「Society 5.0」と子どもたちの身体知(連載23)

〝教育〟はどこに届くのか(第23回)               
「Society 5.0」と子どもたちの身体知

ウィルス感染の予防と子どもたちの教育機会の保障。この難しいバランスをどう両立させるか。それがいま、学校の最大の課題だろうと思います。前号では、感染予防対策の行きすぎは、子どもたちの成長にとって重大な支障をもたらすのではないか、という疑義を書きました。すると投稿後、SNSに次のような記事が上がってきたのです。

「学校でのフェイスシールドの着用 ちょっと待ってください 大阪小児科医会からのお願い」と、タイトルされたもので、引用します。
「★フェイスシールドは「うつさないため」にするものではありません。

・フェイスシールドは血液や飛沫から医療従事者を守るためにするもので、他人から「うつされるリスクが高いとき」に使用するものです。/学校生活では、児童・生徒にフェイスシールドの着用は必要ありません。

★フェイスシールドの着用で以下のようなトラブルが心配されます。
・熱中症のリスクが高まります。/物がゆがんで見えたり、光が反射して、授業に集中できません。/転倒などで顔面や眼を傷つける心配があります。」

あくまでも医療的観点からの提言という形をとっていますが、底流にあるのは、子どもたちの育ちへの危惧でしょう。大阪小児科医会の「お願い」は正論そのものです。

AIの時代とアナログ知の復権

わたしの危惧について、もう少し別の角度から光を当ててみましょう。科学技術の発展と情報ツールの拡大は、間違いなく暮らしの利便性を高めました。ただし物事には、作用があればかならず反作用があります。反作用の最たるものが、「身体知」を弱くさせていることだとわたしは考えてきました。いくらデジタル化が進もうとも、人間の「身体」は自然そのものです。理性や科学では統御できないものを、どうしたところで身体は抱え込んでいます。だからこそ教育の重要性があるわけです。近年強調される「自ら学び自ら考える力」とか、「生きる力」といったものは、身体知との相互作用によってこそ涵養されていくのではないか。そういう仮説さえわたしはもっています。

こうしたなか、「ウィルス感染の予防」が最優先される社会とは、人間の行動や暮らしを科学(医学)の名のもとでコントロールしようとする社会のことであり、学校も同様です。子どもたちにたいする管理とコントロールが、感染予防という誰にも反対できない名のもとでさらに強くなっていくならば、子どもたちは自然性から切り離され、身体知と学びはますます脆弱になっていく。それが、過剰な感染予防に感じるわたしの危惧です。

ここから「Society 5.0」の話題に少しずつ転じていくのですが、この間、こんなことがありました。わたしは「人間と発達を考える会」という勉強会を10年以上にわたって続けています(子どもの育ち、学び、発達障害、児童虐待や不登校など、様々な課題を取り上げて議論する会です)。そのメンバーの一人である佐川眞太郎さんより、『デジタル・AI時代の暮らし方』(浅間正通編著・南雲堂)という本を送っていただきました。佐川さんはある大学の相談室で心理臨床に取り組む公認心理師で、本のなかで分担執筆をしています。サブタイトルが「アナログ知のポテンシャル」、帯には「AIが浸透する社会と共存してゆくには――アナログ知の大切さを説く」とコピーされています。「コロナの時代と子どもたちの「身体知」」というテーマを、どう掘り下げていこうかと思案していた真っただ中。センサーが激しく作動し、すぐに読み始めたのですが、膝を叩くようなことばかりでした。

大雑把に分類すれば、情報処理という学問領域に入れていいでしょう。「デジタル学習ツール」「Web教材」「ディープラーニング」「AI学習」というように、学びのデジタル化が加速しているなかで、それぞれの分野のエキスパートがアナログ知の重要性を再認識しよう。そういう意図によって本書は編まれています。

例えば編者の浅間氏は情報リテラシーの立場から、電子辞書の再普及という昨今の現状を取り上げます。電子辞書派(電活派)と印刷辞書派(印活派)に分類し、双方がどのような翻訳をし、そこにどんな差異がみられるか、英単語検索実験を試みます。電活派のほうは一語一訳の罠にはまっており、文脈への配慮という点で印活派のほうが勝っている、という実験結果を導き、Eラーニング(electronic dictionary、電子辞書学習)に先んじるのは、「五感をしっかりと動員したところのアナログ(analog)ラーニングに尽きる」のではないか、とまとめています(第1章)。「五感」は、身体知の涵養にとっての土台です。

第2章の山下巌氏は、自動翻訳機が機能性と精度を高めながら広く普及し、語学学習不要説まで出始めている昨今の現状に注目します。「自動翻訳(デジタル知)」か「外国語学習(アナログ知)」か、と対立的に考える必要はない。自動翻訳機による外国人とのコミュニケーションは、語学学習を始めるきっかけとなる。自動翻訳は補助ツールとして活用してこそ、自力で外国語を話そうとする人が増えてゆく、と主張します。新たな語学の習得とは構文や文法、単語、発音といった技能の習得(身体化)であるとともに、その国の文化や風習を、まさに身体を通して獲得していくプロセスです。

第3章の小川あい氏。黙読の習慣がここまでが進み、スマートフォンが普及したいまだからこそ「音読と暗唱」が重要になっていると主張します。文の読み上げを繰り返すことは、知識をつながりのあるもの〔傍点に〕として記憶に定着させる。現代の教育は単なる情報処理に終始しているが、つながりある知識こそ、分析的思考力や発想力、創造力の基盤であり、音読や暗唱はその土台をつくる、というのが訴えの主眼です。
佐川さんは、以心伝心や「察し」という非言語によるコミュニケーションが、いかに人間交流に重要な役割を果たすか、しかし今それが損なわれていないかと、心理臨床の現場で鍛えてきた人らしい着眼から「身体知」の危機を訴えます(第6章)。わたしが述べてきた危惧がまさに共有されています。ほかにも絵本の読み聞かせ、ペンと紙の問題というような意表を突くような着眼から、その領域でどのようにデジタル化が進んでいるかを述べながら、アナログ知の復権、あるいはデジタル知との共存の重要性を示していきます。

Society5.0とはどんな社会か

さてここまでであれば、まさに我が意を得たりと共感し、本書を閉じたかもしれません。しかし、この本には先がありました。それが第Ⅳ部に収められた論文なのですが、ここでは文脈の都合上、前野博氏(至学館大学准教授、専門は教育情報学)の「2025年の崖への跳躍力― Society5.0実現に向けていま私たちが取り組むべきこと」という論文を取り上げます。おおむね、次のようなことが書かれていました。

Society5.0の5とは、これまでの社会の進展を、①狩猟社会、②農耕社会、③工業社会、④情報社会、と定義づけ、その5番目、次世代社会を指す象徴的な名称だとされます。「超スマート社会」とも称されていますが、「デジタルとアナログを高度に融合させて人間中心の」社会を創生すること、それがこの社会での目標となる。AIがどこまで高度化していくのか、人間の労働力のあらかたが不要になってしまうのではないか、という不安が高まっているなか、これからの社会や人間のあり方をどう構想すればよいか。そうした問題意識のもとで打ち出された国家戦略が、Society5.0をめぐる提言です。前野氏は、「これからの社会を変革していくには、デジタル一辺倒ではなく、アナログ的な思考や手法も融合的に用いながら取り組んでいくことが必須」であると述べます。

もう一つ、タイトルの「2025年の崖」とは何かという問題があります。インターネットはわたしたちの生活の隅々に浸透し、気がつくと、経済・物流・情報といったあらゆるモノとコトが一つのシステムに集中され、統御されている。集中が増せば増すほど利用する側には高い利便性になるわけですが、しかしたった一つのクラッシュが世界経済の破綻、情報や物流システムの大混乱を招きかねない。これまでそのことに気づかれながらも、代替案もないままやり過ごされてきた。しかし、もはやそういうわけにはいかないといいます。
現在、多くの企業で用いているコンピュータシステムは、ブラックボックス化している、管理する技術者の高齢化が進み、このままでは「現行のシステムは陳腐化し、さらにはゴミ化していく」。それが「2025年の崖」と呼ばれる事態だと説明されます(このとき前野氏が参照しているのは、経産省による「DXレポート」という報告です)。

こうした事態への対応は教育にあっても喫緊の問題です。その最重要課題がAI時代の到来に向けた人材育成であり、そのための国家戦略は次の3点。

① 文理を問わず、全高等機関での数理・データサイエンス、AI履修コース設置
② 社会人全体へのAIに関する実践的活用スキルが習得できる環境の用意
③ リベラルアーツ(教養教育)の充実化

リベラルアーツについては、「単に読書をたくさんするといった単純なイメージではなく、幅広く人とかかわりながら自ら学びの幅を広げたり深めたりすることが求められます」と注記されていますから、こちらに、本書の趣旨であるアナログ知につながる問題があると考えていいでしょう。この3点は、文言だけを見ているといいことづくめのような気がしますが、前野氏は次のような楔も忘れずに打ち込んでいます。

「AIを学ぶには相当な数学的知識や統計学的知識が必要であり、あらゆることを数理モデルに置き換えるための社会全般への理解も必要です。AI教育やプログラミング教育と巷間喧〔かまびす‐ルビ〕しいですが、言うは易く行うは難〔かた―ルビ〕しなのです」

前野氏が指摘するように、文理双方にわたるハイレベルな理解や知識を「国家戦略」は求めています。ここでは国を牽引するエリート層が想定されているのでしょうが、このハードルを越えられる人材は一体どれくらいいるのか、という素朴な感想を禁じえません。

「Society 5.0」についての文科省の見解

このあたりで前野論文から離れ、「Society 5.0」について文科省がどのような見解をもっているのか、そちらに目を転じてみます。文科省のホームページを検索していると、「Society5.0に向けた人材育成~社会が変わる、学びが変わる~」というレポートがヒットしました。https://www.mext.go.jp/component/a_menu/other/deta.

内容は3章構成になっており、第1章、その社会像と求められる人材像、学びの在り方(大臣と有識者による懇談会の整理)、第2章、取り組むべき政策の方向性(1章を踏まえた文科省職員による議論のまとめ)、第3章、学びの変革と取り組むべき施策(1章2章を受けて)、となっています。公式見解以前の、Society5.0に向けた文科省内部での議論の集約といってよいでしょう。以下はわたしなりのまとめです。

AI技術の発展によって社会や働き方が大きく変わる、それはかつてないもので、「これまでの延長線を大きく超えた劇的な変化が訪れる」というように、いかに激しい変化を目前にしているか、そのことが繰り返し強調されます。それがこのまとめの特徴の一つだと思われます。こうしたなか、日本のAIの技術開発は米国や中国に比べて大きく立ち遅れており、技術者や研究者の数もはるかに少ない、多くの学生が情報科学のトレーニングを受けていない、こうした現状をクリアしていかなければ先進国のなかでさらに遅れをとり、日本の存在感が発揮できなくなる、という強い危機意識が、二つ目の特徴だと受け取りました。

それを克服するにはどんな力が求められ、どんな教育が必要となるか。前野論文で示された概要が、教育現場に即した形で提言されていきます。AIやビッグデータを活用し、スキルをたえずアップデートできるような「自ら学び続ける力」、「現実世界を意味あるものとして理解」し、新たなイノベーションを創造できる力、そのときに重要な感性や知性や独創性。一方では学力の低下や「貧困の拡大、地域間格差」にもふれ、教育格差の解消は公教育の義務だと言い切ってもいます。さらに、教師を「子ども自身の学びの支援者」と位置付けていることなど、過不足のない提言といえば確かにその通りなのですが、先に指摘した危機意識の表明は、最終的に、急ぎ、大幅な教育改革を断行していかなくてはならないというメッセージに帰着しています。

ここで思い起こされるのが、学習指導要領が、特に20年のスパンで基本のコンセプトをがらりと変えるようにして、大きな改革を打ち出してきたことです。今から20年前、「小泉・竹中構造改革」のもと、新自由主義的教育政策が全面展開されました。その象徴が「総合的な学習」と「生きる力」の新規導入であり、学校と教員への評価制度です。さらに20年をさかのぼると、「ゆとり教育」と称されたように、各教科での習得すべき内容を大幅に絞り込みました。

この二つの大改革が現場にどれほどの混乱を巻き起こしたかは、記憶に新しいところです。どうしてここまで指導する内容が削減されなければならないのか、なぜ競争と評価が学校現場にあって必要なのか、現場の先生たちがどこまで理解し、納得していたか。その十全な説明が行われたのか、わたしはいまでも疑問に思っています。

改訂の時期となった1980年前後、2000年前後、それぞれどんな時代だったでしょうか。戦後の経済繁栄が70年代に「1億総中流」と呼ばれる国民の意識をつくり、その定着を見たのが80年前後です。来るべき時代に武器となるのは、知識の多寡ではなく、時代の変容に自らの手で適応していけるような、そのような力である、これまでの成長じだいとはまったくことなる学びの力だというのが、このときの改訂のメッセージがではなかったでしょうか。

00年代は日本の経済繁栄が終焉し、本格的なグローバリズムの時代に突入したことが、だれの目にも明らかとなりました。構造改革が叫ばれた時代です。ITもまた爆発的に浸透していきます。この時の改訂のメッセージは何だったでしょうか。これまでの家族主義的・共同体的な価値観を、アメリカ型の競争原理や自己責任といった「個」を単位とする価値観につくり変えること。それがこれからのグローバリズムのなかを生きていくための必須の力となる。そのようなものだったとわたしは受け止めてきました。そして今回のsociety5.0、あるいはポストコロナの時代。いかに劇的な変化を目前にしているかは、見てきたとおりです。

いずれも大きな社会の変容を目前にし、そのことへ備えようとした教育大改革であったことは間違いありません。しかしそこで行われた改革が、現場教員や研究者からどんな評価を受けてきたか。改革のたびに現場は混乱し働く環境が過酷になる、と多くが批判の中で語られてきたのが実情です。Society5.0を令和の教育大改革の提言だと受け止めれば、やはりここは立ち止まって注視したいと思うのです。

「教育改革によって、どのような問題が解決したのか。教育のどこが、どう改革されたのか。そうした政策評価のないまま、まるで熱病にとり憑かれたように、私たちは、さらなる改革を求め、推し進めてきた」と苅谷剛彦氏(『教育改革の幻想』・ちくま新書)、あるいは元中学教員の赤田圭亮氏。「子どもが育つためのゆったりとした場所と時間とリズム」。それが人が育つ場である。「教育改革が問題なのは、そうした学校に足りないものを拡充する方向ではなく、(略)学校に対して無用な容喙=カイゼンを繰り返して、「場」を壊し続けていることだ」という慨嘆が繰り返されないことを願うばかりです。
教職課程 2020年 09 月号
教職課程 2020年 09 月号

新型コロナ時代の学校教育、二つの難題について(連載22)

〝教育〟はどこに届くのか(第22回)
新型コロナ時代の学校教育、二つの難題について


いきなり大上段に構えて始めてしまいますが、教育は、身体的な交流によって支えられるところがとても大きいとわたしは考えてきました。21年間(プラス非常勤での2年間)の教師体験が特別支援学校と小学校だったから、余計そのように考えるのかもしれません。ここでの「身体的な交流」とは、文字通りの身体の接触という以上に、感情や情動の交換といったものまでふくむ交流です。一言で「エロス的交流」といってよいのですが、年齢が下がれば下がるほど(あるいは〝特別なニーズ〟がそこに加われば加わるほど)、この、エロス的交流のはたす役割は大きくなります。そして工夫が必要とされます。逆に年齢が上がるほどに、「言語交流」が重要になりますが、身体的・エロス的交流がゼロになるわけではありません。教育という営みは、エロス的な交流と言語的交流の幅のなかで、知識や技能、社会性や文化の伝達がなされていく。それが、わたしが教育というものにもつ基本的なイメージです。

つぎに、では子どもたちはどこから教育に向かおうとする力を得るのか。そう問い方を変えてみます。わたしの教育観に立てば、身体的・エロス的交流が「学びに向かう力」の最大のエネルギー源となる。そういう筋道になります。いわば、エネルギー源をフルに使いながら、エネルギー源そのものを生み出そうとしていく。教育とはそのような営みだとも言えます。

何をお伝えしたかったのか。新型コロナによる休校が終わって新学期が始まりました。学校で過ごす子どもたちのニュース映像が流れるようになり、それを見ながら、当初とても複雑な気持ちになったことによります。「三密回避」は当たり前。いや、いつの間にか絶対的に守るべく社会的ルールとして君臨し、学校でも様々な回避策がとられています。SNSや友人・知人たちからのランダムな情報によれば、それらはおおむね次のようです。

マスクは必着。場合によっては(学校によっては)シールドさえ必携。1メートル以上離れる。給食はもちろん、教室では話をしない(学校によっては、壁を向いて昼食をとるよう指導しているところもある)。接触する遊びはしない。ある学校は、子どもたちは教室にいて、教員が職員室からリモートで授業を行っているともいいます。

もう一つ、こんな話題も出てきました。半数ずつ週2回ないしは3回登校。それ以外は家庭学習。ところがこの家庭学習のあり方や課題の出し方に対し、知人たちから、厳しい注文が出されました。彼らはプロの援助職なのですが、保護者に家庭教師の役割を期待するのはそもそも無理、まだ習っていない領域の予習は子どもにとっても保護者にとっても、なおのこと難しい。オンライン学習を取り入れるようになってはいるが、家庭学習のあり方をよほど工夫しない限り学力差はますます著しくなるだろう。緊急事態宣言が経済格差に追い打ちをかけており、このことも学力格差に直結する。――これらがどの学齢でどの程度の問題となるのか、きちんとした仕分けと吟味は不十分なのですが、その点をお断りしてわたしの考えるところを述べてみようと思います。

少し書いたように、はじめ学校のニュースを見たときに強い異和感を覚えました。ここでとられている回避策は、どう考えてもこどもたちの発達にとって阻害要因です。ここまで細かくルールを取り決めなければ過ごせない学校生活そのものが、まずはストレスそのものでしょう。マスクやシールドをしなさい、離れなさい、話してはいけません、体が触れる遊びをしてはいけませんというのは、子ども同士を隔てる大きなバリアです。通常ならば積極的に奨励したいことが、少なくともわたしの教育観や子ども観では望むべき事柄が、ここでは禁止や抑制の対象になっています。こんなことを、ほんとうに子どもの学びの場でやるのだろうか。これでは社会性や情緒の育ちが阻害されてしまう。精神的に不安定な子をたくさん作ってしまいかねない。ニュース映像を目にするたびに、そんな思いを強くしていました。

ところが、少しずつ方向修正をしていくことになるのですが、まず「社会全体が感染回避を図らなければ、社会そのもの維持が不可能になっている」わけで、最初に書いたように、これが新型コロナウィルスがもたらした最大の社会的課題です。さらに難しいのは、国によって、あるいは医師によって、基本的な考え方や対応策が分かれてしまっていることです。現状は例外的な状態にあり、一過的なものである。誰にとっても初めての事態であるから、確実なノウハウは皆無。そんなななかで、学校現場は試行錯誤をつづけているわけです。まずは、どうしたら子どもたちが学校に出てくることができるか、その目的にたっての試みなのだということをひとまずは認めなくてはならないだろう。そう考えるようになったのです。

学校を一斉休校にするという措置が果たしてどこまで適切だったのかなど、これまでの取り組みの検証はどこまでなされているのか。次にこのことが気になりました。松村むつみさんという医療ジャーナリストであり、放射線科医でもあるという方の記事を紹介します。客観的で中立的な立場に立っていると判断したからですが、次のようなことが書かれていました。(‘20.6.7現代ビジネス https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73072)。

アメリカの研究では「休校単独による感染抑制効果はごくわずか」という報告が出され、イギリスでは「厳しい外出制限に効果はないが、休校と大規模集会の中止には効果がみられたという報告」があった。そう述べられていました。つまりは〝効果なし〟という共通の見解には至っていないわけですから、休校という措置を取りやめることはできないわけです。マスク着用とソーシャルディスタンスには一定の効果があるとWHOも認めているとか、他にも各国の検証データを紹介し、2波3波に対する備え、感染の予防と教育がストップすることの弊害のバランスをどうとるかなど、妥当というか、いまのところはそこに落ち着くしかないだろうなというまとめでした。

身体的交流が損なわれる、とわたしが危惧した感染回避のための措置は、どうもしばらくはやめることはできないようです。いや、それが常態化していくのではないかという危惧を覚えたのは、北九州市内の小中学校でこれまで分散登校を進めてきて、一斉登校をはじめようとしたところ、いくつかの学校でクラスターが発生した、という記事を読んだときでした(西日本新聞6月3日のウェブ版https://www.nishinippon.co.jp/item/n/613723/)。通常授業に復帰したとしても、感染拡大がいつ、どこからどう始まるか分からない。そのことをこの事実は告げています。感染予防を大前提としたあり方が学校のスタンダードになるならば、そこで教育のもつ基本的な身体的・エロス的交流をどんな形で保証することができるのか。そういう課題があるとわたしは感じます。オンライン授業が進んだからといって、一件落着ではない。

逆に、集団になじめない子や発達障害系の困難をもつ子にとっては、教育という営みが身体的・エロス的な交流であるからこそ、そこへの適応に困難を抱えてきました。これまで様々な配慮が工夫されてきたわけですが、感染回避の対応策はおそらくは彼らを直撃します。「~~をしてはいけない」「~~をしなければならない」という新たなルールは、彼らにとっては新しい難題となり、感染予防の措置が、登校を拒否する子を増やさないとも限らないわけです。学校はマスクをつけられない子の登校を、感染リスクが高いと拒むのでしょうか。

ニュース映像はこんなことを考えさせたのでした。
教職課程 2020年 08 月号 [雑誌]
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新型コロナ時代の生老病死(連載21)


〝教育〟はどこに届くのか(第21回)
新型コロナ時代の生老病死


「ゆずちゃんが まつえさんのほっぺを/ぺんぺん//まつえさんの目は開かない/でも 言葉をしぼりだす//ゆずちゃ~ん/ゆずちゃ~ん/あと たのむでぇ」

写真家・國森康弘さん。2003年に記者からフォトジャーナリストとして独立。イラク、ソマリア、カンボジアなど戦禍の地にわたり、活動を始め、以後、さまざまな「生と死」の現場をカメラに収めてきました。その國森さんより、『生老病死 そして生』(農文協)と題されたフォトエッセイ集を贈っていただいたのは、3月に入り、新型コロナウィルスの脅威が本格的に飛び火してきた頃のことでした。

各パートが「生」「老」「病」「死」「そして生」と分けられ、それぞれのテーマに沿った写真が選り抜かれています。新しいいのちの誕生と、生まれたばかりの弟を迎える子どもたち。戦禍の地をたくましく生き抜いている若い母親と、腕に抱かれた乳児。そこに付された「ここでは弱い子は生きられない」という國森さんのコメントが、胸を突きます。あるいは3.11の被災直後の現場。障害をもつ子どもと、彼の家族とクラスメートたち。インドのガンジス河ほとりの荼毘の光景。ALSを病んだ女性とその家族、そこに集い、ケアを担ってきた若い学生たち……というようにたくさんの「生と死」が、1冊の本を埋め尽くしています。

どの写真もインパクト十分で、ときに激しい衝撃を残しますが、「陰惨」とか「悲惨」という印象はありません。過剰な演出も、見る者の感情を煽ろうとするあざとさも、安手の「物語」に封じ込めようとする作為も、一切ありません。真正面から被写体に向き合っていることが分かります。撮られる側もそれに応えるように、國森さんに全身を委ねています。そして写真に添えられた國森さんの、贅を削ぎ落した文章。そのコラボによって「いのち」のなんであるかを強く訴えてくる、そのようなフォトエッセイ集です。

この間、私がひときわ心を惹かれてきたのは〝看取り〟の写真でした。自宅で、間もなく息を引き取ろうとするお年寄りたちの満ち足りた表情。いのちが尽きた直後の、家族や集まってきたご近所さんたちの、掌を合わせる姿。私はそこでの子どもたちたちの表情に、しばしば目を奪われました。冒頭の「ゆずちゃん」の文章もその一つで、カバー(書影)になっている写真に添えられたものです。「かぎりがあるから みんなでつなぐ」とサブタイトルされている通り、「いのちとはつないでいくものだ」という國森さんの強い確信(思想)を、私はどの写真からも受け取ります。

なぜ私が〝看取り〟の写真に惹かれたのでしょうか。第二次大戦以降、世界最大の危機をもたらしたと指摘される新型コロナウィルス。ネットには情報が溢れ返っていますが、身体のシステムをどう破壊するか、まだ分からないことのほうが多いと言われます。これを機会に働き方も人との関係のあり方も、暮らし方も大きく変わっていくだろうとも指摘されます。学校のあり方についても、オンライン教育を充実させるいい機会だとか、9月始業にチェンジした方がいいとか、多くの意見が出されています。あるいは在宅の期間が増えることによって、困窮を抱える家庭はますます追い詰められ、子どもたちに及ぼす影響も大きいとか、親からの暴力に苦しむ子どもたちにとって家は居場所にはならならない、と心身の安全を危惧する声も。この連載の主旨から言えば、こちらを率先して取り上げるべきだったかもしれません。

しかし私の関心は「死」のほうに集中していきました。感染者の多くは軽症だと言われながら、突然重症化し、1週間ほどで死に至るケースや、感染者の急激な増加によってもたらされた医療現場の危機的な状況がくり返し報じられました。感染者全員には十分な医療を回せない、誰の治療を優先させるか、数の足りない人工呼吸器の装着の優先順位をどうするか、医師たちが苦悩しているというショッキングな報道もありました。そのとき、「トリアージ」という言葉が、私たちにより身近なものとして降りてきたようなのです。

「いのちの選別」であれば倫理問題として、あるいは人権侵害であるとして強く非難を返すことができます。ところが救命救急の医療現場にあってなされる「トリアージ」にたいしては、それを批判することは難しくなります。現にこれまで多くの災害現場でなされてきたはずの「トリアージ」に、「それはいのちの選別ではないか」という非難が出されたという話は、私は聞いたことがありません。当然の医療判断だと見なされてきたわけです。

ところが今回のコロナウィルスは、現在の危機的な医療状況のなかでは「トリアージ」という形で私たちのいのちが選別されることがある、という現実をはっきりと示すことになりました。つまりは私自身が、いつ、いかなるかたちで「トリアージ」されるか分からない、そのような身であることを知らしめてきたわけです。医療崩壊と呼吸器問題の報道に触れながら、私はそのようにしてもたらされるかもしれない「死」を、少しずつ受け容れていきました。

微妙なところなので急いでお断りをしておきますが、一般論として、いま医療崩壊ぎりぎりにあるのだから、若い人を優先して治療するべきだ、人工呼吸器を回すべきだ、と主張しているのではありません。あくまでも個人的な問題として、03年のMERSや12年のSARSなど、これまでのパンデミックのときには考えられなかったほど自分が「死」に近づいているのを感じ、それを受け容れようとしてきたということです。

そんな心境のなかで、國森さんのフォトエッセイ集に触れてきました。だからこそ看取られるお年寄りたちと、看取る子どもたちの写真に強く惹きつけられてきたのだろうと思います。ゆずちゃんの写真の次に、間もなくいのちが尽きようとする「なみばあちゃん」と、そばにいてその姿を「目と心に焼きつけ」ようとするたいらくんの、2葉の写真があります。たいらくんは小学校2年になったとき作文を書きます。「いのちのリレーでバトンタッチしたぼくは/のびのび大きくなりたいです/いつまでもおおばあちゃんのことを/わすれないでいたいです」

「死」はいつも私たちのそばにあるのですが、普段はなかなか見えません。見ようともしません。まして子どもたちが大事な人の「いのちの終わり」を経験することは、ほとんどなくなっているでしょう。今回のコロナウィルスは、ほんとうは「死」が身近にあるのだということを如実に伝えてよこしました。この脅威のなかで、ゆずちゃんやたいらくんのように、子どもたちが「いのち」と「死」を「のびのび」と体験するにはどうしたらいいだろうか。しきりとそんなことも考えたのでした。こう書くと、学校現場から金科玉条のごとく持ち出される「いのちの大切さ」を思い出すかもしれませんが、ちょっと違います。学校では「死」を教えません。「死とはいのちをつないでいくことだ」ということを教えません。

最後に加えれば、津久井やまゆり園事件の植松聖死刑囚は、おそらく「いのち」を知らなかった。「死とはいのちをつないでいくリレーのことだ」ということも知らなかった。それが最大の不幸だったのではないか。法廷での彼の話を思い起こすにつけ、そう思われてなりません。國森さんの写真集を見ながら、そんなことも考えたのでした。
教職課程 2020年 07 月号 [雑誌]
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