新型コロナ時代の生老病死(連載21)


〝教育〟はどこに届くのか(第21回)
新型コロナ時代の生老病死


「ゆずちゃんが まつえさんのほっぺを/ぺんぺん//まつえさんの目は開かない/でも 言葉をしぼりだす//ゆずちゃ~ん/ゆずちゃ~ん/あと たのむでぇ」

写真家・國森康弘さん。2003年に記者からフォトジャーナリストとして独立。イラク、ソマリア、カンボジアなど戦禍の地にわたり、活動を始め、以後、さまざまな「生と死」の現場をカメラに収めてきました。その國森さんより、『生老病死 そして生』(農文協)と題されたフォトエッセイ集を贈っていただいたのは、3月に入り、新型コロナウィルスの脅威が本格的に飛び火してきた頃のことでした。

各パートが「生」「老」「病」「死」「そして生」と分けられ、それぞれのテーマに沿った写真が選り抜かれています。新しいいのちの誕生と、生まれたばかりの弟を迎える子どもたち。戦禍の地をたくましく生き抜いている若い母親と、腕に抱かれた乳児。そこに付された「ここでは弱い子は生きられない」という國森さんのコメントが、胸を突きます。あるいは3.11の被災直後の現場。障害をもつ子どもと、彼の家族とクラスメートたち。インドのガンジス河ほとりの荼毘の光景。ALSを病んだ女性とその家族、そこに集い、ケアを担ってきた若い学生たち……というようにたくさんの「生と死」が、1冊の本を埋め尽くしています。

どの写真もインパクト十分で、ときに激しい衝撃を残しますが、「陰惨」とか「悲惨」という印象はありません。過剰な演出も、見る者の感情を煽ろうとするあざとさも、安手の「物語」に封じ込めようとする作為も、一切ありません。真正面から被写体に向き合っていることが分かります。撮られる側もそれに応えるように、國森さんに全身を委ねています。そして写真に添えられた國森さんの、贅を削ぎ落した文章。そのコラボによって「いのち」のなんであるかを強く訴えてくる、そのようなフォトエッセイ集です。

この間、私がひときわ心を惹かれてきたのは〝看取り〟の写真でした。自宅で、間もなく息を引き取ろうとするお年寄りたちの満ち足りた表情。いのちが尽きた直後の、家族や集まってきたご近所さんたちの、掌を合わせる姿。私はそこでの子どもたちたちの表情に、しばしば目を奪われました。冒頭の「ゆずちゃん」の文章もその一つで、カバー(書影)になっている写真に添えられたものです。「かぎりがあるから みんなでつなぐ」とサブタイトルされている通り、「いのちとはつないでいくものだ」という國森さんの強い確信(思想)を、私はどの写真からも受け取ります。

なぜ私が〝看取り〟の写真に惹かれたのでしょうか。第二次大戦以降、世界最大の危機をもたらしたと指摘される新型コロナウィルス。ネットには情報が溢れ返っていますが、身体のシステムをどう破壊するか、まだ分からないことのほうが多いと言われます。これを機会に働き方も人との関係のあり方も、暮らし方も大きく変わっていくだろうとも指摘されます。学校のあり方についても、オンライン教育を充実させるいい機会だとか、9月始業にチェンジした方がいいとか、多くの意見が出されています。あるいは在宅の期間が増えることによって、困窮を抱える家庭はますます追い詰められ、子どもたちに及ぼす影響も大きいとか、親からの暴力に苦しむ子どもたちにとって家は居場所にはならならない、と心身の安全を危惧する声も。この連載の主旨から言えば、こちらを率先して取り上げるべきだったかもしれません。

しかし私の関心は「死」のほうに集中していきました。感染者の多くは軽症だと言われながら、突然重症化し、1週間ほどで死に至るケースや、感染者の急激な増加によってもたらされた医療現場の危機的な状況がくり返し報じられました。感染者全員には十分な医療を回せない、誰の治療を優先させるか、数の足りない人工呼吸器の装着の優先順位をどうするか、医師たちが苦悩しているというショッキングな報道もありました。そのとき、「トリアージ」という言葉が、私たちにより身近なものとして降りてきたようなのです。

「いのちの選別」であれば倫理問題として、あるいは人権侵害であるとして強く非難を返すことができます。ところが救命救急の医療現場にあってなされる「トリアージ」にたいしては、それを批判することは難しくなります。現にこれまで多くの災害現場でなされてきたはずの「トリアージ」に、「それはいのちの選別ではないか」という非難が出されたという話は、私は聞いたことがありません。当然の医療判断だと見なされてきたわけです。

ところが今回のコロナウィルスは、現在の危機的な医療状況のなかでは「トリアージ」という形で私たちのいのちが選別されることがある、という現実をはっきりと示すことになりました。つまりは私自身が、いつ、いかなるかたちで「トリアージ」されるか分からない、そのような身であることを知らしめてきたわけです。医療崩壊と呼吸器問題の報道に触れながら、私はそのようにしてもたらされるかもしれない「死」を、少しずつ受け容れていきました。

微妙なところなので急いでお断りをしておきますが、一般論として、いま医療崩壊ぎりぎりにあるのだから、若い人を優先して治療するべきだ、人工呼吸器を回すべきだ、と主張しているのではありません。あくまでも個人的な問題として、03年のMERSや12年のSARSなど、これまでのパンデミックのときには考えられなかったほど自分が「死」に近づいているのを感じ、それを受け容れようとしてきたということです。

そんな心境のなかで、國森さんのフォトエッセイ集に触れてきました。だからこそ看取られるお年寄りたちと、看取る子どもたちの写真に強く惹きつけられてきたのだろうと思います。ゆずちゃんの写真の次に、間もなくいのちが尽きようとする「なみばあちゃん」と、そばにいてその姿を「目と心に焼きつけ」ようとするたいらくんの、2葉の写真があります。たいらくんは小学校2年になったとき作文を書きます。「いのちのリレーでバトンタッチしたぼくは/のびのび大きくなりたいです/いつまでもおおばあちゃんのことを/わすれないでいたいです」

「死」はいつも私たちのそばにあるのですが、普段はなかなか見えません。見ようともしません。まして子どもたちが大事な人の「いのちの終わり」を経験することは、ほとんどなくなっているでしょう。今回のコロナウィルスは、ほんとうは「死」が身近にあるのだということを如実に伝えてよこしました。この脅威のなかで、ゆずちゃんやたいらくんのように、子どもたちが「いのち」と「死」を「のびのび」と体験するにはどうしたらいいだろうか。しきりとそんなことも考えたのでした。こう書くと、学校現場から金科玉条のごとく持ち出される「いのちの大切さ」を思い出すかもしれませんが、ちょっと違います。学校では「死」を教えません。「死とはいのちをつないでいくことだ」ということを教えません。

最後に加えれば、津久井やまゆり園事件の植松聖死刑囚は、おそらく「いのち」を知らなかった。「死とはいのちをつないでいくリレーのことだ」ということも知らなかった。それが最大の不幸だったのではないか。法廷での彼の話を思い起こすにつけ、そう思われてなりません。國森さんの写真集を見ながら、そんなことも考えたのでした。
教職課程 2020年 07 月号 [雑誌]
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