辺見庸『月』を読む


辺見庸『月』を読む

機会を見て少しずつ、論じてみたいが、まずは辺見庸『月』から。
例の、「津久井やまゆり園事件」を下敷きにした、「大量殺人(マス・マーダー)の静かなる物語」というオビのコピーに、偽りはなかった。亡くなった方々への礼儀を欠いた不謹慎な「解説」になるかもしれないが、そこはご容赦いただいて、以下。

主人公=話者はなんと、「見えない」「動けない」「喋れない」、いわゆる重度障碍をもつ女性、と設定されている。「あなたひとですか?」「ひとのこころ、ありますか?」と、もう一人の登場人物〝さとくん〟(話者が入居する園の介護者)に言われている存在。そんな人物が、どうして話せるのか。情景が見えるのか。ストーリーを回せるのか。しかも作者は、「殺される側」の物語として描いている。

ここで、えっ? と思わないだろうか。
ラストで「殺されて」しまう人間が、どうして物語を語れるのか。「死者の語るストーリー」、ということになってしまうが、それは、基本的に成りたたない。主語が三人称設定や、黄泉がえりの話(例えば折口信夫の『死者の書』)、「死刑囚の手記」といった設定なら別だけど、『月』で語るのは「わたし」である。死者となる主人公が一人称で語る小説は、私の記憶にはない(ご存知の方は、ご教示ください)。ここは昔からの物語の「お約束」、あるいは物語の時間構造が持つジレンマだった(村上春樹の『ノルウェイの森』も、冒頭部分をよく目を凝らして読み、ラストと照らし合わせてみると、これはファウルじゃないか、と思わせるところがある)。

でも『月』の作者は、あえて「お約束」を踏みにじっている。お約束を踏みにじってでも、何が何でも「殺される人間」の側に立ち、「見えない」「動けない」「喋れない」人たち。の視点で、物語を描かないといけない、物言わぬ人たちだからこそ、彼らの見た物語が必要だ、と考えたのだと思う。

こうした二つの約束やぶりを、作者はあえて、というか積極的に選んだ。想像力を全力で駆動させ、自身の持つ文学の技術を最大限駆使して、この物語を描こうと思った。
なぜか。
それが、「小説家」ができる、「小説家」がしなくてはならない、意味もなく命を奪われた彼ら重度障碍をもつ人たちを、最大限に悼むことだと考えたのだと思う。
亡くなった方々への、作家ができる最大限の哀悼であり、慟哭であり、そして現実の殺人を引き起こした加害者に対する批判、ノンである、最大の否定である、そう考えたと思う。

二つ目の問いを、もう一度書く。
「見えない」「動けない」「喋れない」人が、主人公になって、どうやってストーリーを展開することができるのか。そこに作者の最大限の技術が駆使され、想像力が凝らされている。物語のいくところいくところに、色いろな仕掛けが施されている。読者からどうやって不自然さや「???(疑問)」を消し、「語り」に引き込んでいくか。読む側を、リアルな物語としていかに早く没入させることができるか。そこがこの小説の、おそらくは最大の見どころだと思う。少なくとも、私はそう読んだ。

ちなみに書いておくが、「見えない」「動けない」「喋れない」人たちの家族(親や兄弟)は、何千回、何万回と、「この子が話せたら、なんていうだろう」「もし話せたら、あんなことを言うだろうか、こんなふうに話すだろうか」という問いかけを、繰り返しているはずである。そのいかんともしがたい思いに、作家は形を与えた。それが『月』という作品を、稀有なものにしている最大の理由だと私には思えた。(それから、このことは必要以上に強調する必要はないとは思うが、作者が、重い病を得たという体験、そこで見聞きし考えた経験も、おそらくはこの作品を書かせたモチベーションを作っているだろう)。

ならば、どう小説技法を駆使しているか。
きわめて詩的な文章のパーツ。時事的状況論的な批判が羅列する文章のパーツ。哲学思考が述べられるパーツ。そして自分自身の心身の不如意を、自己呪詛や戯画とともに述べていくパーツ。これらが総動員されるが、きっちりと一体感を維持しているところが、小説家の技術と創造力の勝利を伝えていると思う。

何が勝利したのか。
「あなたひとですか?」「ひとのこころ、ありますか?」という問いへの答えが、ここで果たされていると思えるからだ。「ひととはなにか」「ひとのこころとはなにか」。読者は、そのことを深く考える重要なヒントと、きっかけを、この作品によってあたえられている。いうまでもなく「深く考える」が、ポイントである。「優生思想だ」「ナチだ」と言えば、深く考えたことになるのか。必ずしもそうではないところが、この問題の難しいところだ(どんな問題でもそうだが)。

ひとつだけ、私が判断を留保しているところがある。
始まりは小説技法が駆使され、離陸する。上に描いた様々に変容する文章のスタイルが、小説の抽象性をキープしていく。
ところが後半(ちょうど折り返し点のところで、「月」の情景が出てくる。私はここで、「これは村上春樹の『1Q84』の「月」ではないか」と感じた。詳しくは述べる余裕はないが、あれっ? 春樹さんか? と感じたことだけは記しておこう)、後半、物語は、事実の方に、つまりは現実におきた事件のほうに、着陸しようとしていく。抽象の水準が下がり、リアリズムの描写になっていくのである。終盤は、ほぼ、現実の事件が再現されるようなリアリズムになっているのだが(まさに、ウエマツ加害者そのもののような発言が拾われ、記述されていく)、このことを、どう評価するか。この一点、判断を留保している。

この駄文を読まれた方々が、『月』をどう読むか、ラストをどう読むか。各自で判断を下していただきたいと思う。とくにこの事件に、積極的に発言をしてきた多くの方々がどう読まれるか、とても知りたいところである。100人いれば、100通りの読み方がある(村上春樹)のだから。
(2019.3.1)


KADOKAWA
2018-10-31
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