(第29回)「障害のある先生」の声をどう拾い上げていくか


 今号より、『障害教師論』(学文社・2020年7月)の著者である中村雅也さんについての報告になります。本書の「まえがき」でご自身も書いているように、「障害教師論」というのは、「障害のある先生」めぐる様々な事象を調査し、どんな現状にあるかその実態を解明することで、現在の学校や教育の問題に新たな光を当てようとする、そういう意図を持った学問領域とされています。「障害学」の一つのジャンルと見ていいと思いますが、新たな研究領域を確立させようとする、野心に満ちた取り組みだといえます。

 中村さんは研究者ですから、問われるべきはその内容です。著者がどのような生活史的背景をもつかといったことについて、必要以上に筆を走らせるのは逆に失礼ではないかという思いもあるのですが、以下の点について触れておきます。中村さんは視覚障害をもつ障害当事者であり、そして教員としての経験をへたのち、研究者としての歩みを始めています。自身の障害と教師としての体験というこの二つは、中村さんが選んだ研究テーマに深く影響を及ぼしていると考えられます。ただし、当事者であり研究者でもあるという点について、中村さんがどのような姿勢を取ろうとしているかは後ほど報告することにしましょう。

 私が事前に伝えておいた問いは次の2点でした。
このコーナーでは、車椅子の数学教師である三戸学さんを取り上げてきました。三戸さんは、通勤方法についての十分な合意が得られないままの異動命令に対し、またそこで発生する通勤費用の自己負担額の大きさに対し、いずれも不当であると秋田県教育委員会に不服審査請求を申し立ててきました。異動がどのようになされたか、三戸さんが不服とする内容はどのようなもので、何を望んでいるのか、それに対して私がどう考えるか、相当回数にわたって報告してきました。

 そこでの三戸さんの「訴え」(と佐藤のこれまでの記事)について、中村さんがどんな感想を持っておられるか、あるいは「障害のある先生」が働く現在の教育現場に対してどんな要望や考えを持っておられるか。これが1点目の問いです。2点目は、中村さんのこれまでの歩みについて。障害当事者として教員をめざしているときのご苦労、教育の現場に立ったときにどんなことを感じたかというものです。
時節柄ZOOMでも取材となり、取材日を1月4日に設定しました。三戸さんからは12月中に人事委員会による採決が示されると聞いていたのですが、どうしたことか連絡がありません。体調でも崩されたのかと心配していると、ちょうど取材の直前に電話連絡が入りました。人事委員会が示した採決は次のようなものでした。

三戸学さんの不服審査請求について
 結論は、「本件審査請求をいずれも却下する」というものです。

 裁決書は、地方公務員法や市町村立学校職員給与負担法その他、該当する法律に照らしながら、異動が不利益処分に当たるかどうかが検討され、記述されています。そのままの引用では読みにくいでしょうから、できるだけ簡潔に、要点をその趣旨を損なわないよう噛み砕いた文章にして次に示します。

 法律は、異動命令が「不利益」を伴うものでなければ、審査請求を認めていないものであること。また最高裁判例が、身分、俸給に異動を生じておらず、勤務場所や勤務内容について不利益なものでない限り、転任の取り消しを求めることを認めていないとされていること。こうしたことを照らし、今回の異動は「降任や降給を伴わない水平異動」であり、したがって審査請求の対象にはならない、とされています。これが基本の判断です。

 また三戸さんは勤務の場所や勤務内容について、いくつかの点を取り上げて訴えを示していますが、「審査請求人(三戸さん)」が求める合理的配慮への請求は、「転任処分とは直接の関連性を有しておらず、本件転任処分による不利益とはいえない」とされています。その一つ一つは示しませんが、いずれも、同様の理由が記載されています。つまりは、法律に照らせば、それはいずれも異動後に生じたものであり、審査の対象には当たらない。したがって訴えを却下する。そういう判断が示されたわけです。

 もし不服がある場合は、6か月以内に再審査請求ができると言います。しかし三戸さんは、4月より異動して3年目に入ることを考えれば、異動の取り消しを求めるという同じ請求内容で再審査を申し立てることは現実的ではないし、意味がないだろうと言います。異動について法律の観点からは「請求却下」という判断が示されたが、自分の勤務状況を考えたとき、課題は何ら解決されていない、この後どうするか、6か月という時間があるので、これから清水建夫弁護士と相談して決めていきたいということでした。

 そのうえで、積極的に何らかの発信をしていきたいが、現在の見通しとして次のようなことを考えていると言います。今後の方向がある程度見えたところで、今回の結果報告と、これからの活動について記者会見の場を設けて発信したい。

 もう一つは、現在、厚生労働省内に「障害者雇用・福祉施策の連携強化に関する検討会」が設けられているが、そこ懸案になっていることがある。それは現在の「重度訪問介護サービス」(これは専門ヘルパーが、重度の障害をもつ人たちの自宅を訪問し、食事、排泄、入浴などの生活全般にわたる支援を行うものです)が、勤務時の支援は対象外となっている、それを勤務にも使えるようなものに制度を改められないか、そういう議論が始まっている。またその対象者が「障害区分4以上」と定められており、自分(三戸さん)は「区分3」であり、やはり対象からは外れている。その点についても提言していきたいと言います。

 さらに地域格差の問題も三戸さんは指摘しました。あと数年で定年退職ということであれば別だが、自分はこれから20年以上勤務することになる。秋田市内に自宅があれば学校数も多く、設置区域も集中している。これまでのように3年で異動になったとしても、認めてもらったタクシー利用の上限55,000円の範囲内での通勤が可能になる、しかし現在の自宅からの通勤ということになれば、20年以上にわたって数万円の自費負担が生じてしまう。通勤支援にしてもタクシー代の上限額の設定にしても、現在の制度の中でどうすればよいか、教育委員会は最大限の配慮をしてくれたということは理解している、ただ自分にとっては、これをどう解決できるかという課題は依然として解消されていないと言います。

 そして三戸さんは、裁決書を読んで佐藤はどうか思ったかと尋ねました。この後の中村さんの談話の内容とも関連しますので、できるだけ簡単に述べておけば、以下の3点について伝えました。一つは、「人事異動についての不服申し立て」については、現行の法律の対象とはならないという判断であるから、「労働条件の整備についての訴え」と方向を変えていったらどうか(ただしどこにどう訴えるのがより効果的かは、清水弁護士と相談してほしい)。もう一つは、今回、タクシー利用に対する交通費の支給は、現在の法律の範囲内で認めてもらえたのだから、同様に、他の内容についても解釈と運用のし直しをする余地はあるかもしれない。その検討を重ねていくこと。3つ目は、現行の法や制度が実状に追い付いていないのであるから、先ほどの重度訪問介護事業のように法や制度を改正していく、場合によっては新たな仕組み作っていく、そうした提言ももっとなされてよいのではないか。おおむね、このようなことを伝えました。

研究者としての立場、障害当事者としての感想、
 三戸さんの報告が長くなりましたが、中村さんは次のように述べました。
 
 冒頭、障害当事者の感想ではなく、研究者としての意見を述べたい。当事者としてということであれば現在頑張って勤めている方たちがおられるし、彼らのほうが適任だろうと思う。自分(中村さん)は障害のある教員について研究をしてきた者であり、最も適任者だろうと自負もしている。当事者としての感想ではなく、これまでの研究を踏まえての客観的発言だと受け止めてほしい。そう言ってから話し始めました。
 
 そして私の二つ目の質問については、次のような留保を述べました。自分の研究は、障害のある教師として勤務してきた中での様々な思いをバックグラウンドとしたものであることは間違いない。しかし研究を続けていく中で大きな課題になったことは、当事者性と、研究者としての客観性が混同されて受け取られてしまうことだ、とそう言います。

「ぼく自身は、はっきりと切り分けているつもりですが、研究として提出している論文を、当事者としての個人的な感情に基づいたもののように取られることが、しばしばあるのです。今回の取材においても、ぼくが何らかの発言をし、それを佐藤さんがまとめ、そして公表するわけですが、二つの内容が併記されてしまうことで、同じように混同されてしまうのではないかという危惧を持っています。三戸さんの問題についてぼくがどう受け止めてきたかといえば、研究者としての捉え方と、当事者としての捉え方はやはり違うのです。先ほど言ったように、三戸さんの問題については、研究者の立場からの発言だと受け取っていただきたいと思います」

 よく納得できる話でした。以後、中村さんが伝えた趣旨を踏まえて記述していきますが、もし誤解が生じるような場合、文責はもちろん佐藤です。この点を明確にして進めていきたいと思います。

三戸さんが提示した「新たな問題のかたち」
 中村さんは、まず、三戸さんの問題は大きく二つの側面があると言います。一つは通勤手段が確保されていないなかで転勤が行われたこと。その交渉の中で、もう一つの問題として通勤費の問題が出てきたこと。この二つは分けて考えたほうがいいといいます。
 
「この問題は、従来の教員採用試験の募集要項のなかに、自力通勤できることと介助者なしで勤務が遂行できること、という二つが受験資格として書かれてきたのですが、やっと昨年度、募集要項の中から削除されました。そのことに端を発しています」
この改正は、文科省がこの条項への見直しを通達し、それを受けてのことだったといいます。「障害者欠格条項」と呼ばれるもの、あるいはそれに通じるものがあることは私も理解していましたが、その文言が削除されたということは、うかつにも初めて知りました。さらに中村さんは続けます。

 「「自力通勤ができる」ということ自体、定義がはっきりしていなかったと思うのですが、採用者のなかに、自力通勤できない人がいたときにどうしようかということが、教育委員会にあってしっかりと考えられていなかった。「自力通勤ができること」と抽象的に書かれていたものを外したとき、どういう事態が起きてくるか。それが三戸さんのケースによってはじめて具体的なかたちで浮き彫りになったわけです。しかも個人の問題としてではなく、障害のある教師一般に通じる問題として提起してくれたのが、今回の三戸さんのケースです。ぼくはそう理解しています」

 中村さんは、教育委員会の見解や今回の人事委員会の裁定にたいし、個人的には色々な感想をもっているが、判断材料がないので研究者としての言及は控えたいと言い、そして続けました。「一つだけ付け加えるならば、教育委員会の理念が現実に追い付いていなかった、そういう現状があったと思います。その点に関しては教育員会に批判的です」

 私は、同様の問題が他の都道府県でも現われてきても不思議ではない、あるいは異動や通勤という同じテーマでありながら、また異なる問題の形で具体化してくるということも考えられるのではないか。そのように考えています。「全国の教育委員会に共通する問題と受け止めていですね」。私はそう尋ねてみました。

 「そういうことだと思います。ただ、市街と地方では具体的な状況が違うし、秋田と東京では違いますね。今回の秋田の問題が全国の問題に直結するかどうかは分からないのですが、少なくとも障害のある先生の具体的な課題が上がっていて、それについての議論がなされているという事実は、ほかの都道府県からは表面化していません。でも潜在的には必ずあると思います」

 異動の問題や通勤の問題で改善を求め、声を上げている「障害のある先生」は、三戸さん以外、いまのところいないようです。しかし潜在的にはいるはずですし、そうした声をどうやって拾い上げていくか。それもまたこれからの重要な課題ではないか。私のそうした問いに、中村さんは次のように答えました。

「長年にわたり、視覚障害、および肢体障害の教師にとって、通勤問題は深刻で困難な課題でした。訴えたり、交渉したり、妥協したり、あきらめたりしてきたわけですが、佐藤さんがご指摘のとおり、すくいあげられず、不可視化されてきたのです。自己負担でタクシー通勤していた先生もいますし、家族などの送迎でしのいでいた先生も多くいます。

 三戸さんのタクシー通勤というのは、初めて現れたモデルだと思うのですね。この点に関しての秋田県教育委員会の判断は、多くの人が評価していると思うのです。今までは、よその都道府県でもタクシー通勤に通勤費は出せないと考えていたと思うのですが、秋田の判断が一つのモデルとなって、こういうことができるということが示されたわけです。これがすべての解決策ではないにしても、こうして一つのケースが現れると、それがきっかけとなって全国的に影響を与えていく、そういうことは起こりうるだろうと思います」

 ただしここでもう一つ、難しい問題があります。三戸さんも述べていたように、地域間の格差の問題です。秋田県にあっても秋田市内と周辺の地域では違うし、東京と秋田では大きく事情が異なります。この問題をどう考えるか。

 「間違いなく、分厚い人材の層があるところと薄いところ、場合によっては全くなかったりするところもあります。これは学校の教員の問題だけではありません。端的に表れるのは障害者の自立生活ができるかできないか、高齢になっても一人で生活できるかどうか、地域のサービスの厚さがどれくらいかによって、大きく変わってきます」

 地域格差に対して制度がどこまで補うことができるか、なかなか難しい問題です。中村さんは「障害者運動では、資源がなければそれを要請するという運動をするわけです」と言い、次のような試案を示しました。「資源がなければそれを作っていくという運動ですが、ひょっとしたら企業が少ない地方のほうが、働き手の潜在的なパワーはあるかもしれないですね。そうした人材をうまく取取り込みながら、さまざまな支援を社会資源として事業化していく。もちろんそのとき十分な給料がもらえて、充実した仕事につながることが前提です。安い給料で障害者の面倒を観させるという発想ではだめですよね」

 この問題は、三戸さんの問題から何を一般化できるか、という私の次の問いと、それにたいする中村さんの答えにつながっていきます。『障害教師論』に「障害者労働の業務支援理論」としてまとめられたテーマであり、次回は、この点を中心として報告していきます。

教職課程 2021年3月号 (2021年度自治体別 小学校全科:出題傾向分析)
教職課程 2021年3月号 (2021年度自治体別 小学校全科:出題傾向分析)

(第28回)「独り立ちする」ためには「独りでは立てない」

〝教育〟はどこに届くのか

巣立つことと「この時代の難しさ」

 発達心理学者・浜田寿美男さんについての2回目です。前回は、障害の引き受けとは「周囲の人間が「ともに」これをどう引き受けていくか」、ということが重要であり、合理的配慮という言葉には、「ともに」なされる障害の「引き受け」が含まれているのではないか。そう書いて締めくくりました。今回はここから始めてみます。

取り上げるテキストは『子どもが巣立つということ』(ジャパンマシニスト社・2012年)。「この時代の難しさのなかで」とサブタイトルされているように、現代に特有の難しさが背景をながれる主題となっています。本書を着地させようという終盤になって、浜田さんは「時代の難しさ」を、「この国ではあらゆるものが与えられているが、希望だけが与えられていない」という言葉に絞り込んでいます。これは小説家の村上龍氏が『希望の国のエクソダス』(文芸春秋)で、主人公の子どもに言わせている言葉です。『希望の国のエクソダス』は2000年の作品であり、それから20年、時代はさらに難しさと混迷を深めています。タイトルは「子どもの巣立ち」ですが、職業人(教員)となってからの〝独り立ち〟という問題も関連させながら、このあたりのことにも触れてみたいと思います。

 まず浜田さんはひとつの前提を置きます。それは「人間は自由ではない」ということ。自分の意志であれこれしようとしても、ままならないことはたくさんある。同じように「心も不自由なものだ」といいます。「自己決定」とか「自分のことは自分で決める」という言葉が大手を振っている昨今、奇異な感じを持たれるかもしれません。しかし例えば恋愛、友人や親子の関係のあり方、職業選択。自分ひとりの力ではいかんともしがたいことの連続です。本誌の11月号で、「教職〝お悩み相談〟32+α」という特集が組まれていましたが、先生という職業に就くことが叶ったとしても、次から次へと、うまくいかない、思い通りに進められない、ということがたくさん出てきます。だからこそ悩み事も生まれてくるわけです。

「独り立ちすること」と「独りでは立てない」こと

 次に浜田さんは「人は独りでは立てない」といいます。〝巣立ち〟という言葉には、自立とか、独り立ちといったイメージがあります。しかし自立や独り立ちは孤立することではない、新たな人間関係を作ることだ、周りに自分を支えてくれるネットワークをいかに作るか、それが独り立ちしていくときに大事なことだ、といいます。このメッセージが本書の基本主題になっています。巣立つためには、人は支え合う存在であることを知ること。「独り立ちする」ためには「独りでは立てない」ことを知ること。なんだか禅問答めいていますが、これは前号での「合理的配慮は「ともに」なされる障害の引き受けではないか」という論点に、つながっていくものです。

しかし浜田さんは、関係に支えられる重要性を言う一方で、昨今の心理学における「関係論」のブームに触れ、浜田さんは「人との関係ばかりを強調することにも、私は抵抗があります」と、釘を刺すことも忘れていません。あたり前のことですが、関係は支えや喜びになると同時に、葛藤や苦しみのもとにもなります。「ともに」なされることの難しさですね。先ほど取り上げた「教職〝お悩み相談〟」にしても、人とのかかわりに関するものがいかに多いか。サリヴァンというアメリカの精神科医に『精神医学は対人関係論である』というタイトルの本があるくらいですから、いかに人間関係が難しいか。

ここに現代社会に特有の困難が加わります。浜田さんがこの本のなかで取り上げているのは、子どもたちを取り囲む「つながってなくちゃなんない症候群」(初出はノンフィクション作家の小林道雄氏)と呼ぶ、仲間とつながることへの強迫的なあり方です。一人だけ目立ってしまうことを避けたい気持ち。排除され、いじめのターゲットとされてしまうことへの恐怖。メールやLINEはもはや子どもたちにも広く浸透していますから、この傾向はさらに深刻になっていくことが考えられます。とはいえやはり、「独り立ちする」ためには「独りでは立てない」、この重要性は変わりません。

学ぶことの「実質的な意味」と「制度的な意味」

三つ目の論点。ここは浜田さんの子ども観のとても独特なところなのですが、巣立つことができるのは成熟したからではない、人は未熟のまま巣立っていくのだという考え方です。最初にこの考え方に触れたとき、なにか意表を突かれたような感じがしました。このもうひとつのバージョンが、障害をもつ子どもたちの発達発達、といわれる昨今だが、〝発達をするため〟に生きているのではない、〝障害をもっている〟というそのままの姿で、いまある力を使って自らの生活世界を生きていくのだと、いう考えであり、それを横に置いたとき、なるほどと思ったのです。「できないからできるへ」、「未熟から成熟へ」、「障害から障害の軽減へ」というような考えに、教育や療育にある人間は、いつのまにかそのことで頭をいっぱいにしています。そうした傾向への戒め、と受け取ってきたわけです

ところが今回読み直し、ちょっと立ち止まりました。この考えは、浜田さんの子ども観や障害観にとって、じつは重要な位置にあるのではないか。そう考え始めたのです。この先になにがあるかといえば、「発達を強いる」、「できるを強いる」、「理解を強いる」、「成熟を強いる」、そういうところに入り込んでしまうあり方です。障害のある子どもたちは発達を強いられる。通常クラスの子どもたちは成績向上を強いられる。それが学校での学びになっているのではないか。そういう警鐘につながっていく。

〝学び〟とか〝育つ〟というのは、ある意味では自然で、自発的なものです。教えられることで学んでいくことはもちろん多いわけですが、生活世界がそれなりに安定したものであれば、自分で学んでいこうとする力が立ち上がってきます(「サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん」という番組がありますが、あれが典型的ですね)。そのことで身に着けていくものには、とても大事なものがある。ところが、学びを強いられるあまり、それが奪われてしまう。そのことを浜田さんは、子どもたちにとって学びが「実質的な意味」ではなく、「制度的な意味」になっているからだと言います。

たとえば先ほどのTV番組にしても、子どもたちが見せている旺盛な「学び」は、成績評価とか、受験偏差値の向上といった学びの「制度的な意味」にはほとんど直結しません。けれども親御さん(多くは母親)は、子どもが大好きそのことに理解を示し、もっと知りたい、学びたいという気持ちを大事にし、応援しています。それなりの葛藤はあっただろうとは思いますが、決して枠にはめようとしたり、もっと学校の勉強をしなさいとブレーキをかけるようなことはしていません。もちろん経済的な問題とか、お母さんに応援できる時間の余裕があるとか、いくつかの条件は必要です。子ども自身にも、何かに強い好奇心を持ち、集中し、継続して取り組むことができる、という内発的な力が必要とされるでしょう。誰にでもできることではないのですが、諸々の条件が整えば、とてつもない力を発揮することにいつも驚かされます。

ここから次のメッセージになっていくのですが、子どもにとって巣立つために重要なことは、「学ぶことの実質的な意味を知る」ことの大切さだいいます。学校で教わっていることは間違いなく重要なことだと書いた後、次のように続けます。

 「たしかに、小学校の教科書をあらためて読んでみると、なるほどこういうことは知っていなければと思う大切なことばかりです。たとえば、社会科では憲法を教えられますが、そこに書かれている基本的人権などは、それを学ぶことがそのまま子どもたちの生活のなかに浸透するとすれば、すごいことです。だからこそ先生は、大事なことだからしっかり身につけなさいというのでしょうが、ここで奇妙なことが起こります」

 どんな奇妙なことが起こるかといえば、学ぶことの意味が子どもたちの生活から離れ、試験の成績のほうに引き寄せられていく。とにかく成績の向上につながることが、子どもたちにとって学びの意味になる。そして「学校制度のはしごをより高く上っていこうとする」ことが「いまの学校教育の最大の問題」になっており、これこそが、「子どもたちの巣立ちを妨げる最大の要因になっている」のではないか。そんなふうに論理が展開されていくのです。

ひょっとしたらここが、『子どもが巣立つということ』という本の、最大の論点なのではないか。そう思い始めたわけです。重要なことは、学びの実質的な意味を失わせていることであって、そこに、学ぶことの喜びや楽しみは生じない。そんなふうに批判はつづいていきます。言葉は穏やかで淡々と論を進めていますが、とても厳しい批判です。「いまの学校教育そのものが、子どもの巣立ちを妨げる最大の要因になっている」というわけですから。

別に文部科学省の方をもつわけではないのですが、好意的に解釈すると、問題の発見・解決型学習とか、総合的な学習とか、今回の「対話的で深い学び」とかアクティブラーニングというのは、学びを子どもたちの生活に立ち返るようなものにしたい、「学びの実質的な意味」のほうにできるだけ近づけたい、いくらかは、そういう意図があったのかもしれません。しかし残念ながらうまくいかなかった。

何故うまくいかなかったかはこれで散々繰り返してきたので一言だけにとどめますが、学びを実質的な意味に近づけようとしながら、制度的な意味を強くする方向に推し進めることになった。そういうことなのだろうと思います。おそらく先生たちもまた、自分たちのおこなう授業が、子どもたちにとって生きていく力になってほしい、実質的な意味を持ってほしい、そう願っているはずです。しかしそれは難しい。その難しさは、冒頭で指摘したこの本のサブタイトル「この時代の難しさのなかで」という問題と、どうも直結している。
先ほどの「子ども博士」を見ているとよく分かるのですが、あそこでの学びは、学校での成績評価にも受験偏差値の向上にもあまり結びつかない。社会はそこに直結する学校教育をこそ歓迎する。そういう方向にどんどん進んできた。学校もそれに答えなくてはならない。増々「教育の制度的な意味」に拍車がかかる。「対話的で深い学び」や自主性を育てようとするアクティブラーニングは、そういうジレンマを抱えざるを得ない。そしてこのジレンマが深まっていくことが、「時代の難しさ」なのだろうと思います。

ここにもう一つ、昨今の厳しい就労事情と経済事情が加わり、コロナ禍がさらに追い打ちをかけています。経済のひっ迫は家庭の中からゆとりを奪います。家庭を、つまりは子どもたちの生活世界をとても不安定で、不安の多いものにします。学びをめぐる環境要因が、いつ、どんなふうにして解消されるのか、いっこうに見通せないという事情も、まさに「時代の難しさ」そのものです。

子どもたちのリアリティを手放さないこと

 ところで、ここまで紹介してきて改めて気づくことがあります。それは浜田さんの子ども観のもつ大きな特徴です。「子どもの生活世界」とか「子どもという自然」とか、「身体という場を生きる子ども」いう言い方を、好んで用います。ある本のタイトルには「子どもというリアリティ、学校というバーチャリティ」と対比的な文言が選ばれたりしているのですが、ここに浜田さんの子ども論・教育論の特徴がよく現われているように思われるのです。

どういうことかというと、生身の身体(つまりは自然の言いかえです)を持って、自身の生活世界を生きている、そうした子どもたちのリアリティ、そのことにたえず着眼している、常にそこに戻って思考を立ち上げていくという志向性を強く受け取るのです。制度的に枠づけられた言葉、概念として括られた言葉、まずはそれらを疑ってみるという姿勢です。

 少しだけ自分のことを書かせてもらいます。私は特別支援学校の教師として、20代から40代の時間を「知的障害をあわせもつ自閉症」の子どもたちと過ごしていました。最初、彼らの言動はとても不思議でした。物や事へのこだわり(いま何時かと何回も聞いてくる、同じ道でなければ通れないなど)。常同行動(手をひらひらさせる、体をゆすり続けるなど)。過敏な感覚(機械音がダメ、濡れるとすぐに脱いでしまう)。言葉のオウム返し(「どこへ行ったの」と聞くと「どこへ行ったの」と答えるなど)。ときに混乱し、パニックになります。物を壊す行為も頻発します。これはとても難題でした。

 このときまずぶつかったのが、「問題行動をなくすためにはどうするか」という発想では、とても太刀打ちできないという事でした。たとえば「こだわり行動」を例にしても、ひとつのことがなくなったとしても、すぐに次のこだわりに移っていく。モグラたたき状態が延々と続いてしまうのです。こちらがなくそうとすればするほど、子どもは緊張と不安を強くさせ、パニックになる回数が増えてしまう。悪循環に陥ってしまうのです。そこで次のように考え始めました。

どうしてだろう。どういう世界が体験されているのだろう。毎日そんなことを自分に問いかけていました。やがて、彼らが緊張と不安の強い世界を生きていることが分かってきました。そうとうストレスフルなはずですが、それを解消する手立ては多くはありません。常同行動やこだわりは、不安や緊張を和らげるための彼らなりの対応策であり、自傷他害などのいわゆる「問題行動」はSOSの発信です。そう気づいたのです。

つまり、問題行動の「問題」とは、私(教師)たちや社会の側から見たときの「問題」であり、彼らにとっては、不安や緊張、困りごとが積もりに積もった果ての表現です。うまく受け止めてもらえなかったとき、「問題行動」はエスカレートし、関係は悪化し、悪循環になっていく。そんな道筋なのではないか。大事なことは、不安と緊張をどう和らげるか。混乱や葛藤とどう折り合いをつけてもらえるか。そのためには彼らの言動を受け止めてくれる人、信頼できる人、安心できる場所、それをこちらがどう用意できるか、そこにある。そんなふうに私の考えは進んでいきました。「問題行動」という括る言葉(制度的な言葉)で見えてくるものは、もちろんあります。しかしそのとき以来、子どもたちを見るときにはいったん脇に置くことにしました。だから、子どもの生活世界とそこでのリアリティを手放さずに見ていく、という浜田さんの採っている基本的な姿勢に、身をもって賛同できるのです。

「希望」について触れる余裕はなくなりました。どうすれば希望を失わずにいられるか、私に適切な処方箋があるわけではありません。また安易に示すことは控えたほうがいいだろうとも思います。はっきりしていることは、希望がもてないとき、目標を持つことも難しいだろうということです。目標は次に進んでいくときの強い後押しとなります。先ほどの私の例でいうならば、どうやってかかわりを作っていけばよいのか少しずつ見えてきたとき、ちょっとした手ごたえが希望になり、そのことで、次にどうするかという目標も具体的になっていった。そんな経緯があります。ひょっとしたら、「制度的な言葉」で見ないというこのあたりに、希望など底の底まで払底している時代に子ども論を打ち立てて拮抗しようとする浜田さんの、ひそかな戦略が隠されているのかもしれません。

教職課程 2021年2月号 (2021年度自治体別 一般教養問題:出題傾向分析)
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