(第28回)「独り立ちする」ためには「独りでは立てない」

〝教育〟はどこに届くのか

巣立つことと「この時代の難しさ」

 発達心理学者・浜田寿美男さんについての2回目です。前回は、障害の引き受けとは「周囲の人間が「ともに」これをどう引き受けていくか」、ということが重要であり、合理的配慮という言葉には、「ともに」なされる障害の「引き受け」が含まれているのではないか。そう書いて締めくくりました。今回はここから始めてみます。

取り上げるテキストは『子どもが巣立つということ』(ジャパンマシニスト社・2012年)。「この時代の難しさのなかで」とサブタイトルされているように、現代に特有の難しさが背景をながれる主題となっています。本書を着地させようという終盤になって、浜田さんは「時代の難しさ」を、「この国ではあらゆるものが与えられているが、希望だけが与えられていない」という言葉に絞り込んでいます。これは小説家の村上龍氏が『希望の国のエクソダス』(文芸春秋)で、主人公の子どもに言わせている言葉です。『希望の国のエクソダス』は2000年の作品であり、それから20年、時代はさらに難しさと混迷を深めています。タイトルは「子どもの巣立ち」ですが、職業人(教員)となってからの〝独り立ち〟という問題も関連させながら、このあたりのことにも触れてみたいと思います。

 まず浜田さんはひとつの前提を置きます。それは「人間は自由ではない」ということ。自分の意志であれこれしようとしても、ままならないことはたくさんある。同じように「心も不自由なものだ」といいます。「自己決定」とか「自分のことは自分で決める」という言葉が大手を振っている昨今、奇異な感じを持たれるかもしれません。しかし例えば恋愛、友人や親子の関係のあり方、職業選択。自分ひとりの力ではいかんともしがたいことの連続です。本誌の11月号で、「教職〝お悩み相談〟32+α」という特集が組まれていましたが、先生という職業に就くことが叶ったとしても、次から次へと、うまくいかない、思い通りに進められない、ということがたくさん出てきます。だからこそ悩み事も生まれてくるわけです。

「独り立ちすること」と「独りでは立てない」こと

 次に浜田さんは「人は独りでは立てない」といいます。〝巣立ち〟という言葉には、自立とか、独り立ちといったイメージがあります。しかし自立や独り立ちは孤立することではない、新たな人間関係を作ることだ、周りに自分を支えてくれるネットワークをいかに作るか、それが独り立ちしていくときに大事なことだ、といいます。このメッセージが本書の基本主題になっています。巣立つためには、人は支え合う存在であることを知ること。「独り立ちする」ためには「独りでは立てない」ことを知ること。なんだか禅問答めいていますが、これは前号での「合理的配慮は「ともに」なされる障害の引き受けではないか」という論点に、つながっていくものです。

しかし浜田さんは、関係に支えられる重要性を言う一方で、昨今の心理学における「関係論」のブームに触れ、浜田さんは「人との関係ばかりを強調することにも、私は抵抗があります」と、釘を刺すことも忘れていません。あたり前のことですが、関係は支えや喜びになると同時に、葛藤や苦しみのもとにもなります。「ともに」なされることの難しさですね。先ほど取り上げた「教職〝お悩み相談〟」にしても、人とのかかわりに関するものがいかに多いか。サリヴァンというアメリカの精神科医に『精神医学は対人関係論である』というタイトルの本があるくらいですから、いかに人間関係が難しいか。

ここに現代社会に特有の困難が加わります。浜田さんがこの本のなかで取り上げているのは、子どもたちを取り囲む「つながってなくちゃなんない症候群」(初出はノンフィクション作家の小林道雄氏)と呼ぶ、仲間とつながることへの強迫的なあり方です。一人だけ目立ってしまうことを避けたい気持ち。排除され、いじめのターゲットとされてしまうことへの恐怖。メールやLINEはもはや子どもたちにも広く浸透していますから、この傾向はさらに深刻になっていくことが考えられます。とはいえやはり、「独り立ちする」ためには「独りでは立てない」、この重要性は変わりません。

学ぶことの「実質的な意味」と「制度的な意味」

三つ目の論点。ここは浜田さんの子ども観のとても独特なところなのですが、巣立つことができるのは成熟したからではない、人は未熟のまま巣立っていくのだという考え方です。最初にこの考え方に触れたとき、なにか意表を突かれたような感じがしました。このもうひとつのバージョンが、障害をもつ子どもたちの発達発達、といわれる昨今だが、〝発達をするため〟に生きているのではない、〝障害をもっている〟というそのままの姿で、いまある力を使って自らの生活世界を生きていくのだと、いう考えであり、それを横に置いたとき、なるほどと思ったのです。「できないからできるへ」、「未熟から成熟へ」、「障害から障害の軽減へ」というような考えに、教育や療育にある人間は、いつのまにかそのことで頭をいっぱいにしています。そうした傾向への戒め、と受け取ってきたわけです

ところが今回読み直し、ちょっと立ち止まりました。この考えは、浜田さんの子ども観や障害観にとって、じつは重要な位置にあるのではないか。そう考え始めたのです。この先になにがあるかといえば、「発達を強いる」、「できるを強いる」、「理解を強いる」、「成熟を強いる」、そういうところに入り込んでしまうあり方です。障害のある子どもたちは発達を強いられる。通常クラスの子どもたちは成績向上を強いられる。それが学校での学びになっているのではないか。そういう警鐘につながっていく。

〝学び〟とか〝育つ〟というのは、ある意味では自然で、自発的なものです。教えられることで学んでいくことはもちろん多いわけですが、生活世界がそれなりに安定したものであれば、自分で学んでいこうとする力が立ち上がってきます(「サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん」という番組がありますが、あれが典型的ですね)。そのことで身に着けていくものには、とても大事なものがある。ところが、学びを強いられるあまり、それが奪われてしまう。そのことを浜田さんは、子どもたちにとって学びが「実質的な意味」ではなく、「制度的な意味」になっているからだと言います。

たとえば先ほどのTV番組にしても、子どもたちが見せている旺盛な「学び」は、成績評価とか、受験偏差値の向上といった学びの「制度的な意味」にはほとんど直結しません。けれども親御さん(多くは母親)は、子どもが大好きそのことに理解を示し、もっと知りたい、学びたいという気持ちを大事にし、応援しています。それなりの葛藤はあっただろうとは思いますが、決して枠にはめようとしたり、もっと学校の勉強をしなさいとブレーキをかけるようなことはしていません。もちろん経済的な問題とか、お母さんに応援できる時間の余裕があるとか、いくつかの条件は必要です。子ども自身にも、何かに強い好奇心を持ち、集中し、継続して取り組むことができる、という内発的な力が必要とされるでしょう。誰にでもできることではないのですが、諸々の条件が整えば、とてつもない力を発揮することにいつも驚かされます。

ここから次のメッセージになっていくのですが、子どもにとって巣立つために重要なことは、「学ぶことの実質的な意味を知る」ことの大切さだいいます。学校で教わっていることは間違いなく重要なことだと書いた後、次のように続けます。

 「たしかに、小学校の教科書をあらためて読んでみると、なるほどこういうことは知っていなければと思う大切なことばかりです。たとえば、社会科では憲法を教えられますが、そこに書かれている基本的人権などは、それを学ぶことがそのまま子どもたちの生活のなかに浸透するとすれば、すごいことです。だからこそ先生は、大事なことだからしっかり身につけなさいというのでしょうが、ここで奇妙なことが起こります」

 どんな奇妙なことが起こるかといえば、学ぶことの意味が子どもたちの生活から離れ、試験の成績のほうに引き寄せられていく。とにかく成績の向上につながることが、子どもたちにとって学びの意味になる。そして「学校制度のはしごをより高く上っていこうとする」ことが「いまの学校教育の最大の問題」になっており、これこそが、「子どもたちの巣立ちを妨げる最大の要因になっている」のではないか。そんなふうに論理が展開されていくのです。

ひょっとしたらここが、『子どもが巣立つということ』という本の、最大の論点なのではないか。そう思い始めたわけです。重要なことは、学びの実質的な意味を失わせていることであって、そこに、学ぶことの喜びや楽しみは生じない。そんなふうに批判はつづいていきます。言葉は穏やかで淡々と論を進めていますが、とても厳しい批判です。「いまの学校教育そのものが、子どもの巣立ちを妨げる最大の要因になっている」というわけですから。

別に文部科学省の方をもつわけではないのですが、好意的に解釈すると、問題の発見・解決型学習とか、総合的な学習とか、今回の「対話的で深い学び」とかアクティブラーニングというのは、学びを子どもたちの生活に立ち返るようなものにしたい、「学びの実質的な意味」のほうにできるだけ近づけたい、いくらかは、そういう意図があったのかもしれません。しかし残念ながらうまくいかなかった。

何故うまくいかなかったかはこれで散々繰り返してきたので一言だけにとどめますが、学びを実質的な意味に近づけようとしながら、制度的な意味を強くする方向に推し進めることになった。そういうことなのだろうと思います。おそらく先生たちもまた、自分たちのおこなう授業が、子どもたちにとって生きていく力になってほしい、実質的な意味を持ってほしい、そう願っているはずです。しかしそれは難しい。その難しさは、冒頭で指摘したこの本のサブタイトル「この時代の難しさのなかで」という問題と、どうも直結している。
先ほどの「子ども博士」を見ているとよく分かるのですが、あそこでの学びは、学校での成績評価にも受験偏差値の向上にもあまり結びつかない。社会はそこに直結する学校教育をこそ歓迎する。そういう方向にどんどん進んできた。学校もそれに答えなくてはならない。増々「教育の制度的な意味」に拍車がかかる。「対話的で深い学び」や自主性を育てようとするアクティブラーニングは、そういうジレンマを抱えざるを得ない。そしてこのジレンマが深まっていくことが、「時代の難しさ」なのだろうと思います。

ここにもう一つ、昨今の厳しい就労事情と経済事情が加わり、コロナ禍がさらに追い打ちをかけています。経済のひっ迫は家庭の中からゆとりを奪います。家庭を、つまりは子どもたちの生活世界をとても不安定で、不安の多いものにします。学びをめぐる環境要因が、いつ、どんなふうにして解消されるのか、いっこうに見通せないという事情も、まさに「時代の難しさ」そのものです。

子どもたちのリアリティを手放さないこと

 ところで、ここまで紹介してきて改めて気づくことがあります。それは浜田さんの子ども観のもつ大きな特徴です。「子どもの生活世界」とか「子どもという自然」とか、「身体という場を生きる子ども」いう言い方を、好んで用います。ある本のタイトルには「子どもというリアリティ、学校というバーチャリティ」と対比的な文言が選ばれたりしているのですが、ここに浜田さんの子ども論・教育論の特徴がよく現われているように思われるのです。

どういうことかというと、生身の身体(つまりは自然の言いかえです)を持って、自身の生活世界を生きている、そうした子どもたちのリアリティ、そのことにたえず着眼している、常にそこに戻って思考を立ち上げていくという志向性を強く受け取るのです。制度的に枠づけられた言葉、概念として括られた言葉、まずはそれらを疑ってみるという姿勢です。

 少しだけ自分のことを書かせてもらいます。私は特別支援学校の教師として、20代から40代の時間を「知的障害をあわせもつ自閉症」の子どもたちと過ごしていました。最初、彼らの言動はとても不思議でした。物や事へのこだわり(いま何時かと何回も聞いてくる、同じ道でなければ通れないなど)。常同行動(手をひらひらさせる、体をゆすり続けるなど)。過敏な感覚(機械音がダメ、濡れるとすぐに脱いでしまう)。言葉のオウム返し(「どこへ行ったの」と聞くと「どこへ行ったの」と答えるなど)。ときに混乱し、パニックになります。物を壊す行為も頻発します。これはとても難題でした。

 このときまずぶつかったのが、「問題行動をなくすためにはどうするか」という発想では、とても太刀打ちできないという事でした。たとえば「こだわり行動」を例にしても、ひとつのことがなくなったとしても、すぐに次のこだわりに移っていく。モグラたたき状態が延々と続いてしまうのです。こちらがなくそうとすればするほど、子どもは緊張と不安を強くさせ、パニックになる回数が増えてしまう。悪循環に陥ってしまうのです。そこで次のように考え始めました。

どうしてだろう。どういう世界が体験されているのだろう。毎日そんなことを自分に問いかけていました。やがて、彼らが緊張と不安の強い世界を生きていることが分かってきました。そうとうストレスフルなはずですが、それを解消する手立ては多くはありません。常同行動やこだわりは、不安や緊張を和らげるための彼らなりの対応策であり、自傷他害などのいわゆる「問題行動」はSOSの発信です。そう気づいたのです。

つまり、問題行動の「問題」とは、私(教師)たちや社会の側から見たときの「問題」であり、彼らにとっては、不安や緊張、困りごとが積もりに積もった果ての表現です。うまく受け止めてもらえなかったとき、「問題行動」はエスカレートし、関係は悪化し、悪循環になっていく。そんな道筋なのではないか。大事なことは、不安と緊張をどう和らげるか。混乱や葛藤とどう折り合いをつけてもらえるか。そのためには彼らの言動を受け止めてくれる人、信頼できる人、安心できる場所、それをこちらがどう用意できるか、そこにある。そんなふうに私の考えは進んでいきました。「問題行動」という括る言葉(制度的な言葉)で見えてくるものは、もちろんあります。しかしそのとき以来、子どもたちを見るときにはいったん脇に置くことにしました。だから、子どもの生活世界とそこでのリアリティを手放さずに見ていく、という浜田さんの採っている基本的な姿勢に、身をもって賛同できるのです。

「希望」について触れる余裕はなくなりました。どうすれば希望を失わずにいられるか、私に適切な処方箋があるわけではありません。また安易に示すことは控えたほうがいいだろうとも思います。はっきりしていることは、希望がもてないとき、目標を持つことも難しいだろうということです。目標は次に進んでいくときの強い後押しとなります。先ほどの私の例でいうならば、どうやってかかわりを作っていけばよいのか少しずつ見えてきたとき、ちょっとした手ごたえが希望になり、そのことで、次にどうするかという目標も具体的になっていった。そんな経緯があります。ひょっとしたら、「制度的な言葉」で見ないというこのあたりに、希望など底の底まで払底している時代に子ども論を打ち立てて拮抗しようとする浜田さんの、ひそかな戦略が隠されているのかもしれません。

教職課程 2021年2月号 (2021年度自治体別 一般教養問題:出題傾向分析)
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