大澤真幸『三島由紀夫 ふたつの謎』を読む(2/2) 北明哲+佐藤幹夫

大澤真幸『三島由紀夫 ふたつの謎』を読む(2/2) 北明哲+佐藤幹夫 



なぜいま三島由紀夫か

佐藤
 さっきも言ったように、文芸の側がやってきた三島由紀夫論議に、大澤さんは納得していない。文学的で何が言いたいのかよく分らないし、三島由紀夫がロジカルに検証されていないのではないか。そういう疑義が大澤さんのなかにはある(としてください)。
読みながら感じたもう一つのことは、これまではどちらかというとヨーロッパやアメリカのリベラルな思想家を追いかけてきた大澤真幸が、なぜここにきて過激な保守思想家と目される三島由紀夫を取り上げるのかというもの。「保守思想」というと、SNSではいまやヘイトとコピペと隠蔽と、知的劣化の代名詞みたいになってしまっているので、あの辺とは同列にはしたくないけれど、大澤さんがなぜいま三島由紀夫を選ぶのか、そのことを考えたいと思った。

北明
 いまの問いの一つ目については、三島由紀夫という文学者の文学作品を、文学的に読み解いてどこが悪いのか。文学的な論議になるのは、当たり前じゃないですか。
二つ目。いまの日本は、外からは、ほとんど歴史修正主義がまかり通る右翼カルト国家、全体主義的独裁国家とみられても仕方のないほど、民主主義も人権も報道の自由も平等も、はるかに後退させてしまった。そのときに、右翼思想や保守思想という大澤さんにとっての「敵」の本体を、より深く研究する必要があると感じた。思想的にも知的にももっとも優れ、本質的でラディカルな右翼思想家が誰かと言えば、三島由紀夫ただ一人である。その三島を徹底的に分析しつくしてみる。それが理由である。そういう理解ではだめですか。

佐藤
 二つ目の意見には、おおむね賛成です。そういう内情が大いに推測されます。戦争がもたらしたもの、戦後憲法と象徴天皇制の問題、矛盾する存在としての自衛隊。安倍政権と一心同体化している日本会議とそこに深く関連する神社神道。私たちはいま、さまざまな局面でこうした問題に直面しながら、何一つとして力のある言論空間をつくれずにいる。まさに三島由紀夫を論ずることは、現代の課題を論ずることである。その点が一つ。それから大澤さんにとって、おそらく積年の課題であった仏教の輪廻思想、唯識や空論も、三島由紀夫のテクストにはふんだんに書かれている。文句なしの批評対象だった。私もそう思います。

三島由紀夫の指示表出を読み込むということ

佐藤
 しかし一つ目の答えには、肯んじられませんね。私は一つ目のほうも、二つ目に劣らず大事な問いだと思う。少し前、瀬尾育生さんがインタビューの中で、自分の詩を「指示表出」として読んでほしい、といった趣旨の発言をしましたね。

北明
 はい。『吉本隆明の言葉と「のぞみなきときの私たち」』(言視舎)に入っていますね。

佐藤
 そこに連なる問題がある。大澤さんがここでやろうとしたことも、三島由紀夫の全テクストを、徹底して書かれてあることを書かれてあるように読む。要するに指示表出として読む。そのときに何が言えるか。

さっき引用した江藤淳や吉本隆明の読みは、三島由紀夫の自己表出を掬い取っているものでしょう。江藤淳の「作者が小説をつくり上げることに倦んでいる様子がありありとうかがわれる。この作者は人間にも実在にも、ほとんど何の興味も示していない」とか、吉本さんの「儀礼文ふうに空虚で大袈裟になり、少しも現実的な実感をあたえなく」なった、「私的な囁きも吐息も感じられない」という件は、三島由紀夫が直接記述していることではなく、江藤淳や吉本隆明が、記述の背後から自己表出として掴み出したものですね。大澤さんはこういう読みではない。あくまでもテクストを指示表出として読み込んでいく。

北明
 それが、大澤さんが文学者たちの三島言説に距離を置いている、ということなわけですね。でも、そういう読みが、「文学を読む」ということでしょうか。表層の情報を受け取るだけではないですか。文学を読むというのは自己表出を読み込んでいくことだ、というのはあなたの持論だったはずだし、自己表出が読めなくなっている文芸評論家が、最近は増えているんじゃないか、とも言っていたし(笑)。

佐藤
 たしかに文芸批評の鍛錬は、自己表出への感度や精度をいかに高めるか、そこにあるという考えは変わりません。イロハのイです。知識は山のように詰め込んだけど、自己表出がまるで読めない。学者ならそれでも論文は書けるかもしれませんが、文芸批評はそれでは困るのではないでしょうか。粗筋を紹介して感想を書き付けて終わるような「感想文」であれば、誰にでもできますけど。

北明
 自己表出を読めというのは、吉本さんの『言語にとって美とはなにか』の表出史、「表現転移論」ですね。

佐藤
 はい。大澤さんが三島のテクストを指示表出に沿って読み込んでいくというのなら、その読み込みに大澤真幸らしい凄みを見せてほしい。それが今回私が大澤さんの本に託した批評のドラマツルギーですね。

「謎」と「謎かけ」

佐藤
 それでちょっと結論めいたことを先に述べてしまうと、大澤さんがここで「謎」だと言っているものは、じつは大澤さんにとっては「謎」でもなんでもないもので、自分としては数年前に説くことができた、とどこかで書いていますね。つまり「謎」と呼んでいるものは大澤さん一流のレトリックで、「この二つの問題(謎)を、あなたがたはしっかりと解いているのか。解き明かしたことをロジカルに説明できるのか」という反語的な問いかけで、「あなたたちにできないことを、これから自分がやって見せる」というのが、さかんに強調される「ふたつの謎」の正体ではないでしょうか。

北明
 なるほど。これはおかしいだろう、誰だって愚行だと思うだろう。あんなラストだったら、読者は騙されたと思うだろう、としきりと言いながら、その次の頁では、それはこうなっている、と検証を始めていきますからね。

佐藤
 それが今回採っている大澤さんのレトリックですね。意地悪言い方をすれば、自分で火をつけて煽り、それを自分で消して見せるというマッチポンプ方式ではないかともいえるんだけれども、そんなことよりもっと大事なことがあって、なぜその二つが「謎」として選ばれたか。その二つのテーマに凝集していくように今回の本は作られているのか。

北明
 その二つとは、一つは天皇制の問題。もう一つは仏教思想、なかでも空論や唯識ですね。

佐藤
 天皇制というよりは、天皇の問題。私の理解では、三島由紀夫の後半の宿願は、絶対的天皇霊としてのパワー(威力)を復活させたいというものだったのではないか。行動も文学も、そこに集中させていった。天皇問題に深入りすればするほど、三島さんが神懸っていくのは、自分を〝依り代〟にすることによって天皇霊を呼び覚まそうとするゆえではなかったか。知ったかぶりをすると、象徴以前の天皇は、マジカルであるがゆえに「空」なんですよ。「空」であればあるほど絶大な威力を発揮する。いかに威力が絶大であってもその本質は「空」である。だからなんでも取り込んでしまうし、なんにでも憑く。憑けば、それがご神体になる。八百万というのは神威の集合体でしょう。

北明
 折口信夫ですね。

佐藤
 いえ、折口師の上澄みを述べているだけです。大澤さんが、三島と天皇をこんなふうに考えていたどうかは別なのですが、天皇の問題と唯識や空論の問題。私を含め、多くの人間が三島由紀夫を分かったように論じているが、本当に分かっているのかという反問、反語的レトリック。それが「ふたつの謎」という形で出された。大澤さんは私たち読者に、「謎」かけをしてきたわけです。それを、さっきから言っているように指示表出として読み込んでいく。傍証として、次のことをあげましょう。

大澤真幸の読み込みはどこに向かっているのか

佐藤
 詳細はこの本を読む人に任せるとして、一点だけ取り上げます。この本で繰り返し言及されるのが、『天人五衰』のラストはいつ構想されたのか、ということ。もう一つが、三島があのような行動思想家であって天皇主義者になるのはいつからか。それらの痕跡はテクストのどこから読み取れるか。もちろん一気に、ひっくり返るように変容が起きたわけではなく、一作ごとに少しずつ変化していった。つまり、三島由紀夫がどこでどう変化したのかという問題が、大澤さんはとても重要だと感じている。その変化のプロセスを示すことができれば、三島由紀夫における天皇の問題や唯識の問題を解く本質的な契機が、おのずと見出されてくる。簡単に述べます。

 大澤さんは『仮面の告白』から始めます。異性との性愛の不可能性を分析し、終盤になってかつて付き合いのあった女性園子と、彼女が結婚した後に再会するという場面を取り上げます。しかし主人公が惹かれるのは若者であることがはっきりする、と確認した後のラストの三島の文章。

「一団は踊りに行ったとみえ、空っぽの椅子が照りつく日差のなかに置かれ、卓の上にこぼれている何かの飲物が、ぎらぎらと凄まじい反射をあげた」

 この一文を引いた後、大澤さんはこう書いている。

「椅子はもはや空っぽだ。結局、松枝清顕のような人物、婉然たる若者はいない。ここに『豊饒の海』の結末の無意識の先取り、そのかすかな予告を見ることができる」

 無意識の先取り、かすかな予告と書いているけれども、「謎」の答えは、すでに大澤さんの手中にある。まさに空っぽです。これは『天人五衰』のラストの原型です。

北明
 私も同様で、大澤さんは「謎」だと言いながら、ちゃんとつかんでいるじゃないか、と感じたところでした。

佐藤
 でもこれだけではまだ足りない。『豊饒の海』には書かれざる結末がある、自殺の予言とクーデターは、そちらに書かれているはずだという仮説を示すのですが、ここは端折ります。

次に『金閣寺』が取り上げられます。『金閣寺』は『仮面の告白』のやり直しであり、その反復である、『金閣寺』に書かれた放火は一四年後の革命的蹶起の予兆であるという前提で思考してきた、では『金閣寺』は、どのようにして「天皇」に変換されるのか。大澤さんはそう問い、それが『鏡子の家』に接続されていく。

『鏡子の家』の人物配置は、『豊饒の海』の予告を読み取ることができる。つまり四部作それぞれの主人公のひな型が、『鏡子の家』の登場人物たちだ、というわけですね。しかし『金閣寺』にあった「火と血」のイメージは、『鏡子の家』では半分しか成功していない、というのが大澤さんの評価で、さらに進んでいく。この時に引かれる補助線は、紹介できないけれど、やはり大澤さんらしい。

北明
 でも主要作品をつないで三島由紀夫の主題を取り出していくというやり方は、これまでの文芸評論家もやってきたことではないですか。

佐藤
 そうではあるのですが、次々と持ち出される道具立て(補助線)が、天皇と唯識の問題にぐいぐいと向かっていくダイナミックな記述は、やはり大澤さんならではのものでしょう。この論証の手続きを、こんな面倒な手順を踏まなくてもこれまでの批評家たちは端的に指摘してきたではないかと感じるか、この著者らしい思考を読んで楽しむことができるか、そこでこの本に対する評価が分かれるのでしょうね。

三島由紀夫の全体と小室直樹の三島論

佐藤
 つまり三島由紀夫は色々と論じられてきたが、三島文学と、天皇をめぐる軍人(武人)行動家・三島由紀夫と、唯識思想の問題が、トータルに論じられている批評や研究はこれまでなかったではないか。どちらかがあれば、どちらかがない。少なくとも、天皇の問題と、唯識・空論を関連させて三島文学を論じたものはない(*5)。自分はそれをトータルにやってみせる、という野心と自負が、大澤さんが投げてよこした「謎」かけの真意ではないでしょうか。私はそう受け取ったのだけれど。最初に述べた大澤さんらしい自信と自負というのはこのへんですね。

北明
 うーん。なるほど。たしかに私も、唯識や空論といった領域はとても無理だと敬して遠ざけていたし、自衛隊や天皇の問題は軽んじてきたというか、三島文学にとっては本筋ではない、とみてきたところがありますね。

佐藤
 もう詳しい作品の紹介は止めて、最後にもう一つ。軍人・三島由紀夫と天皇問題、三島思想としての唯識や空論の二つを、関連させながら主題化するという展開には、じつは先行者がいる。

北明
 またそういうことを。どなたなんですか。

佐藤
 大澤さんの間近にいた人で、小室ゼミの師匠ともいうべき小室直樹さんです。小室さんは『三島由紀夫と「天皇」』(天山文庫)という本を、三島さんが亡くなった二〇年後に書いています(*6)。おそらくこの本が、大澤さんの三島読解のヒントというか、出発点になっているはずです。残念ながら、小室さんの『三島由紀夫と「天皇」』には三島文学の詳しい分析がなく、天皇論、軍人行動家としての三島、それから空論と唯識を中心に書かれています。正直に感想を述べれば、アイデアはすごいのですが、もっと肉付けをして展開していただきたかった。でも、三島由紀夫への評価やシンパシイはものすごく高い。

いずれにしても、そこでの発想や着眼を引き継ぎ、三島文学への詳細な分析を加え、よりスケールアップさせようとしたのが大澤さんの『三島由紀夫 ふたつの謎』ではなかったか。小室さんの本を読んで、そんなことを感じました。

北明
 どんなことが書かれているのですか。

佐藤
 天皇主義者と目されている三島は、じつは最大の天皇批判者であった。批判の対象はもちろん、戦後の平和憲法下の象徴天皇である。

 「戦後日本における天皇制批判の最高峰は、三島由紀夫であろう。わけてもその絶頂をなすのが、『英霊の声』と『豊饒の海』四部作である」

なぜ最大の批判者と見るのか。三島が深く学んだ唯識の「空論」は、万世一系の、不変の天皇霊に対するこれ以上のない批判だからである、という点に求めています。私の手には余るのを承知で引用すれば、こう書かれています。

「天皇の論理は、「万物流転」を否定し、絶対に変易すべかざる確固不動の君臣関係に基礎をおくものでなければならない。断じて刹那に生じ、刹那に滅するながれる川のごときものであってはならない。〔『暁の寺』で三島が描いた川の描写が示唆されている――引用者〕
唯識論の上にたつ三島理論が、最もラディカルな天皇制批判である第一の理由はここにある。
またその系(コロニー)として、阿頼耶識による転生。これは、天皇に対する真っ向からの挑戦である」

当然、大澤さんは、小室さんのこの本は読んでいるはずです。くり返しますが、あなたたちは、三島由紀夫が最後に「天皇陛下万歳」と叫んで割腹したその真意をほんとうに理解しているか。『豊饒の海』がどうしてあのような終わり方になっているか、その理由を知っているか。そのように「謎かけ」をしてきたわけです。天皇批判者、天皇への挑戦。小室さんのこの指摘を、大澤さんなりに変奏していった。

北明
 その本をなぜ事前に知らせてくれなかったのですか。

佐藤
 隠し玉です(笑)。今回そちらは、大澤さんの本に対して「なぜ、これが謎なんだ」と、とても気合いが入っていたので、それならこちらは隠し玉を用意しようと(笑)。

北明
 性格が悪いぜ(笑)。

近代への無理解――橋爪大三郎の小室解説

佐藤
 それで、橋爪大三郎さんの編集だからと、たいした理由もなく偶然衝動買いしていた本があって、それは橋爪大三郎編『小室直樹の世界――社会科学の復興をめざして』(ミネルヴァ書房)なんだけど(*7)、そのなかで、橋爪さんが小室さんの三島論の解説を書いているのです。短いものですが、橋爪さんの解説がまた秀逸です。全文引用したいところですが、こんなことが書かれています。小室直樹博士は三島が「戦後社会と天皇のねじれた関係、戦後の社会のねじれた関係」をずっと課題にし、果敢な行動でそれを正さなければいけないと考えていたとし、さらに、「(三島由紀夫の)文学を捨ててまで、国を救わなければならないという思いの激しさが、ただの学者でなく、学問を通じて国を救わなければならないという思いを抱いた小室博士と共通するところがあった」と書いています。

 やはり橋爪さんも大澤さん同様、行動家三島由紀夫の蹶起を、文芸批評家とは異なる次元で見ているのですね。

 「もうひとつの共通点は、本質的な近代主義者であるというところ。法律学の素養、仏教の素養は、その一例である。『豊饒の海』四部作(一九六九~一九七一)は、法律と仏教が、通奏低音のように流れる作品だ。尼になった聡子の寺が法相宗であったことから、小室博士は作品に秘められた深い哲理を感得した。三島由紀夫の法律論を、私も読んだことがあるが、憲法解釈はとても明快で、一流の憲法学者の説明を聞くようであった。近代が何であるか、憲法が何であるか、三島由紀夫は身体にしみこんで理解していたに違いない」
そして数学、物理、経済、統計、社会学、政治学、法学、人類学、宗教学など、すべての学問のエッセンスが骨肉にしみこんでいるのは二人に共通する、と指摘し、

「そこで三島の自決は、同志の死であると、小室博士に理解されたのであろう。裏をかえすなら、日本の国家や官僚機構、企業体制やアカデミズム、などなどは近代を体現しておらず、日本人民のためにもならない、エセ近代だという深い憤りを、小室博士が抱いていて、それを三島由紀夫に仮託してのべているとも考えられる」

 大澤さんの「謎かけ」を、ここに着地させたいのですが、どうでしょう。大澤さんが「三島由紀夫を未だ私たちは理解できずにいる」、というとき、生前もそしていまも、三島を反動だとか時代錯誤だとか、軍国主義者だとか、半ば嘲笑しながら言って、彼を孤立させてきた原因が何であるか。橋爪さんがここで指摘している近代への無理解ではないか。私たちがいまもって近代を理解せず体現できずにいることが、大澤さんの言う「謎」を「謎」たらしめていた本当の理由なのではないか。そんなところにたどり着いたのです。

北明
 なるほどね。ずいぶん思いがけないところまで話が進み、ちょっと驚きですね。しかしそれにしても『小室直
樹の世界』の衝動買いなんて、ずいぶん思い切ったことをしたもんだ。

佐藤
 でもここにきて、ちゃんと役に立ったじゃないですか。

(*5 )松本健一は『三島由紀夫の二・二六事件 』 (文春新書)で 、軍人三島由紀夫の問題と大本教を取り上げているが 、唯識 への言及は見られない。
(*6)初版は『三島由紀夫が復活する』(毎日フォーラム・一九八五年)。改題され、大陸書房より天山文庫として一九九〇年に刊行された。あとがきでは続編を書くと言われているが、刊行されなかったようである。
(*7)書中「小室直樹と吉本隆明」というタイトルで、橋爪氏と副島隆彦氏の対談が収められている。







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