(第30回)少しずつ始まっている「障害のある先生」への働き方支援



取り組みの始まった教育委員会と国立教員養成大学

 SNSをのぞいていると、2月4日の読売新聞オンラインに次のような記事がありました。障害をもつ教員志望の大学生、大学院生を支援するために、奈良県教育委員会が「全国障害学生支援ならネット」を立ち上げ、参加者を募集している。学生同士や、障害のある教員とオンライン上で交流できる他に、奈良県内であれば希望者の教育実習も受け入れる。対象は全国の学生。こんな内容でした。奈良県教委の障害者雇用の法定雇用率のアップと、教員を希望する障害のある学生への支援との、両方をめざしたものと説明されています。

 なかなかのアイデアです。奈良県内で受験する場合、一次試験の一般教養と面接を免除するという特典までついています。これは魅力的です。他県の教育委員会にも普及していけばいいなあ、と感じさせる好企画です。特典をどうするかは議論が百出しそうですが。

 また文部科学省のホームページには、「教育委員会における障害者雇用に関する実態調査」の結果が公開されており、次のようなケースが報告されています。

「川崎市:聴覚障害のある教員の情報保障のため、手話通訳者を配置(市単独事業・令和元年度より実施)」「宮城県:県立学校等に障害のある教務・業務補助員を配置し、教職員の業務を軽減(県単独事業)」「熊本市:教育委員会事務局に執務室を設置し、各学校へローテーションで派遣」「静岡県:視覚障害のある教員には、パソコンの読み上げソフトを活用し、職員会議の資料などをテキストファイル化してデータの提供を行っている」

「(島根大学)障がい学生支援室を窓口として、障害のある高校生や特別支援学校生徒の大学見学・体験入学の受け入れ、教員(担任や進路担当教員等)からの質問や事前相談、見学等に対応している」「(滋賀大学)教育学部では独自に、障害のある学生の入学が決定した時点で、個別支援チームを立ち上げ、入学前の3月に高等学校教諭、本人、保護者を含めて打ち合わせを行い、①当面のスケジュール、②修学支援の実情等の共有等を行っている」

 こうした支援体制が、より多くの教育委員会や教員養成大学で充実したものになっていけば、障害のある先生が増えていくための確実な後押しになるだろうと思います。

三戸学さんの問題をどう一般化していくか

 さて前号では、『障害教師論』の著者で研究者の中村雅也さんにご登場いただき、三戸学さんが提示した問題への感想をお聞きしました。三戸学さんは車椅子の中学教師です。秋田県教育委員会の異動命令の是非をめぐる問題、タクシー通勤の自己負担分をめぐる問題、この二点を中心に、秋田県人事委員会に対し異動の無効を申し立てていましたが、いずれも訴えは棄却。その点についての感想を伺ったのでした。

 中村さんは、おおむね次のようなことを述べました。これまで教員採用試験の受験資格として、「自力通勤ができる」という項目があったが、それが撤廃されたことで新たにクローズアップされた問題であること。県教委が示した「タクシー通勤を認め、上限55,000円までの交通費を県が負担する」という決定が、これから全国的にどんな影響を与えていくか、その点が大変注目されるところだ、こんな内容でした。

 ちなみに先に紹介した文科省の実態調査の、職場でなされている「合理的配慮」の具体例には、三戸さんが希望する「修学旅行の引率」や「学級担任」の紹介はありますが、通勤をめぐる記載はありません。通勤に関して中村さんは、かねてから障害のある先生を悩ませてきた問題であり、表面化はしていないだけで全国的に共通する問題ではないか、という見解でした。

 一通り感想をお聞きした後、私は「三戸さんの問題から、「障害のある先生」全体に通じる一般的な問題として、どんなことが取り出せるだろうか」と問いかけました。中村さんは、『障害教師論』のなかに「障害者労働の業務支援理論」というテーマで一章を割いている、これは障害者の労働をどう支援したらいいかというモデルの提案であるとし、次のように話し始めました。

「障害のある教員に人的支援をつけるとき、同僚の教師がサポートしているケースが多いですね。たとえばTT(ティームティーチング)という形で、数学だったら同じ数学の先生が授業のサポートに入る、非常勤の先生を入れて、採点のお手伝いをしてもらう、そういう形です。三戸先生にも一時、人的サポートがついていたことがありますが、これにはいい面があります。数学であれば、数学の専門性のある先生にサポートしてもらったほうが、数学の力があるし、採点の要領も分かっているので都合がいいわけです。しかしその一方で障害のある教員の支援は、教科指導だけにはとどまらないものがありますね」

 それが、今回の三戸さんのケースで典型的に現れた問題だと言います。

「三戸さんの場合は通勤支援がそうだったわけですし、洋服を着るときにもサポートを必要とします。そういう生活のサポートは同僚の教員でなくともいいわけですが、しかしここにはまた、別の専門性を要します」

 三戸さんが明らかにした「通勤支援」という問題は、福祉用語に置き換えると「移動支援」という問題になると指摘し、そして続けます。

「「移動支援」を専門性のない、例えば教頭がやってしまうと、車に移乗させるときどういうふうに乗せれば快適かは分からない、乗せ方によっては三戸さんが怖い思いをする、そうしたことは分からないわけです。身体に不自由のある方の介助はそれなりに慣れていないとできないですね。車椅子の操作にしても、本当は怖いけれど我慢している、本心では専門性のある支援者にやってもらいたい。そういうことをふくめ、支援には様々なものがあり、適格性のある人は限られています」

 中村さんはさらに、次のように述べました。たとえば視覚障害のある数学教員への支援。同僚の数学教員でもテストの採点はできる、しかし点訳の教科書を作ってくれと言っても、それはできない。聴覚障害のある数学教員への支援も、生徒たちの発言を手話で通訳してくれる同僚は、ごく少数ならばいるかもしれないが、では数学という教科の専門的なサポートをしてもらえるかというと、そこはうまくいかないことはありうる、そう言います。

障害支援要件と職業要件

 「ぼくは四つに類型化したのですが、障害のある教師を支援するためには二つの要件がいるのです。一つは教師であることとか、数学の教師であるというような意味での、職業に関する専門性についての要件。これを「職業要件」と言います。

 もう一つは、車いす使用の教員だったら、車いす使用についての専門性。全盲の教員であれば、移動のサポートをしたり点字の教科書をつくったりする、盲という障害についての専門性。聴覚障害の人であれば、手話をしたり、パソコンの要約筆記ができるような専門性です。これを「障害支援要件」とぼくは名付けています」

と障害支援要件の二つを必要とし、

・職業支援要件を満たす人による支援
・障害支援要件を満たす人による支援
・両方を兼ねそなえている人による支援
・特別な要件を必要としない一般の人的支援で充分な支援

 この四つの類型に分類できると言います。
 
「教科の専門性のある人には採点、板書、指導補助、そういうサポートを任せればいい。教科の専門性がなくても、車椅子を押したり、視覚障害の人の移動支援については、ガイドヘルパーのような専門性のある人がいるわけですから、その人に任せればいい。洋服を着る手伝い、給食を運ぶ、といった特に専門性を必要としない支援もあるわけですが、でも、それがなければ障害者は生活ができないですから、これはこれで必要な支援です」

 障害のある先生の支援を、これまでのようにすべて同僚教員に担ってもらう、学校の中だけで完結させてしまうという発想は、これからは改めていったほうがいい。それが中村さんの主張するところでした。

 「三戸さんの場合でも、教科の支援は同僚にやってもらうにしても、通勤は福祉タクシーという移動支援の専門性の人がいるわけだから、その人にやってもらう。必要な福祉タクシーは教育委員会が準備する。社会には障害を支援する資源がたくさんあるわけですから、そういう資源をフル活用して障害のある先生を支援する。必要なものには教育委員会がお金を出して用意する。そういうことが必要性があるということを、「障害者労働の業務支援理論」で書いています」

 ただしこの問題にも、分厚い人材の層がある地域と、薄いところ、場合によっては全くなかったりする地域があります。地域差の問題です。この点については次のように述べました。

「これは学校の教員の問題だけではなく、もっと端的に表れているのは、障害者の自立生活ができるかできないか、高齢になっても一人で生活できるかどうか、そういう問題です。それは地域の社会資源の厚さがどれくらいかによって変わってきます。教育委員会がお金を出すと言っても、使える内容は大きく違ってしまうという課題は残りますね。

 障害者運動では、資源がなければ要請する、資源をつくっていくという運動をするわけです。ひょっとしたら社会資源が少ない地方のほうが、働き手は余っているかもしれません。その潜在的なパワーをうまく取り込んでいく。もちろんそのとき、搾取するのではなく、十分な給料がもらえて、充実した仕事につながるということが前提です。安い給料で障害者の面倒をみてもらうといった、ときにありがちな発想は論外です」

 これが中村さんによる、障害のある教師の「業務支援理論」の基本的な考え方でした。

障害のある先生を「感動の物語」にしないために

 それから中村さんは「三戸さんのおっしゃっていることや佐藤さんの書かれていることを読んで、一番言いたいことを話してもいいですか」と前置きをして、次のようなことを話し始めました。少しばかり微妙な話題になります。
 
「障害のある教師の問題で一番混同させてはいけない、とぼくが感じていることは、障害のある教師の教育的効果という問題と、障害のある教師を支援しなければいけないという問題とを、同じ次元で語ってはいけないということなのです。

 たとえば三戸さんは、自分が障害のある教師であることで、がんばっている姿を生徒たちに見せる、卓球に打ち込んでいる姿を見せることで、生徒たちにいい影響を与えているという主張をしますね。たしかに障害のある先生の強みはたくさんあって、現場に入ることで素晴らしい教育効果があることは確かなんです」

 以前も紹介していますが、文部科学省の「障害者雇用推進プラン」のなかでも次のように謳われています。

「児童生徒等にとって、障害のある教師等が身近にいることは、
①障害のある人に対する知識が深まる
②障害のある児童生徒等にとってのロールモデルとなる などの教育的効果が期待されるところである。さらに、新しい学習指導要領において対話的な学びの実現が求められる中、 障害のある教師等との対話は、児童生徒等にとって、共生社会に関する自己の 考えを広げ深める重要な教育資源となることも期待される」

 この点につながる問題提起だと、私は受け止めました。中村さんは続けます。

 「障害のある先生が学校にいることで、こんなにいいことがある。だから学校で採用しなければいけない、支援しなければいけないと結びつけてしまうのは、趣旨が違っていると思うのです。たとえば数学の教師としての実力をつけたい、それが教師としての自分の目標である、と考える障害のある先生がいたとします。その先生に対して周りから、「君は障害者なんだから、障害のある教師としての特性を生かし、子どもたちの「心の教育」をしなければいけない、というような役割分担を押し付けられるとしたら、これはおかしいわけです。

 あるいは車椅子の先生が管理職に、「三戸先生は車椅子で卓球部の指導をし、あれほど教育的効果を上げている、君もなぜそうしないのか、それをしないのはだめではないか」、と言われてしまう可能性もあるわけです。つまり、障害があることで素晴らしい教育的効果を発揮する、だから採用し、支援する。そういう考え方は筋違いだということですね」

 中村さんはもう少し踏み込んで、次のようにも言いました。

「障害者であることで、その効果を発揮しなさいと求められることは、障害があることによる見返りを求められていることですね。見返りというお土産を持ってくれば、できないところは大目に見てやろう、役割を与えてやろう。そういう発想が潜んでいると思うのです。つまり障害者はできない存在、劣った存在として見られている。そういう障害者差別の発想が潜んでいると思うのです」

 この話から私が連想したことは、少し前にNHKEテレの『バリバラ』で、障害者による感動物語を取り上げて「感動ポルノ」と称していたことでした。ここまでうまいネーミングは私にはできなかったのですが、『ハンディキャップ論』(2003年・洋泉社・新書y)という本で、私は「感動物語」について皮肉を込めて触れたことがあります。その後、「テレビの障害者感動物語は、一般視聴者を感動させてくれない障害者は要らない、感動させてくれる障害者だけがテレビには必要なんだ、要するにそういっている番組じゃないのか」といった趣旨のことを話して、少しばかり叱られたのでした。

 中村さんの言っていることをこちらの趣旨に引っ張れば、「感動させてくれる先生でなければ支援はしない。そう考えるならば、それは本末転倒だ」、そういう指摘として受け止めてもあながち間違いではないのではないか。強い同意とともに私はそんなことを考えたのでした。

「教育効果が高くなることは確かなのでつい強調してしまうのですが、障害のある先生が孤立しがちな中で同僚や保護者に自分をアピールしたり、障害者運動で相手を納得させるためのロジックとしては、あっていいと思います。しかしそのことと支援の必要性を直結させてはいけない。問題は別のことにしておかないといけない。もちろん三戸さんは分かっておられると思います」

 まずは支援の手立てをする。しかしこの手立てもその人を優遇する特別な手立てではなく、社会に参加するときに対等なスタートラインにつくための、当然の準備である。

「これを合理的配慮というのだと思うのですが、権利としての支援です。世の中にはすでに配慮されている人たちと、配慮されていない人たちがいる。健康な人たちはすでに配慮されている。例えば2階に行けるように階段がつけてあり、男女のトイレを間違わないようにシンボルマークが掲げてある。だから困らない。でも障害のある人には階段やマークは配慮にならない。だから困ることが多いわけです」

 対等なスタートラインにつくための配慮、それが合理的配慮である、特別の優遇ではない、中村さんはそう繰り返したのでした。


教職課程 2021年 04 月号 [雑誌]
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