津波被災のために孤立した介護施設が、なぜ一人の死者も出さなかったのか(その3)
スタッフの研修と法人の理念
特別養護老人ホーム「杜の里」の報告の3回目である。被災後の孤立した状況の中で、他地域の施設に避難するのではなく、平常勤務に戻るまでそこに踏み留まる道を選んだ。それが利用者の命を守る最大の方法である、と。そして言葉通り、一人の死者も出すことなく乗り越えた。
山崎和彦理事長は、夜間ではなかったことを理由の一つとして挙げた。夜勤者は、各階二名ずつで計六名。この数では何もできなかっただろうという。そしてもう一つ、職員研修の成果であることを強調した。ここまで、スタッフによる記録を紹介してきたが、職員一人一人の判断の迅速さが書き留められていた。そして施設長による被災状況の把握の素早さと、それにもとづく全体への指示が明快だったこと。明快だったがゆえに「利用者全の命を守る」という目標がすべてのスタッフに共有され、行動が迷いのないものとなっていることも読み取ることができた。
これらに加え、スタッフ全員が自らも被災者であるなか、こうした緊急時の介護がなされたという事実も改めて書きとめておきたいと思う。たとえば副施設長の報告書には、支援物資の食料は固い物が多くて利用者がそのまま食するのは危険であったため、通常の何倍もの手間をかけて柔らかくしたという記載がある。それでも「その際も立て続けに、「こちらでむせました」「こちらで誤嚥しました」という声が上がり、その都度看護師が駆けつけて吸引を行った」。まさに予断許さない食事介護であり、それが介護者にどれほど緊張を強いるものか、想像に難くない。
自身の家族の安否確認もままならない中で、食事、保温、ストレスや恐怖心の緩和といったような、普段の何倍ものこころ配りを必要とする介護が行われていたのである。スタッフ同士でも鼓舞し合い、統率のとれたチームワークとして現われたことは、一朝一夕の、付け焼刃の鍛錬で身につくようなものではないだろうと思う。
山崎理事長は言う。
「杜の里は厚生労働省が指定するユニットケアの実地研修施設として、多いときは年間100名もの研修生を受け入れてきました。研修生は1週間の実習期間中、施設のユニットにずっといて、杜の里の介護職員の動きを見ています。ユニットケアはどうすればいいのか、研修生が自分自身で考えることが目的です。つまり私の施設の職員は、自分たちがやっていることが評価の対象となるわけです。これが足りないと指摘され、どうして自分たちにはできないのか、何が足りないのかを考えながら、指摘されたことをありがたく受けとめて、これは改善これも改善とこの10年やってきました。便臭のないおむつ交換はどうすればできるか、みんなで考えてほしい。いち早く便臭が消えるような、介護をしているのが気づかれないようなおむつ交換をするにはどうするか。そうやって自発的に勉強会を積み重ねてきました。こうした地道な取り組みの積み重ねで自主的に物事を考える職員が多くなったこと、それから避難訓練を毎月行っていたこと。この二つによって、被害を最小限に抑えることができたのだと思います」
山崎理事長が施設経営に対する明快な理念を持っていることは、取材のそこここで伺うことができた。しかし理事長や法人の基本的な方針がスタッフに共有されていなければ掛け声倒れになる。山崎理事長は、スタッフ一人ひとりの意識改革を徹底して図りたかったかったこと、企業経営では当たり前の考えが介護福祉ではなかなか通用せず、そうしたあり方を変えたかったことを述べ、自分たちは東北の仙台からよりよい施設介護のあり方を発信したかったと強調した。
特別養護老人ホームは一九六〇年代前半から七〇年代にかけて、全国に量産されることになるが、多くが病院の建物施設をモデルとしながら作られてきた。なかには、人生の最期を過ごすには全くふさわしくない生活を強いる場所となった施設もあった。
「日本の戦後を復興させてくれた先輩たちが、自分の望まない最期を強いられ、そして死んでいく。これではだめだろう、という思いが私には非常に強かった。まず建物から変えていこう。建物の住居環境を『プライベート』『セミプライベート』『パブリック』『セミパブリック』に分散させて、普通の住宅で生活できるような施設に作りかえる。そして、自宅で生活していたリズムそのままで、施設で暮らせるような生活環境に変える必要がある。やがてこの考え方は、『ユニットケアに』と呼ばれるようになりましたが、一人ひとりが大事にされ、最期まで自分らしく過ごせるような、そんな介護をしよう。一人2部屋のスペースを作り、夫婦の片方が入所したときにはもう片方が一緒に泊まったり、自宅に帰ったりしながら一緒に過ごし、人生を見つめる環境がいまの日本の老人介護施設には必要だろうと思ったのです」
大船渡「富美岡荘」から仙台「杜の里」へ
そして話題は、山崎氏の原体験である大船渡時代の話になった。
「大船渡にいたとき、私の母親はいつも二四時間体制でした。ベッドに電話があって、夜の八時になると、夜勤者から必ず利用者全員の報告を受けていました。当時の職員は、訓練期間が半年もありません。せいぜい一週間か二週間程度勉強をして現場に出ていましたから、いくら専門学校で学んでいても厳しい。夜間の報告は母親にとっては、職員の教育も兼ねていたわけです。たとえば熱があります、という報告があったとする。すると何度ですか、顔色はどうですか、と母親は必ず尋ねる。携帯電話なんかはなかったですから、夜勤者は、ちょっと待って下さいと走って行って顔色を見て、とくに悪くはないですと答える。すると次は、汗はかいていましたかと聞く。また走って行って確かめる。こういう繰り返しの中で、若い職員も、私も育てられました」
大船渡の小高い丘に、「富美岡荘」と命名された老人ホームが開設されたのは、1976年だった。施設長だったシゲ氏は、夫で医師の伊一郎氏との二人三脚を続けてきたが、その歩みは『富美岡荘物語 すべては愛から始まった』(佐藤眞一監修)という一著にまとめられている。高齢者施設は「姨捨山と言われていた」というが、70年代の東北地方における介護施設における偏見がどれほどのものかは、同じ東北の出身である筆者にも覚えがある。伊一郎氏とシゲ氏はそのような中での先駆者であり、著書を拝読すると、あの時代、すでに高い理念をもって高齢者のケアにあたっておられ、筆者には大きな驚きだった。
書中に次のような印象深い一節がある。
シゲ氏は「特別養護老人ホームのケアは、長期的なターミナルケア」であり、「ターミナルケアには二つの考え方がある」という。どういうことか。「そのひとつは、医師より余命が数カ月と判定され、看護や医療的なケアが求められる時期です。これは短期的、あるいは狭義のターミナルケアです。もう一つの考え方は、私たちがお年寄りとかかわりをもったとき、出あったときから始まっているという長期的なターミナルケアです」と述べている。つまりは老人ホームでのケアは、毎日が「一期一会」の思いをこめたものでなければならない、ということになる。筆者は、深く納得をした。(シゲ氏は現在も、現役の園長として活躍しておられる〉
今回の震災で大船渡の施設は津波被災を免れたが、一人でも多くの市民を助けなければならないと、法人が総力を挙げて避難施設としての役割に努めたという。
「今回、体育館や公民館など、いろいろな場所が避難場所になりました。私は大船渡の施設で避難者の受け入れをしていましたが、被災しない老人ホームが避難所としては一番いいと痛感しました。看護師がいる、介護員がいる、組織としてまとまっている。医者も常駐させることができる。施設全体がバリアフリーになっているし、〝障害〟をもっている人にたいするスタッフの意識も高いから、福祉避難所としても機能できる。これからの介護施設に関しては、このことも、国や自治体は考えてほしいと思います」
そして次のことも加えた。
「今回、大船渡全体が真っ暗になりました。私の施設は高台にあるので、投光機4台をリースし、施設を照らすように、と言って照らしました。真っ暗な中で丘の上の老人ホームが明るくなっていたということで、市民の人たちの心の支えになったと言います。やはり光は理屈抜きで人間を奮い立たせますから」。
施設のハード面に加えてケアそれ自体について、もっと客観的データにもとづいたものにできないか、と山崎理事長は考えていた。
「例えば食事の介護。昔は◎、○、△、×とチェックするようになっていました。その記録が1ヶ月分たまるわけですが、しかしたまるだけで何の役にも立っていない。そこで私は10人の介護員を集めて食べ残したご飯を見せ、これは何割を食べたと見る? 全量か、ほぼ全量か、半分か、10分のいくつか、と聞きました。同じように、副食や水分補給量はどうか。
厚労省が決めた1日の摂取カロリーは3食で1500カロリー程度ですが、10分の7しか食べていない日が1週間続けば、3割は食べていないということになるから、当然、体重は減っていきます。ところが漫然と記録しているだけでは体重が落ちていることに気づかないことがあるし、病気が重篤化しているということもままある。それを防ぐために、私の施設では食べた量をすべてデータ管理しています」
排泄も同様だった。いつ交換したのか、記録がなければ分からない。定時交換ではなく随時交換だとがんばっていた施設長が勤務していたときは職員も努めているが、転勤などでその施設長が不在になると、やがて記録が空白になる。三日以上排泄がない人は何人いるか。データ管理をしていれば、すぐに出てくる。記録がなければ、100人も利用者がいるしせつでは、介護職員の連携が悪いだけで、1週間便が出ない事態が見落とされてしまうことがある。これでは良質のケアとは言えない。
「水分補給にあっても、補給データ下がると熱が上がる。データがなければ、やはり気づかれないままになってしまう。きちっとした管理をし、水分をきっちり取ることで熱は出なくなる。あるいは歯磨きをしっかりやると、肺炎は少なくなる。そうやって介護力をつける。それが私たちの仕事ではないですか。そんなふうなパーソナルケアを提唱しながら、もう一方で、空間構成をユニット型にまとめ、自分らしい生活環境をつくろうとしてきたのです」
「杜の里」の再建をどう果たすか
ところが被害状況が明らかになるにつれて、杜の里には難問が立ちあがっていた。
来ないと考えていた場所に津波が来た。そうであれば、安全な土地へ移転しなくてはならない。土地は確保できるのか。移転となれば多額の資金が必要となる。新しい土地に移転するにしても、つなぎの期間、それまでの場所に仮設施設として過ごすのか避難するのか、という問題もあった。
大きな余震が続いている。四月七日の深夜には最大余震が発生し、津波警報が発令された。同一一日には福島県で震度六弱の地震が発生し、やはり津波警報が出され、その直後も余震が繰り返された。五月の連休には大きな余震が来る、といった噂もあった。携帯電話の余震を告げる警告音は、六月までのあいだ、一日に一〇回以上も鳴り続いていた。ここに留まって、次の津波で死者を出すことになったらどうなるか。責任問題どころではなかった。
「私が『杜の里』に戻ったのは一週間経ってからですが、玄関前の瓦礫の山を見たときには涙が流れて止まりませんでした。しかし二階に上がって行くとき、どれだけを借金してでも新しい施設を作る、八〇代の皆さんのラストステージを津波で終わらせるわけにはいかない。そう決意しました。なにがあってもいい施設に入っていただき、極楽浄土に行っていただく。そうしないと私の責任は果たせない。絶対に施設を再建する。スタッフ皆を集めてそう告げたのです。全員でこぶしを上げて「復興するぞ!」と3回、気勢を挙げました。それから厚労省に行き、国費をもって沿岸全域の施設を再建してほしい。そう陳情しました」
厚労省や仙台市を陳情して回った際、被災施設への厚意溢れる支援のスタンスを感じ、深い感謝を覚えたという。しかしその反面、職員の前では見せなかったが、ここに留まるのが適切な判断かどうか、じつは最後まで悩み続けたともいう。なかには東日本大震災クラスの津波の再来の可能性を指摘する専門家もいた。
「私らは、被災した施設に、再建まで籠城することにしていますが、私には全員の命を守る責任がある。私は職員に、もし二階の進出するような津波が来たときには、私が全責任を負う。そう伝えました」
そして山崎氏は、今回、全国の老人施設の関連団体からいかに助けられたか、と次のようにいう。
「全国の施設を回って頭を下げっぱなしにしないといけないくらい、今回、我々は支援してもらいました。今まで私はオーナーの立場で仕事をしてきて、皆の世話をするのが役割だと思っていたけど、こんなにお世話をしてもらい、どうやってこれから返せばいいんだろうと思うくらいです」。
事務局長を始め、職員の何人かはまだ自主的に施設に泊っているといい、幹部職員への感謝を口にし、最後に次のようなエピソードを話してくれた。大船渡以来の法人の基本理念が、震災のあと戻ってみると、いつの間にか一つ増えていたというのである。
「私の法人の基本理念は、まず、
1.広く愛すること
大船渡の施設は、先見の明があったなんて言われるけど、そんなものではありません。すべては愛から始まった、これです。だから、これが1番目です。そして、
1.礼をもって老者に仕えること
1.広く万人のために活動すること
1.健康を大切にすること
1.生涯学ぶこと
ここまでが、開設当時から、毎朝唱和されてきた基本理念だったのです。ところが、震災後、これにもう一つ、加わっていた。
1.すべての人を救うこと
いつの間に、これが入ったんだって聞いたんだけど、皆、笑っている。私が気がつかないうちに、法人の理念が一つ増えていた。その通りだから、文句は言いませんでしたけど」
そして、必ず再建しますよ、と山崎理事長は最期にくり返した。
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