阪神・淡路大震災を介護施設はどう乗り切ったか
被災地の報道が、連日、テレビや新聞を埋める。震災関連の本も、いつになったらピークになるのかと思わせるほど、次々に送り出されてくる。特集ドキュメンタリー番組も多い。しかもどれも充実している。一方、現場に入り込む取材の「足」も「ツテ」も、「立場」ももたない私は、ほとんどなにもできないに等しい。「ジャーナリスト」としての役割は、ほとんど機能していない。いわゆるジャーナリズムから見れば、おそらくは、それが私の現在の情況である。
しかしそれでも、だれも書いていないような「東北復興」の本を書かなくては、被災して亡くなった東北の人びとが浮かばれないだろう、という、傍から見ればほとんど「思い込み」のような考えが膨らんでいる。具体的に何をどう書けば、その、「だれも書いていない東北復興」の本になるのか、まったく見当はつかないが、私の中ではほぼ確信のようになって、からだのど真ん中に座り込んでいる。(ちなみに精神医学では、「妄想」を、「訂正のきかぬ信念」と定義づけるのだそうである)。
現地へは、4月29日より5月3日までの期間にボランティアで入った以外、足を運んでいない。現在の私が行っているのは、「周辺領域」への取材とも言うべき作業である。現場に入って緊急支援を行った医師、この間、限りなく往復しながらカウンセリングを行ってきた医師など、医療関係者への取材。そしてボランティアセンターを統括する、ネットワークの統括者(事務局長)への取材。といったように、「支援」に当たってきた人びとを通して、「被災」することがひとになにをもたらすか、そのことを描こうとしている、といえるだろう。
そしてその作業と並行して、阪神・淡路大震災を経験した介護施設を訪ね、どのような体験となっているか。教訓としてなにが残っているのか。今回、それはどう生かされ、また生かされなかったか。そのことを明らかにしようとした原稿を、以下に、2回にわたって、「転載」する。もとの掲載は『健康保険』2011年6月号(健康保険連合組合)である。
―ここから。
1995年1月17日午前5時46分
東日本巨大地震の直後、病院や介護施設がどのような状況に追い込まれたか。その詳細を明らかにしていくことが、本連載の今後の課題となる。今稿では、阪神・淡路大震災のときに介護施設がどんな困難に直面し、どう対応し、どう乗り越えたか。まずはその体験に耳を傾けておきたいと考えた。
取材先は尼崎市や芦屋市で、特別養護老人ホーム(以下特養)やグループホームを経営する「社会福祉法人きらくえん」。理事長の市川禮子氏にお話を伺うことができた。
市川理事長は、真っ先に次のように言った。
「阪神・淡路大震災の復興は、まだ現在進行中です。終わっていません。復興住宅全体の高齢化率は約50パーセントほど。そこで年間50人から60人の孤独死が、いまも起こりつづけています。高齢者の方ばかりでなく、50代60代でアルコール依存症のために亡くなる方もいます」
巨大地震とその後の避難生活がもたらすダメージがいかに深いか、当方の認識不足をいきなり指摘された思いだった。被災からすでに16年。神戸地区一帯、街のにぎわいも戻り、経済活動も以前にも増して進展を見せているように思えるが、「復興はまだ終わっていない」という言葉は重いものとして筆者の胸にこたえた。
1995年1月17日、市川理事長は、芦屋市の自宅高層マンションの24階で震災に遭遇した。エレベータは停まっていたから階段で地上まで降り、通常は車で30分の尼崎「喜楽苑」まで、5時間をかけてたどり着いた。尼崎は被害が少なく、街の光景は、西宮や芦屋とはまったく別のものだったことに驚いたという。
喜楽苑の建物は、辛うじて被害を免れた。当時は措置制度の時代で、50名定員に対して夜勤が2名。早朝5時46分の発災時には2名の夜勤担当者しかおらず、2人ともおむつ交換の最中で、目の前の利用者に抱きつき、収まるまで待つことしかできなかった。
「そのような少ない人員配置で施設運営をしてこざるを得なかったのですから、残りの48人に対してはなんの避難介助も誘導もできませんでした。現在は個室ユニットケアになり、20名に1人の夜勤ですが、重度だったり認知症だったりする20名の利用者を、1名で、深夜どこかへ助けるなどということは不可能です。施設の配置基準がこのままであれば、夜に大震災が襲ったら、もうどうにもならない。それを身をもって体験しました」
その日、交通はすべて途絶し、3分の1の職員が出勤できなかった。力強かったのは近隣に住むパートの職員たちがすぐにやってきてくれたことだったという。
市川理事長は、当日の夕刻、駆けつけていた全職員を集め、次のような指示を出した。
①24時間介護が必要な入居者の命を守ることを第1義とし、水と食料の確保に全力をあげること。
②まったく不明の、併設のデイサービス等の在宅サービスなどの利用者全員と、連絡のつかない職員や入居者の家族、関係者など約300人の安否確認と状況の把握を(場合によっては救出を)。
③近隣の独居世帯への毎日の配食サービスの続行。
職員たちで安否確認に行こうということになり、翌日、3人ほど選び、バイクや自転車で、4日間かけて連絡のつかない職員、利用者、特養入居者の家族など約300人の確認をやり遂げた。
水と食料をどうするか。特養には3日分の食事がストックされている。基本的にはそれでしのぎ、あとは救援物資に頼った。また大阪市域はほとんど被害に遭っておらず、食料には不足していなかったし、救援物資も次々に到着してきたが、とにかく今後の1週間を持ちこたえなくてはならない。
法人で取り組んだ被災者支援
そうやって1週間を耐えしのぐことになるのだが、その間1番辛かったのは、自宅で介護をしていた人たちが「家が半壊してしまい介護ができない、どうすればいいか」と駆け込んでくることだったという。
市川理事長たちはすぐに市役所へ出向いた。しかし介護福祉の係りは徹夜同然で、救援物資を受け取ってはあちこちの避難所に配るという仕分け作業に追われていたため、身近なところで起こっている出来事にはまったく対応できなかった。市川理事長はそのような状況を見て、こういうときは市には頼れない、各施設の判断で引き取ってしばらく預かる、という決断をした。
「被災直後、市内にあった古い文化住宅を1棟借り上げました。出勤体制をとるためには住まいをなんとかしないといけないと思ったのです。数人の職員と家族をそこに住ませ、それで出勤体制が取れたのが1週間目でした。ライフラインも尼崎は割と早く復旧しましたので、1週間後には整っていました。これで落ち着きを取り戻すことができたのです」
そして1週間を過ぎたころには付き合いのある全国の介護施設から、スタッフたちがボランティアにもきてくれるようになった。自分たちの安全が確保できたところで、周囲にいる被災者の様子が気になり出した。そこで、地域の避難所に支援に行こうということになったという。
避難所の支援に入ったところ、目を疑うような光景があった。学校の体育館と消防署の大きな広間を回ったが、高齢者や障害者が一番寒い入口に固まっていた。1月17日も、それ以降も、寒い日が続いていた。自衛隊がグラウンドに設置してくれたトイレは、体の不自由な人たちには使えなかったのである。夜起きて、外に出ていくことも寒くて辛い。市川理事長が「奥の方がもっと温かいですよ」と声をかけても、その人たちは動こうとはしなかった。空気もひどく悪かった。
「このままだとこの人たちはだめだ、と思いました。そしてスウェーデンで見たグループホームのことがひらめいたのです。こういう方がたは、グループホームのような仮設住宅を作り、そこに入っていただいてケアをすればいいんじゃないか」
このとき、法人全体が全力を挙げて、次のような支援を行うことを決めたのだという。
①緊急ショートステイを、定員にこだわらず、可能な限り受け入れる。
②苑のすべての浴室を市民に開放する(芦屋市はまだ断水が続いていた)。
③避難所への支援
④困窮度の高い他施設への職員の派遣
⑤相談援助活動
法人が受けた甚大な被害
ところがこうしたなかで、じつは法人自体が重大な危機に直面していた。
社会福祉法人「きらくえん」の一番古い特養は、1983年にオープンした尼崎市の「喜楽苑」である。92年には朝来市生野町にいくの喜楽苑を開設させ、震災時、3つ目の特養を芦屋市に建設途中だった。
95年の4月1日オープンを目指して工事は順調に進んでいたのだが、震災時、敷地に大きな地割れが走り、建物全体が1メートルほど傾いてしまった。ほとんどできあがっていて、残されたのは内装作業だけという矢先の被災だった。土木学者を招き、再建方法の議論をしてもらったところ、液状化による地盤の傾きが原因で、ジャッキアップをして直す以外、再建方法はないという。ところがそのための工事費が、さらに14億3千万円かかるという。これまでの総事業費が19億ほど。このうえさらに14億3千万という負債を抱えることは、とてもできることではない。
加えて、4月1日オープンの予定だったから、建物自体がまだ国の認可を受けていなかったため、災害復旧費の対象にはならなかった。入居者もすでに決まっていたのだが、工事が終了するまで待ってもらうしかない。震災によってさらに待機者は増えていたし、早急に対策を講じなくてはならない。しかし1年間、そのまま放置された。
1年後、やっと特例で、国が2分の1、県と市がそれぞれ4分の1を補助し、法人が2億円ほど上のせをすることになって、再建工事にとりかかることになった。寄付集めにも奔走し、震災から2年後の97年の1月に、オープンにこぎつけたのだという。
話は再び震災直後のことに戻る。
「あしや喜楽苑」はオープンに向けて、新スタッフ40名の採用が決定していた。しかし再建するまで働く場所がなくなってしまった。去就を尋ねると、1名を除き、残りの全員が再建を待つという。4倍という競争率から選抜した職員たちで、保健師、介護福祉士、社会福祉士など、多様な専門的人材がそろっており、彼らの働く場所と人件費の確保が法人の大きな課題となった。
ここで市川理事長のあるひらめきが功を奏することになる。
理事長はかつてスウェーデンを訪れた際、日本ではまだ珍しかったグループホームを見て強い関心をもつようになっていた。自宅が全半壊した要介護者に対し、他県を含めた施設等への緊急保護数が、最高時で約2900人に上るといい、仮設住宅をケア付きのグループホームとして作ることはできないか。そうすればケアを必要とする高齢者にとっても安心だろうし、ケアスタッフとして再建を待つ40名の職員の雇用にもつながる。
市川理事長は震災から10日後の1月27日には、早くも芦屋市と尼崎市に陳情のために足を運んでいた。すでに述べたように市行政は混乱の渦中にあったから、さらに2月1日に県庁を訪ねたという。くり返すが、被災からわずか2週間ほどたってのこと、リュックを背負い、バスを乗り継いでの訪問だった。
それから間もなく、兵庫県と芦屋市から、実現したいという通知が来た。2月には補正予算が付き、現実化へ向けて一気に動き始めた。自宅が全半壊した要介護高齢者への支援と、法人職員の仕事の確保という二つの課題が、こうして実現することとなった。
「高齢者の医療と介護の現場から(第75回)」
―ここまで。
しかしそれでも、だれも書いていないような「東北復興」の本を書かなくては、被災して亡くなった東北の人びとが浮かばれないだろう、という、傍から見ればほとんど「思い込み」のような考えが膨らんでいる。具体的に何をどう書けば、その、「だれも書いていない東北復興」の本になるのか、まったく見当はつかないが、私の中ではほぼ確信のようになって、からだのど真ん中に座り込んでいる。(ちなみに精神医学では、「妄想」を、「訂正のきかぬ信念」と定義づけるのだそうである)。
現地へは、4月29日より5月3日までの期間にボランティアで入った以外、足を運んでいない。現在の私が行っているのは、「周辺領域」への取材とも言うべき作業である。現場に入って緊急支援を行った医師、この間、限りなく往復しながらカウンセリングを行ってきた医師など、医療関係者への取材。そしてボランティアセンターを統括する、ネットワークの統括者(事務局長)への取材。といったように、「支援」に当たってきた人びとを通して、「被災」することがひとになにをもたらすか、そのことを描こうとしている、といえるだろう。
そしてその作業と並行して、阪神・淡路大震災を経験した介護施設を訪ね、どのような体験となっているか。教訓としてなにが残っているのか。今回、それはどう生かされ、また生かされなかったか。そのことを明らかにしようとした原稿を、以下に、2回にわたって、「転載」する。もとの掲載は『健康保険』2011年6月号(健康保険連合組合)である。
―ここから。
1995年1月17日午前5時46分
東日本巨大地震の直後、病院や介護施設がどのような状況に追い込まれたか。その詳細を明らかにしていくことが、本連載の今後の課題となる。今稿では、阪神・淡路大震災のときに介護施設がどんな困難に直面し、どう対応し、どう乗り越えたか。まずはその体験に耳を傾けておきたいと考えた。
取材先は尼崎市や芦屋市で、特別養護老人ホーム(以下特養)やグループホームを経営する「社会福祉法人きらくえん」。理事長の市川禮子氏にお話を伺うことができた。
市川理事長は、真っ先に次のように言った。
「阪神・淡路大震災の復興は、まだ現在進行中です。終わっていません。復興住宅全体の高齢化率は約50パーセントほど。そこで年間50人から60人の孤独死が、いまも起こりつづけています。高齢者の方ばかりでなく、50代60代でアルコール依存症のために亡くなる方もいます」
巨大地震とその後の避難生活がもたらすダメージがいかに深いか、当方の認識不足をいきなり指摘された思いだった。被災からすでに16年。神戸地区一帯、街のにぎわいも戻り、経済活動も以前にも増して進展を見せているように思えるが、「復興はまだ終わっていない」という言葉は重いものとして筆者の胸にこたえた。
1995年1月17日、市川理事長は、芦屋市の自宅高層マンションの24階で震災に遭遇した。エレベータは停まっていたから階段で地上まで降り、通常は車で30分の尼崎「喜楽苑」まで、5時間をかけてたどり着いた。尼崎は被害が少なく、街の光景は、西宮や芦屋とはまったく別のものだったことに驚いたという。
喜楽苑の建物は、辛うじて被害を免れた。当時は措置制度の時代で、50名定員に対して夜勤が2名。早朝5時46分の発災時には2名の夜勤担当者しかおらず、2人ともおむつ交換の最中で、目の前の利用者に抱きつき、収まるまで待つことしかできなかった。
「そのような少ない人員配置で施設運営をしてこざるを得なかったのですから、残りの48人に対してはなんの避難介助も誘導もできませんでした。現在は個室ユニットケアになり、20名に1人の夜勤ですが、重度だったり認知症だったりする20名の利用者を、1名で、深夜どこかへ助けるなどということは不可能です。施設の配置基準がこのままであれば、夜に大震災が襲ったら、もうどうにもならない。それを身をもって体験しました」
その日、交通はすべて途絶し、3分の1の職員が出勤できなかった。力強かったのは近隣に住むパートの職員たちがすぐにやってきてくれたことだったという。
市川理事長は、当日の夕刻、駆けつけていた全職員を集め、次のような指示を出した。
①24時間介護が必要な入居者の命を守ることを第1義とし、水と食料の確保に全力をあげること。
②まったく不明の、併設のデイサービス等の在宅サービスなどの利用者全員と、連絡のつかない職員や入居者の家族、関係者など約300人の安否確認と状況の把握を(場合によっては救出を)。
③近隣の独居世帯への毎日の配食サービスの続行。
職員たちで安否確認に行こうということになり、翌日、3人ほど選び、バイクや自転車で、4日間かけて連絡のつかない職員、利用者、特養入居者の家族など約300人の確認をやり遂げた。
水と食料をどうするか。特養には3日分の食事がストックされている。基本的にはそれでしのぎ、あとは救援物資に頼った。また大阪市域はほとんど被害に遭っておらず、食料には不足していなかったし、救援物資も次々に到着してきたが、とにかく今後の1週間を持ちこたえなくてはならない。
法人で取り組んだ被災者支援
そうやって1週間を耐えしのぐことになるのだが、その間1番辛かったのは、自宅で介護をしていた人たちが「家が半壊してしまい介護ができない、どうすればいいか」と駆け込んでくることだったという。
市川理事長たちはすぐに市役所へ出向いた。しかし介護福祉の係りは徹夜同然で、救援物資を受け取ってはあちこちの避難所に配るという仕分け作業に追われていたため、身近なところで起こっている出来事にはまったく対応できなかった。市川理事長はそのような状況を見て、こういうときは市には頼れない、各施設の判断で引き取ってしばらく預かる、という決断をした。
「被災直後、市内にあった古い文化住宅を1棟借り上げました。出勤体制をとるためには住まいをなんとかしないといけないと思ったのです。数人の職員と家族をそこに住ませ、それで出勤体制が取れたのが1週間目でした。ライフラインも尼崎は割と早く復旧しましたので、1週間後には整っていました。これで落ち着きを取り戻すことができたのです」
そして1週間を過ぎたころには付き合いのある全国の介護施設から、スタッフたちがボランティアにもきてくれるようになった。自分たちの安全が確保できたところで、周囲にいる被災者の様子が気になり出した。そこで、地域の避難所に支援に行こうということになったという。
避難所の支援に入ったところ、目を疑うような光景があった。学校の体育館と消防署の大きな広間を回ったが、高齢者や障害者が一番寒い入口に固まっていた。1月17日も、それ以降も、寒い日が続いていた。自衛隊がグラウンドに設置してくれたトイレは、体の不自由な人たちには使えなかったのである。夜起きて、外に出ていくことも寒くて辛い。市川理事長が「奥の方がもっと温かいですよ」と声をかけても、その人たちは動こうとはしなかった。空気もひどく悪かった。
「このままだとこの人たちはだめだ、と思いました。そしてスウェーデンで見たグループホームのことがひらめいたのです。こういう方がたは、グループホームのような仮設住宅を作り、そこに入っていただいてケアをすればいいんじゃないか」
このとき、法人全体が全力を挙げて、次のような支援を行うことを決めたのだという。
①緊急ショートステイを、定員にこだわらず、可能な限り受け入れる。
②苑のすべての浴室を市民に開放する(芦屋市はまだ断水が続いていた)。
③避難所への支援
④困窮度の高い他施設への職員の派遣
⑤相談援助活動
法人が受けた甚大な被害
ところがこうしたなかで、じつは法人自体が重大な危機に直面していた。
社会福祉法人「きらくえん」の一番古い特養は、1983年にオープンした尼崎市の「喜楽苑」である。92年には朝来市生野町にいくの喜楽苑を開設させ、震災時、3つ目の特養を芦屋市に建設途中だった。
95年の4月1日オープンを目指して工事は順調に進んでいたのだが、震災時、敷地に大きな地割れが走り、建物全体が1メートルほど傾いてしまった。ほとんどできあがっていて、残されたのは内装作業だけという矢先の被災だった。土木学者を招き、再建方法の議論をしてもらったところ、液状化による地盤の傾きが原因で、ジャッキアップをして直す以外、再建方法はないという。ところがそのための工事費が、さらに14億3千万円かかるという。これまでの総事業費が19億ほど。このうえさらに14億3千万という負債を抱えることは、とてもできることではない。
加えて、4月1日オープンの予定だったから、建物自体がまだ国の認可を受けていなかったため、災害復旧費の対象にはならなかった。入居者もすでに決まっていたのだが、工事が終了するまで待ってもらうしかない。震災によってさらに待機者は増えていたし、早急に対策を講じなくてはならない。しかし1年間、そのまま放置された。
1年後、やっと特例で、国が2分の1、県と市がそれぞれ4分の1を補助し、法人が2億円ほど上のせをすることになって、再建工事にとりかかることになった。寄付集めにも奔走し、震災から2年後の97年の1月に、オープンにこぎつけたのだという。
話は再び震災直後のことに戻る。
「あしや喜楽苑」はオープンに向けて、新スタッフ40名の採用が決定していた。しかし再建するまで働く場所がなくなってしまった。去就を尋ねると、1名を除き、残りの全員が再建を待つという。4倍という競争率から選抜した職員たちで、保健師、介護福祉士、社会福祉士など、多様な専門的人材がそろっており、彼らの働く場所と人件費の確保が法人の大きな課題となった。
ここで市川理事長のあるひらめきが功を奏することになる。
理事長はかつてスウェーデンを訪れた際、日本ではまだ珍しかったグループホームを見て強い関心をもつようになっていた。自宅が全半壊した要介護者に対し、他県を含めた施設等への緊急保護数が、最高時で約2900人に上るといい、仮設住宅をケア付きのグループホームとして作ることはできないか。そうすればケアを必要とする高齢者にとっても安心だろうし、ケアスタッフとして再建を待つ40名の職員の雇用にもつながる。
市川理事長は震災から10日後の1月27日には、早くも芦屋市と尼崎市に陳情のために足を運んでいた。すでに述べたように市行政は混乱の渦中にあったから、さらに2月1日に県庁を訪ねたという。くり返すが、被災からわずか2週間ほどたってのこと、リュックを背負い、バスを乗り継いでの訪問だった。
それから間もなく、兵庫県と芦屋市から、実現したいという通知が来た。2月には補正予算が付き、現実化へ向けて一気に動き始めた。自宅が全半壊した要介護高齢者への支援と、法人職員の仕事の確保という二つの課題が、こうして実現することとなった。
「高齢者の医療と介護の現場から(第75回)」
―ここまで。
この記事へのコメント