竹田青嗣『欲望論』上巻ノート(その2)、あるいは優生思想にどうアクセスするか

「優生思想」へどうアクセスするか

以下は私事含みの記述になる。竹田さんの『欲望論』を読み始めたとき、私は津久井やまゆり園事件と「優生思想」で頭をいっぱいにしていた。袋小路のなかで、前に進めない状態だったと言っていい。

優生思想を肯定する人間などいないだろう。しかし先のところでも書いたように、それにもかかわらず、医学的・科学的到達地点である、現在の出生前診断技術、「一九六〇年代末の羊水検査を皮切りに、繊毛生研、超音波診断、母体血清マーカー検査といったさまざまな出生前診断技術が世界的規模で実施されるようになった」し、ここでの「いのちの選別」は否定されていない。一部では強い反対があるのを知りながら、むしろ恩恵として受け入れ、実施されている。

「優生学は新たな局面に入っていった」と、橳島次郎は書いた(『優生学と人間社会』講談社現代新書)。「新たな局面」を私なりに言うならば、ホロコーストや強制不妊治療、民族優生思想は旧来の「悪い優性思想」であり、全否定する。しかし、現代の優生学がもたらす出生前の診断技術などは、医療と科学技術の恩恵である。それは「よい優性思想」として享受できるものは享受する。――こうしたダブルスタンダードができあがっている。このことはどう考えたらよいのか。

現に、現代の医療技術の先端がもたらす難問にアクセスする生命倫理学(それは「新しい優性思想」といわれる)と、障害学(障害者コミュニケーション)の間に横たわる激しい対立、という問題がある。

あるいは重い障害をもって生まれた子どもをどうするのか。現代の医療は治療によって長く生きることを可能にした。しかしそれは本人にとって、大変につらく苦しい時間となる。そのことは明らかであるから、苦痛に満ちた生を強いることは逆に非人道的であり、次の、健康ないのちを待つべきである。そのように生命倫理学者は考える。もちろんこんな「優生的」な考えを、障害学も当事者も決して認めない。どのような「いのち」も、誕生と生存の権利をもつ。もちろん、こうしたシンプルなケースばかりではない。いずれにしても、新しい医療技術がもたらした「新しい優性思想」(といわれるもの)と、それを全否定する障害学(障害コミュニケーション)の側の理念の対立がある。これが「優生思想」という問題の、一つの文脈を作っている。

ここまで、アシリア・ウーレットの『生命倫理学と障害学の対話』(生活書院、安藤泰至・児玉真美訳)によって書いてきたのだが、この著書が「障害者を排除しない生命倫理へ」とサブタイトルされているように、両者の対立をどう回避するかが本書の立ち位置となっている。ウーレットによれば目的は共有されており、「一人一人の人間を尊重し、医療をめぐる倫理的で公正な意思決定を促すことを目指している」、にもかかわらず、それぞれのケースにおいてまったく異なったアプローチがなされる。

「大ざっぱに一口で言うと生命倫理学は医療において、十分な情報を得た上での個人の選択を優先する。たとえその選択が患者の死につながるような場合であってもそのことに変わりはない。それに対して障害学者や障害者運動の活動家は、一つの集団としての障害者たちを守ることを優先する。たとえ、そうした障害者のコミュニティにとっての利害が、障害をもった個々のメンバーの選択と相容れないような場合においても、前者を優先するのが彼らのやり方である。」p22(『生命倫理学と障害学の対話』)

ウーレットの本ではこの後、人間のライフサイクルの異なった時期における一つ一つの事例を取り上げ、生命倫理学と障害学がどう「対立」するのか示していく。障害のある新生児の治療、障害のある子どもの成長抑制、遷延性植物状態(一七カ月以他上続く植物状態)の患者からの生命維持装置の取り外し、医師の自殺幇助を認めるか(いわゆる安楽死問題)、終末期の医療と死のコントロール、などなど、多種多様な難問がある。
さて、ここからどう理路を進めていけばいいのだろうか。

竹田さんの『欲望論』が、こうした問題に直接触れているわけではないし、『欲望論』とはまったく別の話である。(新カント派の価値哲学に触れたところで、「価値の分類」という概念が出されるが、あくまでも「本体論」批判の文脈である。「本体」とは、「主観―客観」が一致する「もの」があるという超越論を批判し、脱構築するための概念である)。

しかし「序文」を読み始めてすぐに、何やら手掛かりになるようなものがある、と私の直感は囁いている。『欲望論』の核心部分は、例えば次のように書かれる。

「われわれの「自由な思念」は世界をなんとでも解釈することができる。しかし「欲望―身体」にとっては「何ものかが真なりと思いこまれざるをえない」。明らかなことだが、われわれの思考が実践関係から身を引いて、自由な関係対象化の能力を維持している間は、世界をどのようにも解釈できるが、われわれがある欲望に規定され拘束され衝迫され、企投をうながされるや、相対主義的観点をとることは不可能になる。相対主義的な観点はただ「自己意識の自由」という条件を維持している間だけ可能であるにすぎない。ニーチェの原理は、「主観」の「内的自由」は世界を自由に相対化できるが、「欲望―身体」としての主体にとっては、世界は必然的に「真」なるものとして現われ出ること、しかし現出するのはなんら実体としての「真なる世界」「存在自体の世界」〔先の「本体」を指す―佐藤〕ではなく、どこまでも主体の相関者としての世界であるということである。」(p326)

ここから直接、優生思想や、「障害学と生命倫理学の対立」という主題に飛び移るわけにはいかないが、竹田『欲望論』、あるいはフッサール現象学の文脈に移してみる。すると、これは一つの、現代的で複雑なかたちをした信念対立ではないか、ということが見えてくる。

「すべての命は平等であり、どのようなハンディキャップを持っていても、生まれ、育っていく権利を有している」
そうAが言うと、Bが答える。

「当事者本人にとってどのような状態がベストかを考えるべきで、これほどの苦痛、苦しみからは、早く解放させなければならない。そのような中に長時間置くこと(生命を維持すること)こそ、非人道的だというべきである。」
するとAは次のように反論する。

「それは障害や重い疾患をもって生きることが不幸である、あるいは障害者は劣っているという偏見と差別が、根本にあるからそのような判断になる。障害は不幸ではない。もし不幸があるとするならもっと別のところにある」
この対立の形を、もっと追い込むことはできるだろうか。いや、ここで「対立」を作っているのは何だろうか。あるいは、ここから「共有されうる確信」を取り出すことができるだろうか。竹田さんの『欲望論』を読みながら、どうも私は、このあたりのところで頭をもやもやとさせていたのであった。もう一つ引いてみる。

「いいかえてみよう。認識の普遍性が成立するためには、対象の主観的確信だけでは十分条件を構成せず、この対象確信が他者と共有されているという確信が同じに成立するのでなければならない。さらに、この共同の確信が、共同性を超えて「誰にとっても」へと進みうるとき普遍的認識が成立する。これがフッサールの主張の核心である。」p618

もやもやの出どこはここにある。優生思想をめぐって「無力な思想」ではなく、「現実を打ち消す考え」でもなく、どうすれば「それを克服する考え」に至り着くことができるか。どう考えれば両者の対立から、普遍認識として共有しうる考えを取りだすことができるのか。

竹田さんはフッサールの原文を引いたあと、次のようなその「翻案」を書いている。

「生活世界が意味形成の根源的地平である、というとき、それは単に諸対象、諸事象がすでに備える一般意味の妥当(確信形成)の様相をいうのではない。生活世界における「意味」(意味と価値)とは、本質的に他者関係のうちでのたえざる相互的な妥当形成として、あるいはこの相互的な妥当形成についての「私」の妥当として生成する。生活世界の本質学において、自我と他者との本質関係が重要な理由もまさしくこの点にある。」(p617)

生活世界も、フッサール現象論と竹田欲望論のキーワードである。「意味と価値」は、生活世界において「相互の妥当性」としてどう作っていくか、絶えざる形成の過程において作り上げられてくるものだということが言われている。

「障害」をもって生きることの「意味と価値」とは、あるいは「障害」の意味と価値とは、一般的妥当性としてあらかじめ誰のなかにも存在するものではない。生活世界においてその都度の相互妥当性として確認されながら、作り上げられていくものだ。「障害」をもつことが「不幸」かどうかも同様である。まして「障害」とはグラデーションである。スペクトラムである。

ともあれ、この号ではここまである。この後をどう追いつめていくかは次号での宿題とした。久々に「竹田青嗣の世界」を堪能できたは望外のことであった。



今号の特集を「津久井やまゆり園事件――障害と「人間のメンバーシップ」をめぐって」としたが、取材に入ることができたのは、『評伝島成郎』の校正作業が、やっと自分の手を離れたと感じたときだった。事件から一年半以上の歳月が過ぎていただろうか(それにしても、『評伝島成郎』は版元校正者さんの校閲が緻密で、二校目まで厳しく細部まで指摘していただいた。書き上げるまでもキツかったが、書き上げた後の校正作業もこれまたハードワークだった。しかしそのおかげで、やっと人様にお出しできる著書になった。本の「あとがき」では触れることができなかったので、ここで感謝を申し述べておきたいと思います)。

閑話休題。やまゆり園事件の取材は、杉浦幹さんよりお誘いいただき、「津久井やまゆり園事件を考え続ける会」に参加させていただきました。「考え続ける会」の場所は、相模原市。片道三時間近く、往復六時間をかけて通ってきました。会がどんなふうにして始められ、どんな経緯をたどったか。参加されている方々がどのようなお考えをお持ちなのか、少しずつ理解していったのですが、取材という立場から、次第にメンバーの一員という感覚に変わりました。そのメンバーの方々にご無理を願い、インタビュー記事として掲載させていただきました。それ以外にも、お忙しい中を山田和夫氏と高橋紘士氏にご登場いただき、飢餓陣営らしい特色のある特集とすることができたと思います。事件の、三回目の夏が来る前の刊行を、と急いでいただき、皆様には、本当に感謝の念に堪えません。ありがとうございました。この号では取材のお願いができなかった方々も、ぜひ次号ではお付き合いください。

築山登美夫さんの追悼を、宗近真一郎、添田馨両氏に書いていただきました。また拙著への書評をいただくなど、だれがどう見ても自画自賛企画。お恥ずかしい限りですが、雑誌発行者の特権だとばかり、行使しました。お三方には感謝です。また那覇の比嘉加津夫さんが、『脈』誌上で、一二人もの執筆者を擁して「沖縄を生きた島成郎」、という特集を組んでくださいました。小川哲生さんもプロデュースにかかわって、協力してくれています。お二人にはお礼を申し述べます。

今号が47号。50号まであと三号となりました。ここにきて、下降線の一途をたどってきた経済事情も、さすがに厳しい状況に追い込まれています。部数を減らし、ページ数を減らし、献本数を減らして対応してきましたが、さすがに限界です。取引していただいている書店さんも、ジワリと閉店に追い込まれて減少しています。三号分予約購読でも、カンパでも、経済的支援をいただければ、なんとか終刊号までたどり着けるのではないかと思います。是非ご支援をお願いする次第です。次号は今年の冬。一一月から一二月を目指します。企画の予定は、ほぼ出揃っています。執筆される方は、一一月上旬くらいにいただけるとありがたいです。
猛暑に向かいます。皆様におかれましても、くれぐれもご自愛のうえ、お過ごしください。

しつこいようですが、最後にもう一つ『欲望論』からの引用を。

「*しかし勘違いしてはならない。ひとたび戦争が生じれば、人間世界に理性と合理を求める言説の力はねじ伏せられる。そこでは「平和」や「道徳」を求める声はもはや空虚な絵空事となる。世界が戦争による「現実の論理」に覆われないときにこそ、哲学は「現実論理」に対抗し、「平和」や「道徳」の生きうる世界の原理を模索することができる。哲学は世界から「暴力原理」を縮減するための戦いを闘ってきたし、その対抗原理を時間に耐えて徐々に創り出してきた。人間のこの歴史を理解するものは、現在、哲学が立っている受容な岐路を理解するであろう。その第一の意義は、形而上学的独断論と懐疑論=相対主義を終焉させ、そのことによって、人間の本質的自由の条件である理性の集合的探究としての「言語ゲーム」の本義を再生することにある。(p30)

「序文」を、竹田さんはこんなふうに終えている。

津久井やまゆり園の事件は、「障害」をもつ多くの人の命が奪われ傷つけられたという痛恨と、それがいわゆる「優生思想」に基づく行為であることを隠さなかった驚きと、底のない不気味さがある。

日本国がいかに「戦争」と「暴力原理」を内在させているか。この事件こそ、まさにその先端の表れではないか、と感じていたときに、竹田さんのこの「序文」の強いメッセージに驚き、そして感銘を深くしたのだった。「障害」をもつ人々の社会へのメンバーシップ(ある集団の構成員であること、そこでの役割を担うこと)は、哲学がそうだったように少しずつ勝ち取られ、作り上げられてきたものです。

『飢餓陣営』は、早い時期からテーマの一つをそこに求めてきました。「重要な岐路」は、哲学のみならず、私たちの前にも立ち現れている。そのことをはっきりと示したのが、津久井やまゆり園の事件だった。それがこの号の、最大のメッセージです。


欲望論 第1巻「意味」の原理論
講談社
竹田 青嗣

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