(第25回)異動理由と「合理的配慮」をめぐる論理は破綻していないか


教員の実雇用率が低い理由

「障害のある先生」と打ち込んでインターネット検索をしていたら、次のような「エッセイ」を見つけました。タイトルは「障害者が教員免許を持っていないのではない――教育委員会の実雇用率が低い理由」
https://www.dpi-japan.org/friend/restrict/essay/essay0110.html
初出は「障害者欠格条項をなくす会ニュースレター52号」)。

執筆者は久米祐子さんという脳性まひのある教員の方です。執筆時期は2011年11月。以前紹介した「障教ネット」の「準備会会員」とあり、三戸学さんに尋ねると、この時期一緒に準備会の活動をしていたといいます。昭和34年生まれと記載されていますから、おそらく「障害のある先生」のなかでも草分け的な存在だろうと思います。

内容をかいつまんで紹介するならば、ご自身の生い立ちから始まり、教員をめざしたのは、母親が「教師にしたい」と考えたことが最初のきっかけだったこと。教育大学に入学するが、そこで出会った障害当事者の先輩たちがぶつかっている様々な難題と、現実の厳しさ。

そんななか、久米さんは教員免許状を取得して卒業、3回目の採用試験で晴れて合格するのですが、受験前に結婚し合格の前年に出産しています。配偶者や家族は、子どもを育てることだけでも大変なのにその上に教員など務まるわけはない、と受験そのものに大反対。しかし本人は「わたしは結婚や子どもがいるくらいでは、教師になるのを諦める理由にはならないと思っていた」とさらりと書いています。このあたりが〝草分け〟と呼ばれる人たちのすごいところです。色々と紹介したいことはあるのですが、この程度にとどめ、次が本題になります。

なぜわたし(久米さん)がこのような文章を書いているか。「障害者が教師になることへの有言無言のいやがらせ・妨害があるのを知ってもらいたかった」からだ。2007年、厚労省は、教育現場で障害者雇用の達成率があまりに低いと新聞報道されたことを受け、都道府県と政令都市の教育委員会に雇用を改善するよう勧告を出します。文科省はこのとき「雇用率が低いのは教員免許を持っている障害者が少ないためだ」と答えたと言いますが、久米さんは「これは大きな間違いである」と一刀両断します。「障害者が受験しても障害があることを理由に不合格としてきた長い歴史」を伏せ、障害者側の理由に「すり替えている」と。

この訴えがエッセイの主題です。「教員免許を持っている障害者は法定雇用率を満たす程度にはいる」のだが、「不合格として採用してこなかった事実」が「『既成事実』として定着」し、「採用試験の受験すらあきらめさせるような「親切な」助言などになって横行し、それを聞いて断念した障害者が圧倒的に多い」と、手厳しく指摘しています。たとえば、教員免許状取得の際に「健康診断書」の提出が義務付けられているが、大学の一括提出ではなく個人提出の場合、「身体的障害の有無」を目の前で医師に記入してもらわなければならない。医師はどう判断するか迷い、久米さんは、受験のたびに医師を説得しなくてはならなかったと書きます。

「これでは、説得する方法が分からない人〔障害者‐佐藤註〕は「教師になるのは無理だ」と教員免許を取得する段階で断念するケースもあるという事実も存在する」。教員免許状をもつ障害者が少ないのではなく、文科省や教育委員会が「教員免許を、障害者にとらせにくくしてきた」し、持っていても採用してこなかったのが実情である。そう主張しています。

データなどの裏が欲しいところではありますが、ともあれさもありなん、先駆者の証言としてたいへん貴重だとわたしは思います。こんな昔のことをいまさら持ち出してどうしようというのか、文科省も教育委員会も障害者の人権に配慮した取り組みを進めているさなかではないか。そのように感じるでしょうか。

これを取り上げたのは、〝草分け的存在〟の並大抵ではない努力を記憶しておきたいと考えたことが一つです。もう一つは、文字起こしされた三戸さんの「第1回口頭審理調書」を読んだことに関連します。

三戸さんの「口頭審理書」を読んで


前回は三戸さんのインタビューを踏まえ、口頭審理の様子をレポートしました。前回も、そしてそれ以前もそうだったのですが、わたしは自分の見解をさしはさむことを控えてきました。係争中だからという理由もありますが、それ以上に、わたしの不用意な発言が三戸さんに迷惑を及ぼすことを恐れていたからでした。

しかし今回は「口頭審理調書」を読んで、そこでの感想を率直に書いてみたいと、そう決めました。その引き金となったのが「口頭審理書」とともに、先ほどの久米さんのエッセイです。これから批判めいたことを書き進めていくことになりますが、個人攻撃の意図はありませんので、個人名は伏せます。もう一つ、これはあくまでもわたし(佐藤)個人の自由意思によってなされる見解です。

結論めいたことを先に述べてしまえば、秋田県教育委員会(県教委)によって異動を命じる「合理的理由」とされているものが、はたして合理的な理由となっているかどうか疑問を感じざるを得ないということです。もっと率直に言ってしまえば、それらは破綻しているとわたしには感じられます。

異動を命じる理由の一つが、次年度より校舎改修工事が始まり、三戸さんが移動手段として使用していたエレベーターがストップすること、資材などが廊下に置かれることになり安全性が危惧されること、としていました。しかし三戸さんの証言によれば、前任校の職員に尋ね、エレベーターが止まった事実はないと確認をしています。廊下に置かれた資材も隅にきちんと片付けられていて、「三戸さんが電動車いすで移動する際も困ることはないと思う」と話していたともいいます。

三戸さんは20年におよぶ電動車いすのユーザーです。初心者ならばまだしも、その扱いには熟練しているはずです。身体論などを持ち出すまでもなく、慣れ親しんだ機器は「身体」と同一化し、「身体」感覚を拡張させます。野球選手にとってのバットやグローブは、熟練すればするほど手足と同様の「感覚」をもたらすはずですし、ドライバーならば愛車が身体と一体化している感覚は理解されるはずです。もう一つ、安全性について、三戸さんはとても的確なことを述べていました。「資材があちこちに置いてあることが、あなたにとって危険な環境だと感じられますか」と、代理人の清水建夫弁護士に問われたとき、それは考えられないと言い、理由を「まずそこに生活する子どもたちがいるわけで、わたしが安全でない場所は、子どもたちにとっても安全でない場所であると認識しているので、その資材が職務上、何か不便を被るということはないはずですし、ないと考えていました」と答えていました。これ以上ない的確な正論です。

つまりは、事実が裏付けていない、三戸さんの車いす使用に関しても実状と解離している、「学校の安全性」という観点からみても合理性はない。以上の点を考えれば、改修工事が始まるために安全性へ配慮した、それが異動の理由であり「合理的配慮」である、とするロジックは成り立たっていないと思います。

教科指導と部活指導という三戸さんの自負を、なぜ損なう選択をするのか

もう一つ、近隣地域の学校における数学という担当教科のバランスを考慮した異動だとも証人(教育事務所長)は述べていました。わたしは「口頭審理調書」を読んで次の事実を初めて知ったのですが、平成29年度と30年度、前任校では2年生の数学を担当していたといいます。数学の担当は各学年1名。2年生の数学担当は三戸さんのみです。家庭に配布していた校報に「県の学習状況の調査のお知らせ」というコーナーがあり、三戸さんは2年間とも県の平均点を上回っていたと言います。教科の指導について、そこは自分にとって一般の先生たちと対等に競えるところである、だから努力するのだと繰り返していました。いわば三戸さんの自負とアイデンティティを支えている重要なポイントです。

人事は教育委員会の専権事項であり、内情などは絶対に外には出さないでしょうから、以下はわたしの推測になります。と言っても、とても単純なことです。きちんと実績を上げている数学の教科担任を(数学は受験にとって重要科目だということは認識されているはずです)、3年間の期限が来たからといって簡単に手放すということは、ちょっと考えにくいところです。しかも20年間の間、3年年ごとに異動をくり返しており、それがレアケースであることを証人は認めています。一教員の自負を損なってまで、なぜそんなことをする必要があるのか。むしろ不合理な判断です。

あまり強調すると、子どもたちに対する点数至上主義や、教員の能力主義を推奨してしまうことになりかねないのですが、きちんと結果を残している教員はできるだけ手放したくないというのは、通常働く管理者(校長)の心理ではないかと思います(わたしの場合は特別支援学校でしたが、「力のある教員をできるだけ多く集めたい、それが自分の校長としての仕事だ」という趣旨の発言を聞いたのは、非公式の場ではありましたが、一度や二度ではありませんでした。ここでは書きませんが、プライベートなことを含めてその他諸々、「なるほど。校長というのは人事についてこういう思考をするのか」と思ってきました。その経験則がここでの推測の根拠です)。

また以前報告していますが、前任校では三戸さんは卓球部の顧問としても好成績を上げ、保護者の信頼を得ていました。中学校において部活指導に実績をもつことは教員にとってのセールスポイントにこそなれ、積極的に手放さなくてはならない理由とはなりにくい。教科指導にあっても部活指導にあっても、前年度以上の結果を残せるよう条件整備、環境整備に努める、というのが管理者がする「合理的配慮」でしょう。したがってここでの異動理由も説得力を欠く、とわたしには思われます。

三つめは居住環境。三戸さんは自宅で母親との二人暮らしです。自宅はもちろんバリアフリー。母親による生活面のサポートはとても貴重です。しかも前任校は自宅から近距離にあります。清水弁護士の、「障害をもっている三戸教諭が、実家を基本として勤務環境を選択する、それを推進するのが合理的配慮ではないか」と問いかけたのに対し、「勤務される学校の距離が近いほど、それは合理的配慮の部分にあたるかとは思います」と、証人は認めています。加えて、5万5千円のタクシー使用の交通費を認めてなお、月に2万から3万の自己負担が出るが、それは個人の自己負担の額としては高額であることも証人は認めています。繰り返しますが、よりよい環境整備を進めることを「合理的配慮」とこそ言え、より負担の大きい、悪条件への選択を進めることがなぜ「合理的配慮」と言えるのか。この点でも理解に苦しむロジックになっています。見てきたように、異動の理由とされているものはどれも「合理的配慮」とするにはとても無理がある、そう受け取らざるを得ないものです。

「地域特性を配慮した」というロジックの含意するもの

もう一つ、次の事実も「口頭審理調書」を読んで初めて知りました。前任校を管轄する町の教育長が、次のような発言をしていたと言います。「この地域は学校教育に関して異常なほど敏感で、何かあるとすぐさま苦情を訴えに来るという地域性を持っている町であります。本教育委員会としては、保護者のクレームが三戸教諭に及ばないようにと、今まで多くの合理的配慮をしながら学校と連携しながら支援してきております」。したがってこの町で三戸教諭が勤務するのは適切ではない。そういう理屈です。

率直に書かせてもらいますが、これは合理的配慮に名を借りた差別発言ではないか、と指弾されても弁解のしようがない発言ではないか。そうわたしは感じました。三戸さんにクレームがくることが前提とされていますが、その理由は何でしょうか。三戸さんは、3年の間に全くクレームなどなかった、この発言の意味がよく分からないと答えていますが、「身体障害があるのだから、クレームがあって当然」ということが、この発言にはおのずと含意されているのではないか。わたしにはそう感じられます。これが理由の一つ目です。

二つ目は、かように「異常なほど敏感で、何かあるとすぐさま苦情を訴えに来る」のであれば、その対象となるのは三戸さんだけではないでしょう。学校という職場は色々な事情をもつ教員の集団です。親の介護をしながら働いている人、育児に追われながら働いている人、また心身に病気を抱えながら働いている人もいるはずです。様々な事情で有給休暇をフル活用しながら勤めている教員は少なくないはずです。休職‐復職をくり返しながら勤めている教員もおそらくはいるはずです。「異常なほど敏感」であるならば、そういう教員にも苦情は向けられるのではないでしょうか。なぜか三戸さん一人だけがここでの対象となり、異動の理由とされている。これが二つ目の理由です。

ここからは一般論ですが、久米さんのエッセイと言い、この教育長の発言をはじめとする県教委のロジックと言い、ここには共通点があります。多様な人たちを広く受け入れているようでいて、実はそこには様々なかたちでバリアをつくりあげている。そのバリアによって、教育を担う自分たちのメンバーにふさわしいかどうかを峻別している。自分たちにふさわしいメンバーは受け入れるけれども、そうではないと判断したときには、様々なバリアを駆使して、できるだけ峻拒しようとする。そういう体質を根深くもっていることを、改めて感じさせます。

2001年、大阪教育大学附属小学校に一人の男が乱入し、児童8人の命を奪い、教員を含む15人に重軽傷を負わせるという、とんでもない事件が起きました。学校の校門はその時以来頑丈に閉じられ、簡単には部外者を入れないようセキュリティ強化を努めるようになりました。しかしそれ以前の学校は、校門を常時開き、「地域に開かれた学校」というコンセプトのシンボルとなっていました。ところが、門が開いているからと言って、本当に地域住民に開いているかと言えばそうではありませんでした。「開かれた門」をくぐるためには、〝資格〟が必要だったのです。地元の自治会関係の役員、消防・警察の人たち、行政関係者、学校に出入りする業者etc。それ以外の、どこのだれかが分からないような人たちが一歩門をくぐろうものなら、教頭・教務、若手の男性教員がとんで行って、すぐに追い出しにかかりました。それが「地域に開かれた学校」の「開かれた門」の実状です。

2001年以来門は固く閉じられたので、もうこんな〝騒動〟は見られないでしょうが、学校現場というもののあり方をとてもよく示している、とわたしは強く感じてきました。久米さんが批判していたように、障害のある人たちになるべく教員免許を取らせないようにする、受験してもなるべく合格させないようにする。しかし一方では開かれた教育を自称し、宣伝文言とする。こういうダブルスタンダードは、文科省や教育委員会にあっても同様です。こうした体質は、どこまで変わったでしょうか。変わろうとしているでしょうか。

特別支援教育の名のもとで子どもたちの選別が行われている、という報告を紹介しました。ユニバーサルという考え方が学校スタンダードに見事に転用され、子どもたちや先生たちの一挙一動を縛っている、その縛りが年を追うごとに厳しくなっている、という報告もしました。合理的配慮の名のもとで、巧妙に排除を行おうとするという先ほどの例は、見事にここに連なるものでしょう。「合理的配慮」の内実は、それを受ける当事者にとって選択肢が増える、自己決定できる幅が増えるということに通じていく配慮のはずです。残念ながら、それとは逆のことが三戸さんに「合理的配慮」として伝えられています。ほかの選択肢が封じられているのです。

前回の取材の最後に、「たくさん報道で紹介されたようですが、周りの人たちから何か反応がありましたか」と尋ねると、「昨日〔8月4日〕、職場に行ったのですが、子どもたちが、先生、テレビ見たよとか、新聞読んだよ、と言ってくれました。なかに「先生のことを取り上げてくれてうれしかった」という言葉があって、わたしのほうもうれしくなりました」と答えました。自分が働きやすい状況を自分で作っていくことと、仲間の支えの大切さを強調しました。これは自分より大きな〝何か〟に立ち向かっていくときの鉄則だ、とわたしも思います。
 
9月下旬に、三戸さん側からの「最終陳述書」が提出され、年内には人事委員会の判断が示される予定だと言います。期して待ちたいと思います。
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