず、初公判を報じた産経新聞の次の記事には息を呑みました。父親は心愛さんの「存在自体が嫌だ」と、1月22日から24日の明け方まで、「断続的に浴室やリビングに立たせ、食事を与えなかった」といい、次のように書かれています。「心愛さんは失禁を繰り返した。24日午後3時ごろには、浴室で「今から5秒以内に服を脱げ」とせかされますが、「服を脱ぐ気力がなくなり、シャワーで冷水を頭からかけられ、背中を丸めて震えていた」「同日夕、リビングに連れていかれてプロレス技をかけられ、また失禁。最後は夜に『掃除をさせる』と浴室に連れ出された」。ここで心愛さんの命は尽きます。「(略)なぎさ被告が浴室に行くと、心愛さんがあおむけで青ざめた状態で倒れていた」。これがなぎさ被告の供述調書に書かれていた、亡くなる前後の様子です。

 虐待事案はどれも凄惨なものですが、父親が実の娘に(しかも10歳の子どもに)、ここまで酷いことができる。しかも理由が「存在自体が嫌だ」という憎悪。私は基本的に、人はある特殊な状況下に置かれ、ある特殊な心理的作用が働いてしまうと歯止めを失い、想像を絶するどんなことでも行ってしまう。人はそのような存在であると考えています。高齢者施設や、障害者施設での虐待死や暴力行為が後をたたないのも、教員の体罰が時に激しく常軌を逸した結果となるのも、まさにこうした特性がもたらしものだと考えています。
しかしそれにしても、先の産経新聞の記事を読み、しばらくはまともに物事が考えられませんでした。この衝撃が一つです。

 二つ目は、「懲役2年6カ月保護観察付執行猶予5年」という判決についてです。求刑以上の判決となっている一方、5年間の保護観察付きの執行猶予がついています。長期間、夫による凄まじい暴力の中に置かれ、精神的な支配下にあった母親を逮捕拘束し、刑事被告人として法廷に立たせる。このことの是非をめぐっては、多くの反対意見が出されていました。私もまた、母親は心愛さんへの加害者である前に夫の暴力の被害者であったのだから、裁判所はその点を最大限考慮すべきではないか。そう考えていました。その立場から見たときに地裁判決をどう受け止めたらいいのか。

 求刑以上の懲役を示すことで検察側の顔を立てつつも、5年間の執行猶予を付けています。受刑者となって刑事施設で更生をはかるのではなく、いわゆる社会内処遇を選択しているわけで、この点では母親への大きな配慮が感じられます。ただ、保護観察5年というのは、シロウト判断では両義的な作用をもつのではないか。5年間は、なんらかの司法による支援機関とつながることが保障されるわけですが、逆に言えば5年間は、司法的監視が解かれない。真っ新(さら・ルビ)になって一市民の身に戻るには、5年間の司法関与を受けなければならない。これを重いと受け取るか、かけがえのない命が失われたことに比べれば軽すぎると受け取るか。意見の分かれるところでしょうが、各報道は、被告人と検察双方への配慮を示した判決という論調でした。私の関心は次の点に向けられました。

 母親にはもう一人、子どもがいます。保護観察付きの執行猶予期間、母親はその子との関係を絶たれてしまうのか、ある条件下であれば接触が許可されるのか。判決が出る少し前、刑事被告人となれば子どもとの接触が禁じられる、あるいは著しく制限される、と書かれた本を読んだばかりでしたので、執行猶予の場合はどうかと気になったのです。急なことではあったのですが、以前取材をさせていただいた後藤弘子さん(千葉大学大学院専門法務研究科教授)に伺ってみました。こんな回答をいただきました(文責は佐藤)。

面会できるかどうかは、子どもがどこにいるかによる。同居していれば問題なく会えるし、児童養護施設にいる場合でも面会はできる。執行猶予で保護観察がついているからといって会えないことはない。ただし、下の子どもへのネグレクトがあるという児童相談所の判断のもとで児童養護施設にいる場合は、しばらくは会えなくなる。ただし、特別遵守事項に、子どもと会う際にスーパーバイズがつく等の制限は課せられる可能性はある。「子どもには会えない」ということが、特別遵守受講に付くことはないが(付くほうが問題)、確証はない。いずれにしても児相の判断が大きい。――

こういうお話でした。子どもがどこにいるのか調べてみようかとも思いましたが、新聞記者もどこへいるかは把握していないようだとも後藤さんはいいます。

ここでも、意見は分かれるかもしれません。心愛さんへの虐待に加担したような母親である、下の子も保護されて当然であるし、会えなくなったとしても自業自得である。まして現在のような脆弱な精神状態(双極性障害と診断されています)で、3歳に満たない幼児に会わせても、かえって不安を昂じさせるだけではないか。まして自分に激しい暴力をふるい、娘の命を奪ったような男の子どもである。心の底から可愛いと思えるかどうか、と。

このような危惧はそれなりに理解できるのですが、しかし私は、しっかりとしたサポートを受け、これまで以上の母子関係の回復を目指すのが、この母親の務めではないかと考えます。保護観察付きの執行猶予という裁判所の判断は、そのことを求めているのではないでしょうか。児童虐待の問題の難しいところは、子どもの安全のために保護を優先させるのか(そうすると必然的に親子は引き離されます)、関係の回復を目指すのか、難しい判断を迫られるところにある。以前の稿でそう指摘しました。

ところで、前回の報告(第7回、8回)の後、児童精神科医の滝川一廣さんより拙稿への感想をいただきました。滝川さんは昨今の児童虐待の報じられ方、その対応の在り方に対して、以前より警鐘を鳴らしてきた医師です。野田の事件にあっても、父親の所業や周囲の不手際に対する社会的な義憤はだれのものでもある。

とはいえ、子どもたちの「守護神」に成り代わったような事後的糾弾があふれ過ぎている。結果、必ずしも十分とは言えない検証のもとで「一時保護」の判断が下され、刑事事件に発展し、冤罪といった事態も起きている。
滝川さんは、その事実を明らかにした著書があると、柳原三佳さんの『わたしは虐待していない ―検証 揺さぶられっ子症候群』(講談社、2019)を紹介してくれました。「人間と発達を考える会」では、これをテキストに話し合いを持ちました。「児童虐待」と一言で括られても、そこには一筋縄ではいかない問題がある。そんなテーマです(これは学校で生じる様々な問題でも同様でしょう)。次回はこの報告をしたいと思います。

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新城兵一■沖縄から、状況への発言(2) 「非暴力直接行動」という定型を疑う
水島英己■沖縄への思い(1)
佐藤幹夫■(転載)沖縄をめぐる「入り口」と「出口」を求めて

【松本俊彦『薬物依存症』を読む】(「人間と発達を考える会」)
松本俊彦氏を囲んで■薬物依存症の治療に大事なこと
愛甲修子、伊藤研一、内海新祐、大迫久美恵、大澤功、小川正明、栗田篤志、佐川眞太郎、清水邦光、竹島正、本田哲也、佐藤幹夫

水藤昌彦氏インタビュー■更生支援
  ――司法と福祉の連携、この一〇年の変容

【特集】津久井やまゆり園事件を考え続ける(パート2)

【父親たちは語る】
なぜ施設を望むのか、あるいは望まないのか
(発言者)大月和真(家族会会長)/尾野剛志(前家族会会長)/神戸金史/岡部耕典(早稲田大学教授・コーディネーター)

【ジャーナリストたちに聞く】
神戸金史氏(RKB毎日放送)に聞く
  ■事件記者であること、我が子のことと植松被告のこと
成田洋樹氏(神奈川新聞)に聞く■「分ける社会」をどう終わらせるか

【「障害当事者」を生きる】
実方裕二■新たなお付き合いに向けて
志子田悦郎さん、青海恵子さんを訪ねて
   ■障害当事者として津久井やまゆり園事件から考えたこと

【家族という場所から】
佐藤幹夫■私の家族史と津久井やまゆり園事件について
   ―― 辺見庸『月』を読みながら

【連載】
木村和史■家を作る(12)
阿久津斎木■萩尾望都論(その3)夢想
宗近真一郎■隠されたものの回帰――「つぶやき」への「応答」の端緒へ
浦上真二■古書会読(27) 吉本隆明とリカード『農業政策批判』

【本を読む】
添田馨■ありえなかった歴史を有らしめんとする意志‐加藤典洋『9条入門』(創元社)
西脇慧■隠喩としての「素数」‐添田馨『クリティカル=ライン』(思潮社)
内海新祐■安心して「子育て」ができるために‐柳原三佳『私は虐待していない』(講談社)

【転載】(『教職課程』協同出版・二〇一八年一一月号~二〇一九年八月号)
佐藤幹夫■〝教育〟はどこに届くのか(第1回~第10回)

吉本隆明さんへの最後のインタビュー(「現代詩手帖」追悼号より転載)

吉本隆明さんへの最後のインタビュー
                                   佐藤幹夫

さる三月一六日の未明に、吉本隆明さんは他界された。八七歳だった。

一九八七年以来、私は多くの方々の協力を得ながら雑誌の発行を続けてきた。いうまでもなく吉本さんの『試行』や北川透さんの『あんかるわ』の真似事から始めたものだが、私にとっては優れた書き手たちの生の声に触れ、書き込みのある生の原稿を目の当たりにできる、贅沢な道楽であった。そのような気ままな雑誌にあっても、つい先ごろまで、最も望んでいたはずの吉本さんへのインタビュー依頼だけは、自制し続けていた。

そこにはオウム問題以降の、公私を含めた微妙な経緯がある。話の都合上一つだけ書き留めておけば、オウム問題の誌面作りの時に私が心がけたことは、小さなメディアとはいえ、できるだけ偏りの少ない誌面作りをすること。吉本氏を始め、どなたにたいしても、発行者が異論を感じたときは忌憚なく表明させていただくこと。そのように努めながら、あの大騒動の渦中で、オウムの特集を企画し、雑誌作りを続けていった。

その判断に間違いはなかった、といまも考えている。これからも弁解はしないだろうとも思う。だが、少なくとも「雑誌」というメディアに公平・中立などという立場はあり得ないのだということを、あのとき私は思い知らされた。結果、あれほどの孤立無援の苦難に立たされていた吉本氏を全面的に支えるという役割とは逆の働きを、私の雑誌はしてしまったのではないか、という苦い後味が残った。しかたがない。それならそれで引き受けていくしかない。忘れた振りをして、なかったかのごとく振る舞うことだけはやめよう。――それが吉本氏へのインタビュー依頼を自制し続けてきた私なりの、筋の通し方だった。

「飢餓陣営」創刊時に、いつか力をつけて吉本総特集を企画すること、ご本人へのインタビューをはたすこと、と掲げた二つの目標のうちの一つを、私は自ら断念したのである。そのような事情がありながら、東日本大震災の後から編集者Oさんの尽力のもと、急に思い立ったように吉本さんのご自宅に伺うようになったのである。

大地震の直後、東北の各地が破壊されていく映像に打ちのめされながら、「吉本隆明ならば、こんなときなにを言うだろうか」とすがるような思いで、日夜、その著作をめくり続けていた。だんだんと「直接その声を聞きたい、聞かなくてはならない」と、ほとんど思い込みのような考えにつかまれていった。

私は意を決してOさんに依頼し、出かけることが適ったのは、二〇一一年の四月一九日と二六日。二六日に収録した分が「吉本隆明、東北を想う」とタイトルされた、宮沢賢治と東北をテーマとするインタビューである。

この日の吉本さんの集中力は、およそ尋常なものではなかった。話し始めるとすぐにドライブがかかり、ほぼ三時間近く一気に語り続けた。ある人が「圧倒的な存在力」といったその言葉通り、私とOさんは、吉本さんの「存在力」に圧倒されていた。雑誌を続けることで、執筆者からいただいた原稿に喜び、乱舞したことはそれまでにも二度や三度ではなかったが、やっと念願がかなったこのインタビューには震えがくるほどの感謝と感慨を覚えた。そして吉本さんの語りには、どこにこれほどの気力と体力が潜んでいるのか、と空恐ろしささえ感じずにはおれないほどのものであった。

吉本さんから見れば、私などは、今頃何しに来たのかというような超新参者である。しかも負い目まで抱えている。それでも、半年に一回程度なら、という許諾を得た私が図々しくも次にお邪魔したのは、二〇一一年の一二月二日。四月の最初に伺った日、序説のように話された太宰治について、東北と津軽という観点を加えながらもっとお聞きしたいというのが、この日の目的であり、事前にそのようにお伝えしてもいた。

ところがこの日の吉本さんは、問いかけに最初の二言三言は答えたが、すぐに別の話題へと移っていった。気乗りがしないのだな、今日はやらないぞとおっしゃっているのだな、と判断し、こちらの質問はすべて封じたが、やはり二時間以上も話して下さった。途中、親鸞や、房総、信州の寺のことなどを語られただろうか。

同行してくれたOさんの用事も住み、そろそろ引き上げようかという段になったとき、吉本さんがふと漏らした。

「Oさん、ぼくももう、いろいろとめんどうくさくなってさ」

私とOさんに対し、もう仕事は勘弁してほしいと伝えているのだ、ということはすぐに理解された。当たり前だな、と思った。震災以降、このご高齢で一〇年前二〇年前と同じように、いやそれ以上のものを背負い込まされている。こんなことは、並みの人間にはとても出来ることではない。そう思いつつも、また一方で、これは四〇年に及ぶ付き合いを継続してきた編集者・Oさんへの別れの言葉ではないのか、とも思われた。私は一瞬うろたえた。目の前の吉本さんと、もう二度とお会いできなくなるのか、これでお別れになってしまうのか。そんな強い感情に襲われてもいた。あわてて打ち消して自宅を後にしたのだが、Oさんも何事かを察したらしく、帰路、ぼんやりと黙り込んでいた。その後の二人の酒も、まるではかばかしくなかった。

「あの人は、生死は分けない。とくに人間個々の生死を分けるというのは意味のないことだ、銀河系とともにあって、滅びるときも銀河系とともに滅んでいく。それでいいじゃないか。死するということはそういうことである」

宮沢賢治はそのように考えていた、と吉本さんは語った。それは宮沢賢治に託して述べられた、ご自身の最後の思想でもあったのだと思う。雑誌をもつようになって二五年、念願かなったインタビューで語られた吉本隆明の言葉が、そのような、はるか銀河系から人間存在を俯瞰する死生観だった。

吉本隆明の遺した宿題(3/3) 北明哲+佐藤幹夫

飢餓陣営38」【追悼総力特集】号より転載

吉本隆明の遺した宿題          北明哲+佐藤幹夫
 ――三島由紀夫の戦後と吉本隆明



吉本隆明は批判力を失ったのか

佐藤
 ところが、八〇年代から九〇年代にかけて、社会の変容が加速する。少なくとも吉本隆明にはそのことが強く感知され、思想的に変化が生じていくのですが、たとえば、自己表出の主体を作家個々の文体として捉えるのではなく、〈現在〉という社会の総体に体現されているという仮説を立て、そこからイメージ論が構想されていきます。それが『空虚としての主題』や『マス・イメージ論』になる。

北明
 そうですね。『マス・イメージ論』や『空虚としての主題』は、『言語にとって美とはなにか』の書き換えですね。表出の主体が個々の作家から〈現在〉になる。つまり『空虚としての主題』は、〈現在〉を作者とした、『言語美』における「表現転移論」です。

ちなみにもう少し〝妄想〟をいっていいですか。
『言語美』が『資本論』をベースにしていることは、ご本人も、多くの人も指摘していますね。マルクスの交換価値、使用価値が、『言語美』では自己表主、指示表出に対応することは、皆さんのおっしゃるとおりです。そして『資本論』の要のひとつである、『価値剰余学説』(最初は等価交換だった経済行為から、なぜ価値の剰余が発生するのかをめぐる分析)が、『言語美』では「表出史=表現転移論」になる。「資本」とは交換価値の剰余の累積であり、文学の歴史とは「自己表出」の累積史である、と対応させることができる。これはまあ、ぼくのオリジナルというわけではないです。

で、『共同幻想論』はどう思いますか。

佐藤
 『共同幻想論』の発想の源流は? という問いですか。フロイト?

北明
 その通り。これはバカっ話でいいんですけど、文体の底に、どうも、『精神分析入門』や『症例研究』のにおいがするんですよ。「トーテムとタブー」のような文化論研究とかですね。もちろん「幻想の共同性」という発想はマルクスだし、いろいろな先行者の思想が入ってはいるんだろうけれど(発想や記述のベースに、個人の心的現象をそをそのまま共同幻想に引き延ばしていくことはできない、そこにフロイトの文化論批判の要点があるのだけれど)、でも、フロイトの発想やアイデアや、文体の影響がありそうな気がする。あくまでも、気がする、ですよ。

佐藤
 はい、まあ、そういえないこともない。

北明
 それで八〇年代になると、マルクスやヘーゲル、フロイトはいったん退き、やはりレヴィ=ストロースの構造主義や、ボードリヤールの経済理論や、フーコーの思想が、吉本さんの中で前景化してくるんだと思うのです。それがまた、80年代に吉本批判を始める団塊世代の書き手にとって、いまさら構造主義じゃねえだろう、という批判のタネになるんだけど。

佐藤
 そのあたりの事情も、多分そうだと思います。正直、私のほうは、この時期の現代思想家への読み込みが足りなかったせいで、そこまで十分に理解を伸ばせていないのです。

北明
 あの頃、あなたのほうはもっぱら折口・柳田であり、西郷信綱の『古事記の世界』なんかの古代論であったり、小松和彦さんの『異人論』であったりとか、あの方面に突っ込んでいましたもんね。

佐藤
 そうですね。梅原猛さんの縄文論とかも読んでいましたからね。で、先へ進ませもらっていいですか。

 問題は、ここで多くの人たちが吉本思想と決別していく。かつては吉本さんのどの作品にも強烈にあった、社会総体に対する否定性や批判性、反権力性が、この時期になると薄れている、それどころか現実肯定、現実追随に堕している、吉本隆明は現実における最前線の闘いから退いてしまったのではないか、そんなふうに受けとられたことが理由だった。

そして国家の持つ強大な権力、あるいは国家強制力は、共同の幻想(イメージ)をその本領としていたという六〇年代の『共同幻想論』のテーマは、『ハイ・イメージ論』に場所を変えて展開されることになるのですが、超資本主義論やイメージ論こそが、批判者には、資本主義追随、現実容認の思想にしか見えなかった。

吉本さんにとっては、ここでのモチーフは、「西欧的」なる先端の超資本主義社会においては、「国家」という共同幻想(イメージ)よりも、資本主義そのものがもたらすハイ・イメージの方が先に進んでしまった。したがってこれを解くことが、思想の重要課題となった。吉本さん風に言えば、社会主義の課題はすでに先進資本主義国において達成されてしまったんだ、という評価になるわけですが、こうした見解も、多くの読者には吉本隆明は現実の課題に追随していくだけで、かつての批判力が失せたじゃないか、と受け取られたように思うのです。吉本さん自身も、貧困や差別などの現実の問題は、先進資本主義国にあっては解決され、もはやローカルな課題でしかない、という趣旨の発言をしています。この延長上に、埴谷・吉本論争が勃発するわけですが、それが八〇年代の半ばです。

ところが、ここで離れていった批判者たちには、見えていない決定的なことがあった。さきほど『ハイ・イメージ論』が、『共同幻想論』の書き換えであると述べていましたが、もしそうであるならば、『ハイ・イメージ論』にあって『遠野物語』や『古事記』に当たるテクストはなんだろうか。もちろんそれは、「現在」がつくりだしてくる様ざまなハイ・イメージがその位置にあるのだけれども、ここにはもう少し補足が必要だろうと思います。

CGの本格的な登場によってあらゆることが可視化され、個体はどこへでも移動可能(観念として)となり、物理的にも観念的にも大きく開かれたわけです。吉本さんはこの時期、超資本主義を基本的に肯定し、その消費を喜びとする大衆を肯定した。さっきもいったように、それまで吉本を評価していた読者のあるひとびとはこのころを境に批判者に転じていくわけですが、しかし忘れてはならないことがあって、もうひとつ、吉本さんが〝高度化する現在〟の先に見据えていたのは、じつは「人間の死」という主題だったのではないかと思うのです。批判者たちには、このことが見えていなかったのだと思う。

 くり返しますが、八〇年代に展開されるイメージ論には、「現在」の高度化を測定するというテーマが語られながら、同時に、「未来」が見据えられていた。世界視線が高度になればなるほど、遠い未来がそこでは見据えられることになり、遠い未来とは、個々人にとっては(「生活視線」のなかでは)「死」の謂いであり、したがって八〇年代以降のイメージ論の文脈のなかで、「死」という主題もまた前景化するわけですね。

『死の位相学』(元版潮出版社)が一九八五に上梓されることは、ご存知の通りです。したがってわたしのマップにあって、『ハイ・イメージ論』と『死の位相学』はセットになり、そして『死の位相学』のなかで臨死体験者が語る死のイメージにひときわ関心を示したのは、この時期の主題である「像としての死」に由来するだろうと思います。重層映像と基層映像は、過去も、未来も、重層的に埋め込まれている画像である。死のイメージは、都市論の、より未来へと向かうハイ・イメージのなかで描かれ、また基層映像のなかでは過去という死者の歴史のなかで描かれることになるわけです。

このように、八〇年代の吉本イメージ論にあっては、「死」もまたもうひとつの重要なテモチーフとなっていたのだったと思います。

北明
 そうか。どうしてあの時期、「臨死体験」に吉本さんが、あれほどこだわっていたのか。映像論との関連で考える必要があるわけか。

佐藤
 ちなみに、国家や革命、政治といった大文字の主題が退いていくこの少し前から、思想の課題として前景化してくる主題が、家族、子ども、性愛(エロス・ジェンダー)、教育、学校といった領域の問題です。このあたりから、本格的に団塊の世代の書き手たちが登場してきます。どうして吉本さんの影響を受けた団塊世代の書き手たちが、こうしたテーマを主戦場とすることになったか。重要なところではあるけれど、話すと長くなるのでカットします。

北明
 そう言わずに一言だけでも触れてください。

佐藤
 あんまり書くと、佐藤と『飢餓陣営』は、吉本隆明と、その影響下にある(と思われている)団塊の世代の追っかけじゃないか、とまた言われてしまうんだけど(笑)。

北明
 いいじゃないですか、いまさら。

佐藤
 では少しだけ。たとえば橋爪さんが黙々と論文を書き続けていた時期、竹田青嗣さんが在日問題で苦闘していた時期、加藤典洋さんが「アメリカの影」を書くまでの時期、小浜逸郎さんが『時の黙示』を自身の「ておりあ」に書き続けていた時期、村瀬学さんが「初期心的現象の世界」の原型を、北川透さんの「あんかるわ」の意発表していた時期、浜田寿美男さんがワロンやピアジェを読み込み、自身で翻訳をなしていた時期、滝川一廣さんが中井久夫さんの下で臨床に没入していた時期、瀬尾育生さんが「鮎川信夫論」にまとめられる論考を書き継いでいた時期、神山睦美さんが漱石論を書き継いでいた時期。それぞれが「後退戦」というのか、それぞれが思想の基盤となる時期を模索する時間経ているわけです。70年代までの、国家や政治というテーマからどう離脱し、自身のテーマを思想化していくか、掘り下げていくか。「後退戦」というのはこういう意味なのですが、みなさん、こういう時期を経ていると、私は受け取ってきたのです。
こんなところでいいですか。

先ほどの話題を続けると、さて、問題はなにか。思想が現実への否定性をうしない、現実的課題に対してなんら力を持つことができない、という事態は、吉本隆明に固有の問題だったのか、あるいはもっと他のところに課題を見いだすべきか。このことが一つです。

とっとと結論を言った方がいいと思うけど、そもそも前提として、文学や思想に社会的実効性や現実的な生産性を求めるという発想は私にはないですし、「血みどろで闘」って現実を改変することだが思想の役割だとは、思っていないのです。私がどれだけ現実にコミットした場所で仕事をしようとも、思想には思想に固有の役割があり、それは死守されなくてはならないという原則は変わりなくもっています。

深くて強いリアリティをもつ思想は、現実のリアリティをときに凌駕することがある。現実を動かすことも、ひょっとしたらある。だからこそ、両者は厳然と区別されてしかるべきである、ということになるかと思います。つまり辺見氏の吉本批判は、私にとっては、批判として基本的には成り立たないのだけれど、二つ目の問題がある。

再び原発問題について

北明
 わかりました。3・11以後、という問題ですね。

佐藤
 そうなんです。今回の原発問題についての吉本さんの発言に対し、ひょっとしたら、先ほど述べた問題が多くの人を困惑させたのかもしれないと思うのですが、どうでしょう。先ほどの問題とは、つまり誰もが(と言っていいと思いますが)、3・11以降、わずかなりとも自分にできることをしたい、現実に対してなにかアクションを起こしたい、と感じたと思うのです。スタイルはいろいろでしょう。被災地の支援といっても、カンパ、物資支援、労働力としてのボランティア、観光で出かけることや買い物も現地支援だということになった。放射能汚染に対する情報収集とか、自衛行動とかですね。とにかくコミットメントというテーマが、大きく前に出た。

ところが吉本さんの一連の発言は、「何もしなくてもいい」というメタ・メッセージを潜ませていたのではないか。そのように受け止められたのではないか。言うなれば、基本的スタンスは、六〇年代から七〇年代の延長である。実際、今盛り上がりをみせている反原発のデモは、吉本さんは絶対に認めないだろうし、ボランティアだって、自慢げにやるんじゃない、やるんならひっそりとやれ、というでしょう。言ってみれば、国をあげて、何かをしなければならないと感じ、そして行動し始めていたときに、何もする必要はないというメッセージが、改めて吉本隆明から発せられた。またかと思いつつも、多くの人が戸惑い、異和を覚え、払しょくできずにいる。そういうことなんではないでしょうか。

北明
 そうですね。政府も政治家も役人も、だれも助けてくれない。国民の方を向いていないし、自分たちに都合のいい言い逃ればかりしている。だったら自力で危機を脱するための復興を行うしかないし、放射能汚染から自衛するしかない。そのアクションを起こした途端、吉本さんから異論が投げられた。

佐藤
 言っていることはいかにも吉本さんらしいし、一貫している。それは理解できる、しかし今回の発言だけは、ストンと落ちてこないと受け取られた。吉本隆明には自分たちと共通の思想基盤があったと感じてきた人も、修復の困難な溝ができてしまったというような、そんな事態になっているのではないか。これは、結構根深い問題かもしれないとも思います。根深いというか本質的というか。時代の変わり目だからこそできた溝、というか。そしてひょっとしたら、このあたりに私たちに残された宿題があるのではないか。

北明
 それは3・11によって時代が大きな転換を迎え、そのために露出した溝、というふうに理解しているわけですか。

佐藤
 そこが考えどころなんですよ。この特集号をつくりながら、ずっと考えていたのはそのことです。

吉本隆明の遺した宿題

佐藤 時代の進展が、もたらした否応なしの変化なのか、とも思う一方、吉本隆明はいつもそのような発言をしてきたのではなかったか。そういう気もします。歴史を動かすような大きな局面に来ると、吉本隆明は、全存在をかけて社会の大勢にたいして異和をぶつけていく。絶対にそちらの側には付かない。

まだ思い付きを出ない意見だけれども、吉本さんの「反核」や「反原発」への異論というのは、吉本さんによる、全重量を賭けた戦後社会にたいする否定、異和の表明という意味を担わされていたのではなかったか。そう思えてならないところがあるのです。反核もオウムも今回の原発問題も、世間からどれだけぶっ叩かれようと、思想的全重力をかけて異議申し立てをしていくのですが、なぜこれほどのことをしなくてはならなかったのか。最初のあなたの問いですね。

さらに仮説です。
たぶんこの吉本さんの批判の持つ重力は、三島由紀夫が戦後社会への抜き難い嫌悪を、市谷の自衛隊駐屯地に突っこみ、割腹をすることで示してみせた行為と、同じ重さをもつ。あれに匹敵する思想的重力がある。そう考えてよいのではないでしょうか。三島由紀夫はある時期から、その〝とき〟が来たら、損じることなく死するために、「三島由紀夫」という仮構を丹念に丹念に作り上げていった。作風や文体は時代によって変遷を見せますが、個々の作品のすべてが、死するための準備、というところに収斂していく。そしてその通りに実行して果てた。

一方の吉本隆明も、戦後を生きるためにいろいろな思想的装置を必要とした。関係の絶対性にはじまり、自立、大衆の原像、共同幻想、対幻想、知―非知、往相―還相、すべてそうでしょう。やはり吉本さんも時代とともに、それを編み変えていったわけですが、戦後という社会の中で、激しい違和と敵対を抱えながら、自滅せず、敵に潰されもせず、生きて論陣を張っていくために必要とした思想的装置だった。したがってそこには深い陰影がある。

例えば「大衆の原像」にしても、単にパン屋のおっちゃんの話でも大衆べったりの話でもなく、非常に深い陰影があると思う。下町好きの、庶民的なおじさん、というところで収まる話ではないと思うのです。つまり一方で、戦後的価値が危機に立つ重大な局面になると、大衆に向って、全エネルギーを注いで「水をぶっかける」役を演じ続けなくてはならなかった。それくらい深い〝業〟が、開かれた吉本思想のなかに潜んでいた。

もうひとつ気がつくことは、反核、テロ、反原発その他もろもろ、大きな危機によって戦後的価値が揺るがされたあと、かならず吉本さんの意図とは反対の方へ、一歩、時代の風潮は進んでいった、ということです。悪い方へと進んでいくわけです。そして息苦しさを増す。では吉本の批判は無意味なのか。そんなことはない。後になって吉本隆明がそこで闘わせていた言論を振り返り、少しずつ真意を理解し、自分たちが何を失ったのか、やっとはじめて気づかされる。遅れ馳せながら準備を始めると、新たな危機に立ち至る。そういうことになっていたのではないかと思うのです。

くり返しますが、六〇年安保も、反核も、オウムも、反原発も、戦後日本の歩みに深く根差していたし、裏面というか、病理的側面もふくめて映しだしていたわけですが、吉本隆明はその一つ一つの局面で激しく異を唱えてきた。ということは、ずっと奥底の方に戦後社会にたいする異和を根深くもち、それがときに批判として噴出する。三島由紀夫が抱え込んでいたものと、どこか共通する深いニヒリズムが潜んでいる。そのように感じられてならないのです。ニヒリズムというか、「大衆の原像」には、同世代の戦争で死んでいった人間たちの「声」が、じつはその底の方にある。同世代の死者たちによって、支えられている。だからこそ、戦後社会が大きな転換点に来た時、それは資本主義が高度化していき、「人間的なもの」の疎外が(古い言葉だけど)、ひとつずつ苛酷になっていく転換点でもあったわけで、吉本隆明は全身全力で、異を唱えなくてはならなかった。たしかに開かれているし、たぐいまれな肯定性を体現した思想家であることは間違いないけれど、そこにだけ収まるわけでない。

先ほど来、三島由紀夫をニヒリズムの極地のように言ってきたけど、三島さんだって複雑な多面体でしょう。エンターテインメント作品を読むとよく分かる。向日性も、ユーモアも、演歌や浪花節も、ジャズも、一通りのものを取りそろえている。アングラ的な前衛芸術にも通じ、暗黒舞踏の土方巽をまっ先に評価して世に出したのも、三島由紀夫だった。

北明
 でも基本的に三島由紀夫は、戦前の自己をなに一つとして変えないで戦後まで持ち込み、そのまま生きようとした人ですよね。

佐藤
 最も中核の部分は変えなかった。そういってよいでしょうね。

北明
 戦後の価値や慣習には作家としての関心は持ちつつも、自分の中の基本のところでは受け入れなかった。当然、簡単にできることではない。その武装のために、さまざまな様式や美学を取り入れ続けなくてはならなかった。言ってみれば、敗戦まで、吉本さんと三島はとても近いところにいたんだけれども、戦後になって、それぞれが反対方向に向かって走り始めた。そして三島は、これ以上は自分を持ちこたえられないところに来たところで、戦後的価値そのものである平和憲法と象徴天皇を相手取って、水をぶっかけようとした。逆に言えば、自らの命を絶ってみせることで戦後社会そのものの終わりをもくろんだわけです。

仏教の唯識思想は、意識と実体に差などはないし、すべてが刻一刻とうつろいゆく「空」そのものである。場合によっては虚実、いくらでも交換可能でさえある。そのことの現前化をもくろむ意識哲学です。三島は作品『豊饒の海』で、「意識とともに明滅する虚実の世界」を示した。実践行動でも、意識の消滅によって実体も滅びるというテーゼにしたがって、自らの身体を滅びさせることで、戦後の社会に留めを刺そうとした。

佐藤
 そうですね。三島さんは、人間の存在それ自体に留めを刺そうとしたと言っていいんじゃないですか。世界を「無」にしていなくなったわけですから。人間なんか、とっとと滅んだほうがいいぞ、と。それこそ吉本さんではないけれど「どこだっておんなじだ!」ですね。

一方の吉本隆明は戦後社会の命運が尽きるまで生きつづけ、その終りを見届けたのちに、亡くなっていった。ほんとうに、執念のごとく意志をもって見届けた、という感じがします。そして3・11は、まさに、「戦後」という時代の何であったかを明らかにすると同時に、ほんの数日・数週間で、戦後的幻影を終焉させてしまったわけです。平和も繁栄も、いかに脆いものであったか。そう突きつけてきた。そして吉本さんは見届けた後、次のようなメッセージを残した。

――どこかに逃げ場があるなんて思わない方がいい、この道を行くしかない、この道でアウトだったら、もう人類は終わりだ、それくらい悲観的だ。そういう趣旨の言葉です(『思想としての3・11』)。これが吉本さんから出された、私たちの宿題です。

北明
 でもずっと、吉本さんはそのことだけを言い続けてきたのではないですか。

佐藤
 そうですね。そうかもしれないですね。沖縄を論じた「異族の論理」で、復帰してもいいことなんて一つもない、復帰をしてもしなくても、どっちにしても、沖縄を待っているのは地獄だと書いていましたね。同じように、3.11以後、どっちに行っても地獄ですね。そのことは腹に据えておこうと思っています。

(註 お名前は出しませんでしたが、今号に寄せていただいたすべての作品を、なんらかのかたちで参考にさせていただいています。編集者の特権を行使するかたちになりました。ご了承ください。 佐藤)。


吉本隆明の遺した宿題(2/3) 北明哲+佐藤幹夫

【追悼総力特集】吉本隆明を新しい時代へ
吉本隆明の遺した宿題 (2/3)          北明哲+佐藤幹夫
 ――三島由紀夫の戦後と吉本隆明



思想的に決別するということ

北明
 芹沢俊介さんも、吉本さんのホスピス理解について噛みついていますね。

佐藤
 ああ、あの本ですね。

北明
 芹沢さんは吉本さんの晩年、吉本さんのご自宅に、五年ほど足を向けていなかったといいます。その原因となったのが『生涯現役』だった。そこで自分のことを「ホスピス運動家」のようになったと言っているが、根拠のない誤解であり、さらに間違った理解をもとにして「暴走しはじめた」、ホスピスはナチスの優生思想と同じだ、ナチスは悪いことをしていると自覚していたが、芹沢はいいことをしていると思っているから、もっと悪いんだ。そう言っているが、その根拠がまったく分からないし、間違った理解だ、と。

佐藤
 芹沢さんがそう言いたくなるのは、分からなくはないですけれどね。

北明
 でもこんなことも書いていますよ。「吉本さんの発言の真偽を確かめようともせずに吉本隆明の発言だから正しいに違いないとこの本の編集者が判断したとしたら、吉本さんを信仰対象として貶めることでしかない。ずいぶん、無残な事態である」。ここでいう「この本の編集者」って、あなたのことだと勘違いしていませんか。

佐藤
 ああ、あれですか。むかし書いた文章への、お返しのつもりだったのかな。

北明
 「樹が陣営」を探し出したので、その文章を引きますよ。あなたは、こんなことを書いていましたね。

「(9・11テロ後に書かれた芹沢氏の文章を引いた後)芹沢がここで言っていることは「自分の身体はついに9・11のテロを体験することができなかった」ということに尽きる。同時進行的に書くことを強いられた時評家の辛さを差し引いても、ここにある芹沢は無残である。八〇年代に入って、現在的課題とはマス・イメージの重層性を読み解くことにあり、そして国家という課題も未来を予測させるハイ・イメージの中で読み解かれなくてはならないと吉本は言ったが、芹沢はそんなものは体験ではないと言っていることになるがわたしの誤読か(後略)」(樹が陣営23「9・11同時テロ発言から」)

 こんなことを書くから、芹沢さんは「無残」はお前のほうだろう、とお返ししたかったんですよ。

佐藤
 そういうウラの取れない憶測ばかり言っていると、例によって妄想批評が始まったな、と言われますよ。
でも吉本さんが「暴走」したかどうかは別としても、さっきも言ったように、吉本さんの思想原則から考えても、ホスピスは認められないという点ははっきりしています。そしておそらくあの発言は、ホスピス云々以上に、芹沢さんに対する決裂の宣言だと受け取ることはできませんか。

『母型論』の思想が(幻想の「母」と和解することで、存在、言語、死、というような世界との和解を試みた思想が)、『母という暴力』における、タイトルどおりの二元論的な権力批判の思想と、はたして相容れるものかどうか。「母」や「父」など、家族の構成条件をすべて「権力」という否定的媒介として定位させ、そこからの死守を語った「イノセンス」という家族への対抗論理が、芹沢さんの家族批判ですね。その思想が、死者も未生の者も、そしていまある存在も、すべて銀河系のかなたから俯瞰されて語られる「存在倫理」の前にあってなにほどのものとなるかは、芹沢さんご自身が一番御存知だろうと思う。

芹沢さんはずっとそばで吉本さんを見てきた方だから、それまですごく親しかった人でも、思想的に相いれなくなったときには遠慮なく別れていくという場面に、何度となく立会っているはずです。吉本さんの怖さ、ばっさりとやってしまうときの割り切りのすごさは、だれよりもよく知っていたでしょう。芹沢さんが、吉本さんの意識がなくなるまでの五年間、ついに足を向けることができなかったのも、そういう事情を知っていればこそでしょうし、存命のうちに直接本人にお会いして確かめるのがスジだったと思います。でも、できなかったんでしょうね。

北明
 足を向けなかったのは、自分の申し出をすんなり受け入れてくれるとは限らないし、「ののしり合いにまで発展することも考えられた」からだ、と書いています。またお前の妄想批評じゃないかと言われそうですが、もう少し突っ込ませてもらっていいですか。

 この芹沢俊介の新著『宿業の思想を超えて』は、吉本隆明がいかに親鸞に比肩する思想家だったか、ということを論じようとした書物ですね。「この「存在倫理」がくわわえられたことで、吉本隆明は、これからの時代を切り拓く不可欠な存在として、現代の親鸞になった、私にはそのように見えてくるのである。」(p25)とあることからも明らかです。で、思ったことを率直に言わせてもらうと、親鸞さんほどの大宗教家でも、誤解をもとに「暴走」しちゃったり、善鸞やそのほかの弟子たちと言い合いをして、「ののしり合いに発展」したりしたんでしょうか。

佐藤
 またそういうことを言う。えーとですね、親鸞は比叡山を下りたり、流罪になったり、破戒して妻帯したり、当時の僧侶としては暴走に次ぐ暴走だったとも言えるのではないですか。それから「ののしり合った」かどうかは分かりませんが、親鸞が温厚一筋の穏やかなだけの宗教家ではなかったはずです。親鸞をきちんと勉強したわけではありませんが、私の知る限りでも、そうとうな戦闘家ですよ。芹沢さんも、吉本さんに対する愛憎の深さにおいて、ただならぬものがあるのだろうと思います。

北明
 どうしたんですか。今日は遠慮していませんか。普段と違うじゃないですか(笑)。

佐藤
 いやいや、そんなことはないです。芹沢さんも吉本さんを失った哀しみが大きくて、この編集者は「無残な事態である」などと、つい八つ当たり気味に「暴走」しちゃったんだと思いますよ。

思想の原則と現実的実効性との距離

北明
 話を戻しましょうか。さっきの、大枠には異論はない、しかし具体論は別だというあなたの言い方は、吉本さんがどなたかと激しい論争になるときと、同じ論理構造になっていませんか。鮎川信夫さんとの「ロス疑惑論争」もそのパターンでしたし、「反核問題」での批判者も、現実に核の脅威にさらされているじゃないか、というモチーフではじめられたものでした。「オウム事件」も、教団の存在自体が社会の安寧を著しく損なう、徹底的に取り締まれという多数派意見と、宗教家を裁くことはそれだけでは収まりはつかないとする吉本さんの原則的な見解。そして今度の「原発事故」。

吉本さんならではの原理思考に対し、もう一方には現実に軸足を置き、原理原則と打開策との妥協点を探りながら〝解決〟を求めようとする思考のありかたですね。原理思考に対して、現実的な調整型思考、というかたちで対比させていいかと思うのですが、その典型例を言うと、吉本さんと鶴見俊輔さんの対談ですね。お二人の対談を読むと、テーマがいつもそこに集約して激しく闘われている、と感じました。

原理思考だけでは現実の問題に手を出せなくなってしまうのではないか、結局それは、何も変わらないことを容認する、つまりは解決を放棄することなのではないか。――鶴見さんによる、これまでなされてきた吉本さんへの批判の重要な点は、そこに集約されるといっていい。そしてこの延長に、吉本批判のひとつの定型があったと思います。

佐藤
 おっしゃる通りです。

北明
 辺見庸氏が『週刊読書人』(二〇一二年七月一三日号)で、吉本さんのその点をついた批判していますね。批判の論点はいくつかあるのですが、辺見氏が気に入らないのは「吉本という思想家が右か左というより、行動しない、闘わない人間たちを肯定してきた」ことであり「昔は俺だってというような、左翼的ノスタルジーを自慢するあわれなオヤジども、つまり団塊の世代の知的お飾りとして吉本隆明は使い回された」ことが苛立たしいようなのです。

さらに「吉本的な思考方法というのかな、結果的に現状肯定になる思惟と不実践の方法みたいなものは、悪い意味で現時点でもまだ受け継がれている」と批判しています。いかにもこの作家らしい物言いですが、この辺の問題につながっていきませんか。

佐藤
 辺見氏のインタビューは私も読みましたが、要するに思想というものは、現実に対するアクションの示唆にならないといけない、現実の変革を目指すものでなくてはならない、というもので、これではオールド左翼の思考そのものではないか、と感じたのです。あの辺見庸がどうしたのかと。

あくまでもインタビューだけでの感想で、それ以上に言えることはないんだけど、考えるべき問題は、橋爪大三郎さんもこれに類した指摘をしていたことです。橋爪さんの場合は批判の文脈ではありませんが、次のように言っていました。吉本さんは徹底的に反権力であり、国家の存在理由や価値を認めなかった、そのための社会思想を、苦労してつくらなくてはならなかった、と述べた後。

「(それは)とても良心的で、潔癖で、野心的な試みだけれども、よしんばこの試みがうまくいったとしても、けっして制度をつくるものにはなりません。政党もできませんし、地域社会もできないし、NGOやNPOもできないし、要するに何もできないのです」(『増補 永遠の吉本隆明』洋泉社・新書y)。そしてそこに団塊の世代の無力感の根っこがある、と指摘しています。橋爪さんは吉本さんの強い影響下で表現活動をはじめた団塊世代のなかで、おそらくこの問題をもっとも早く指摘した一人ではなかったかと思います。

橋爪さんに吉本インタビュー(『永遠の吉本隆明』)をさせてもらった当時、私自身が否応なしに現実の諸問題のドまん中へ引き込まれていく時期でした。いくつかのNPOと深いかかわりの中で仕事をし始めていたさ中で、橋爪さんの指摘は印象深いものとして残ったのです。推測ですが、この問題をどう超えるかというのは、橋爪社会学にとって重要な関門だったはずです。

北明
 事件取材に奔走しているときで、ぼくが、佐藤はどうして「フリージャーナリスト」なんぞという全く似合わない肩書を付けるようになったんだ、と尋ねたときの話ですね。

佐藤
 そう、尋ねたのではなく、カランでいただいたとき(笑)。

吉本さんの「情況への発言」だったと思うのですが、現実の問題にぶつかったとき、どういう態度をとるか、二つの方法がある。ひとつは、その問題の本質が何であるか、徹底して原理的な思考をすること。原理論をつくることですね。もうひとつは、生じてくる個別の事実に向き合い、そのひとつひとつを解決に向けて努力していくこと。この二つしかない。そこで自分は原理的な方法を確立することに精魂を傾けているんだ、という趣旨のことを書いていた。ところが原理的な思考だけでは、現実の課題には触れることができなくなると橋爪さんは言う。じゃあどうすればいいのか。ここは結構考えました。

私は、ノンフィクションやルポルタージュを書くことを自分の仕事として選んだわけだから、そこにしか道はない。ノンフィクション作品にたいして自分なりの方法をつかむ。それ以外、活路を見いだすことはできない。当たり前のことなんだけど、要は、しっかりした作品を書けるようにならないと、話にならないだろうというところに落ち着いていくわけですが、辺見庸氏は、現実をなにも変えることができないという吉本思想の弱点、現実なんか変えなくてもいいんだ、と考える団塊世代の読者をたくさん生みだしてしまったという吉本の罪、という主張をしているわけですね。でもそれは辺見氏自身にとって、何が問題なのだろうと感じたんだけど。

北明
 辺見氏自身のことではなく、こんなふうに批判される吉本さんの思想の特質をどう考えるか、ということを、先ほどから聞いているわけです。

佐藤
 どう考えているかと問われれば、両者は別個のこととして切り離されている。私自身は吉本さんの思想を、直接、現実的解決の処方箋にすることはありません。では完全に切り離されているかといえば、かならずしもそうではない。どこかで出会うことになる筈だ、と思っている。

ひとつは先ほど言ったように、わたしにとってはノンフィクション作品を作り上げていくという具体的な作業の中でしか、解決できない問題ではないか。

そしてもうひとつは、この「飢餓陣営」を編むことで両者の通路をつくろうとしているのだ、と言えるかと思います。どちらからも入れるし、どちらにも出ていけるような装置としての「飢餓陣営」ですね。現実の諸問題から入って思想を鍛え上げようと試みるとき。逆に、いろいろな人の力を借りて良質な思想を示すことで、現実の諸問題への揺さぶりをかけようと試みるとき。両者が機能できる仕掛けとして作りたいわけですね。うまくできているかどうかは別としても、そういう試みをつづけるなかで、辛うじて、収拾のつかない自己分裂は免れているはずなのですがどうでしょうか(笑)。でも、わたしのことなどより、吉本さんに話題を戻しませんか。

コミットメントと自立の思想について

北明
 原理的な仕事の一方で、現実の諸問題とどう相わたってきたのか、という点についてフォーカスして話してください。

佐藤
 そうか、その話ですね。たとえば、一九五〇年代後半から60年代の吉本さんの表現活動や行動を共有している人は、あの時期、吉本隆明は言葉で現実を動かしていた、思想や詩の言葉が、力を持って現実と対峙していた、という強烈な実感が体に染みついているような気がするのです。ここでは、現実と思想の乖離ということは問題にはならない。

もちろんそれを体現していたのは、吉本さんひとりだけではない。谷川雁、埴谷雄高、三島由紀夫、みんなそうだったと思うのです。あの時期の吉本隆明に直に接した人は、あるいは何かしらを共有した人は、ここに吉本評価のスタンダードを置くのではないかと思うのです。たぶん辺見氏も、その一人だろうと思います。彼の文学表現は、身体性の深いところで現実にコミットしていこうという志向性をもっていますね。そういう文学世界を創り上げています。それはよく分ります。

吉本さんの方は、言葉の実践が行動そのもの、コミットメントそのものであるような時期を経て、原理的な仕事にスタンスを移していく。すると読者にとっては、現実とのダイレクトな緊迫関係が見えにくくなるし、おそらく書き手である吉本さんの側も現実の諸問題との緊張関係を保つために、もうひとつの装置を必要とするようになる。それが「試行」のもつ意義ですね。執筆者の存在とそこに生じる交通、読者や書店からのリアクション。これらの一つ一つがあつまり、否応なしに、吉本思想と社会との、緊張関係の総体をつくるわけです。そして「試行」におけるこの時期の「情況への発言」が、ますます重要な意味を担うようになっていく。

ちょっと回り道をしますが、吉本さん追悼の『現代思想』七月臨時増刊号「吉本隆明の思想」が大変面白かった。中でも前田英樹さんと橋爪大三郎さんの論文がさすがによかったのですが、なかで松井隆志さんという人が「「自立の思想」とは何だったのか」、というタイトルの文章を書いていて、おおむね、次のように見解をまとめています。「自立の思想」は破壊力の大きな思想だった、なぜなら抽象性がきわめて強く、具体的提案なしに、自分以外全てに「否」をつきつける思想だからである、という趣旨です。

 しかし私の理解では、松井さんが書かれていることは、自立の思想の「往路(往き道)」です。もうひとつ、「還り道」がある。自分以外のすべてに「否」を突きつける、という「往き道」のために、自分は世界のすべてから否定されてしまうかもしれない。表現し、生きていく道を閉ざされてしまうかもしれない。それでも表現をつづけ、死なずに生きていくための装置が必要である。そのためにも「自立の思想」を用意しなくてはならなかった。全否定の果てに訪れる「和解」とでもいいますか。そういう「還り道」の思想には、「自立の思想」にはある。私にとっては、そういう理解になるのです。

吉本さんはまったく遠慮なしに、ガチで批判や自説を述べる表現者ですから、結果、マスメディアに干されて書く場所がなくなるかもしれない、支持してくれる人もいなくなるかもしれない。時がいたれば、思想的同志である友人知人との離反も決別も辞さない。事実そうなっていくわけですが、まったく孤立し単独になっても、表現活動は止めない。断固として持続する。そのためにはどうすればよいのか。この問いは、吉本さんにとっては理念的に生み出されたというよりも、もっとリアルで、直接的で、具体性のあるものだったと思うのです。止めないためには、自分が潰れず、「敵」に潰されずに持続する必要がある。そのためには、どんな装置があればよいか。それを「自立の思想」に託して理念づけた。いうまでもなく、この実践形が自立誌と呼ばれた「試行」ですね。そういう順番で私は考えていたのです。くり返しになりますが、表現の場所は自らの手で確保する。そうすればいくらメディアから排除されても、敵ばかりになっても、書きたいものを書くことができる。

初期の吉本さんの思想とコミットメントの問題として、指摘しておきたいことはもうひとつあります。孤立したあげく、読者までをも失うのならば、自分のなかに唯一の「読者」を作ればいい。最大の批判者であり、最強の理解者である「読者」を理念として持てば、その読者に向って書き続けることができる。その最大の批判者で最強の理解者としての「読者」が、「大衆の原像」と呼ばれるようになるわけです。「大衆の原像」というのは、吉本隆明にとっての、不可視の読者ですね。

 「自立の思想」も「大衆の原像」も、抽象性の高い原理的な反権力思想ではあるけれど、いま言ったような形で現実と相渡っている。コミットメントの通路を作っている。それが、先ほど述べた橋爪さんの指摘を受けた後、私が考えていった筋道なのです。(第2回)

吉本隆明の遺した宿題(1/3)  北明哲+佐藤幹夫(飢餓陣営38号より転載)

飢餓陣営38号【追悼総力特集 吉本隆明を新しい時代へ】より転載
吉本隆明の遺した宿題          北明哲+佐藤幹夫
 ――三島由紀夫の戦後と吉本隆明



吉本隆明の3・11言論以後

北明哲
 ぼくは吉本隆明の書くものや話すことのすべてを丹念にフォローしてきたわけではないのですが、最晩年の発言には、極力耳を傾けてきました。そこで素朴に感じたことは、吉本さんが「見る(読む)」「聞く」「歩行(移動)する」など、身体があれほど過酷な条件におかれていたなか、なぜ大きなリスクを冒してまで「反原発」に対する異論を述べつづけなくてはならなかったのかということでした。
自説を補足したり反論したりする時間が残されていないことは、ご自身がいちばん承知していたろうし、結局「反『反・脱原発』発言」で晩節を汚し、生涯を閉じた思想家」という評価になってしまうのではないか。そんなふうに言いたい人間はたくさんいるだろうし、それほどのリスクを犯しながらなぜ発言を止めなかったのか。それがとても不思議でした。

佐藤幹夫
 その問題に入るまえに、一つ確認しておきたいのですが、吉本さんご自身は、自分は反・脱原発は認めないし、また「経済的な利益から原発を推進したいという考え方にも私は与しない」と述べていますね。つまり、吉本さんの「反『反原発・脱原発』」の議論は、通常考えられている「原発推進」や「原発容認」という枠に収まるものなのかどうか。そのような疑念があります。

現在(2012年)の風潮として、「反原発」に与しない言論はすべて「敵」、つまり原発推進派と見なす、という排除の政治力学が、巧妙に張り巡らされていないかどうか。もっとも吉本さんご自身は、自分の発言が「原発推進」と受け取られ、批判にさらされるだろうことは、反核異論やオウム発言のときと同様、重々承知していたと思います。まずこの点がひとつです。

それから、いまあなたが言った、吉本さんの、3・11以降のメディアへの露出ぶりを見ると、発言を請われたときは可能な限り対応しようとしていたように思われるのです。発表の場所にも神経質にはならなかった(このあたりのことは確認しないといけない事柄ですが)。大手の新聞や週刊誌のみならず、これまでならばまず登場しないような(また声をかける方も、通常ならば考えつくことさえしないような)保守系の雑誌にも登場していました。

このこと自体については私などがとやかく言うことではないんだけれども、危惧していたのは、談話原稿のゲラチェックなどをどこまで自分でなさっていたのか、という副次的な問題です。私がインタビューをさせてもらったときは、終了後、「ゲラをお送りしますから」と伝えると、「必要ない。あとはすべて任すから」というご返事で、かえってこれはえらいことになったなあ、と思ったのです。

吉本隆明のインタビュー原稿をどう仕上げるか、その全責任が私にかかってしまったわけですから。ただし、「すべて任す」というのは同行してくれた編集者、小川哲生さんへの強い信頼があったからこその措置だろうし、あらゆる取材に同様の対応をしていたかどうか、これまた確認はできていません(小川さんによれば、亡くなった後に刊行された書籍に関しても、生前から作業が始まっていたものには、できる限り、ゲラに目を通そうとしておられた、ということを聞きました)。

そして思うのは、メディアに登場して積極的に発言をするという基本姿勢と、掲載時の原稿チェックが思うようにならないという現状とは、どうしても切り離せない事柄であり、それでも発言は止めないという決断は、考え抜かれた結果だったと思います。どこからどんな批判が出るか、反核やオウムその他、数多くの論争体験からおおよそは予測していたでしょう。

極論を言えば、「ぼくの考えを批判するも曲解するも、場合によっては捏造するも、なさりたければお好きなように」というのが、吉本隆明の最後の思想的構えだったのではないでしょうか。それが、私がたどりついた結論でした。事実だったかどうか以上に、それくらい〝開かれた〟ところに自分を置かれていた、ということが言いたいわけですね。

北明
 なるほどね。たしかに吉本さんには、老いて不自由になった身体(を含めたすべての自分)を、他者の目から遠ざける、衰えた自分を隠す、という発想は皆無だったと思います。六〇歳代以降の仕事の質と量の豊富さ、発想の独創性は恐ろしいほどのもの、アイデアや最後までまったく枯れることがなかったでしょう。あなたがやらせてもらった宮沢賢治についてのインタビューだって、以前どこかで発表した話の繰り返し、二番煎じではなかったでしょう。

佐藤 あのときはほんとうに驚きました。あれだけたくさん賢治について言及されていながら、まだ新たな見解が出てくるのか、と。とても人間業とは思えませんでしたね。

ともあれ老いをどう開くかという問題ですね。贔屓の引き倒しになってはいけないけれど、やれるうちはやる、歩けない、見えない、聞こえない、というように身体の「老い」が進んだとしても、残っている力を総動員してかんがえ、発信をつづける。人にも自分の姿を隠さない。自分のもとをマスコミなり誰かが話を聞きたいと訪ねて来るうちは、引っこんでしまうことは自分からはしない。そして、その通りに実行していたのではなかったでしょうか。

しかも驚くほど自然体で、ごく普通のことのように、老いた自分を他者の前に〝ひらいて〟いました。改めて吉本隆明の思想は〝老い〟や〝弱さ〟や〝障害〟といった存在に〝ひらかれ〟ていたのだということを感じました。急いで付け加えますが、高齢になった吉本隆明の発言だから、内容の妥当性については下駄をはかせてほしい、手加減してほしいと言っているのではありませんよ。もう発信はしない、世間から引っ込むという選択肢は、吉本隆明にはなかった。思想からいってもなかった。そしてそれを最後まで全うした。そのことを強調したいわけです。

最晩年の講演は、車椅子でなさっていましたね。あのとき吉本さんは「自分はこんなふうに老いたけれどもバリバリの現役だし、まだまだ若い奴には負けないから」と力むわけでもない、「自分もここまで老いた、お聞き苦しいだろうけれども、その点は、免じて聞いて欲しい」と、エクスキューズするわけでもない。淡々と、車椅子の人となった自分の身体を聴衆の前に示し、これまでと同様に、掛け値なしの「吉本隆明」としてその思想を語っていく。いかにも吉本さんだなあと感じさせるものでした。

随分回り道をしてしまったけれど、あなたの最初の問いは、原発論議について、リスクを犯してまで自説を発信しつづけたのはどうしてか、自説を一切変えようとしなかったのはなぜか、というものでしたね。

私の方から逆にお聞きしますが、あそこで、もし吉本さんが自説を変えたらどうでしょうか。それでも吉本隆明だと感じますか。それこそ「戦後の思想転向者を徹底的に批判・弾劾」することで出発した思想家・吉本隆明は、最晩年の3・11原発問題において、自説を撤回して誤りを認め、その生涯を閉じた、という評価を残すことになりませんか。それだと「誰もが反対しない吉本隆明」に収まってしまうわけでしょう。そのような吉本隆明はもはや吉本隆明とは言えない、そう私はそう思うのだけれど。「誰もが反対できないことに反対し続けるのが吉本隆明」でしょう。

北明
 そんなことを言っていると「吉本隆明は単純な間違いを犯しただけなのに、それを過剰に意味づけようとするバカな吉本主義者が後を絶たない」と、吉本嫌いに批判されますよ(笑)。

佐藤
 よろしいんじゃないですか。言わせておけば。

それで、ここは大きく見解の分かれるところだろうと思うのですが、吉本さん流の「老いの超え方」とまったく対極のあり方があって、つまり、自分の老いを自覚し引き受けたからこそ、世間から身を引き、後から来る人に託すという考え方もあるわけです。わが老いを思えばこそ身はさらさない。こういう考え方も強くあって、こちらのほうが、あるいは一般的なのかもしれません。

「老い」の問題、三島由紀夫と吉本隆明

佐藤
 もっと言えば、老いた自分をまるごとテーマとしながら受け容れ、自分の思想をつくっていく、という吉本隆明のあり方を考えるとき、もう一方の極に、三島由紀夫を置いているのです。

この点に関していえば、二人は対極です。『豊饒の海』第四巻、『天人五衰』を読むと、いかに三島が老いを憎み、老人という存在を嫌っていたかが、これでもかというくらい描かれています。詳しく述べるほどの準備はしていないのですが、大正の末に生まれて昭和の戦争をくぐり、戦後を生きた同世代の三島由紀夫を隣に置いて吉本さんの晩年を考えると、三島は徹底して「老い」を遠ざけた、しかし最後まで発言し抜くのが吉本隆明の思想だった、と改めて思うのです。

北明
 「老い」の問題と言えば、ハルノ宵子さん(長女、吉本多子さん)が、『猫びより』(日本出版社)というマガジンに「シロミ介護日誌」というエッセイとマンガによる連載を書いているのですが、そこで報告されている吉本さんの発言も、かなり強烈です。病の床に臥してなお吉本隆明健在なり、と感じさせるエッセイで、そのタイトルが「連れてっちゃったよ」です。どういうことかというあたりは、吉本隆明と猫との驚くべき愛情物語といえば、だいたいのところを推測していただけるかと思いますが、もうひとつの大きなテーマがあり、こちらのほうに驚いたのです。紹介させてもらいます。

亡くなる四、五日前に、「早くうちに帰って来て」と宵子さんが言うと、父(吉本隆明さん)は「○×△□*!」と大声で答えた。けれども入れ歯を外していたので、何を言っているのか聞き取れなかった、それで、亡くなるまでそのままになってしまった。ところが家に戻って少し経ってから、父が何を言いたかったのか、宵子さんは突然理解したというのです。父が何を言いたかったか。「どこだって同じだよ!」と言ったんだ。そのように宵子さんは書いているのです。病院だって家だって、死ぬときは同じだ、と。たしかに吉本さんならば、そう言うだろうと思います。さらに宵子さんの次の一言。

「(略)病院でなく家で死ぬためには――などと、そろそろ自分の身体がアブナクなってきた〝団塊の世代〟が言い出した昨今の生ぬるい風潮に、父はまた最期に、見事に水をぶっかけて逝っちまいました。」

私は、さすが吉本さん、息を引き取る間際まで「吉本隆明」だったのですね、と深い感銘を覚えたのです。

佐藤
 やはり親娘ですね。吉本隆明を、しっかりと理解している。高齢者ルポなどを書いている私も、「水をぶっかけられた」ひとりに入るわけです。最近よく、病院には入らない、延命は要らない、救急車なんかに乗せるな、とか人並みのこと言いだしていますし。で、何の話だっけ(笑)。続けてください。

北明
 ここで取り上げたいのは次のことです。吉本さんが亡くなったあと、茂木健一郎との対談集、『「すべてを引き受ける」という思想』(光文社)が出版されました。吉本さんの没後になって、ずいぶんと相手方の書き込みが増えたんじゃねえかと、ふと感じさせなくもない「対談集」ですが(まあ、ぼくらもあの手この手をいろいろやっているので、それを棚に上げて、人様のことは言えませんが)、ともあれ吉本さんはこの対談の中ではっきりと、ホスピスは認めない、「死を前提にした医療」なんていうのはあり得ない、とおっしゃっています。

先ほどの、ハルノ宵子さんが書いていたという、「○×△□*!」(どこだっておんなじだ)という吉本さんの間際の言葉も、まさにその考えの延長にあるものだと思うのです。吉本さんは現今の高齢者の医療や介護のありかたにたいしては、厳しい見解を述べておられました。『老いの超え方』(朝日新聞社)の中でも、ホスピスについて次のようなことを書いています。

「医者が医学的に死に間違いないというのと、肉親の情感も何もかも含めた感じ方の温度差が、死の判定のずれになっていくと思います。そのずれのあいだに何が介入できるかというと、僕はないと思います。せめてフーコーが言うように、息が止まったからといって死ではない、死んでいくけれどもまだ体温が残っているとか何でもいい、自分を慰めながら看護している肉親が納得したら、延命言装置は外していいということになると思います。つまり、その切実さにかなうようなホスピス、あるいはホスピス的な考え方は、ぼくの実感としてはないと思います。

ぼくならそういう余計なことはしないでくれと言いたいけれども、これはほんとに言えるかどうか分かりません」

これを読んで、いかがですか。

佐藤
 引用部分の吉本さんの見解に、異論はありません。医療が判定する「死」と、肉親がそれを引き受ける「死」との間には時間的な距離がある。そこにホスピスなどの第三者が介在する余地はない。――死者を看取るという行為(ケア)についてのこの基本原則は、おっしゃる通りだと思います。そしてこのような基本原則からすれば、まだ命あるうちに医療を放棄するということは、やはり吉本さんには認めがたいことだったのではないでしょうか。ホスピスの何であるか、その動向など詳しい内容はご存じなかったかもしれません。しかし情報不足や誤解ゆえの否定ではなく、吉本さんの思想原則からの判断だったのではないでしょうか。

北明
 『生涯現役』(洋泉社・新書y)でも批判していますね。ホスピスをやるにしても、おおっぴらにやらないで、せいぜい友だち二、三人でつつましくやっていくのが妥当だろう、それをホスピス運動家のようにやるのはよくないというのが、その理由です(p75~76)。ボランティとこみでの批判なっています。もうひとつあって、要するにホスピスというのは、ご老人を安楽に死なせてあげようということなんで、それが気にくわないんだ。そういう言い方になっています。

佐藤
 断定はできないですけれども、どう生まれてどう死ぬか、そんなことは他者からとやかく言われることではない。誰に決められることでもない。死という領域に、家族以外の第三者や医療が介入することは(家族のいない人や独居の人は別ですが)、吉本さんの死生観とは相いれない。生や死を人為的に操作することは、どう考えたって承服しがたいというのが、吉本さんの基本的な考えだろうと思います。そして権力の力を持って、生死を自在にコントロールしようとする所業を、「ナチスにも匹敵する」、といったのでしょうね。

ここまではまあ異論がない。ただ、ではそれで終わりかと言えばそうではないだろうと、私自身は思っているのです。私が、高齢者関係の二冊のルポルタージュで述べたかったことは、死をめぐる問題のあり方が大きく変わりつつあるということがひとつ。社会的にも家族の問題としても、法や制度の問題としても、そして現象としてもこれまで想定されていなかった事態が(あるいは、医師の裁量の中でなんとなくやり過ごされてきた事態が)、法や制度の不備としてはっきりと表面化するようになった。

例えば〝終末期〟の規定が、法的に明確にされていない。そもそも、これを明確にしなければいけないのはなぜか、その共通確認をどうつくるのかという問題があって、そこから芋づる式に、いろいろな問題・課題が出てきているのです。人工呼吸器を装着するなどの延命治療にいったん入ると、その中止の可否の問題が生じ、現在の法律や制度では、医師の単独の判断が、事後、刑事訴追の対象ともなりかねない。だから先ほどの吉本さんがおっしゃった「延命装置を外す」という行為も、現行の法では、厳密には違法行為として刑事訴追をうけてしまう。それから、延命自体をめぐる倫理的・道義的な問題もある。メンタルな問題というか、宗教的な問題とでもいうのか、「死と魂」の問題と言われたりしますが、解決されていない問題がたくさんあるわけです。

吉本さんの見解は、大きな枠としては賛成ですけれども、個別具体の問題に直面したとき、吉本さんの基本理念の外にいったん出て、別途考えなければならないことがたくさん出てくる。そこにぶつかるのです。ホスピスを含めた終末期医療もその一つだと思っています。ちなみに援助職という立場ではなく、私個人のこととして言えば、吉本さん同様、どこで死んだって同じだよ、と思っています。死ぬ場所も、死に方も、自分じゃ選べないでしょ。基本的なところではそう考えています。都合のいいように死ねるなんて考えない方がいいのです。本当は、言っているだけで、分からないところではあるのですが。