続・高齢者ケア(その1)「総合診療医」の育成と地域医療・ケア包括システム

『ルポ高齢者ケア』以後のトピックス

『ルポ高齢者ケア』、刊行は5月7日。ほどなくして、高齢者ケアをめぐるいくつのニュース報道が現れた。その中で最もセンセーショナルだったのは、認知症高齢者の行方不明問題だった。NHKの『クローズアップ現代』で報じられると、その後、新聞でも取り上げられ、昨年の不明者が「1万322人」といった数字も見られた(6月5日 読売新聞夕刊)。ただしこの数は届け出がなされたものの合計であり、1万88人は、その後発見されていると記事にはある。すでに亡くなっていた方は388人。新聞報道がなされた時点での不明者は151人。

これまで、こうした統計はなく、決して少ない数ではないとは感じていたが、その現状はなかなか分からなかった。言うまでもなく、問題の壁になってきたのは「個人情報保護法」の存在である。早く保護したいのだができない、探す手立てが封じられ、時間ばかりが過ぎていく、というような、制度の落とし穴があった。

記事には、捜索する家族に対して、保護した自治体が警察署に依頼し、そこで顔写真の閲覧が可能なようにする、という内容も記載されている。これからも、おそらく思いもよらないところから、「個人情報保護法」と認知症高齢者の問題が出てくるだろうことは、容易に推測される。ここ数年、在宅生活を推進する政策が進められ、ケアする側の連携がうたわれているのだから、個人情報保護法がブレーキ役とならないよう、速やかな対応ができるよう期待したい。むろん不用意な情報開示は、ご本人の身体・生命・財産を危険にさらすことになるから、頭の痛いところではあるが。

高齢社会をめぐる問題は山積している。現在、喫緊の課題の一つが「地域包括ケアシステム」の構築である。このときに重要なのは、医療と、介護ほか分野との連携体制が、どこまで作れるか。そしてもう一つが、在宅兼高齢者、という二つの特性に適応できる医師の養成。これを「総合診療医」として専門化した。

(いうまでもなく、もう一つの高いハードルとして経済問題があり、これに手を打つべく「地域医療・介護総合確保推進法」が、今月の18日に成立した。まだきちんと中身を検討していないが、混合診療の問題や、外国人医師の参入など、医療の規制緩和をにらんだ内容になっているのが目につく。言い換えれば景気浮揚が、前提になって制度設計されるのではないか、という点が気になる所だ。)

ともあれ、地域連携と「総合診療医」をめぐって富山県南砺市に取材に行く機会を得た。その第1回目を報告したい。


富山県南砺市の取材から(第1回) 南砺市民病院にて

南砺市の取り組み
 今号から3回にわたり、富山県の西南に位置する南砺市を舞台とした地域医療の取り組みを紹介したい。南砺市は2004年に4町4村が合併して誕生した。人口5万5千人ほど(13年4月)。高齢化率は32,3パーセントで東側には山間地をもつ。

 こうした南砺市の報告に当たってのテーマは大きく二つ。
 
 一つは、これからの超高齢社会を迎えるにあたり、ますますニーズが高まると考えられる「総合診療医」について。日常的に、幅広く診療してくれる医師は、これまでもかかりつけ医、家庭医、在宅医などと称されてきた。厚生労働省は在宅医療への誘導を更に強く示し、その担い手となる「総合診療医」を専門部門としてはっきりと位置づけ、平成17年度より第3者機関による評価の対象とした。

 そこで重要な課題となったことは、プロフェッショナルとしての総合診療医の、早急な育成である。南砺市民病院では、富山大学医学部附属病院、富山県立中央病院などと連携しながら、その育成プログラムの作成に取り組み始めた。医師としての基礎的な研究(大学病院)-総合診療医としての臨床研修の場(市民病院)-専門領域の研修の場(県立病院)、というように、役割分担を明快に示していた。この点に関する報告が一つである。
 
 もう一つは、いわゆる「地域包括ケアシステム」を巡る取り組みについて。

 南砺市ではかつて医師数が激減し、医療崩壊の危機にあった。その南砺市が、地域包括医療・ケアシステムを作りながら再生を図ってきたこの間の経緯を見ると、住民参加型のスタイルをとり、医療への信頼を取り戻しながら、地域の活性化へとつなげてきたことが際立っている。それはどのようになされたのか。この点が二つ目である。

 筆者の取材にお付き合い下さったのは、全体の牽引者であり、前南砺市民病院長の南眞司氏と、富山大学附属病院総合診療部の山城清二氏。南氏は30年ほど前よりこの地域で、広島県の御調方式に学びながら地域包括医療・ケアシステムに取り組んできた。そして山城医師が2004年に富山大学に赴任したのを機に、二人三脚が始まる。さらにもう一人、今年度より南砺市民病院の院長職を引き継ぎ、研修医の受け入れにあたってその研修プログラムの作成を任された清水幸裕氏だった。

 お三方の話は内容が豊富であり、3回でうまくまとめることができるかどうか心もとなくはある。南砺市の地域医療が、どんな経緯をもってここにいたっているかについては次号以降で詳しく紹介させていただくことにし、第1回目は、清水医師による総合診療医の育成について報告していきたいと思う。

「総合診療医」とは何か
 南砺市民病院のホームページを見ると、総合診療医研修の「一般目標」として、次のように記載されている。
「急性期から回復期、慢性期、さらには在宅医療、終末期医療までの一貫した流れの中で、その時々のニーズを的確に把握し適切に対応できる総合診療医の育成を目指す」。そして「プライマリー・ケア、家庭医療学、総合内科学、初期救急医学、医学教育を中心とする知識と技術、技量を習得する」と書かれている。

 この一つ一つの説明は筆者の任を超える。しかし一つだけ理解できたことは、「総合診療医」なるものがどのように規定され、何を必要とし、どうすればその研修となるか、いまだ試行錯誤の中にあるということだった。総合診療医には定義というものがないのだという。

 「いまのところ、厚生労働省が考えている総合診療医に一番近いのは、家庭医です。入院から在宅まですべて診療することができ、在宅医療もやり、しかも自宅に足を運ぶだけではなく、家庭環境やその人の住んでいる地域の問題点まで把握し、それが病気にどんな影響を及ぼしているか。社会の中で病気とどう対峙するか。そこまで考えるのが家庭医です。しかし家庭医にもはっきりした定義はなく、日本プライマリ・ケア連合学会が「家庭医療専門医」を作っているのですが、それが総合診療医に一番近いのではないか。資格化されたのは、この家庭医療専門医が初めてではないかと思います」

 南医師の論文、「病院が取り組む地域包括ケアと地域連携」(高橋紘士編『地域連携論』オーム社・所収)では、次のような概念図が示されており、それを引かせていただく(略)。

 清水医師は、これまでは自身で「総合診療医」を名乗るかどうかという選択に任されていた。しかし、これからは、それはできなくなるだろう。「患者を総合的に診ることができて、専門性を問わず全人的に診断し、初期診療はすべてできる」、といった定義しかなかったものを資格化し、その育成プログラムも、体系的で、学問的な検証に耐えうる客観性のあるものにしなくてはならない。それがこれからの自分の役割だという(もう一つ「病院総合医」という職域も、厚労省は想定しているという。こちらは、病院で一般外来の診療をし、その他に安全医療、病院の管理、研修医の指導などに携わる医師だということだった)


総合診療医をどう育成するのか
 もう一つの課題は、研修する若手の医の指導はどんな立場にある医師が担うのか、ということだった。南砺市民病院は、総合診療医の養成を自分たちの病院の特性として打ち出そうとしている。そのことによって若い医師たちにアピールをし、ここに集ってもらいたいと考えている病院である。そのような病院の指導的立場にある医師は、少なくともプライマリ・ケアについては習得している必要がないか。そう考えた清水医師は、プライマリ・ケア学会の認定医となり、指導医の資格も取得した。

 「一番いいのは、総合診療医の資格を取った医師が、次の研修医を指導していく。2,3年に一人でもいいから、そうやって屋根瓦式に育てていくことだと思います」

 そして次のようにも言う。自分は肝臓や消化器の専門医としてやってきたが、今度、研修医の指導にあたるという話が決まって以来、専門外の、内科全般や精神科関係の一般的な知識まで、幅広く学ぶようにしてきた。命にかかわる疾患を見逃したら、自分の専門外だから、という言い訳は決してできないのだから、と強調する。

 「地方の中規模病院の患者さんは、大半が高齢者で、多疾患を持っている方がほとんどです。頭が痛い、喉が痛い、とやってきた患者さんをすぐに専門医に回すのではなく、初期診断は自分でできないといけない。あるいは胸が痛いと言っている患者さんは、ひょっとしたら心筋梗塞の可能性がゼロではないし、もしそうであれば命にかかわる疾患ですから、心電図を取るなりしてまずはその可能性を否定しなくてはならない。だから心電図も読めないといけない。そうやって専門外の疾患も診断していく。その方が患者さんも信用してくれるし、信頼関係が作りやすいのです」

 そして総合診療医のあり方についても、次のように述べた。

 「こういう地方の中規模の病院では、それぞれ専門をもっていても、総合診療的なことをみんながやって行かないといけないと考えています。家庭医は家庭医だけをやり、専門医は専門だけを診るというのでは、病院は成り立たない。

 高齢の人を見ている医師は、意外な病気や、専門外の病気も診る機会が多い。だから、専門医も総合診療医的なマインドを持って勉強をしておかないといけないし、家庭医にあっても、この領域は専門的に強いというものをもっていた方がいい」

 清水医師によれば、大学を卒業して2年間は初期研修を行い、3年目から5年目までの3年間は後期研修の期間となるという。この後期研修の期間で総合診療医としての専門的訓練を受け、試験を受けて専門医としての資格を習得できるという。

 「総合診療医でも、あるところでは専門性を持っている。専門医でも家庭医的なマインドをもっている。ぼくは、両方のマインドをもったドクターを育てるのが仕事だと思っています。一方、専門家志向をもった医師も受け入れ、富山大学附属病院や富山県立中央病院に研修に行けるような、そうした連携システムを作りたいと考えています」

 南砺市民病院には、後期研修に取り組み始めた医師が一人、今年度、希望している医師が一人いる。初期研修を希望する医師も、以前に比べて増え始めた。富山大医学部生にあっても、実習で南砺市民病院に訪れ、在宅医療や総合診療に関心をもつ学生が目につくようになったという。

 研修を終え、何を自分の専門とし、どこに働く場を求めるかは、あくまでも本人次第である。清水医師は、それはまったく研修医の自由であるが、総合診療医として力を存分に発揮するフィールドとしては、この病院は大変に恵まれた環境にあるという。たとえば退院に向け、医師、看護師、理学療法士とか、患者本人、家族を含めた多職種でカンファレンスがなされる。退院に向けて何が必要か。患者は今どういう状態で、家族にとって今後どういうことが予想されるか、それぞれの立場から話し合いをする。

 「学部生や研修医は、それを見るだけでもずいぶん違います。これはじつはやられているようで、じつはやられていない取り組みなのです。ともあれ、研修医たちに何を教えないといけないか、という明確な指針はやっと出始めたところで、どういう研修システムがベストなのか、病院も学会も試行錯誤中です」
 そう言い、しかし、と次のように結んだ。

 「これからの高齢社会に備え、急性期から在宅まで、あるいは終末期まで、多方面にわたって診ることのできる医師を多く養成することが、ぼくらの仕事です。とはいえ、若い人には色々な場所に出て行って、多くの経験を積んで欲しいと思います。地域医療で経験を積みながらも、世界を意識して学んでいってほしいというのが、ぼくの考えです」

(第108回 「健康保険」6月号より転載)

記録された「事実」と記録すること2  『造反有理』と『自閉症とは何か』

4.
『造反有理』の書評には、じつは第2ヴァリアントがある。

 ●1968年、東大医学部の政治運動は、かの「赤レンガ闘争」として展開された。その主流(造反派)は翌69年の「金沢学会」で主導権を握り、そこから、従来の治療実践が激しい批判の俎上に乗せられていく。病院の権力性や収容的性格の糾弾(先進病院だったはずの松沢病院でさえ批判の対象とされた)、保安処分に対する徹底した反対運動。先鋭化した一部の医師たちは、すべての治療は不要であり、精神疾患は社会と家族が作るものだ、社会改革こそが急務だ、という反精神医学に至りつく。

 その後、医師たちは自らの信じる医療の実践者となっていくのだが、この時代の闘いはある研究者によっては「研究的に空白の時代」とされ、現実的にも、今やほとんど忘れ去られている。著者はそのことに疑義を呈し、この「政治と運動」の時代、医師たちの「造反」とそこになされた批判を掘り起こし、その「理」を検証しようとする。

 選ばれているテーマは何か。何に対して、なぜ造反をしたのか。患者が非人間的に扱われる病院の管理と運営のあり方はどうだったのか。そして治療。中でも社会防衛を色濃くさせた電気ショック療法や大量の薬物投与。はてはロボトミーという脳の切除手術。これらがどこでどうなされ、どんな理念に基づいて行われたのか。その裁判は、息を呑む記述が続く。

 一方で、「造反派」だった医師たちは、やがて生活療法、作業療法、遊戯療法といった治療活動に、人間的回復の活路を見いだそうとする。しかしその試みも、管理と経営のロジックに取り込まれ、やがて挫折していく。――とりあえず、このように本書をまとめてみる。

 ただし一筋縄ではいかない著書であることは、伝えておかなくてはならない。著者が傾ける方法的な労力は、医師たちの発言への賛否以上のものである。社会学は類型化と体系化を本領としてきたが、著者はそれに抗うかのように、資料を駆使しながら背景やパラダイムを提示していく。

 なぜここに、最大の労力が傾けられるか。

 あの時代の精神医療を、物語化・定型化から回避させるためである。本書によって初めて、精神医療は何をしてきたのかと論議できる場の共有が可能になったのだと思う。●(第2稿)

 初稿にあっては、「なぜこのようなスタイルで記述されなくてはならなかったのか」、という問いに比重がかかっていた。少なくとも評者の目論見では、そのように考えられていた。それが徐々に、「書かれているのはどのようなことか」という、内容への問いかけにスタンスを転換させていった。これが、掲載稿に至るまでの経緯である。そしてこの第二稿では、「何が」と「どう」とを、何とかして融合させた書評にできないか、と考えていた。

 「現実」と呼ばれるものは、偶然に生起している無数の「事象」の集積である。もともとは、「意味」も「秩序」も(したがって「価値」も)、「主題」も、起承転結の「物語」もない。事象の断片が混沌とあるだけである。したがって文芸ノンフィクションも、ルポルタージュやドキュメンタリーも、そこに主題を発見し(設定し)、読み解くためのストーリーを与え、意味を付加して出来上がった人工物であり、それらを示してみせたのは、書き手である。

 何が書かれているか、という未知の領域に触れる醍醐味は、間違いなくノンフィクションのものである。しかしそれと同時に、どう書かれているか、なぜそのように書かれなくてはならなかったのか。「現実」とか「事実」とか呼ばれているものは何か。そのような問いを問わせることも、またノンフィクションの重要な働きである。

 いや、それを深く考えさせるように(工夫や技法が凝らされて)書かれてあることは、ノンフィクション作品を優れたものにする条件の一つである、と評者は考えるものだ。


  『造反有理』は学術の書である。ノンフィクション作品と呼ぶのはふさわしくないと感じるかもしれないが、しかし、まぎれもなく一つの現代史であり、時代の記録(ドキュメント)である。熱に浮かれたように、多く人々が「アンポ、フンサイ」と叫んでいたあの時代を問い、熾烈に展開されていた「精神医療と政治運動」というテーマの全貌に迫ろうとしたノンフィクション作品である。繰り返してきたように、一筋縄ではいかない作品構造を持つ、ドキュメンタリーなのである。

5.
 ここで話題を転じてみる。

 『造反有理』の著者がどこまで意識していたかどうかはもちろん不明だし、否定していただいても一向に構わないのだが、評者にはこの間、関連がとても気にかかる一冊の著書があった。

 膨大な数に上る自閉症学説(文献・資料)を集め、引用し、批判と検討を加えながら、そこに類型や筋道(学説史・研究史)を作り出そうとした仕事として、小澤勲『自閉症とは何か』(洋泉社)がある。評者は、『造反有理』を読み進めながら、この著書が気になってならなかった。ただし、膨大な先行研究を引用・参照しながら作られた書物は他にも山のようにあるだろうから、ここで小澤の著書を引き合いに出すのは、あくまでも評者の恣意的なセレクションである。

 小澤の『自閉症とは何か』では、従来の学説の検討と批判に、多大な労力が割かれている。そのことを直接の目的とした著作であり、これをドキュメンタリーとかノンフィクションという領域に持ち出すには、いささかふさわしくないのかもしれないが、それでもここで取り上げるに至ったのは次の理由による。

 この著書で引用されている「資料」の数はきわめて膨大である。これらを引いてくるにあたって、著者・小澤にはそれを「整理して」とか、「簡潔に」とか、「圧縮して要点のみ取り出して」といった発想は、おそらく皆無ではなかったかと推測される。言い換えれば、必要なところが、必要なだけ(必要なところの周辺も含めて)、枚数など顧みずに引用されているのである。

 ここから伺えるのは、次のような著者の意図である。

 自らの見解を述べていくことと同様に重要視されていることは、ほかの医師たちが書き残した膨大な研究学説(文献資料)を、できる限り要約や意訳をせずに「そのまま」提示することである。そこに、もう一つの大きな目論見があったのではないか。

「そのまま」の痕跡が残るように資料として示していく、ということは、資料としての一次性を担保したいという動機があったことを推測させる。引用者による要約や要点整理では、一次資料としての価値は減少するし、引用者の価値観や解釈が入りかねない。場合によっては、原資料の発言者・執筆者自身による事後的な言い換え、解釈の変更といった事態をも、もたらすかもしれない。

 評者が『自閉症とは何か』にドキュメンタリーとしての性格を読み、その重要性を指摘するのは、ここに理由がある。医師たちが残した膨大な論文を収集しようとする態度、それをまとめたり縮小させたりせず、そのままを残そうとする資料への態度が、記録作家(ドキュメンタリスト)のそれと重なるのである。繰り返すが、これは発言当事者の、事後的な解釈変更や態度変更に対し、あらかじめくさびを打ち込んでおくことを結果とするものでもある。

 言い換えるならば、『自閉症とは何か』を通読するということは、もう一つの「精神医療現代史」に触れることを意味する。六〇年代から七〇年代、「精神遅滞」とか「自閉症」といった診断名を付された人(子ども)たちに、医療や「現代社会はどのように向き合ってきたのか」、という『造反有理』の帯文に付された問いかけに、まっすぐにつながってくる著作なのである。
 
 以上が、ドキュメンタリーの方法をめぐる考察において『自閉症とは何か』を参照する理由であり、一つ目の仮説である。もしこの仮説を共有していただけるようであれば、次の仮説も、さほど意外なものではないだろうと思う。

 『造反有理』で問われていたことは、「誰のために、何をしているのか、何をすればよいのか」「それを誰が決めるのか」というものだった。突き詰めればそのような単純ものだ、と『造反有理』の著者によって書かれていた。この主題もまた、『自閉症とは何か』に当てはめてよいものだ。『自閉症とは何か』の著者が問うているのは、まさに、六〇年代か七〇年代の自閉症治療にあって、「誰のために、何をしているのか、何をすればよいのか」「それを誰が決めるのか」、というものであったことは明らかである。

 あえて評者が書きつけるならば、「医療者(だけ)によって、医療者自身のため(だけ)になされてきた自閉症論や治療論である」ことへの異議申し立て、「(治療の)すべてを医療者自身が決定してきた」ことへの批判が、小澤勲『自閉症とは何か』の核心である。そのように評者は受け取る。

 もちろん『自閉症とは何か』では、年代ごとに、あるいはテーマごとに各章が設けられ、論文が引用され、批判が加えられ、さらに論文が引かれ、批判され、と進んでいく。そして、自説の言明を「どんな方法で書くか」、膨大な資料や証言を「どう並べていくか」、といった方法への問いかけは、ほとんど希薄だと感じる。

 もちろん『自閉症とは何か』は、きわめてオーソドックスな構成というべきであり、このこと自体に何ら問題があるわけではない。むしろ、『造反有理』の著者が、なぜあのような入れ子構造になるような資料の引用や全体の構成、叙述のスタイルをとらなくてはならなかったのだろうか。問うべきは、そちらのほうである。

6.
 ここまで、二つの学術著書が持つドキュメンタリー(記録の書)としての性格を比較検討してきた。さらにもう一つ指摘できることがある。

 小澤勲の仕事は、自身が批判対象者同様に医療従事者であること、いわば「自閉症」という問題の、「治療者―患者」という一方の当事者によってなされている。しかし『造反有理』の著者は自らを全くの第三者として明確に定め、その位置を一貫させるようにして記述されている。この相違もまた顕著である。

 当たり前すぎで、なんのこっちゃ、という感じを持たれるかもしれないが、もう一つのなんのこっちゃ、を加えなくてはならない。これまで触れてきたように、小澤の著書では、ある学説に対して見解を述べ、批判を加えていくというスタイルがとられていた。しかし立岩はこれを回避する。立岩にあっても批判や自説をぶつけることは可能なはずだが、それは避けられている。こうした事実があった。

 「一方の当事者」だから見解や批判は許され、第三者によるそれは、慎重であらねばならない。通常はこんなふうに考えられがちなのかもしれないが、評者はやや異なる見解を採りたいと思う。

 思うに、『自閉症とは何か』の著者は、自身が一方の当事者であることに、きわめて自覚的である。この著書では、医療者の、その当事者性こそが問われている。自閉症とはどのような状態(症状)か、その診断はどうなされるかを問いながら、「それを決めるのはだれか。ほんとうに私たちか」という問いが、批判的に投げかけられているのである。言ってみれば、医療者(支援者)としての当事者性の自覚において、小澤の問題意識は、きわめて先駆的なものであった。

 さらに言い換えてみよう。小澤勲にあっては、先に『造反有理』が示した問い、「誰のために、何をしているのか、何をすればよいのか」「それを誰が決めるのか」という問いは、一人称の問いになっている。「(私は)誰のために、何をしているのか、何をすればよいのか」「それを誰が決めるのか(と私は考えているのか)」。このように読むことができる。

 一方、『造反有理』にあって、それは、三人称のものとしてある。「(彼らは)誰のために、何をしているのか、何をすればよいのか」「それを誰が決めるのか(と彼らは考えているのか)」。このように問われている。

 ここから、先ほどの「『造反有理』の著者は、なぜ自らの見解を抑制し、このような複雑な構想を持つ資料の配置をしなければならなかったか」、という問いへの答えらしきものが見えてくるのではないだろうか。

自説を述べることや、医療学説への批判を抑制するのは、立岩もまた、「記録されたものを記録する」第三者であることの「当事者性」を問うているからではないだろうか。ドキュメンタリストとは、「記録されたものを記録する第三者」であり、そのような立場としての当事者性を持つ者のことである。少なくとも、その強い自覚が『造反有理』の著者にはあり、そのことが、叙述の重層構造を作らせたのだと思われるのである。――これが三つ目の仮説である。
 
 もちろんこのことは、取り上げられたテーマが六〇年代の「政治闘争」であり、「精神医療」である、という難題であったことと不可分である。前半部分で、「人類がいつか決着つけなくてはならない「最終テーマ」」などとつい書きつけたが、『造反有理』の著者がその「最終回答」を提示しようとしているわけではないことは、言うまでもないことだ。「いつか決着をつけなくてはならない」テーマとは、「決着をつけてはならない」テーマである、という反語的意味を含意し、著者の文体は、まさにその反語スタイルとも読めるものである。

7.
 すでに気づかれたかもしれないが、ここまで述べてきたことは、ノンフィクション作品にとって重要なテーマである。第三者ノンフィクションか、セルフドキュメンタリーか、という例の問いを、さらに推し進めようという意図をももつものだといってもいい。

 ノンフィクションの書き手はどこに立つのか。「記録を記録する」書き手はどこに立つことができるのか。その書き手が立つ場所は、作品(「残された記録の記録」)に、どのような影響を与えるのか。

 ルポルタージュであれ、ドキュメンタリーであれ、文芸ノンフィクションであれ、作品を書き進めることで、作家たちは自身の立ち位置を探し当てていく。書き手はどこかに立ち位置を作る。

そして考えるに、その立ち位置は、書き手がどこまで「当事者性」の問題に片を付けているかという、そのリトマス紙ともなる。当事者性など知ったことではない、という立ち位置も、非当事者性を死守するという位置も、一つの当事者性である。「当事者である」と称しながら、そこからまったく遠い場所に立つ当事者性というありかたも、とうぜん存在するだろう(「当事者性」という言葉使いが気に入らなければ、三〇年も以前、文学の作家たちが盛んに口にした「へその緒」の問題、あれにほぼ重なると考えていただければよい。「へその緒問題」のなんであるかは、後日、機会があったら触れたいと思う)。

 ノンフィクションの当事者とはだれか。それはどこにいるのか。なにかをする者かされる者か。記録する側か、される側か。あるいはまったく別のところに、当事者は存在するのか。ノンフィクションやドキュメンタリー、ルポルタージュの書き手たちは(映像作品も含め)、記録された事実と記録する行為をめぐって、必ずどこかでこの問題にぶつかっているのだと思う。

 「情報」を必死に探しあてようとする側と、できるだけそれを隠蔽し秘匿したいと考える側との攻防が、今後、さらに熾烈になっていくはずである(なってくれなくては困る)。だからこそ、ノンフィクションとかドキュメンタリー、ルポルタージュと呼ばれる作品を批評する言葉も、鍛え上げていかなくてはならないのだと思う。

(『ドキュメントの作法』 2014・6・8)


記録された「事実」と記録すること 立岩真也『造反有理 精神医療現代史へ』を読みながら

ドキュメントの作法1


1.
本年の3月30日、東京新聞書評欄に拙稿、「立岩真也著『造反有理』についての書評」が掲載された。それは「決定稿」として提出されたものであり、次のように書かれていた。

●1960年代から70年代、日本の各地で政治運動の嵐が吹き荒れていたとき、精神医療に携わる医師たちにあっても、政治の闘いが自らの医療を問うことであるような運動が繰り広げられていた。どの政治闘争もそうであったように、激しい内部抗争があり、分派につぐ分派が繰り返された。まして、それまでの精神医療が抱えもっていた深い暗部と治療理念を巡る批判・対立が同時進行していたから、何が、何のために争われているのか、部外者にはあっという間に見当がつかなくなった。

 本書は、そのような全貌の把握など絶望的に困難な、60年代末を中心とした「政治運動と精神医療」を取り上げ、どんな言説が闘われていたかを検証すべく試みている。

 68年の東大医学部の「赤レンガ闘争」。翌69年の通称「金沢学会」。中心となった医師たちは後に「造反派」と呼ばれるが、彼らによって批判されたのは、病院の悲惨な収容所的状況、教授を頂点とした医局講座制という権力構造、そして加速していた保安処分的動向。さらには治療。中でも社会防衛を色濃くさせた電気ショック療法や、大量の薬物投与。はてはロボトミーという脳の切除手術。その裁判や電気ショックの記述は息を呑む。

 一方、生活療法、作業療法といった治療活動に患者の人間的回復の活路を見いだそうとする医師たちもいたのだが、その試みも、管理と経営の論理に取り込まれたと批判される。そして造反派の医師たちの一部は、医療そのものを否定する「反精神医学」へと至りついていく。

 反対派からは、この闘いは「研究的に空白の時代」を作ったとされてきた。しかしそうか。著者はそれを問い返し、膨大な証言や文献を掘り起こしながら造反派の「理」を検証しようとする。その作業は同時に、精神医療は何をしてきたのかと論議できる場そのものを初めて提示し、迷路のような暗部をいまにつなげる検証の場とする果敢な試みとなった。●

2.
この書評の出来不出来がどれくらいのものかは置くとしても、『造反有理』という書物がどのような内容をもつか、あらかたのところは理解していただけるのではないかと思う。さて、この決定稿には、じつは第一ヴァリアントがあり、それは以下のようなものだった。

● 医療には暗部があり、精神医療と称される領域も、心や脳を対象とするだけに闇はいっそう深く、迷路のようになる。時代を画する一つの理念と治療実践が、数年を経ないうちに、その非人道性を批判・糾弾されることがある。部外者にとって不可解なのは、事態の究明や検証を経たと思えないまま、歴史の底に〝沈殿〟していくことである。60年代、人間らしい医療を求めてなされたはずの政治的闘いも、「造反有理」と称されながら、いまや忘れられている。その「理」とは何だったのか。

 著者は、争点はごく単純なことであり、「誰のために、何をしているのか、何をすればよいのか」「それを誰が決めるのか」にあった、と記す(第5章)。ところが副題に「精神医療現代史へ」とあるように、可能な限り医療者の発言や論文が探し当てられ、主題に添って引用され、結果として「造反」と「有理」の間に隠れていた深い溝を、本書の全体を通して描き出すことになった。

 どういうことか。本文の膨大な引用はさらに引用を呼び起こし、その合間に医師たちのプロフィルが並置され、末尾に付された「註」が本文を補完・補足する。しかし何が補完・補足されているのかといえば、溝がさらに深まるような「単純なこと」の全体である。

 政治闘争と治療実践の溝、一つの錯誤が批判され、しかしその批判が次の批判によって錯誤となることで生じるような、溝のまた溝。これでは簡略化のしすぎかもしれないが、このような記述のスタイルよって、電気ショック療法、保安処分、ロボトミー、閉鎖病棟、生体実験といった、いまなお鳥肌の立つような精神医療史の暗部が検証の場に乗せられていく。

 社会学は分類と類型化、そして体系化を元々の本領としてきたが、著者はそれに徹底して抗っている。定型や物語から、できる限り距離を置いた記述によって、やっと、「精神医療は何をしてきたのか」いう論議が端緒につくことになった。それを可能にしたことが、本書の最大の功績だと思う。●(第1稿)

 決定稿が掲載されるまでの間、掲載稿のほうが初稿よりもすっきりと、ストレートにまとめられていると感じていた。もとより一筋縄ではいかない著書ではあるが、初稿は『造反有理』の「全貌」をつかみあぐねているのではないか(と、そのように感じられた)。評者の「読み方」がいま一つ抽象的だと感じさせるのは、そのあたりに事情があるのではないか、というように、不消化な感じが残った。

 はたして書評担当の記者からも、「何が補完・補足されているのかといえば、溝がさらに深まるような「単純なこと」の全体である。」の部分、さらには批判と錯誤の間に生じる「溝のまた溝」という件など、抽象的すぎないか、このあたりをもっと具体的に書くことができれば、全体的に説得性を増すのではないか」という趣旨の感想を受け取ることになった。
 
 改稿に踏み切るのに躊躇はなかったが、簡単にはできなかった。書評原稿を書く際、一度作ったコンセプトをすべてご破算にし、まったく別の、新たな枠組みを作り上げて論じることは、思うほど簡単な作業ではない。第1稿も難産だったが、掲載稿はそれに輪をかけて、キーボードを動かす指が動いてくれなかった。締め切りまでには期日もなかったが、こういう時には「寝かして」おくしかない。一日二日ほど、できるだけ忘れたようにして過ごした。

3.
 やがて書き上げ、掲載されてのち、ほどなくしてまた別の思いが沸き起こってきた。2つの稿を比べているうちに、提出稿にいたるまで、評者自身が何をしようとしていたのか、我ながら、だんだんと明らかになってきたのである。

 『造反有理』の著者が、事前に封印していることがある。
 
 書評中でも触れているように、まず「誰のために、何をしているのか、何をすればよいのか」「それを誰が決めるのか」という、医療への単純な問いかけが本書の目的だ、と書かれていたが、本書の主題は、たしかにそこへ引き絞って考えてよいと思う。ただし、一つだけ留意すべきことがある。

 著者は、直接、自身の見解を述べることを慎重に回避している。取り上げるどの資料や証言に対しても、コメントを述べながら「単純な問いかけ」が進められていく、といったたぐいの叙述の方法は、禁欲されている。本文のどこかで、本書は資料集でもある、といった趣旨のことも書いていた。こうした事実をどう考えるかということだ。

 当然ながら、なぜ自らの見解に禁欲しなければならなかったのかという問いが、次に浮かんでくる。すると、さらにもう一つのことに気付く。

 自説を述べていく代わりに、著者が最も力を注いでいることはなにか。

 まず、途方もなく膨大な数の資料、文献、証言録の類を、徹底して収集すること。そして収集されたそれらの資料は、随時、立岩氏が率いるチームによって、ホームページに掲載されていくのだが、厭わずになされるこの収集作業が多大な労力の一つだ。ここでは触れないが、なぜそのようなことをしなければならないか、ということは、著書の中で語られている。

 そして次の書籍化するという段階にあって、集められた資料が引用され、転写されていくことになるのだが、ここが最も肝要であるかと思う。おそらく、著者が資料段階から書籍化の段階にあって最大の労力を傾けたであろうことは、それらをどう掲載するか、どんなふうに並べてみせるかというその方法ではなかったか、と推測されるのである。

 通常の研究書のように、本文の述べるところに従って資料が引用され、注が付され、参照文献が示される、というようなありかたとは異なる、たとえば「入れ子構造」とでも呼びたくなる形で引用が示されていく。こうしたスタイルをどう読み解くかが、評者にとっては、最も肝要なところだった。

 見るところ、立岩真也という著者は、本書のように記述の重層的なスタイルを、必然とさせてしまうところがある。

 思い切り雑駁に言うが、倫理と実存の二律背反(そこにある微妙だが深い溝)。生命と非生命の臨界。自己決定や障害当事者の問題。つまりは、自己決定から「最も弱くあるもの」が、最大の自己決定権を行使しなければならないという命題がはらむ背理。こうした、人類がいつか決着をつけなくてはならない「最終テーマ」が論じられているからこそ、問いは、可能な限りシンプルにさせなくてはならない。著者は、おそらくそのように考えている。


 しかし問いの形がシンプルになればなるほど、叙述のスタイルは多様で重層的になる。このことを逆に言い換えるなら、いかにデリケートに問題設定できるか。その問題設定に応じた叙述は、どう「現実」に近づいた構造的なものとなっているか。このように考える限り、資料や証言の引用とその構成は、複雑にならざるを得ない。

 資料の構成が「編集されている」、と書くと誤解を与えるだろうから、叙述全体が、きわめて自覚的な方法に立ってなされている。資料の扱いも然り。

 そしてそこにさらに加わるのが、テーマが70年前後の政治闘争、しかも医療者によって担われた政治的な運動であることだ。それがどのようなものだったかは(少なくとも私が受け取った限りのものは)、前記の書評本文に記してある。短い文章の中で、この辺りの事情をどう伝えるか。それが、評者の当初の問題意識だった。しかし力不足だったのだろう、うまく描き切ることができなかった。

                                                       (以下、次回)
 
(6/8 加筆)

『飢餓陣営』40号「編集後記」のことなど

飢餓陣営40号が、やっと印刷段階に入りました。予定よりも1ヶ月ほど遅れましたが、3月中旬には仕上がる予定です。いま少しお待ちください。(いつも遅れに遅れる『飢餓陣営』にしては、上出来です)。

40号は、前回以上にボリュームアップし、330ページを超えました。ただし「水増し」ではなく、かなり豪華なラインアップになって充実度を増しています。ホームページに「目次」詳細をアップしています。ご覧ください。
(こちらへ)http://www5e.biglobe.ne.jp/~k-kiga/

まだ「現物」を手にしていないので、どんなふうに仕上がるか、ドキドキとハラハラを同時に感じていますが、「自負」のほどがいかほどか、下記に「編集後記」を貼り付けます。出来上がってきたものを手におしたとたん、誤植が目に飛び込んできて、がっかりすることがいつものパターンですが。ともあれ下記をご覧ください。


「編集後記」
二月二五日(火)
●飢餓陣営四〇号をお送りします。本文その他にも記してあるように、岡江晃氏関連の特集については竹島正氏に尽力いただくところが大であり、岡江正純氏にもご協力をいただきました。心より感謝申します。「鑑定と臨床と支援」という難しくて微妙な問題に対し、どの論議も、いま考えられるもっともハイレベルな内容をもつ特集になっているのではないかと思います。これは、決して独りよがりの自負ではないはずです。

●もう一つの特集「哲学と臨床のあいだ」は、小林隆児氏のコーディネートによります。哲学と臨床をめぐり、こちらもトップレベルの臨床家と哲学者の方々による,迫力ある論議が展開されています。鯨岡峻氏には初めて、竹田青嗣氏には久々にご登場いただきました。おかげで豪華このうえない内容になりました。感謝申しあげます。

●また、後藤弘子氏も初登場ですが、この間、大阪の事件を機に取材し、刑法に対する考え方や裁判について、大きな示唆をいただきました。是非にとお願いし、取材のインタビュー原稿を整理していただきました。ご多忙のなか、ほんとうにありがとうございます。

●さらに、長いあいだ暖めていた村瀬学さんへのインタビューも、ここにきてやっと実現できました。村瀬さんの卓抜な着想や発想力は、価値観が激しく転変するこの時代だからこそ重要なものになる、と感じてきました。こんど刊行された『徹底検証 古事記』も、村瀬さんに特有のアンテナで、現代の課題の何であるかがキャッチされているはずで、それをいかにつかむかが最大の目的でした。いかがだったでしょうか。次回どうなるかはまったく分かりませんが、すこし充電をして、ふたたびチャレンジしていきたいと思います。

●改めてこの充実したラインアップを見て、贅沢極まりないことをさせてもらっている、とつくづく思います。また執筆者の皆さんには、できるだけ早い刊行を、というこちらの一方的な申し出にも応えていただきました。感謝申します。目次をご覧になっていただくだけで、発行者の「ドヤ顔」が浮かぶのではないかと思います。今号も菊地信義さんによる表紙をお届けします。

●次号は夏、八月か遅くとも九月には刊行できるように努めます。連載を執筆の方は七月末をめどにお送りください。

●次号の企画の基本構想は、ほぼできています。発送作業がひと段落したら、呼びかけと依頼を始めます。お付き合いいただければ幸いです。ではまた次号で。(幹)


「ドヤ顔」なんか簡単にしちゃっていいのか、と心配になりますが、上の文章にある出来上がり間際の高揚を差し引いても、これで1300円というのは、相当にお得です。それくらいの充実感があります。

これから発送の準備に入ります。遅くとも3月中にはお手元にお届けできると思います。

印刷屋さんに送った翌日、東京・両国の「江戸東京博物館」にて開催中の、「大浮世絵展」を観に走りました。やっと、出かけようという気分になりました。入ったとたん、入場券を求める長い列。げっ。見ると、皆さん、団塊の世代と思しきご世代。ご夫婦連れ、お仲間グループ。これからは、どこの美術館・博物館へ行っても、こういう光景と遭遇することになるのでしょうね。

浮世絵展の内容は、さすがのど迫力。今回は、色彩の鮮やかさに心を奪われました。版画を見て、これまでは色がきれいだ、という感銘とは別のものを受け取ってきたのですが、このたびは色の美しさにしばしば見入りました。名前を挙げたらきりがないので挙げませんが、帰宅後も、買い求めた図版を眺めてはため息をついています。




検案作業の実状と課題(その2)――九州大学医学研究院法医学分野・池田典昭氏への取材より


災害と法医学について
 災害によって死亡者が出たとき、警察と法医学者・医師による検死作業が不可欠となる。ではそもそも「災害」とはなにか。池田典昭九州大学大学院教授(法医学)より提供していただいた資料には、次のようにまとめられている。

◇自然災害:地震、台風、竜巻、津波、洪水、旱ばつ、疫病、飢餓など
◇人為災害:火災、爆発物、銃火器、群衆による圧死、発電所事故、建造物崩壊(建物、歩道、橋など)、交通事故(航空機、鉄道、自動車、船舶)、危険物、産業廃棄物(HAZMAT)、サイバー攻撃(ネットテロ)、大量殺戮兵器(核兵器、化学兵器、生物兵器)
◇人道的緊急事態(CHE):戦争、紛争、難民

 そして「災害」は、学問的には次のように定義づけられているという。
「突然発生した異常な自然現象や人為的な原因により、人間の社会的生活や生命と健康に受ける被害とする。災害で生じた対応必要量(needs)の増加が通常の対応能力(resource)を上回った状態である」
 
池田教授は次のように語る。人間が亡くなる。そのとき法医学の見解としては「死因を究明することによって犯罪を発覚させ、次の犯罪が起きるのを未然に防ぐ、あるいは事故死か病死かの判断をして、保険の精確な給付のための情報提供をする」、監察所であれば「公衆衛生の向上をはかる」と言われているが、何のためにやっているのかと言えば、個人的には、やはり亡くなった方の名誉のためではないかと思っている、そう池田医師は言う。

「死にたくて死ぬ人は、まずいません。最後の状況を正確に把握し、家族に伝える。あるいは社会に伝える。そのことによって、その人の最後の意思が伝わることになる。日本の風土では、亡くなったあとまで解剖をする、体にメスを入れるということに対しては断る方が多い。死者がお年寄りであればやむを得ないと思いますが、亡くなった人のためには、できれば解剖検査に承諾していただきたいと思うのです。そうでないと、その人の無念は晴れないのではないか。それが多くの法医学者の考えです。亡くなった方は「原因を正確に家族に知ってほしい、どんな状況で死んでいったのか理解してほしい」と考えているのではないでしょうか」

 遺体が発見されたあと、次のような流れを経て家族に引き渡される。

「回収→搬送→洗浄→検視→検案→保管→引き渡し」

 このなかの「検案」が、法医学者が執り行う作業であり、そこでは死因の特定、犯罪性の有無、個人識別が、大きな目的となる。

相馬での検案の様子
前回お伝えしているように、池田医師は東日本大震災の後、石巻、名取、岩沼、閑上で検案作業を行った。今稿は、その2回目の報告となる。

名取の体育館でおこなった時は、遺体はすべて身元が判明し、棺に納められていた。しかし、家族がいないために引き取ることができない、引き取っても火葬できないなどの理由で体育館に安置されたままになっていた。家族は、毎日遺体と面会するために訪れる。池田医師はそれをただ見ているだけの自分に、しばしば無力感や、やり切れなさを感じてならなかったという。

仙台から帰ったあと、できればもうあのような過酷な現場には行きたくないと思っていた。ところが、4月に入ると福島の第1原子力発電所から20キロ圏内の地域に、本格的な捜査が入ることになった。多くの遺体が発見されるだろう。検視が必要となる。法医学者の誰かが行かなくてはならない。たまたま池田氏の大学時代の同級の医師が、放射線医学研究所から人員派遣についての相談を受けているということで、その医師に請われ、結局池田医師が4月7日まで福島に滞在することになった。

検案場所は相馬市のスポーツセンターだった。福島まで東北新幹線で行き、そこから福島県警の車で南相馬に入りをした。満開になった桜が目に入り、一見何事もない、いつもの春の光景に思えた。しかし飯館に入ったところで、池田医師が持参してきた線量計が高い線量の放射線を検知した。浪江から先には厳重な通行止めが敷かれていて、改めて自分たちが直面している日常と非日常の大きな落差を、目のあたりにさせられる思いだった。

検案作業は次のように進められた。体育館の外に除染場をつくり、日本放射線医師学会から派遣された技師が、カウンターをもちながら遺体の水洗いをする。線量を図り、基準値以下まで下がったところで館内に移し、検視が始まる。そういう流れだった。

身元不明の遺体もあった。DNAを採らなくてはない。歯科所見が大事だということで抜歯をしていたが、そのためにはレントゲンを撮らなくてはならなかった。しかし、レントゲン撮影をするにしても遮蔽するものがない。1枚の板をあててレントゲン撮影をすることになるが、館外の除染場よりも、レントゲンを撮る付近の放射線の量のほうがよほど高い、ということになったりした。すでにひと月近くを経ていたから、遺体の損傷は激しく、血液採取はできなかった。

「遺体からDNAの試料を採取しないといけないのですが、採るところがないのです。そこで大急ぎで警察庁を通して、一部骨を切ったり切断したりするのを、その時に限り死体損壊にはあたらないという通達をだしてほしい、そう厚労省に伝えてもらい、その許可を出してもらって、DNA採取をしたのです。寒い東北地方の遺体だったので、死後変化が遅れたという事情はあったと思いますが、それでも2週間を過ぎると条件が一気に厳しくなります。血液は採れませんし、身元確認がさらに難航することになります」

検案場所となった体育館の隣が避難所となっていた。池田医師はそこで家族と話す機会があった。

「家族のだれかが行方不明になっている、家が被災して避難所にいる、というストレスに加えて、家族が見つからない、見つけようとしても移動の手段がないためにどこにも行けない。遺体安置所はいくつもあるのに、確かめに行くことができない。亡くなっているのなら、それはそれではっきりさせたいけれども、それができない。そのことが一番のストレスになっていたと思います。できるだけ多くの検案をして、早く遺族に遺体をお渡ししたい。でも進まない。遺族は辛い。医師は余っていたんだけど、法医学者以外は検案はしませんからね」

グリーフケアについて
 それから悲嘆に暮れる遺族のグリーフケアをどうするか、という話題に移った。

 「ある高校で検案をしたとき、お母さんと赤ちゃんの二つの遺体が見つかったのです。そこでは遺体の多くが叩きつけられていますから完全遺体ではなく、部分遺体になっているわけです。そこで着衣を見て判断していたのですが、検案の結果、赤ちゃんは身元が分かったんだけど、お母さんはどうもはっきりしない。するとご赤ちゃんのご遺族が来られて、この遺体は母親ではないというのです。検案をやり直したところ、女子高生だということが分かった。たぶん、この女子高生の方がどこか途中で赤ちゃんを預かるなりして、抱きかかえながら逃げたのだと思うのですね。お母さんのほうは助かって別の避難所にいたということで、次の日やってきました。小さな棺の脇にずっと一日中座って泣いていましたね。間違えるところでしたが、そういうこともありました。このお母さんには声をかけられませんでした」

 池田医師によれば、これまで日本法医学会ではグリーフケアについては重視されてこなかったという。最後はどんな様子だったか、と解剖や検案をした医師に尋ねられても、医師のほうは困る。ましてグリーフケアなどできない。しっかりとした専門家が対応しないといけない。特に震災の場合、真っ先にグリーフケアのできる専門家に避難所に入ってもらうくらいでないといけないのではないか。池田氏はそう言う。

「通常であれば、家族同士、同じ遺族同士で慰め合うことができます。しかし今回は、家族を一瞬に何人も亡くしている方が多い。残された人を誰がどうケアすればいいのか。避難所でも一人でポツンとしている方がいるのですが、そういう方には声をかけてあげないといけないのだけど、どうしたらいいか難しい。早い時期からグリーフケアができる人を投入していかないとダメなんじゃないか。最初に避難所にいったとき、そのことを感じました」

池田医師が朝、検案場に行ったらすでに遺族が来て、棺のそばに座っている。夕方帰るときにもまだ座っている。引き取る場所がないために、安置所で保管しているが、そこで一日中、泣いている。こういう人たちへのケアをどうするのか。

「グリーフケアは、医療には入らないと言われています。死んだあとに死後処置をするエンゼルケアは看護師さんがやるので、保険を請求できます。ところが遺族に死亡診断書を渡すときに、遺族と言い合いになることがあるのです。そして臨床医ではなく法医学者のほうに、どうして死んだのか、治療が悪かったのではないか、死ぬ前はどんな状態だったのか、痛みはどうだったか、苦しんだのではなかったかなどと、いろいろ訊かれることがあります。我われは比較的慣れていますが、医師による死後のしっかりとした説明はとても大事なことだと思うんだけれど、日本では重要視されていないのですね」

それは医師の仕事ではない、心理士や看護師の仕事だと思われているが、医師たちはもっと考えた方がいいのではないか。そう池田医師は言う。無用なトラブルを避けるという理由だけではない。医師は患者の命を助けることが仕事だけれど、万全を尽くしてもだめだったとき、その後ろには悲嘆する遺族がいる。その点も考えないといけない。 これは災害による死だけではない。一般のケースでも起こりうることである。まして高齢社会の深刻化につれて、さまざまな問題が生じつつある、と池田医師は言う。
                             (以下、次号)

遺体検案作業について(その1)――九州大学医学研究院法医学分野・池田典昭氏への取材より


「健康保険」2012年4月号より転載>
東北被災地の「検案」作業

 2012年3月11日、東日本大震災からちょうど1年となる節目の日、死者1万5854人、不明者はいまだ3155人、避難者数34万3935人とされた。このうち、福島から県外へと避難した人の数は6万3千人にもなる。自宅へ帰る見通しはいまだたたない。いずれの被災地も瓦礫処理の方策さえ見えず、引き取り手のないまま、復興への道のりが依然として阻まれていることに哀しみさえ覚える。

 そんなおり、警察庁が発表した次のようなデータが目にとまった。

表1検視、身元確認等の実施状況(平成23年6月20日現在)
『平成23年版 警察白書』より

区分 遺体収容数(体) 検視等実施数(体) 身元確認数(体) 遺体引渡数(体) うち遺族引渡(体)
岩手県 4,549   4,549(100) 3,783(83.2) 4,502(99.0) 3,624(79.7)
宮城県 9,251 9,251(100) 8,306(89.8) 9,235(99.8) 7,708(83.3)
福島県 1,597 1,597(100) 1,487(93.1) 1,595(99.9) 1,215(76.1)
3県合計 15,397 15,397(100) 13,576(88.2) 15,332(99.6) 12,547(81.5)

注 1:(  )内は遺体収容者数に占める比率(%)を示す。
   2:「遺体引渡数」には、遺族のほか、市町村に引き渡した遺体の数を含む。

 この表をご覧になって、どんなこと感想をもたれるだろうか。収容された遺体の身元確認数の割合が80パーセント以上になっているが、これは、この地域ならではの〝つながり〟の緊密さがあればこそである、大都市圏ではもっと不明者数が増えるのではないか。……昨今の風潮を重ねながら、そんなことを思われるだろうか。

 あるいはまた、いや身元確認を困難にしているのは各集落における関係の濃淡以上に、遺体の損壊状態によるだろうから、一概に、都市ではこう地方ではこうとはいえず、むしろ関係者の尽力によるところが大きいのではないか。……このような推測も可能かもしれない。

 筆者には、「遺体収容数」と「検視等実施数」とが同数であることに注意が惹かれるものがあった。このように書くと、収容された遺体がすべて検視されるのは当然のことであり、なんら不思議なことではない、と感じられるかもしれない。本欄の第79回と80回(2011年11、12月号)にて報告してあるが、ここには検案を担当した医師たちによる地道で、膨大な労力を要する作業があった。多くの亡くなられた方々に対し、1体ずつ検視がなされ、死亡診断書が書かれ、身元確認がされ、記録が残されていったのである。

 前述のように、不明者を合わせ、2万人近い膨大な数の死がある。しかし死は「数」である以上に、個別のものである。一人一人の人生があり、それぞれの限りない無念と遺族の慟哭がある。また一方、自然災害の死者としては類を見ない「2万人」というけた外れの数も、私たちを圧倒せずにはおかないものがある。本レポートも、このような死者の問題を、言い換えれば、今回の大震災がもたらした「死」や「死生観」という重大な主題を、避けて通るわけにはいかないのではないか。そのように感じつづけてきた(これは、すでに取り上げてきた終末期や看取りの問題とも深くかかわっている課題である)。

 改めて思うのだが、死者に対し、「人間の死」として最初に畏敬とともに執り行われるのが、医師による検案作業であり、死亡診断書の作成である。そのように筆者は思う。またそのようになされることを願う。医師の死亡診断なくしては、その後の火葬も埋葬も行うことができない。言い換えるならば、残された人びとが死者への葬送の儀礼を施し、悼み、悲嘆にくれ、追慕するという、死者と人間のあいだでなされる交換・交流の行為が十全に行われるためにも、重大な意義をもつ最初の営みが検視と検案の作業である。したがって私たちは、それがどんなものか、もっと多くのことを知っておく必要はないか。

 そのような意図のもと、今回は、法医学を専門とする池田典昭教授(九州大学大学院医学研究院法医学分野)を訪ね、お話を伺うことにした。

現地入りし、石巻にての検案作業が始まる
 池田教授は大学の法医学教官として講義と研究に携わるかたわら、冤罪事件や誤認検視の鑑定のため、年間100件ほどの司法解剖を行っているという。法医学を選択されたきっかけを伺うと、医学の学問的な基礎研究だけではなく、実際の人体に生かすことのできる基礎研究をしたいと考えてきたし、解剖することによってさまざまな疑問や謎が解決していく点に惹かれている、という答えだった。

 そして次のようなことを話された。阪神大震災のさいにも5000人以上の死者が出たが、法医学者は遺体検案のために組織だって行動したわけではなく、医師たち個々人の意思と裁量に任されていた。そのために事後、十分な遺体検案をして死亡診断書を書くという業務が、大規模災害にあってはもっと組織的に取り組まれるべきではないかという反省が出された。その後、警察庁と日本法医学会が、大規模災害が発生した際は警察庁が派遣要請を出し、日本法医学会はそれ受け、学会として計画的に法医学者を派遣する、という取り決めがなされることになった。その結果、今回の震災では、警察庁の派遣依頼に添って人選をし、派遣をすることになったのだという。

 どれくらいの数の医師たちが現地に向かったのだろうか。池田医師は、間もなく報告書が日本法医学会から出るので、精確な数値などはそちらを見てほしいと断りながら、延べ人数としては10人ほどの人員を4月から10班以上出しているから、合わせて400人から500人、あるいはもっと多いかもしれないと言う。池田医師はその先陣となった(後の報告では、医師・歯科医師合わせ、岩手(459)、宮城(679)、福島(250)で、総述べ人数が1388人となっていた)。

 氏は大学時代を山形で過ごしており、宮城県の女川や岩手県の大船渡にも同窓の医師がいるなど、東北の事情に詳しかったこともあり、第2班の検案医師として早々に赴くことになった。現地入りは3月18日。仙台空港は使用できなかったから、空路で山形入りをした。仙台市内はホテル営業ができる状態ではなかったため、山形市内のホテルを宿泊地とし、山形県警の車で宮城県警本部まで向かい、そこから各検案場所に分散していくという方法が採られた。山形自動車道もまだ開通していなかったため、山形から仙台までは片道3時間を優に要したという。

 「朝6時に出発して9時過ぎに宮城県警に到着し、県警を9時半ごろに出ます。女川の体育館が一番遠かったのですが、女川には2時間半かかるので、着くと11時過ぎになります。電気が通っていませんし、日の暮れるのも早い。4時くらいまでしか作業ができないため、実動は5,6時間。そしてまた2時間かけて宮城県警に帰り、さらに3時間かけて山形まで戻る。山形に着くと10時くらいです。何もすることはないから、食事を摂るとすぐに寝て、また翌朝には仙台へ向かう。そんな毎日でした」

 池田医師にとって印象深かったのは、山形市内のホテルとはいえ、最初、食事はご飯と味噌汁だけ、ところが、3日目に山形道と東北自動車道が開通したとたん、がらりと食事の内容がよくなったことだった。物流が止まると食べるものがなくなり、開通するやまた入ってくる。あそこまでも違うものかと改めて感じたという。
検案は、3月に宮城県内で1週間、4月に入ってから福島で1週間、と2回行われた。最初の1週間は、石巻に3日、名取、岩沼、閑上方面に3日というスケジュールで実施されることになった。検案の場所に最初に訪れた際の印象を次のように語った。

 「私は司法解剖を30年やっていますから、あらゆる現場を見てきたし、今回の検案にあっても、まあ大丈夫だろうと思っていました。ところが、最初に行ったのが石巻の旧青果市場だったのですが、ご遺体が700から800くらい、ずらっと並んでいたのです。これにはびっくりして、入ったとたんに足がすくみました。余程凄惨な現場でも大丈夫なはずだと思っていたのですが、本当に驚きました」

 旧青果市場には、電気、ガス、水道のいずれも通っていなかった。山形と新潟の水道局が運んできた水を外に設置したポンプで引き入れ、それを溜めこんで洗浄水とした。遺体の搬入通路が決められており、次々に運び込まれてきた。検案は終えたが身元不明の遺体はここに、身元の分かった遺体はこちらに、と場所を決めて安置していく流れになっていた。多いときは検案のためのブースが10カ所できた。警視庁2ブース、大阪府警2ブース、山形県警2ブース、他に群馬や兵庫、高知など地方の県警が1ブースずつ使用していた。

 「もっとも多い時期は法医学者が14人ほど派遣され、一番遺体の多い石巻には6人入りました。検案が終わった身元不明のご遺体は顔が見えるように安置し、青果市場の外にも顔写真をはり出しました。そのときは3月20日前後のこと、交通機関も全く通っていなかったし、訪ねてくる遺族はほとんどいませんでした」

 安置された遺体の傍らには所持品が置かれていた。位牌、現金、キャッシュカード、貯金通帳。中には家財道具を持ち出そうとしたらしい遺体もあった。いったん身元確認ができたと思った遺体が、じつは複数の免許証を所持していることが判明し、やり直しとなり、結局身元不明とされたという遺体もあった。

 「おそらく家に戻り、金銭や家財をもって逃げようとした方は、ほとんどが亡くなられたのではないでしょうか。驚くほど大量の遺品が、一人の持ち物としてそばに置かれていることもありました。バックやリュックにありとあらゆるものを詰め込んでいたり、3つも4つも両手に抱えきれないほどのバックをもっていたり、そんなご遺体も少なくなかったですが、おそらく着の身着のままで逃げた方以外は、助からなかったのではないかと思います」

 最初の3日間は、1日に200体ほどの遺体が次々に運び込まれてきた。4日目になるとぱたりと来なくなった。身元不明の遺体が残っていき、すぐに安置する場所がなくなり、外にテントを設営してそこに納めた。しかしその新しい場所も入りきれなくなるくらい増えていった――これが最初の旧青果市場の様子だった。

遺体検案場の過酷な様子
 池田医師によれば、津波による遺体と通常の溺死体との違いはないと言う。津波の場合は瓦礫と一緒に流されるので、一部に普通の溺死体よりも損傷の大きいこともあったが、多くはきれいだった。全く損傷のない遺体も多かった。石巻は火災が発生していたため、一部に焼死体はあったが、多くは溺死体だった。

 「阪神淡路大震災の時とは状況が全然違います。阪神の時は、建物の倒壊による圧死、損傷死、閉じ込められたのちの焼死が過半でした。今回は90パーセントを超えて津波による溺死だと思います。私が出かけたのが初期だったからということもあるでしょうが、過半はきれいなご遺体で、だから検案としては苦労は少なかったですね」

 石巻の旧青果市場の次は、大川小学校の近辺で亡くなった方々の検案だったという。場所は旧飯野川高校の体育館で、子どもたちの検案の多くは前日のうちに終わっていた。ブースは2つしかなかったが、池田医師は、棺があったことに安堵を覚えたという。

 「私が行ったのは震災から10日ほど過ぎたころですが、東北地方は寒かったので、ほとんど損傷も腐敗もしていませんでした。気温が4度ほどであれば、外表上はあまり変化はしないのです。次に行った福島は半月経っていましたから、かなり腐敗が進んでいました」

 そして池田医師は、次のようなことも語った。警察官による検死作業は早朝から始まっている。医師たちが現場に到着するのは11時過ぎ。遺族に早急に渡したいと誰もが考えているから、到着するや否や、検視を終えた多くの遺体の検案を求められ、すぐに検案書を書かなくてはならない。遺体にはナンバーが付されているだけで、検案をするためにはその番号を見て探さなくてはならないが、膨大な数に上っている。ゆっくりと探している時間はない。つい、雑な対応になってしまいがちになる。長く続けていると、遺体に対して失礼のないようにという感覚が、やがて鈍磨していくのだという。

 「これを、若い医師に1週間以上も続けさせたらだめだと思いました。派遣先について、2日間一つの場所で作業をしたら、次は遺体の少ないところに回す、というように調整しながら6日間を交代で作業しました。今回の検案は、医師として貴重な経験にはなるでしょうが(貴重な経験、という言葉が適切かどうかは分かりませんが)、これだけの数の遺体安置場での検案は、やはりたいへんな修羅場だし、私でさえここは異常な場所だと感じました。長くいると、我々の感覚もまともではなくなっていくのですね」

 次回は、池田医師による法医学上の問題提起を紹介したい。それは、本コーナーのテーマである高齢者問題にも直結する課題でもあった。

津波被災のために孤立した介護施設が、なぜ一人の死者も出さなかったのか(その3)


スタッフの研修と法人の理念
特別養護老人ホーム「杜の里」の報告の3回目である。被災後の孤立した状況の中で、他地域の施設に避難するのではなく、平常勤務に戻るまでそこに踏み留まる道を選んだ。それが利用者の命を守る最大の方法である、と。そして言葉通り、一人の死者も出すことなく乗り越えた。

 山崎和彦理事長は、夜間ではなかったことを理由の一つとして挙げた。夜勤者は、各階二名ずつで計六名。この数では何もできなかっただろうという。そしてもう一つ、職員研修の成果であることを強調した。ここまで、スタッフによる記録を紹介してきたが、職員一人一人の判断の迅速さが書き留められていた。そして施設長による被災状況の把握の素早さと、それにもとづく全体への指示が明快だったこと。明快だったがゆえに「利用者全の命を守る」という目標がすべてのスタッフに共有され、行動が迷いのないものとなっていることも読み取ることができた。

 これらに加え、スタッフ全員が自らも被災者であるなか、こうした緊急時の介護がなされたという事実も改めて書きとめておきたいと思う。たとえば副施設長の報告書には、支援物資の食料は固い物が多くて利用者がそのまま食するのは危険であったため、通常の何倍もの手間をかけて柔らかくしたという記載がある。それでも「その際も立て続けに、「こちらでむせました」「こちらで誤嚥しました」という声が上がり、その都度看護師が駆けつけて吸引を行った」。まさに予断許さない食事介護であり、それが介護者にどれほど緊張を強いるものか、想像に難くない。

 自身の家族の安否確認もままならない中で、食事、保温、ストレスや恐怖心の緩和といったような、普段の何倍ものこころ配りを必要とする介護が行われていたのである。スタッフ同士でも鼓舞し合い、統率のとれたチームワークとして現われたことは、一朝一夕の、付け焼刃の鍛錬で身につくようなものではないだろうと思う。

山崎理事長は言う。
「杜の里は厚生労働省が指定するユニットケアの実地研修施設として、多いときは年間100名もの研修生を受け入れてきました。研修生は1週間の実習期間中、施設のユニットにずっといて、杜の里の介護職員の動きを見ています。ユニットケアはどうすればいいのか、研修生が自分自身で考えることが目的です。つまり私の施設の職員は、自分たちがやっていることが評価の対象となるわけです。これが足りないと指摘され、どうして自分たちにはできないのか、何が足りないのかを考えながら、指摘されたことをありがたく受けとめて、これは改善これも改善とこの10年やってきました。便臭のないおむつ交換はどうすればできるか、みんなで考えてほしい。いち早く便臭が消えるような、介護をしているのが気づかれないようなおむつ交換をするにはどうするか。そうやって自発的に勉強会を積み重ねてきました。こうした地道な取り組みの積み重ねで自主的に物事を考える職員が多くなったこと、それから避難訓練を毎月行っていたこと。この二つによって、被害を最小限に抑えることができたのだと思います」

 山崎理事長が施設経営に対する明快な理念を持っていることは、取材のそこここで伺うことができた。しかし理事長や法人の基本的な方針がスタッフに共有されていなければ掛け声倒れになる。山崎理事長は、スタッフ一人ひとりの意識改革を徹底して図りたかったかったこと、企業経営では当たり前の考えが介護福祉ではなかなか通用せず、そうしたあり方を変えたかったことを述べ、自分たちは東北の仙台からよりよい施設介護のあり方を発信したかったと強調した。

 特別養護老人ホームは一九六〇年代前半から七〇年代にかけて、全国に量産されることになるが、多くが病院の建物施設をモデルとしながら作られてきた。なかには、人生の最期を過ごすには全くふさわしくない生活を強いる場所となった施設もあった。

「日本の戦後を復興させてくれた先輩たちが、自分の望まない最期を強いられ、そして死んでいく。これではだめだろう、という思いが私には非常に強かった。まず建物から変えていこう。建物の住居環境を『プライベート』『セミプライベート』『パブリック』『セミパブリック』に分散させて、普通の住宅で生活できるような施設に作りかえる。そして、自宅で生活していたリズムそのままで、施設で暮らせるような生活環境に変える必要がある。やがてこの考え方は、『ユニットケアに』と呼ばれるようになりましたが、一人ひとりが大事にされ、最期まで自分らしく過ごせるような、そんな介護をしよう。一人2部屋のスペースを作り、夫婦の片方が入所したときにはもう片方が一緒に泊まったり、自宅に帰ったりしながら一緒に過ごし、人生を見つめる環境がいまの日本の老人介護施設には必要だろうと思ったのです」

大船渡「富美岡荘」から仙台「杜の里」へ
そして話題は、山崎氏の原体験である大船渡時代の話になった。
「大船渡にいたとき、私の母親はいつも二四時間体制でした。ベッドに電話があって、夜の八時になると、夜勤者から必ず利用者全員の報告を受けていました。当時の職員は、訓練期間が半年もありません。せいぜい一週間か二週間程度勉強をして現場に出ていましたから、いくら専門学校で学んでいても厳しい。夜間の報告は母親にとっては、職員の教育も兼ねていたわけです。たとえば熱があります、という報告があったとする。すると何度ですか、顔色はどうですか、と母親は必ず尋ねる。携帯電話なんかはなかったですから、夜勤者は、ちょっと待って下さいと走って行って顔色を見て、とくに悪くはないですと答える。すると次は、汗はかいていましたかと聞く。また走って行って確かめる。こういう繰り返しの中で、若い職員も、私も育てられました」

 大船渡の小高い丘に、「富美岡荘」と命名された老人ホームが開設されたのは、1976年だった。施設長だったシゲ氏は、夫で医師の伊一郎氏との二人三脚を続けてきたが、その歩みは『富美岡荘物語 すべては愛から始まった』(佐藤眞一監修)という一著にまとめられている。高齢者施設は「姨捨山と言われていた」というが、70年代の東北地方における介護施設における偏見がどれほどのものかは、同じ東北の出身である筆者にも覚えがある。伊一郎氏とシゲ氏はそのような中での先駆者であり、著書を拝読すると、あの時代、すでに高い理念をもって高齢者のケアにあたっておられ、筆者には大きな驚きだった。

 書中に次のような印象深い一節がある。

 シゲ氏は「特別養護老人ホームのケアは、長期的なターミナルケア」であり、「ターミナルケアには二つの考え方がある」という。どういうことか。「そのひとつは、医師より余命が数カ月と判定され、看護や医療的なケアが求められる時期です。これは短期的、あるいは狭義のターミナルケアです。もう一つの考え方は、私たちがお年寄りとかかわりをもったとき、出あったときから始まっているという長期的なターミナルケアです」と述べている。つまりは老人ホームでのケアは、毎日が「一期一会」の思いをこめたものでなければならない、ということになる。筆者は、深く納得をした。(シゲ氏は現在も、現役の園長として活躍しておられる〉

 今回の震災で大船渡の施設は津波被災を免れたが、一人でも多くの市民を助けなければならないと、法人が総力を挙げて避難施設としての役割に努めたという。

 「今回、体育館や公民館など、いろいろな場所が避難場所になりました。私は大船渡の施設で避難者の受け入れをしていましたが、被災しない老人ホームが避難所としては一番いいと痛感しました。看護師がいる、介護員がいる、組織としてまとまっている。医者も常駐させることができる。施設全体がバリアフリーになっているし、〝障害〟をもっている人にたいするスタッフの意識も高いから、福祉避難所としても機能できる。これからの介護施設に関しては、このことも、国や自治体は考えてほしいと思います」

 そして次のことも加えた。
 「今回、大船渡全体が真っ暗になりました。私の施設は高台にあるので、投光機4台をリースし、施設を照らすように、と言って照らしました。真っ暗な中で丘の上の老人ホームが明るくなっていたということで、市民の人たちの心の支えになったと言います。やはり光は理屈抜きで人間を奮い立たせますから」。
 施設のハード面に加えてケアそれ自体について、もっと客観的データにもとづいたものにできないか、と山崎理事長は考えていた。

 「例えば食事の介護。昔は◎、○、△、×とチェックするようになっていました。その記録が1ヶ月分たまるわけですが、しかしたまるだけで何の役にも立っていない。そこで私は10人の介護員を集めて食べ残したご飯を見せ、これは何割を食べたと見る? 全量か、ほぼ全量か、半分か、10分のいくつか、と聞きました。同じように、副食や水分補給量はどうか。

 厚労省が決めた1日の摂取カロリーは3食で1500カロリー程度ですが、10分の7しか食べていない日が1週間続けば、3割は食べていないということになるから、当然、体重は減っていきます。ところが漫然と記録しているだけでは体重が落ちていることに気づかないことがあるし、病気が重篤化しているということもままある。それを防ぐために、私の施設では食べた量をすべてデータ管理しています」

 排泄も同様だった。いつ交換したのか、記録がなければ分からない。定時交換ではなく随時交換だとがんばっていた施設長が勤務していたときは職員も努めているが、転勤などでその施設長が不在になると、やがて記録が空白になる。三日以上排泄がない人は何人いるか。データ管理をしていれば、すぐに出てくる。記録がなければ、100人も利用者がいるしせつでは、介護職員の連携が悪いだけで、1週間便が出ない事態が見落とされてしまうことがある。これでは良質のケアとは言えない。

 「水分補給にあっても、補給データ下がると熱が上がる。データがなければ、やはり気づかれないままになってしまう。きちっとした管理をし、水分をきっちり取ることで熱は出なくなる。あるいは歯磨きをしっかりやると、肺炎は少なくなる。そうやって介護力をつける。それが私たちの仕事ではないですか。そんなふうなパーソナルケアを提唱しながら、もう一方で、空間構成をユニット型にまとめ、自分らしい生活環境をつくろうとしてきたのです」

「杜の里」の再建をどう果たすか
 ところが被害状況が明らかになるにつれて、杜の里には難問が立ちあがっていた。
来ないと考えていた場所に津波が来た。そうであれば、安全な土地へ移転しなくてはならない。土地は確保できるのか。移転となれば多額の資金が必要となる。新しい土地に移転するにしても、つなぎの期間、それまでの場所に仮設施設として過ごすのか避難するのか、という問題もあった。

 大きな余震が続いている。四月七日の深夜には最大余震が発生し、津波警報が発令された。同一一日には福島県で震度六弱の地震が発生し、やはり津波警報が出され、その直後も余震が繰り返された。五月の連休には大きな余震が来る、といった噂もあった。携帯電話の余震を告げる警告音は、六月までのあいだ、一日に一〇回以上も鳴り続いていた。ここに留まって、次の津波で死者を出すことになったらどうなるか。責任問題どころではなかった。

 「私が『杜の里』に戻ったのは一週間経ってからですが、玄関前の瓦礫の山を見たときには涙が流れて止まりませんでした。しかし二階に上がって行くとき、どれだけを借金してでも新しい施設を作る、八〇代の皆さんのラストステージを津波で終わらせるわけにはいかない。そう決意しました。なにがあってもいい施設に入っていただき、極楽浄土に行っていただく。そうしないと私の責任は果たせない。絶対に施設を再建する。スタッフ皆を集めてそう告げたのです。全員でこぶしを上げて「復興するぞ!」と3回、気勢を挙げました。それから厚労省に行き、国費をもって沿岸全域の施設を再建してほしい。そう陳情しました」

 厚労省や仙台市を陳情して回った際、被災施設への厚意溢れる支援のスタンスを感じ、深い感謝を覚えたという。しかしその反面、職員の前では見せなかったが、ここに留まるのが適切な判断かどうか、じつは最後まで悩み続けたともいう。なかには東日本大震災クラスの津波の再来の可能性を指摘する専門家もいた。

 「私らは、被災した施設に、再建まで籠城することにしていますが、私には全員の命を守る責任がある。私は職員に、もし二階の進出するような津波が来たときには、私が全責任を負う。そう伝えました」

 そして山崎氏は、今回、全国の老人施設の関連団体からいかに助けられたか、と次のようにいう。

 「全国の施設を回って頭を下げっぱなしにしないといけないくらい、今回、我々は支援してもらいました。今まで私はオーナーの立場で仕事をしてきて、皆の世話をするのが役割だと思っていたけど、こんなにお世話をしてもらい、どうやってこれから返せばいいんだろうと思うくらいです」。

 事務局長を始め、職員の何人かはまだ自主的に施設に泊っているといい、幹部職員への感謝を口にし、最後に次のようなエピソードを話してくれた。大船渡以来の法人の基本理念が、震災のあと戻ってみると、いつの間にか一つ増えていたというのである。

 「私の法人の基本理念は、まず、
1.広く愛すること
大船渡の施設は、先見の明があったなんて言われるけど、そんなものではありません。すべては愛から始まった、これです。だから、これが1番目です。そして、
1.礼をもって老者に仕えること
1.広く万人のために活動すること
1.健康を大切にすること
1.生涯学ぶこと

 ここまでが、開設当時から、毎朝唱和されてきた基本理念だったのです。ところが、震災後、これにもう一つ、加わっていた。

 1.すべての人を救うこと
 いつの間に、これが入ったんだって聞いたんだけど、皆、笑っている。私が気がつかないうちに、法人の理念が一つ増えていた。その通りだから、文句は言いませんでしたけど」

 そして、必ず再建しますよ、と山崎理事長は最期にくり返した。

津波被災のために孤立した介護施設が、なぜ一人の死者も出さなかったのか(その2)

(仙台市社会福祉法人杜の里福祉会理事長・山崎和彦氏への取材より)

厳寒の中、真っ暗な夜を明かす
 地震発生直後から、停電のため、照明、暖房、給湯設備すべてが停止し、エレベーターも既に使用できなかった。津波警報とともに入居者の避難誘導を開始し、15時01分には特養1階の入居者49名の2階への避難が完了。そして15時11分には、ケアハウス利用者44名の特養2階への避難が完了した。

 15時30分、津波の第1波が到来する。施設長の佐藤久義氏は次のように言った。
 「真黒い塊のようなものが、あっという間に押しよせて来ました。そして東部道路にぶつかると、渦を巻いて戻ってきたのです。そんな中、職員たちは意外なほど落ち着いて行動しているように見えました」

 避難は無事に終えることができたのだが、この日の東北地方における自然の猛威は情け容赦のないものだった。地震の直後から雪が降り出し、入居者の溢れた居室や廊下は一気に気温が下がり始めた。暖をとるための布団や毛布、衣類は限られた数しかなかったから、使える段ボールや畳をかき集めて使用した。

 大きな余震が幾度となく繰り返された。こうしたなか、吸痰の必要な入居者、点滴が必要になった入居者もいたし、状況が理解できなくて、「何があったのですか? 戦争でも始まったのですか」と尋ねた利用者もいたという。

 幹部職員たちを中心とした話し合いが行われ、この状況で数日を過ごさなければならないことは確実だろうという結論になった。入居者の部屋割、トイレ使用方法も全員で決めた。泥をかぶった缶詰を拾い集めると、食材は、辛うじて3日分ほどの備蓄だろうと推測された。しかし、孤立状態がいつまで続くのか分からなかったから、栄養士は、3日分を6日分にするつもりの量を調理して出すことにしたという。缶詰やおかゆは利用者に優先され、スタッフは乾パン1枚で済ませた。

 夜になっても灯りは点かず、真っ暗闇の中での介護が続けられた。スタッフたちは暗くなる前に夕食と排泄介護を済ませていたが、これから、寒くて、厳しい夜を越さなくてはならない。外部とはわずかながらも連絡が取れるようになっているものの、家族の安否のままならない職員は一人や二人ではなかった。

スタッフたちの記録を引く。

「明るいうちに排泄介助を行い、余震に備えて各居室のタンスや仕切りを壁側に移動し、ベッドも食堂・廊下に出しました。暗くなるにつれて寒さも増し、タオルケットや衣類、タオル等で可能な限り保温に努め、介護員も入居者も一緒になって一晩過ごしました。余震が続く中眠れない入居者がたくさんいらっしゃいました。暗い中、つながらない務用PHSの小さな液晶の明かりを使用しました。暗くなって入居者のラジオからの情報で、死者の数、被害の状態を初めて耳にしてやっと現実だと実感しました。とにかく余震の続く暗闇の中、寒さに耐えていました。朝になっても状態は変わらず、入居者と一緒に過ごしながら何度も外を見てはため息をつくしかありませんでした。瓦礫の中に取り残されたという気持ち、もう駄目だという絶望感…、でも何とかしなければという気持ちの揺らぎの繰り返しでした」(Nさん、女性)

さらにもうひと方。

「一晩ケアハウスで過ごしている間、水で浮いた車同士がぶつかり、きしむ音やヘリコプター、消防車のサイレンがずっと続き、サイレンの音は翌日になっても耳に残った。入居者用のベッドや布団もなく、ソファーをつなげて横になってもらっていたため、下肢のマッサージをして身体が少しでも楽になるよう努めた。夜中にラジオから「荒浜で約200名の遺体を確認」との内容が流れてきた時には、夢を見ているのではないかと思ったが、自分たちは閉じ込められており、周囲の状況が分からないだけで、かなり深刻な状況なのではないかと恐ろしく感じた。」(Iさん、女性)

山崎理事長は言う。

「寒さが相当厳しかったので、職員が毛布代わりに抱きしめてマッサージをし、温めて助けたのです。普段通りの介護しかしていなかったら、低体温症になり、たくさんの人が亡くなっていたはずです。ぼくは記録を読んで、ありがたくって泣きましたね。『個人の暮らしをその人らしく守っていく』という私たちの理念に基づく実践が、非常時にあってもなされていることに感激しました。たしかに経営的には苦しくなる。でも、絶対に一人も辞めさせない。みんなに働いてもらう。こっちも職員にたいして、借金をしてでもやれることはやる。そう腹を決めましたね」

出先から駆け付けた職員たちの衝撃
 最初の夜は乗り切ることができた。しかし、夜が明けても状況が改善されているわけではないことに、スタッフたちは改めて愕然とする思いだった。あたり一面が瓦礫で溢れ、車が散乱している。自分たちの置かれた状況が想像以上に過酷であることを、いやでも思い知らされる。

 翌3月12日の早朝、消防署のレスキュー隊員が、ヘリコプターで施設の屋上に下りたち、被災の状況を確認した。緊急搬送者がいないことを確かめると、そのまま戻って行った。食料品や日用品の窮状を訴えたが、「この施設は指定避難所ではないので、救援物資を置いていくことはできない」という答えが返ってきた。

 幸いにも食事を委託している会社から、食料を届けに来たという連絡が入った。しかし、東部道路から施設側には入ることができないという。男性スタッフ5名が、まだ水の引かない瓦礫の中に入って引き取りに行き、大きな荷物を担いで戻ってきた。

 一方、施設の被災状況の確認も進めていたところ、自家発電機が使用できることがわかった。燃料の重油の残量から、1日4時間の使用であれば4日間維持できるという計算をはじき出した。この4時間の間で、機器使用の必要な利用者への介護を集中して行うことにした。

 13日。食料の受け渡しがあり、その際、自衛隊員の協力を得ることができた。外部の取引会社との連絡も取れ、寝具や排泄用物品、電池、電灯などの補充が可能であることが分かり、配送を依頼した。

 一方、外にいる職員たちは、被災直後、なかなか施設との連絡がつけられずにいたのだが、少しずつ、「浸水しているが無事です」という状況報告のメールや、自宅待機の指示を受け取り始めていた。何人かが自主的に施設に向かおうとしたが、自衛隊員や警察官に止められ、東部道路から東側に入ることができずにいた。「施設が浸水した」という連絡を受けてはいたものの、その状況を具体的に想像することができなかった。しかしこの日、瓦礫に埋もれていたなかを警察に先導されながら公休となっていた30名の職員が到着し、入れ替わるように一部の職員が帰宅することができた。

 次の記録は、当日、自宅や出先で被災したスタッフによって書かれたものである。

 「私が出勤できたのは震災から2日後でした。母と二人暮らしで、地震当日は休暇で一緒に外出していた。避難していた所に調子の悪い母を寝かせて、近所の方に様子を見ていただくよう頼んで出勤した。仙台東部道路を越えて施設に行ける道をさがすが、無理とわかって、六郷小学校に車を駐車して歩き出した。防風林や大きな松がどうしてここまで流れつくのか、想像がつかない。田園地帯が荒野に変わっている。さっきまで家庭で使われていたストーブ、ポット、炊飯器も流れてきている。子どもの習字道具やおもちゃも。初日は夢中で歩いていたが、何日か過ぎてくると、こんなものまで津波で流れてきたのかとびっくりさせられた。近くの馬術場からゼッケンを付けた馬も(流されて)横たわっていた。

 東部道路の上まで登り、初めて陸の孤島、湖に浮かぶ杜の里の建物を見た。目を疑う光景だった。救援隊の中に佐藤施設長の姿を見かけてあいさつをすると、救援隊の人に「職員一人来ているので、行きます」と声をかけていただいた。(略)大きな倒木を避けながら、どろの上に敷いた板や畳の上を慎重に歩いた。途中、施設から帰る人たちとすれ違う。一人一人に声をかけてびっくりした。あの人もこの人も、日勤のほかパートの人も、2日間帰れなかったことがはじめてわかる。家族のこと、お子さんのこと、どんなに心配だったことかと思った。ユニットリーダーに来たことを報告すると、私の母のことを思って、すぐに帰った方がいいと言っていただく。夕方まで勤務して、翌日から連泊することにした。

 食事は缶詰めがほとんどで、きざみ(食)の方の分はミキサーを使って用意した。日々に皿にのせるおかずが増えてくると、私たちも嬉しくなっていった。(略)食器の消毒、衛生面はとくに注意した。」(Iさん、女性)
 さらにもう一人。

 「3月11日は公休で地震時には利府にいました。1時間前まで仙台新港にいて、そのままその場に、と思うとぞっとします。(略)3日目の夕方、やっと連絡がつながり、翌日、施設に向かいました。中学校に車を止めて歩いて施設に向かい、東部自動車道を抜けて見た光景に、言葉を失いました。がれきの山になった景色。やっと人が通れる場所もぬかるみ、道路という道路がなく、やっとの思いで到着した杜の里は泥にまみれ、シーンと静まり返り、人がいるように感じられませんでした。施設の中も同じで、真っ暗な1階を見て、どうしたらこんな状態になるのか分からず、やっとの思いで3階までたどり着きました。利用者がフロアに集まり、衣類を何枚も重ねて寒さをしのぎ、疲れきってソファーで休んでいる方や、タオルケットが足りずに2人で1枚を広げ、寄り添って過ごしていました。

 食事もままならず、土鍋に入った雑煮を30人ほどで分け、一人一杯にも満たない量でした。この3日間、本当によく乗り切ったと思うと、どう言葉をかければよいのか分かりませんでした。リーダーを中心にしっかりとした基盤をつくっていましたが、本当に大変だったと思います。泣きながら状況報告する姿を見て、「あとは頑張るから」と言っても、どうして行けばいいのか不安でいっぱいでした」(Sさん、女性)

 大きな緊張やストレスと、過酷な環境の中で疲弊し切っている利用者の姿が浮かんでくる。一見明るく、元気に振る舞いながらも、とてつもない不安をかかえながら接しているスタッフたちの心情も窺うことができる。

 「岩手県北上市で震災を経験し、すぐに仙台へ母親と向かいました。(略)兄と祖母の安否が分かり、兄の体調も落ち着いてきた震災後から3日目に施設へ向かいました。今一番印象に残っているのは、今にも泣きそうな顔をしながら必死で入居者と接している先輩の姿です。震災当日からずっと眠れず、家族の安否も分からず、食事も十分にとれていない先輩の話を聞き、今度はその先輩に代わって私が頑張らなくてはいけないと思いました。施設の3階から家の方を初めて見た時は、本当に全てを失くしてしまったと、何も考えられなくなりました。とにかく入居者に栄養、水分を摂っていただき、「大丈夫ですよ」と声をかけて回ること、今を乗り越えること、せっかく助かった命だから乗り切れば何とかなると思いながら過ごしていました。が」(Oさん、女性)

 やっと施設にたどり着いたとき、泊まり込んでいた職員たちと抱き合って泣いた、と記すスタッフもいた。

理事長の、迫られる決断
 記録からは、3月14日以降、事態がどのように変容していったか、その様子をはっきりと読み取ることができる。

14日。午後、東部道路から施設までの道路が確保される。その直後、自衛隊から大量の食料と寝具が届けられる。状況把握も進み、職員たちは自家用車を流され、ほぼ全員が通勤手段を失っている。仙台市内では食料や生活物資の入手が困難になっているが、施設内には200名の入居者が生活しており、生命を守るためには介護業務を継続しなければならない。勤務体制について職員間で協議し、連泊が可能な職員は家族の了承を得て連泊する(家族にあっても食料不足が生じていたから、宿泊職員には救援物資から3食を支給することにした)。車で通勤の際は、道路の瓦礫の撤去がまだ完全ではないために危険であり、複数の職員が同乗して通勤することとした。

15日。動力ポンプの借用がなり、地下タンクから重油の汲み上げに成功する。4Kℓの重油が確保されるが、自家発電の利用はこれまで通り1日4時間とする。
16日。環境保全会社へ浄化槽の汲み取りを要請。水道局にたいし給水車の出動を要請。
17日。浄化槽の汲み取り実施。仮設トイレを設置。
18日。灯油と石油ストーブがそろい、各ユニットに暖房が通る。
19日。被災した自動車(公用車と職員用)の移動作業が開始された。仙台市と東北電力の全面的な支援で、電気が復旧する。
20日。建物の調査を実施。貯湯槽、基礎が破損していることが確認される。現時点では、その他、建物自体の致命的な破損はないという。ただし電機・機械設備の損傷が激しく、また衛生面での不安が大きい。
23日。山崎理事長、短・中・長期の目標を具体的に設定する。
25日。理事長ほか、上京し、財務副大臣へ要望書を提出。
4月5日。職員の勤務体制について協議し、給排水設備や暖房設備が回復していることから、4月中旬より介護職員の通常勤務を申し合わせた。

山崎理事長は言う。

「震災から10日ほどたってからでしたか、仙台市長が緊急発動命令を出し、救急車が10台ほど来てれくれたのです。これにはみんな感激しました。そのとき、これからどうするか。どこかへ避難させるかどうか、話し合いました。全入居者は200人。仙台市内で一番大きな施設です。50人とか10人とか分けたとしても、預けられた施設には大きな負担がかかるし、介護も行き届かなくなるだろう。

 職員たちに尋ねたら、ここで楼城しましょうというのが全員の結論でした。津波が来るかもしれない。そう尋ねると、ばらばらに移動した施設は多くの方を二次災害で死なせている。残ってこのまま頑張るのがこの人たちの命をつなぐ一番の方法だ、ということが、職員が話し合って出した結論でした」

 3月13日に容態の悪化した利用者1名が救急ヘリによって搬送されるケースはあったが、これだけの悪条件の中、一人の死者も出さずに乗り越えてきたことは報告したとおりである。
山崎理事長は、「地震が来たのが夜だったら、まず駄目だったろう」と言った。

 夜勤者だけで1階の利用者を避難させることは困難だし、避難後の対応についても、できることは限られていただろう。そして理事長は「私が考えていた以上に、職員が育っていた。指示を待たないと動けないような職員は、一人もいなかった」とも言った。

 以下、なぜこうした奇跡に近いような緊急介護が可能となったのか、次号でお伝えしたい。

津波で孤立した介護施設がなぜ死者を出さなかったのか(その1)

1年以上開店休業していたのであるが、再開させていただきたい。
長い間の宿題だった書き下ろし作品(ルポ)の執筆に、昨年暮れより本格的にとりかかり、連休前に何とかかたちにできた。やっと、少しゆとりができたこと。それがブログ再開の最大の理由である。


(以下は、『健康保険』2012年1月号 第81回原稿より転載したもので、仙台市社会福祉法人杜の里福士会理事長・山崎和彦氏へ取材させていただいたルポルタージュである)

仙台市から大船渡へ
 2011年3月11日の午後2時半すぎ。山崎和彦氏は、仙台市内のホテルの15階で、自身が率いる2つの法人の理事たちとの会合を終えたところだった。帰り仕度に入ろうかという矢先、突然、激しくあたりが揺れ始めた。すぐに大きな横揺れとなってしばらく続き、収まるどころか尋常ではない大きさになっていく。 

 山崎氏は、ビルの廊下や床がこれほど激しくたわんでいるのを、生まれて初めて目にしたという。コンクリートのひび割れる音を聴くのも、初めてだった。脳裏には、少し前に起こったニュージーランド地震のビル崩壊の映像が頭をよぎり、自分の人生もここで尽きてしまうのか、と観念しかけたという。

 しばらくして揺れはやっと収まった。非常階段を使って地上に戻ったところで、避難場所を求めて走る大勢の人たちの姿を目にしているはずなのだが、このあたりの記憶はすでに定かではない。余震がくり返しされる。しかし山崎理事長に、我が身の安全など考えている暇はなかった。

社会福祉法人杜の里福祉会は、二つの特別養護老人ホームとケアハウスを有する。会議には、「杜の里」(特養)から常務理事兼施設長、事務局長、副施設長などの幹部職員が参加していたが、山崎氏はそのなかの1人を「杜の里」に、もう一人を「一重の里」(特養)へすぐに戻るよう命じた。そして自身は、成仁会(岩手県大船渡市)の理事たちと山崎シゲ氏を大船渡まで送り届けるために、車で向かうことにした(山崎シゲ氏は、東北地方でももっとも初期に開設した特別養護老人ホーム「富美岡荘」創設者であり、和彦氏にとってシゲ氏は母親であるとともに、仕事上の手本であり、大きな目標でもあった)。

 「杜の里」は仙台市若林区の三本塚を所在地とし、きわめて早い時期から、仙台湾に200人から300人の遺体が浮いていると報じられた荒浜地区の北西に位置していた。施設の建物は、海岸から2キロ弱の場所に建てられている。山崎理事長が仙台のこの地に「杜の里」を開設したのは平成11年4月。ここを選ぶときに、津波襲来の是非を尋ねたところ、1度もないとの答えだった。大船渡の施設では毎月1度、津波を想定した避難訓練や消火訓練を欠かさなかったから、そこでの教え通り、仙台に移ってからも訓練を実施して備えてきた。

「まさか、あれほどの津波がやってくるとは、まったく考えていなかった。むしろ大船渡の「富美岡荘」の方が、すでに40年ほど経っている建物です。大船渡は震度6強。建物は倒壊し、そうとう悲惨な状況になっているだろう、と覚悟しました」

車を走らせてはみたが、東北自動車道はすでに通行止めになっていた。一般道も混雑が激しくてほとんど進めない。「一重の里」がインターチェンジの近くだったので、そこに1泊し、翌朝一番に国道4号線を北上して、いつもは3時間で到着するところを7時間ほどかけてやっとたどり着いた。

大船渡は津波にやられ、街の半数以上が壊滅状態だった。高台にあった施設はかろうじて難を逃れたが、みな、絶句したまま声も出なかったという。

被災直後の「杜の里」
 一方の「杜の里」は、完全な孤立状態に置かれていた。地震から45分後には3メートルの津波が到来し、1階部分がすべて泥と海水で埋め尽くされた。

山崎理事長が「杜の里」とやっと連絡が取れたのは数日経ってから。しかし今度はガソリンが入手できなかったり、道路の整備も不十分で通ることができなかったりして大船渡で足止めを食い、1週間にわたって仙台に戻ることができなかったという。

 「杜の里」の被災時とその後の様子が、以下のように記録に残されている。

14:46大地震発生。停電のため、照明、暖房、給湯設備すべて停止。入居者の避難誘導開始。
15:01特養1階入居者49名を2階へ避難完了。
15:11ケアハウス利用者44名を特養2階へ避難完了(5名は外出中)。
15:21役員会参加事務職員5名到着。
15:30津波到来。地盤より3メートルまで達する。施設の1階部分が泥と海水により完全に埋まる。敷地内が海岸より押し寄せた樹木、瓦礫に埋め尽くされ、駐車していた自動車90台が浸水。近隣の自動車も押し流されてきた」

すぐに入居者・職員の安否確認がなされ、全員の無事が確かめられた。しかし、施設が孤立し、電気・水道が停止したことも同時に判明した。食料、飲料、懐中電灯とラジオ、電池の残量などを確認し、外からの情報を得るために携帯電話を使った連絡が試みられたが、ほぼ使用できない状態であることが明らかとなった。スタッフの所持品である1台のラジオだけが唯一の情報源だった。さらに記録より。

「この状況で数日を過ごすことが確実であると判断し、入居者の部屋割、トイレの使用方法等を全員で決定する。
自家発電を使用するために、事務所から屋上へ至るためのマスターキーと、自家発電盤の開閉キーを入手する。その後自家発電を起動するが、GC回路遮断が不完全なため、配電盤ショートによる発火発生。消化器を使用し鎮火するが、当日は自家発電の使用を控えることにする」

地震直後から、非情にも、雪が降り始めていた。

「杜の里」入居者の平均介護度は「4・3」。「5」の人が50名おり、痰の吸引が常時必要な利用者もいる。暖房器具が使えないことに加え、布団、毛布などの寝具や衣類の数は限られており、十分な暖をとることができなくなった。利用者たちの体温が、あっという間に下がり始めていく。食糧にも限りがある。

地震直後から、利用者たち200名の生命を守る壮絶な闘いが、職員全員によって始った。

スタッフたちの記録から
 法人にはスタッフたちの記した当日の様子が、貴重な資料として残っており、そのいくつか紹介させていただく(スペースの都合で、断片的・部分的抜粋となること、文意を変えないように字句や句読点の補筆・訂正を加えている箇所があることをご了承いただきたい)。

まず地震発生直後の状況。

「寮母コーナーからBユニットに向かう途中で地震があり、浴室の窓の前にいた利用者を窓から遠ざけようと駆け寄り、障害物のない廊下の真ん中に移動しました。その時点で歩くことすらままならないすごい揺れでした。車いすも揺れ、入居者が落ちるのではないか、自分も動くことができず、その場にしゃがみこみ、車いすと入居者を抑え揺れが収まるのを待つのが精一杯でした。「大丈夫ですよ」と声をかけながら、気持ちを落ち着かせようと必死でした。(略)いたるところからものが倒れる音、食器が割れる音が聞こえましたが、天井からの落下物はなく、Bユニットの職員が各居室のなかを確認しているのをただ見ていることしかできませんでした。(略)怪我をしている入居者はいませんでしたが、テレビやパソコン、食器棚等が倒れ、ガラスが散乱している状態で、タオルケットで覆い、危険のないようにと心がけました。」(Nさん・女性)

 自分自身の身を守ることさえ容易ではない揺れのさなか、安全確認をして回ったり、入居者の安全確保を、体を張って守ろうとしているスタッフの姿が多く報告されている。利用者のなかには恐怖や不安を訴えるひとが少なくなかったし、2階3階のフロアは騒然とし、混乱状況にあった。

揺れが収まって間もなく、「津波が来る」という情報が流れた。先に示したように、津波到着まで約45分。「杜の里」の入居者150名のうち、1階の50名、ケアハウス「ハートフル仙台」の50名と、あわせて100名を2階にまで避難させなくてはならなかった。皆、津波が黒い塊となって襲ってくるときの恐怖と驚きを書き残している。

「次長が手にしていたラジオから大津波警報が発令され、事務職員と1階入居者を2階と3階に避難させることを決めた。階段で車椅子ごと運び、(障害の)軽い入居者は(自分が)一人で担いで2階に避難させた。1階入居者全員の避難が終了。最後に一つずつ居室とトイレを確認した。Bユニットの居室内に、まだベッドに横になっている方が1名いた。確認を怠らずよかった。(略)
2階の交流スペースから外を眺めると、東側一帯に黒いものが動いていた。津波と理解はできるはずだが、目の前の光景が信じられず、津波と分かるまで数秒かかった。厨房の外ではS事務長、O課長、厨房の職員が歩いていた。

「津波が来たから早く逃げて」と大声で叫んだ。何が起こっているのか分からない様子だったので、「すぐそばまで津波が来ています。逃げて下さい」と何度も叫んだ。O課長らが2階へ上がった直後、「杜の里」に黒い波が押し寄せた。

水位が少しずつ上がっていく感じだったので、初めは周りの入居者や職員と一緒に騒いでいた。どんどん水の勢いは増し、施設に駐車していた車は1台ずつ簡単に流されていった。裏の駐車場に止めていた自分の車が流れていくのを、何もできずにただ眺めていた。

水の勢いは止まり、2階まで津波は到達しなかった。施設が津波に呑まれ、流されてしまうという最悪のケースは免れたが、ひどい状況に変わりはなかった。入居者の不安を解消するよう努めていると、再び水位が上がった。津波の第二波だ。二階に避難していた一階入居者を、今度は階段で三階に運んだ。一〇名ほど避難すると、すぐに水位は止まり、落ち着いた。今度こそ津波は止まった。外の景色はどこを見ても水浸しだ。施設は完全に孤立していた。」(Tさん、男性)

 もう一人。
「揺れがおさまり、相談員や事務所職員がかけつけてくれました。キャビより、米やお菓子、食器等がとび出しており、その瞬間、何か大変なことが起きたんだと思い、足が震えて、止まりませんでした。すぐに津波が来るという情報があり、1階の入居者を2階へ、…。私は2階に待機してベランダとユニットを行き来していると、遠くに松の木が見え、その上に白い線が見えました。ユニットが気になって戻り、またベランダへ行くと、「杜の里」の東側のお寺まで黒い水が来て、車や瓦礫が次々に目の前を流れていきました。

「杜の里」の目の前の集落から、老夫婦と犬1匹が走って逃げていました。思わず一緒にいた職員と「逃げて!」と大きな声で叫びました。津波は東部道路まで行き、走行中の車などもどんどん呑み込んでいきました。ユニットへ戻ると、〝水かさが増してきている、3階へ避難〟とのことで、歩ける方は3階へ移動開始。私は2階で見守りをしていました。見守り中、とても怖くて、このまま水かさが増してきたらここで死ぬのかな、などと考えていました」(Kさん・女性)

 また別の職員は次のように記す。
「ふとフロアに目をやると、若い女性介護員が強い揺れに転びそうになりながらも、居室で休んでいる入居者に声をかけて走り回っていた。(略)S53.六月の宮城県沖以上のいままでにない激しい揺れに、これはただ事ではないとわかるが、心あらずの状態に陥り、足の踏み場もなくなったフロアにいて、津波が来るとの考えも浮かばなかった。10分くらい過ぎたころに事務長が大声で「そんなことをしている場合でない、津波が来る。早く避難の準備だ!」と報告を受け、はっと我にかえり、入居者を、指示に従い誘導を始める。二階の窓より荒浜の方向に三本塚を見ると、遠くに土煙の山が何個か点在して見えてきた。あっ、これが津波だ、ここにも来ると思い「津波が来てるよ!」と大きな声を発するが、声がふるえて出ない」(Sさん・女性)

「揺れはじめ、送迎に出ようとしていた運転手さん達、ケアハウスの入居者がロータリーにいたため、ロータリーに出た。立っていられずしゃがみこんだが、アスファルトとタイル部分が離れ、溝が出来、周囲の家が土煙をあげる中、強い恐怖心を覚え、何も考えられなかった。揺れがおさまり、警報を止めるために事務所に戻ると、床が見えない位書類、パソコン、その他が散乱し、書類を踏みながら携帯だけを握りしめ、入居者の安否確認をした。

ラジオで津波を知らせていたが、来ないだろう、という気持ちと、死ぬんじゃないかと思うほどの恐怖心の後なので、それもあるのかな……と正常な判断ができる精神状態ではなかったが、念のため、と避難を始めた。正直、段取りはまったく考えられず、全職員が「○○しろ!」「こっちはOK!」と大きな声で確認するように、無我夢中で避難した。とにかく入居者をとり残すことがないように最期の確認を行ったが、津波到達時刻も知らないままの誘導で間に合ったのは奇跡だと思う。日清医療食品(食事の委託業者)のスタッフも一緒に車いすを担いでくれて、今思えば本当に一体感を感じ、〝やらなければ〟〝やれる〟と思えることはとても心強かった。」(Wさん、女性)

 間もなく、長く、寒く、厳しい夜が到来する。体をさすったりしての保温、励まし、食事の介護、排泄、痰の吸引など、自身も恐怖と不安を抱えながらも、スタッフたちの懸命なケアはさらに続くことになる。利用者を一人も死なせてはならない。スタッフ全員がそう思っていた。

震災以後の石巻医療圏の現状と課題――診療所在宅医療(石巻市)院長、佐藤保生氏(警察医)への取材より)

 以下の原稿は「健康保険」2011年12月号に掲載されたものの転載である。

警察医と検死制度について
 東日本大震災直後の新聞報道を拾い出してみると、早い時期から、収容された膨大な数の遺体をどう扱うか、自治体が苦慮してきたことが報じられている。火葬ができないため土葬を始めたところ、土地の確保ができなくなった。遺体を保存するためのドライアイスが足りない、収容する袋が足りない。そしてついには安置する場所が足りないなど、多くの困難を抱えていた(3月18日『読売新聞』など)。

 運ばれてきた遺体はすべて検案をし、死因を特定し、死亡診断書が作成される。身元が判明している場合は遺族に引き渡されるが、この遺体の検案作業は、医師だけに許された重要な責務である。

 石巻市では、多くの検案を引き受けてきた医師が亡くなったあと、10か月ほどのあいだ、後任が決まらなかった。24時間オンコールで、診療中だろうと打ち合わせ中だろうと、自殺などの突発事態があればその場で呼び出される。本来の業務だけでなく、患者にも影響が及ぶ。そのために引き受け手がなかった。そこで佐藤医師を代表とし、数人のグループで引き受けることになった。

 法の問題に少しだけ触れるが、我が国には目的や法的根拠を異にした二つの検死制度がある。一つは刑事訴訟法に基づくもので、いわゆる司法検視であり、その際になされるのが司法解剖である。もう一つは「死体解剖保存法」に基づくもので、「行政解剖(監察医解剖)」や、死因の解明を遺族が望んだりする場合に行われる「承諾解剖」がある。後者の二つの解剖は「相互乗り入れ状態」をしているなどの込み入った現状があるようだが、深入りすることは止め、ここでは上記、二つの法的根拠がある点のみをお伝えしておこう。

前号でも報告しているが、検視と司法解剖を専門に行う監察医がいるのは、東京23区、横浜、名古屋、大阪、神戸などの5都市にとどまり、近年、死因究明の不備や地域による不公平さなどが指摘され、監察医設置の必要性が主張されるようになっている。

 刑事司法上、「死」がどのように分類されているか、次に示す。(中根憲一「レファランス」2007、2より
  
「我が国の検視制度ーー現状と課題」
 死は、
   (1)自然死(老衰死,通常の病死など)

   (2)変死の疑いのある死体(自然死か不自然死か不明の死体で、不自然死の疑いがあり
                            かつ犯罪によるものかどうか不明なもの)

   (3)不自然死

 の3つに分けられる。さらに
 「不自然死」は

     ①犯罪死(殺人、過失致死)

     ②変死者(犯罪による死亡ではないかという疑いのあるもの)  

     ③非犯罪死(水泳中の溺死、衆人環視の中での飛び降り自殺、落雷による感電死など)             
 となる。

 「自然死」以外の死体は警察に届けられ、異状死体としてスクリーニングされる。「犯罪死体」の場合は「検証・実況見分」を経て「司法解剖」へと至り、「非犯罪死体」は医師の立会いの下で「見分」がなされ、場合によっては承諾解剖や行政解剖となる。「変死体」は医師の立ち合いのもとで「検視」が行われ、犯罪死体か非犯罪死体かが判断なされることになる。以上が、「異状死体の取り扱いの流れ」である。震災や津波によって亡くなった方々は、基本的には「非犯罪死体」に分類される。

 冒頭に述べたように、膨大な数の被害者が亡くなられた。佐藤医師は言う。
「私の場合は、一開業医が、突然、何の準備もないまま検案という場に放り投げられ、なんとか対応していったということです。医者が圧倒的に不足していましたが、全国から集まってくれて、皆でおこなったので乗り切れたのです。いまはチームを作ってやっていますが、一般検視に関しては若い医師たちと私で、災害検視は7,8人の医師が当番制で対応しています。警察医はどうしても必要な仕事ですから、なり手がいないという状況は克服しないといけないと思いますね」

 佐藤医師は、24時間、医療を担おうとする医師が減っているが、そうした現状もなり手がいないことの理由の一つかもしれないと述べた。もう一度、原点に戻る必要はないか、自分は63歳だが24時間医療ができている、と強調したのだった。

石巻市の医療の被災状況
 話題は石巻市の医療のことに移った。

 改めて振り返ると、石巻市は新旧の北上川が流れこむ肥沃な土地をもち、震災前までは農業のみならず、水産加工業の盛んなところだった。平成17年に旧石巻市に加え、河北町、雄勝町、河南町、北上町など1市6町の合併で、人口17万の新石巻市が誕生する。それに伴い石巻の二次医療圏は圏域人口23万をフォローし、中核病院の石巻赤十字病院(404床)をはじめ、石巻市立病院(206床)、公立深谷病院(171床)、市立雄勝町病院(42床)、女川町立病院(98床)などを有していた。

 石巻は市域が広く、その分被害も大きかった。市内だけでも推定死亡者数3,000人、不明者700人。被災直後の避難所入所者数の推定が4万2,000人と把握されていた(石巻赤十字病院医師で宮城県災害医療コーディネーターを担った石井正氏による)。医療機関の被害も大きい。石巻医師会に所属する86医療機関のうち、全損壊43、半損壊13、一部損壊30という数が報告された(3月11日時点。『石巻医師会報』より)。

「なんといっても石巻医療圏における最大の出来事は、石巻市立病院が壊滅状態になったことです。206床というベッド数をもち、急性期医療を担っていた医療機関でした。消化器系の手術では、石巻赤十字病院よりも市立病院の方が多かったほどです。町立雄勝病院も壊滅し、40床のベッドを失いました。伊原津病院の精神科が120床ほど。女川町立病院が約100床あったのですが、19床の診療所に替わりました。一般病床320に精神科120を加え、400床を超えるベッドがなくなったことになります。石巻赤十字病院が50床の仮設ベッドを建てる予定ですが、とても足りません。入りきらない患者たちは、施設に入ってもらうことになります」

 それでも医師たちは、被災直後から診療を再開するべく活動を始めていた。診療所を失った医師にあっても、例えば高校の体育館に仮設診療所を設けて患者を診たりするなど、自主的に診療をつづけたという。すでに数多くの報道がなされているが、既述した石井医師を中心とし、宮城県東部福祉事務所、石巻市防災対策課、石巻医師会、警察、消防本部、自衛隊、近隣病院など合同救護チームが設立され、3月20日にはスタートしていた。

「県内外から応援の医師が、大挙して入ってきました。診療所で多くの避難者を診るだけではなく、外から来た医師たちが中心になってローラー作戦を行ったのです。市内1万4千戸を、1軒1軒、医療が必要な人はいませんかと探し廻りました。そして20名ほどの患者さんを見つけたと言います。その患者さんを私のような地元の医師に紹介し、そこから在宅医療につながっていく。そういうこともありました。道路は冠水し、車も薬も医療器材も失われ、激しく混乱していたあの時期のことを思えば、これは画期的なことだったと思います」

石巻市の医療に臨むこと
 では現在の石巻の医療はどうだろうか。
 多くの人が、亡くなったり石巻医療圏外に移ったりして、患者の絶対数が減り、医療機関の受診者が少なくなった。石巻の病院で対応できないときは仙台に流れるので、いまのところ、石巻では辛うじて医療崩壊には至っていないという。

「震災の結果、小児科が壊滅状態だとか婦人科が駄目になったとか、そうした話はないのです。なんとか釣り合っている。日赤の医師に聞くと、大きく変わったのは救急医療だと言います。救急外来の患者は震災前の2倍になり、救命救急センターがパンクしそうだと言います。重症の人は入院に回るわけですが、入院者数は以前と同じくらい。つまり救急救命センターを訪れる患者は、軽症の人が増えたということです。石巻には夜間急患センターがあり、そこが夜間の一次救急から二次救急を担っていたのですが、それがなくなったことも原因だろうと思います。ともあれ、こうした救急医療の状態は、早急に何とかしないといけません」

 では、訪問医療をしている佐藤医師ご自身はどうだろうか。

 震災直後、避難先のマンションに4泊することを余儀なくされたが、その間も、訪問診療に使用する自動車を探してディーラーを歩き回っていた。3月20日には、廃車寸前ではあったが1台の車を借りることができた。するとその翌日、知人の息子が訪問診療に使ってほしいとガソリンを20リットル分けてくれた。おかげで22日には初往診をすることができた。さらに28日、ある施設を訪問した際にとても感謝され、往診車を満タンにしてくれたのだという。

「ガソリンが手に入らない時期だったので、いかに自分の訪問を皆が待っていてくれるか、被災するまでには考えてもみなかったことなので、大変うれしかったです」

 3月22日以降、検案をする一方、そうやって訪問診療も続けてきた。取材時、患者数は48名。震災前は50名から55名だったから、ほぼ変わらない。ほとんどが高齢者で、寝たきりの人が多い。1日、8人から10人ほど訪問し、多いときは週に50件ほどになる。がんの末期患者もおり、看取り率は50パーセント台。6割を超えるのはなかなか難しい、と佐藤医師は言う。

「私は、在宅医療を始めて20年になります。51歳のときに釜石市民病院に赴任し、そこで在宅医療専門の科を創設し、本格的な在宅医療専門医になりました。それまでは病院勤めをしながら、週2回ほど患者さんのところに訪問するという形でした。石巻に戻って6年目になりますが、石巻は私の出身地なのです」

 最後に、石巻の医療の今後の課題をどう考えるか、尋ねてみた。特に石巻市立病院には、再開を危ぶむ声も聞こえていた。

「たしかに市立病院の再建が、最大の問題点です。欠けるところ、たとえば慢性期の病棟が足りないといったような、欠けているところを補う形で再建されるとベストですが、そんなに簡単ではないでしょうね。それからみんなが心配しているのが、慢性期疾患を担う総合医の供給が少ないことです。市立病院に総合医を集めたいと思っても、なかなか得られないのです。一番の供給源は大学ですが、大学の医師は多くがスペシャリストです。市立病院ですから市の行政や市役所が決めることですが、市立病院が圏内の弱点を修正するような形で再建してくれればベストですね。再開は5年後、と言われています」

 そして佐藤医師は、石巻市立病院の再建はもちろん大事だが、在宅医療を担う総合医も育ってほしい、震災前からニーズは高まっていた、しかしなり手が少なかった。これを機会に在宅医の養成についても、市や国は真剣に考えてほしい、と結んだのだった。

東日本大震災と「死」――診療所在宅医療(石巻市)・警察医、佐藤保生氏への取材より)

 本年最初のブログの更新となる。例によって近況報告を。

 いくつかの仕事を同時進行させているが、まず、飢餓陣営の37号のラインナップと内容が、だいぶ固まってきた。
遅くとも3月には刊行できる見通しもついてきた。今後も、最強の布陣で刊行できる予定であり、いま少しお待ちいただきたい。
 
 また4月には、滝川一廣さんとのインタビュー集第3弾が、刊行される予定である。第3弾はまだでないのか、と問われ、間もなく出しますと言いながらここまで来てしまったが、やっと刊行の目処がついてきたところである。まずは肩の荷を降ろした思いで、これからの作業j待ちの状態である。

 そして飢餓陣営誌上で、吉本隆明さんをテーマとしてこれまで詩人の瀬尾育生さんへインタビューを続けてきたが(第一回は25号)、今号の第3回目を経て(今回のタイトルは、「「3・11」の吉本言論と「超越」をめぐって」)、一著として刊行される予定である。

 私の単著も、被災地のレポートと、かねてよりの宿題だった「千葉・東金事件」や「かりいほ」についてのルポをまとめたいと考えている。また4月下旬には、「人間と発達の会」の講演会も予定している。これらの詳細をホームページに記載しているで、ご覧になったいただけると幸いである。(htpp://www5e.bigkibe.ne.jp/~k-kiga/)
 以下、今回のレポート。


東日本大震災と「死」――診療所在宅医療(石巻市)・警察医、佐藤保生氏への取材より)

3・11をどう迎えたか
2011年3月11日、石巻市で在宅医療を営む佐藤保生医師は、午後、会計士と会う約束をとっていたために診療予定を1件だけに留めていた。ふだんより早めに診療所に戻ると、ふいにあたりが激しく揺れ始めた。あわてて妻と外に出たが、まっすぐに走ることができなかった。会計士がやってきたものの、約束は中止となり、その後、佐藤医師は車のなかに入って地震情報に耳を傾け続けたという。

まもなく津波が襲って来た。津波情報は流れていたが、診療所は海岸から2キロほど内陸にある。2日前には、三陸沖を震源地とするマグニチュード7.3の地震があったが、このときも大丈夫だったし、チリ地震(1960年)のさいの津波の体験からも、この付近一帯は安全だろうと考えていた。ところが真黒な波が見え、大慌てで隣接するマンションに逃げこんでいった。

翌12日、診療所に行ってみると床上80センチほど浸水し、家具は散乱して床や壁がヘドロまみれになり、多くの医療機器を失った。水はまもなく引いたが、結局、マンションの避難所に4泊することを余儀なくされた。

 家族との連絡もつかなかった。佐藤医師の母親と長男夫婦が市内の門脇地区に住んでいる。その門脇地区が火事になったという情報も流れていた。そこで12日、安否確認をするために避難所に出向いてみたものの、どの場所でも会うことはできなかった。

このとき、最初に足を運んだ避難所の市立総合体育館には、すでに10体ほどの遺体が安置されており、佐藤医師の姿を見つけた警察官が「先生、よく来て下さいました。検案をお願いします」と声をかけてきた。しかし佐藤医師は家族のことが気になっていたから、「まず、肉親の安否確認に行ってきます。夕方にはかならず戻って来ますから」と答えて、避難所をいくつか探しまわらせてもらったという。

しかし見つけることはできなかった。名簿にも名前の記載はなかったし、メッセージも残されていなかった。暗澹たる気持ちで体育館に戻り、遺体の検案作業にとりかかり始めた。その夜、家に戻るときに通った石巻のメインストリートは、真っ暗で、辺り一帯がヘドロにおおわれていて、「死の街だ」と氏は思ったという。

検案作業が始まって
「検案」とは法律用語で、「死体について死亡の事実を医学的に確認すること」(『広辞苑』第6版)である。佐藤医師は、昨年から警察医という任務を受けており、警察医とは「警察の依頼を受けて検視に立ち会い、変死者の死因を判定、死体検案書を作成する医師」をいう。ちなみに「拘置中の容疑者らの健康診断や採血、採尿なども行う。検視や解剖を専門に行う監察医がいるのは東京23区と横浜、名古屋、大阪、神戸市だけで、福岡を含めて他地区では都道府県警が地元の医師に依頼している」という(いずれも、2007年7月20日、読売新聞夕刊より)。

震災の翌々日から、佐藤医師は職務である検案作業を最優先事項としながらも、診療所を復旧し在宅医療を再開させる準備をすること、住まいが被災して雨漏りがひどくなったためにマンションに引っ越しをすること。これら4つの課題を同時に進行させなくてはならなくなった。家族の安否もまだ確認されていなかった。

 すると3月13日の夜、兄夫婦が避難所を訪ねてきた。母親も無事だという。佐藤医師は人目もはばからずに涙を流した。これで検視作業への意欲が一気に高まった。

「被災してすぐの頃は、停電していましたから、暗くなると作業ができなくなりました。コピー機も使えないので、カーボン紙を使って検案書を映していました。安置所となった体育館は山の上にありましたが、当初は10体ほどだった遺体も、すぐに100体くらいになりました。その頃はそんなに傷んでいませんし、顔も判別できますから比較的身元確認しやすかったのですが、体育館のなかはすごく寒くて、書類を書いている手がかじかんできます。時どき体操をしながらやっていました」

検案を終えた遺体は家族と対面し、確認されることになる。

 「家族の方が来られ、遺体を見て泣き崩れるという光景が毎日続いていました。検案を終えて身元が確認された遺体は、きれいにして家族に戻しますが、あの頃は火葬もお葬式も大変でした。山形に行って火葬してきたという人がいましたし、7月になってやっとお葬式をすませたという人もいます」

 佐藤氏はまた、一緒に検案作業をやっていた警察官たちの士気の高さには、驚かされることの連続だったという。自らも被災者であったにもかかわらず(中には家族をなくした人もいた)、1ヶ月以上も警察署に泊まり込んでの作業になっており、これには佐藤氏も感服するほかなかった。『石巻市医師会報』に寄せた佐藤医師の文章を、少し引かせていただく(11・7・9 No247~8)。
 
「警察の人たちのすごいところは手を抜かないことです。非常時でこれだけの数をこなさなければならないのですから、少しぐらい省いてもいいのではと私なら思いますが、彼らはきちんと決められた通りにやります。医師が髄液を採らなければならない場合があります。ときには採るのが非常に困難なケースがあります。採取不能としても仕方ないと思うのですが、「先生頑張って」とあきらめません。問題のあるケースは、あの多忙の中でも大学に送り、司法解剖をしてもらいました。医学的にほぼ説明できるような場合でも、きちんと答えをだそうと司法解剖を厭いませんでした。」

 そして佐藤医師は、なぜこれほどまでものエネルギーを費やして遺体の捜索をし、身元確認をしっかりとやり、そのうえで遺族に引き渡そうとするのだろう。そう自らに問いかける。「結局は人を大切にすることだ」という答えを導き出す。「その意味で医療と根は同じだと思います。対象とする人間が生きているか、死んでいるかの違いがあるだけです」と続けているが、まさに検案の重要な目的のひとつが「遺体の尊厳を守ること」である。

 それにしても、今回の被災による死者は膨大な数に上る。その1体1体が検案作業を経て、丁寧に身元を確認されたことになる。

 いったい、どれくらいの数の検案作業をされていたのか、という筆者の問いに対して、次のように答えた。

 「あのころは無我夢中で働いていたので、どれくらい検案書を書いたかは、まったく記憶がないですね。調べればわかるでしょうが、いずれにしても3ケタです」

 やがて搬送されてくる遺体の数が増えつづけ、体育館だけでは手狭になっていった。そこで旧石巻青果市場に場所を代えて作業が行われることになった。各地からの応援として、医師、警視庁職員なども加わり、8つのグループに分かれ、検案と記録とを同時進行させていった。この頃には、1日に200人から300人ほどの検案を行ったのではないか、と言う。相当きついストレスだったと思われるが、と尋ねると、次のように答えた。

 「大変でしたけれども、ああいうとき、身体も非常時の体制になるのですね。ずっとアドレナリンが出ている状態で、あれには驚きました。まず、お腹が空かなくなります。お腹が空いて集中できないという状態には、1度もなりませんでした。それからトイレが使えなかったということもあるのですが、排泄の回数も、普段の3分の1くらいになります。疲れは非常時が過ぎた後に出ると言われますが、私の場合はその後も大丈夫でした。身体の非常時体制が、長く続いたんでしょうね」

東日本大震災の死者
 さらに佐藤医師は言う。

 「震災直後は、溺死された方の遺体がほとんどでした。あとは、生き延びたものの、1日2日経って、あるいは1週間くらい経って亡くなった方です。こうした方の多くは低体温症です。

 石巻赤十字病院の医師が書いていますが、阪神大震災のときにはクラッシュシンドローム(挫滅症候群)と言って、建物の下敷きになって腕や脚、腹部が長時間圧迫され、筋肉細胞が壊死を起こし、それが全身に影響を引き起こして亡くなる方が多かったのですが、今回は大部分が溺死でした。それから、意外なことに震災当日は患者さんが少なかったのです。救急車が3分の2くらい沈没して駆けつけられないという情報が流れたと、日赤の医師は書いています。それほど救急車が動けなかったんでしょうね」

 ちなみに、久志本成樹氏(東北大学病院高度救命救急センター部長)の『石巻赤十字病院、気仙沼市立病院、東北大学病院が救った命』(アスペクト)にも、次のような記載がある。石巻赤十字病院において、発災後48時間のトリアージにおいて「赤」のタグ(「生命にかかわる重篤な状態で一刻も早い処置が必要で、救命の可能性がある」)をつけた患者の内訳は以下の通り。

 内因性疾患(32.2%)、低体温症(26.1%)、外傷(16.5%)、クラッシュ症候群疑い(6.1%)、溺水(4.3%)、CPA(心肺停止状態、4.3%)、その他外因性疾患(1.7%)、その他(8.7%)。

 内因性疾患とは、いわゆる慢性疾患である。久志本氏も書いているが、巨大地震による災害の際は、外傷とクラッシュ症候群が過半を占めるというのが、災害医療における常識とされていた。しかし東日本大震災にあってはそうではなかった。これが少なからず、救命の現場にあった医師たちを戸惑わせたという。

 ともあれ3月20日前後には、石巻にも応援の医師が多く訪れるようになり、その医師たちが災害検視を担当し、佐藤医師は一般検視のほうに回った。発災後、数日をして亡くなる人が増えていたし、自殺者も見られた。
応援医師たちは7月4日まで活動し、7月5日からは残された地元の医師がチームを作って検案に取り組んでいる。佐藤氏は水曜と日曜の担当を選んだ。まだ遺体が上がることはあるが、9月後半から発見される数が減りだしたという。

 「先日の台風が来たときに少なくない数の遺体が上がってきて、その後減りました。現在の不明は700名ほどです。いつまでこの体制が続くのか。遺体が上がらなくなったら警察もチームを維持できなくなります。

 今の遺体はほとんど海から上がりますので、身元確認がきわめて困難になっています。遺体は検案場まで搬送され、服を着ていれば服の中に身元確認できるものがあったりしますので、それを参考にします。ご家族に見ていただいて、確認できればお渡しするのですが、顔が分かりませんし、性別がやっとわかるくらいですから、DNA鑑定に回します。指や足の骨を使って鑑定するのですが、結果が出るまで、結構、時間がかかるのですね


被災地での〝こころのケア〟  (世界の医療団「東京プロジェクト」代表森川すいめい医師への取材より

 11月があわただしく過ぎ、12月も5日になった。まずは簡単な近況報告から。

 この間、東北の被災地取材を続けてきた。10月には宮城県の石巻市へ。石巻の医療の現状と監察医を取材した。11月は仙台市の杜の里特別養護老人ホーム(社会福祉法人杜の里福祉会)を訪ねた。目下取材資料を整理し、原稿執筆の準備を進めている。

 もう一つは更生保護関係の仕事。昨日、栃木の太田原へ行き、ある事業立ち上げの実行委員会を開催した。詳細は後日お伝えできるかと思う。

 そしてもう一つの柱は「飢餓陣営」関係の編集や取材。原稿が、続々と集まりつつある。いずれも力作ぞろい。詩人の瀬尾育生さんへのインタビューも終え、起こした原稿を送付させてもらった。これがすごいものとなりそうである。(間もなくラインアップを明らかにしたく考えているが、どうなることやら)。

 まだ他にも進行中の仕事はあるが、追々お伝えしていきたい。

 さて今回掲載する原稿は、『健康保険』10月号掲載のもの。取材をさせていただいた森川すいめい医師は、池袋のホームレス支援や、アルコール依存関係の仕事をしてこられた方で、『ふるさとの会』で知り合う縁を得た。森川医師については(http://www.mdm.or.jp/nicocoro/)を参照。

 まずは御一読ください。

(ここから)
4月3日、世界の医療団・森川医師が大槌町に入る
 東日本大震災から半年。仮設住宅への移転が進み、福島県以外ではすべての避難所を閉鎖したという報道も聞かれるようになった。しかし、被災者は落ち着くどころかますます不安を募らせ、将来に希望を見出せずにいる。今回は、被災者の心の問題についての報告となる。

 2011年4月3日以来、岩手県大槌町に入ってメンタルケアを続けている森川すいめい医師に取材をする機会を得た。7月のことである。森川医師は、「世界の医療団」の「東京プロジェクト」の代表医師という立場にあるということだった。世界の医療団は「人道医療支援に取り組む国際NGO」として、「世界各地に、医療保健衛生分野の専門家ボランティア」を派遣し、「世界の最も弱い立場にある人びとに支援の手を差しのべて」いる医療団体である(世界の医師団のパンフレットより)。

 大槌町での緊急医療支援では、第1陣が精神科医2名、医療コーディネーター1名、看護師1名、ロジスティシャン(食料や必要物資を補給する役目を担う)2名で現地に入り、以降、避難所、学校、病院を回りながら医療支援を続けてきた。取材時の7月まで、カルテがあるだけでも250人ほどの被災者への〝心のケア〟をしてきたという。

 森川医師が最初に入ったのは3月30日。大槌町の被災者は、全町民の9割にも及んだという。森川医師は車で周辺地域を視察しながら、すべてが破壊され尽くした光景の前で圧倒され、自身の小ささを思い知らされた。阪神・淡路大震災のときにも1年間、被災地でボランティアをした経験を森川医師は持つ。しかし、今回はそのときとは規模がけた外れに違う、とすぐに感じた。ここではまず何をしなければならないか、それを考える作業から始めなくてはならなかった、と言う。

「私たちが入る前、現地の病院が何週間か担当していて、その引き継ぎをしました。しかし病院の方でも何をしなければならないかが明確にはなっていなくて、依頼された作業をこなしていくことを続けていました。そこで得た情報から私たちがやろうと思ったのは、とにかく各避難所を回って全員に声をかける、何が必要か、負担にならないようご本人に聞いていくということでした。そして避難所を一つ一つ回って話を聞き始めました。

災害メンタルヘルスの教科書に、最初の数日間から1週間くらい、人によっては数時間という場合もあるのですが、何も手につかなくてぼっとしている時期があるが、その時期から適切なケアを始めていかないと、一気にテンションが上がって行動が支離滅裂になったり、言葉の量がどんどん増えていったりする、と言われています。私たちが入った時期はとにかく言葉が増えている時期で、会えば話し続ける、一見すると元気。そんな時期でした」

 避難所に入り、「調子はいかがですか」と声をかける。被災者たちは、自分から堰を切ったように話し始めた。内容は津波に関することが圧倒的に多かった。水があっという間に頭の上まで上がっていって流されたが、ある隙間にはまって助かった。意識を失ったまま流され、目が覚めると違う所に偶然引っ掛かっていて助かった。明確に、はっきりと、そのときの様子を口にした。とにかく話をして回復しようとしていたのだと思う、と森川医師は言う。

 このとき被災から3週間ほど経っていたが、回復している人たちと、回復が遅れている人たちとに、すでに分かれ始めていた。

「もともとの精神的なものあるのだと思いますが、たくさんしゃべることのできない方もいましたし、そうした方やそれから体力のない方、生活基盤がない方。そうした方たちは、回復がどんどん遅れていったのだと思います」

現地入りした当初の2週間は薬がまったく入らず、患者のなかに服薬できない人たちがいる、薬の確保が緊急の課題だと聞かされていた。統合失調や認知症の患者たちだった。薬によって症状を抑えていたが、薬が切れたために徘徊をする、大声を上げる、気持ちが不う安定になる、という不穏な症状が現われていた。そんな状態で避難所暮らしを続けていくことは本人もしんどいし、周りの精神的疲労も大きい。トラブルも絶えない。そのため保健師が、自分のいる場所に不安定になっている人を何名か置いて、見守りをしながら1日1日をしのいできていた。

森川医師たちが入ったときには、薬は入るようになっていたが、今度はその薬を届けるためのガソリンが足りない、車も足りないという状況だった。何かが入れば次に足りないものが出てきて、それを補えばさらに新しいなにかが現われる。しばらくはそんな状態が続いていた。

高齢者、障害者、介護施設の利用者などについて
 大槌町は岩手県のなかでも高齢者や生活困窮者の多い地域で、自死率が県のなかでは高い方でもあり、将来の展望が持ちにくいところだとも言われていた。生活していく力のある人や経済的ゆとりのある人たちは、誰かを頼って避難所を早期に出ていくことができた。残っている人たちは、現地を再生するという目的を持ち、尽力する力のある人。もう一方に、障害を持っている人や他に家族のいない高齢者など、現地から離れられない人たちも残っていた。なかでも経済基盤の弱い高齢者が、圧倒的に多かったという。

 森川医師たちは、障害をもつ人や高齢の人たちが、周りの人に迷惑をかけたくない、と口にするのを何度も耳にした。何の将来もない、もう生きていくことはできない、と言うのも珍しくはなかった。身体障害をもつある人は、先のことが心配だと訴え、このあと自分一人で生きていくことはできるのだろうか、今までは周りの人たちの助けを得ながら生活できたけれども、それがすべて崩れた。周りで支えてくれていた人たちもいなくなってしまった。これからどうやって生きていったらいいのか分からない。そう話しながら泣く人もいた。

「大槌町は保健師さんたちが頑張っている地域ですが、支援制度自体がどうしても弱いのですね。たとえば、さまざまな社会資源を使ったしっかりした支援が必要だ、という人がいるとします。その方のことを保健師さんに報告に行く。保健師さんは知っている。行政の人も知っている。いろいろな人が、その方の支援の必要性を知っているし、何をしなければならないかも把握している。。その方がよく相談に行っているのだということが分かる。ところが必要な具体的支援はなされていないのです。知っているし相談も受けている。けれども何もできない。そういう状態は震災前からあったのですが、それが震災で、ますますどうするんだということになってしまったのです」

 介護施設の利用者たちは、避難後、どうなったのだろうか。

 森川医師によれば、当初は集団で避難所にいたけれども、自治体や病院が引き取りに手を挙げたので、早い時期からそちらに移って行った。移った後、しっかりした社会資源につながっている人、都内の避難所や体育館に住んでいる人、現地の施設で狭いながらも頑張っている人、別の避難所で家族に守られている人、と分かれている。危惧されるのは今後どうなるか。認知症高齢者は、自分が何をしたいのか、どこに行きたいのかといったことをうまく伝えることができず、不安のまま過ごしていることが多い。他の施設に移ったはいいが、認知症が見逃されて悪化させてしまうケースもある。何らかの社会資源にちゃんとつながっていてくれればいいが、と森川医師は危惧する。

仮設住宅に移転する時期になっての被災者の変化
 森川医師は、これまでは自分たちから余計なことはせず、地元の要請を第1にやってきた、しかし今後は情報発信の役もはたしていきたいと考えているところだ、という。理由は、7月に入って一気に仮設住宅への移転が始まっていることにあった。

 これまでは避難所を中心に回っていたのだが、チームの動き方を変えた。拠点診療所を設け、金曜はそこに〝心のケア〟の必要な人が訪れる、という流れを作ろうとしていた。しかし、診療所に来ることのできない人が多く、その時間以外は外に出て、ピンポイントで今まで出会った地域の人たちを回るようになった。以前に比べ、「生きていてもいいことはない、死にたい」と稀死念慮を訴える人、「どうやって生きて行ったらいいか分からない、希望がない」、と絶望を語る人が増えていた。
 
 避難所から仮設住宅に移り、人とのつながりが断たれ、経済的にも自立を迫られて負担が増し、目の前で生じている変化がマイナスに働いている人の方が多かった。〝復興〟のための第一歩であるはずの移転が、逆に、生活の見通しの立たなさや将来のなさを露わにすることになってしまっていた。

 PTSD(心的外傷後ストレス障害)やうつ病といった病理よりも、未来がまったく見えないなか、みんなでここまで一生懸命頑張ってきた、しかし結局だめだ、どうすることもできないと疲れ果て、気持ちが落ちてしまい、どうしていったらいいのか分からずにいる。そういう人が圧倒的多数になっているという。

 さらに森川医師は、「人災」という言葉を用いて次のようなことを述べた。

「被災された方々の人間関係をもう少し広げて見てみたとき、人災ではないかと思う部分もあるのです。行政に何かを申し込みに行って、書類が足りませんと返される。足りないものをそろえてまた申し込むと、今度は、あちらの課に行ってくださいと言われる。どうしようもなくしんどい中で、書類をもって行くことさえ一生懸命やっているのに、ここではないと言われ、そしてたらい回しにされてしまう。もともと日本のお役所のもつどうしようもない部分なのですが、被災地ではものすごく負担になっていました」

さらに続ける。

「むろん、役所の人たちにはまったく悪意はない。彼ら自身が被災者であって、家族を失った人もいるし、しんどいなかでいまだに土曜日曜も頑張っている人もいる。だけども地域住民と行政の人との間で、言い争いがおこる場面にしばし出くわすのです。挙句、お互いに性格が悪いとか、そういう話になってしまう。ある人が(普段はすごくいい人なのですが)こんなことを言うのです。

 知り合いの高齢者が仮設住宅になかなか当たらない。行政の人は自分たちが優先的に当たるようズルしている、と。行政は行政で、自分たちは仮設担当だから後で移る、と最後まで避難所にいる。それなのにお互いが恨みをぶつけあっている。こんなことを、行くたびにどこかの誰かがやっているのです。町と県でも起こっているし、県と国でも起こっている。これは人災と言っていいのではないか」

 人間関係の軋轢という〝人災〟。仮設住宅への移動が本格化し始めた、というこの変化の時期になって、そうした〝人災〟が多く見られるようになってきた、とさらに言う。

「同じことは避難所のなかでも起こっていました。救援物資のコーディネートがうまくできないため、避難所にいる人には救援物資が届くけど、自宅で避難している人には届かない。日程を決めて配っているのですが、圧倒的に量が足りない。そこで自宅にいる人が避難所にもらいに行くと、あなたたちは家があるのに何をしに来たんだ、と言われる。言うのは一部の人でも、言われる側にとっては大きなことになるから、次から行くことができなくなる。一方は、あの人たちは家があるのにものまで持って行くと言い、もう一方は、避難所の人は心が狭い、ということになる」
 
 こうしたいさかいが増え、そのことでさらにストレスを募らせる。そして悪循環になる。森川医師はこれまでの3カ月間、抗うつ薬を一度も出さなかったが、最近、少しずつ出さざるを得なくなってきたという。食べることと寝ることでそれまでは精一杯だったのが、もともとの課題にさらに難題が増えた。そのことが心の疲弊と絶望を大きくさせている。

被災地の内部事情
 心配なことがもう一つある、と森川医師はいう。大槌町には精神科がなかった。精神疾患を持つ患者たちは、1時間や2時間、場合によっては3時間もかけてはなれた市町の精神科に通っていた。通院を地元の人たちに知られたくないという理由もあった。そうした患者たちに、ケアチームが入って薬が届くようになった。ところが、ケアチームのそうした処置が、彼らを甘えさせる一因になっている、という声が聞こえてくるようになった。今まで交通手段がなかったし、どうすることもできなかったのに、だれも文句を言わなかった。だけど医療チームが来て薬を届け始めたら、注文を出し始めた。

 たしかに町の事情が見えてくれば来るほど、複雑な実相があった。しかし、甘えるようになったなどというのは一面的な見方にすぎない、と森川医師は言う。

「私たちが出会うのは被災者だけではありません。もともと、いろいろな課題をもっていた人たちとも出会います。被災のショックから気持ちが落ち込んで病気といいますか、心因反応といいますかストレス反応といいますか、そういうものであれば症状が重かったとしても、いずれ回復するのです。
ところがもともと疾患・障害を持っているのに医療につながっていない人がいて、その方たちは、一人ひとりが複雑な事情を持っています。例えばDV(ドメスティックバイオレンス)による不安症状、アルコール依存、明らかに発達障害の人。統合失調症なのに医療につながっていないため、しんどくても薬を飲んでいないという人とも出会います。これまで医療につながっていなかった人たちは、これから大槌町の外に薬をとりに行くという作業をしないといけなくなるわけですが、その人たちが言うには、届けてくれるなら飲む、届けてくれないならそれでいい。自分から積極的に助かりたいとは思わない。そういう考えだったりするのです。薬を止めるとまたしんどくなる。もらいに行って下さいと言っても行けない。そういう人たちを、ある人たちは、今まで文句を言わなかったのに、ケアをするようになったから甘え始めたんだ、と見るようになっている。しかし違いますね。もっときっちり自分たちがサポートする体制を作って行かなければいけないのに、それをせず、要求ばかり出すようになったという見方を変えようとしないのです。これからまた、何の支援のない状態に戻ってしまうのか。そこが心配な点です」

 すでに書いたように、取材は7月。それからすでに2カ月が過ぎている。被災地事情はまた変わっているのかもしれないが、この時点での森川医師の危惧だった。
今後の課題として、次のことを述べた。

「まず、長期の治療が必要な人は医療機関につなげること。これが一つです。それからストレス反応や適応障害だったりする人は、ストレスの原因について司法書士や行政の職員といっしょに、ストレスの原因を聞いて解決していくこと。字が読めなくて様ざまな手続きができず、そのことで、これから生きていけないと思っているような人もいて、司法書士さんとつながることで書類が出せるようになり、回復したという人もいました。この二つが、精神科医としてやるべきことだと考えています。

 それから、地域にたくさんの支援が入っていますが、じつは、やってはいけない支援というものが結構あるのです。そこに対してはしっかりと意見を出していきたいて思っています。支援をすること自体は悪くはないのですが、アクションを起こすとそこに負担がとない、労力が割かれるために、ベターな支援が入れなくなってしまうことにもなるわけです。それに対してはしっかりと意見を言う。行政の人たちは頑張っているし、地域の人たちにも、自分たちのことは自分たちでやろうという動きがあって、地域のコミュニティづくりをたいせつにしています。そこへの後方支援と言いますか、精神的にしんどくなったとき、あそこへ行けば大丈夫だからというような安心感を伝えていく。最も大事なことは、毎週この場所にいますよ、という安心を伝えることだと思っています。私たちがしゃしゃり出ていくことではないので、それが最も大事な支援の柱だと考えています」

 すでに述べているが、2012年3月まで森川医師たちの支援は続く。

「動的平衡」と支援 ―― 障害論と支援論(第一回)                 

「動的平衡」と支援

1.「障害者」「ホームレス」、言葉と配慮性の問題

 東京・山谷地区を中心に活動する特定非営利法人「自立支援センターふるさとの会」から声をかけていただいたのは、2008年の暮れごろだったと思う。社会的貧困、格差社会、派遣切りなどがさかんに言われ、東京・秋葉原での連続殺傷事件がおこった後だった。そのとき、二つの話題が私を動かした。

 一つは、ホームレス支援という枠で、メンタルケアをしていきたいと話していたこと。もう一つは、「ケアをする人へのケア」の重要性を訴えていたこと。相談室を開設し、この二つの新しい取り組みを始めたいので手伝ってもらえないか、というのがそのときの依頼の趣旨だったと記憶する。
少し迷ったが、その場で承諾した。

 私は、2001年に教員を辞して後、細々と、もの書きを生業として生活を営んできた。ホームグラウンドは「発達障害」である。発達障害と一言でいっても内容は多岐に渡り、特別支援教育の現状について、精神科医療のありかた、卒後の生活支援と福祉をめぐって、法を犯す障害者たちと司法、司法精神医学の諸問題など広範な領域に及び、すでにこれらの問題にどっぷりとかかわっていた。加えて、高齢者の医療・介護、認知症という課題にも深入りし始めていた。

「自立支援センターふるさとの会」は、10年ほど前から山谷地区を拠点として、ホームレスの人びとの支援をおこなってきたNPO法人で、現在は広く、台東区、墨田区、新宿区を中心として先駆的な事業を展開している。ホームレス支援の根幹である住居保障や生活保護関係について私はまったくのシロウトであり、よく知らぬままに首を突っ込むことに自重する気持ちが強かった。しかし既述した二つの話題に動かされ、結局、受諾させてもらうこととなった。

 以下はその理由であるが、少し回り道をすることになる。

 言葉に対するちょっとしたこだわりが、私にはある。たとえば、何のためらいもなしに「障害者、障害者」と連発されると、ちょっとなあ、と引いてしまう。たしかに「障害」は彼の小さくない属性である。しかし全体ではない。ましてや彼の人格でもない。あくまでも彼の一部である。しかし「障害者」という言葉には、あたかもそれが彼のすべてであるかのようなニュアンスが貼り着いている。100%、どこからどう見ても、1日24時間1年365日、障害である。――無雑作な連発から、そのような発話者の人間観が、私には感じられてしまうのである。(自著のタイトルを『ハンディキャップ論』としたのは、じつはそのような事情もあった)

 もうひとつ、こんな例もある。「精神病院」という言葉が最近使われなくなっていることをご存じだろうか。代わりに「精神科病院」と記載されるようになっている。「精神病院」という言葉には、これまでの多くのネガティブな歴史がつきまとっていることは、同意していただけるだろうと思う。しかし昨今、病院施設のありようも、精神科医療の内実も、10年前とは比べられないほど開かれており、かつてのイメージを払拭したい、という動機がそこには含まれているのだろうと推測される。

「ふるさとの会」とかかわるようになった当初、同じように、「ホームレス」という言葉が無自覚に濫発されるようなときに、ちょっとした違和感を覚えた。なぜか、はっきりとした理由は分からない。私自身が口にするときには、少し遠慮勝ちになっていた。

 どうして、「ホームレス」という言葉を使いにくい、と私は感じるのだろうか。路上や公園、空き地でテント生活している人たちを「ホームレス」と呼ぶことに、何の問題があるだろうか。そこまで考える必要もないのではないか。そのような疑問をもつ方もいるだろうと思う。当然である。

 わざとらしい〝善意〟は何よりも醜悪だし、おかしな言い換えは本質を隠ぺいする、矛盾を見えにくくする。そうした見解が正論であることを、私は一定程度は認めるものだ。そのことを認めたうえで、できればあまり使わないで済ませたい言葉のリストのなかに、ホームレスという言葉もおさまり、以来、それは続いているのである。

 といって、ある特定の言葉は〝差別語〟だから、使ってはいけないというような、いわゆる〝言葉狩り〟に類したことを主張したいのではない。これは、私にとってはできれば避けたい言葉だという、あくまでも、個人的な居心地の悪さの表明である。

 言い換えが、新たな居心地の悪さを再生産することもある。
  たとえば、昨今しきりと目にする「障がい」「障がい者」という言葉を使う趣味は、私にはない。「害」という字がよろしくないから「障がい」とするという理由で(たぶん)、行政用語となり、そのまま一般にも広まったようであるが、では「障」の字はよいのか。へそ曲りの私は、ついそう考えてしまうのである。

「障」は「月の障り」といった用法があるように、いい意味でばかり使われているわけではない(さまたげ、さしつかえ、病気になる、といった意味があると辞書に記載されている)。「害」の字が、当事者を貶めるイメージがあってよろしくないというのなら、「障」も同様によろしくないはずだ、というのが、筋の通った主張というものだろうと私には思われるのである。

  それなら、と考えたのだろう。「しょうがい」とすべて平仮名にして記述する例も、ごくわずかではあるが見かけることがある。しかし「しょうがい者」という記載はいかがなものだろうか。かつて「ちほう症」や「精神ぶんれつ病」としていた例も見たことがあるが、そうやって平仮名にして済ませておこうとするのも、また、私の趣味ではない。というか私の感度では、逆に、これではご本人をバカにしているんじゃないか、と感じてしまうのである。

 ではどうするか。特に私自身に有効な手はない。知人の児童精神科医は「障碍」と書くことを常としているが、これはこれで一つの見識であって違和感はないが、私自身は「障害」のままである。本稿がそうであるように、せめて「 」でくくって表記することにしているが、これもケースバイケースである。
 
 整理してみよう。
 かねてより、「障害者」という言葉が、あたかも当然のごとくくり返される場面に出くわすと、違和感を覚えた。同様に、「ホームレス」という言葉も節度をもって使った方がよくはないかと、私のセンサーは働いた。これがなぜだったのか。

 まず、かつての言葉狩りのように、言葉の一律規制を強制する主張には、私は反対する。しかしながら個々人の判断で、節度をもちたい、場合によっては控えたい、とすることには反対しない。これは基本原則である。

 では、無自覚に濫用濫発されると違和感を覚える言葉を、平仮名で表記すれば違和感は解決するのかといえば、必ずしもそうではない。「障がい」も「しょう害」も「しょうがい」も、私の鈍い感度にあってさえ、ご本人をバカにしたような、こんな日本語は使いたくはないというセンサーが働くのである。繰り返すが、これは私自身の個人的な自戒である。

 では、「ホームレス」という語になぜ抵抗を覚えるのか。そんなちょっとした問題が、「ふるさとの会」に出入りさせてもらうようになって、最初の宿題となった。
さて、何を私はこだわっているのだろうか。

2.「自立支援センターふるさとの会」の事例検討会から

 ここで、ふるさとの会の話題に戻る。
 最初にお会いしたときに「ホームレスの人々のメンタルケアという取り組みは、あるいは初めてのことではないか、少なくともとほとんど耳にしたことはない」と水田恵代表はくり返していた。一般的には、居住の確保と地域生活への以降支援、就労支援、生活保護の受給の支援、医療や介護サービスへのつなぎ、などが、過半の支援団体にあっては基本的な取り組みであるという。

 こうしたはなしを聞きながら、私なりに、いくつか類推できることがあった。
 メンタルケアという言葉が具体的にどんなことを指すのかは分からなかったが、それぞれの方々は、路上での生活に至るまで、あるいはその後も、想像を絶する人生を歩んできているはずである。その彼らに、踏み込んだケアをしようすることは、かなり困難な取り組みになるだろうことは、まず想像できた。

 だからこそ、ケアをしている人たちへのケアが重要になってくる。

「ケアをする人のケア」については、私自身もこれから重要な課題になってくると考え始めていた。医師や看護職のバーンアウト、小中学校教員の病気休職者の増加(多くがメンタル面の問題)、過重労働による介護職の人員不足などの出来事が、すでに顕在化していた。ひとを援助する職域で、何か、これまでとは異なる事態が生じている。早急に手を打たないと、取り返しのつかないことになる。――機会があるごとに、私自身もそんな考えを発表し始めていた。

「事例検討会」は、月に1回が定例である。回を重ねて出席していくうちに、なぜこうした会の開催が必要だったか、保健師で相談室の責任者である的場由木さんや水田代表の意図が、ぼんやりとではあるが輪郭を描くようになった。

これまで事例検討会議で取り上げられたテーマを並べてみる。
○生活再建相談センターから社会資源移行にあたっての支援の在り方
○路上から自立援助ホームへ
○自死に至った利用者
○簡易宿泊所における居住と生活支援
○自立援助ホーム利用者への支援
○認知症利用者のケア
○死亡事例
その他。

 2011年11月の段階ですでに34回を数えるが、こうしたテーマに沿って、個別の事例が取り上げられる。集められる限りの生活史状況、現在に至るまでの病歴やどんな社会資源を利用してきたか。いまの施設での様子や人間関係、健康状態などが担当スタッフから情報として提示され、確認しながら問題点が絞り込まれていく。

「ふるさとの会」の発足からその後の歩みについては、拙著『人はなぜひとを「ケア」するのか』(岩波書店)にも記しているが、ひと言で言えば、利用者のニーズに応じるように、制度と制度の隙間を埋めていく取り組みを続けてきたと言ってよいと思う。

 そして事例検討会議で取り上げられるのは、困難ケースであり、職員にとっても利用者にとっても重要ケースであり、新たな課題の典型的なケースという側面ももっている。

これまでの話し合いで出された内容から、重要な課題を、次のようにまとめてみる。
①山谷地区全体が高齢化していることに伴う問題群。
・認知症や様ざまな疾患、障害の重篤化に対し、どんな法人独自の対人援助論をつくるか。共通了解されるか。
・QOLの低下に伴う生活支援の在り方。訪問介護や看護サービスの隙間にある生活支援。
・終末期と看取りの問題。従来型のホスピスとはことなり、それまでの生活居住の場での看取りが可能か。
 
 対人援助論の構築。生活支援の制度化にたいする政策提言。終末期への取り組み。まず大きくこの3点が、取り組みに柱になっていると思われた。

②さらに「生活の貧困」を如実に示すことによってあらわれてくる問題群。
・居住の支援が結果的にそれまでの人間関係を断ち切り、孤立を招いてしまうこと。
・「孤独死」と、その兆候の見つけにくさ。結果として発見の遅れ。
・自死してしまう人がときに現われること。やはりここでも兆候の見つけにくさと、不意をつかれてしまうという課題がある。
・幼少時の虐待やいじめなど、厳しい生育歴に起因する問題群。
 
 ここでいう「生活の貧困」は、経済的困窮だけを意味しない。自身の生活圏において、生きていくために必要な最低限の人間関係をもたず、またみずからの手で作っていくことも難しい。精神疾患や知的・発達障害、身体障害をもつなど、何らかの資質的なリスクファクターを抱えている。そして人間関係や生活上のトラブルを解決する力が弱い。
 いわば経済困窮、人間関係の孤立と地域での孤立、さまざまな要因による問題解決の弱さ。これらが複合的に現われてくる事態を「生活の貧困」と呼びたいと思う。

③そして利用者のなかに少しずつ増えつつある若年層が示す問題群。
・就労の支援と就労先の確保。
・刑事施設から社会復帰した後に遭遇する、様ざまな生活上の困難。

 若年層をどう支援するか、より具体的な取り組みは今後の課題であるが、方向は二つある、と私は受け取ってきた。

 ひとつは、働くにあたっての基本的スキルが獲得されておらず、環境の整備や作業工程の分かりやすい提示など、就労の技術そのものを丁寧に伝達することが必要なタイプへの支援。知的なハンディキャップをもつ。あるいは養育環境の不遇のため、そだちのなかで身につけてくるべきスキルをもつことができなかったタイプといってよい。

 もう一つは、学習面にしろ社会的なものにしろ、一定程度のスキルはもっているが、生活が不規則になって遅刻や欠勤が増える、約束が守れない、金銭管理に問題がある、人間関係がうまく築けない、極度に自分に自信がないが、逆に不釣り合いなほどのプライドの強さを誇示するなど、いわゆる発達障害タイプの人への支援の方向である。支援者にとっては人間関係ができたと思っていると、じつはそうではなかった、肝心のところでドタキャンされてしまった、ということをくりかえしながら、自分自身を追い詰めてしまう。そういうタイプである。激しい虐待と体験している人もいる。

どちらかにきれいに分けられる、というタイプは少数派であろうが、若年層への支援にあたっては、大きくはこの二つの目安をもっておくことは重要な視点ではないかと思う。そして言うまでもなく、多くのひとが複数の課題を抱え、それぞれが複雑な絡み合い方をしており、まさに各人各様に異なる。

 現場の担当者の報告を受けながら、こうしたさまざまな問題群を腑わけしつつ、共通了解しておかなくてはなら な い支援の方向、配慮すべき点などをさぐっていく。このとき、私が蒙を開かれたことは、「事例検討会議」とは、単なる症例会議に留まらない内容をもつことであった。

私は制度的な問題についてはシロウトであり、療育的・心理的な見解を示すことが関の山である。一方、ふるさとの会の側からは、どの制度をどううまく組み合わせればより適切な支援になるか、という制度活用の提示に留まらず、ときには、その人のもつ課題から新たな事業展開のスキームが導き出され、その実現に向けたプレゼンテーション、といった趣を呈することもあった。

くり返すけれども、事例検討会議においては、ケースとして取り上げられた人がどんな状態で、どのようなケアが必要か、予後はどう予想されるか、といったいわゆる症例会議に留まるものではない。また、どんな制度をどう当てはめていけば事業として利益の大きい展開ができるか、といったテーマを中心とした、いわゆる経営会議でもない。そのどちらでもあるし、現場のスタッフにとってのメンテナンスという性格もあわせもち、これらがランダムに機能しながら進められていくのである。

このような事例検討会議に参加しながら、当初、なぜ「ホームレス」という言葉にちょっとした抵抗感を覚えたか、少しずつ見えてきた。それは、これまで福祉や教育、介護という領域に関わりながら、私自身が何を主題としてきたか、改めて気づかされることでもあった。

3.支援と『動的平衡』

 かつて(私が教員として某養護学校に赴任した30年ほど前、としてもよいが)、「障害者福祉」も、「障害児教育」も、「障害者支援」さえも、その言葉は手垢にまみれていると感じられた。「障害者」や「障害児」という言葉は、もっと手垢まみれだった。

  このように断じる根拠は、経験的なものでしかない。15歳までの間の10年間、「障害児」を家族とし、ともに過ごし、そこで見聞きした体験によっているが、この文字を目にし、言葉を耳にするたびに、本人や、私たち家族がどのような社会的なまなざしのもとに置かれているのかが、否が応でも理解された。

 小学生ながら、それらの言葉がとても貧しい内容しか持たないことが、不当に思えてならなかった。そして何よりも、言葉の背後にべったりとくっ付いている、哀れみや施しの感情ほど不快なものはなかった。そんななかに置かれながら生きるくらいならば、排斥されたほうがよほどましだ、などと感じていたから、私の素直ではない性格は、そのころから片鱗を見せていたようである。

 さらに10数年が過ぎ、私はなぜか「障害児教育」の教員として、「知的障害児」と呼ばれる子どもたちの前に立つことになるが、それは、皮肉としか言いようがない。ところが、「障害児教育」も「知的障害」も、言葉自体の貧しさは相変わらずだったにもかかわらず、内実は、予想をはるかに超えたダイナミズム溢れるものを作り出そうとしていた。

 そこで得た最大の収穫は、ひとつ。教育の実践とは(あるいはひとを援助する仕事とは)、その内容を更新し続けることを止めてはならない、というメッセージだったと思う。作り上げては更新し、また作っては新たなものを求め、と繰り返されるそのプロセス。それをやめてしまえば、言葉はすぐにスローガンと化す。「ふるさとの会」の事例検討会議が思い起こさせてくれたものも、まさにこのダイナミズムだった。

  事例検討会で得た「ふるさとの会」の特徴を、もう一度確認してみる。

 サービス提供者側の都合(制度や習慣など)を前面に押し出し、障害当事者をそこに当てはめていき、当てはまらないケースは受け付けない(あるいは切り捨てる)。――こうした従来型福祉にありがちな発想は、「ふるさとの会」では採らない。そうした姿勢こそ拒否する。そのことがまずは痛感された。「利用者一人ひとりに即した支援」とはよく耳にする言葉ではあるが、お題目ではなく、その実現を図ろうとするシステムの一つが事例検討会議であった。

 言い換えるなら、一度設定された支援の内容はたえず更新されていく。目標は設けられるが、それは絶対的なゴールではない。確認された現状はあくまでも現状であり、むしろ、もっと良い支援ができるのではないか、もっと良い仕組みが作れるのではないか、と試行錯誤するそのプロセスが最大の特徴であり、そこが私が強く共感するところだった。

 支援とはなにかと問われたら、むしろ検討を重ねるプロセスそのもののなかに重要な鍵がある。いまの私はそう答えたい。

 支援は動く。日々、更新されるのである。

 ちなみに、『動的平衡』(木楽舎)の著者・福岡伸一氏は次のように書いている。
 《新たなタンパク質の合成がある一方で、細胞は自分自身のタンパク質を常に分解して捨て去っている。なぜ合成と分解を同時に行っているのか? この問いはある意味で愚問である。なぜなら、合成と分解との動的な平衡状態が「生きている」ということであり、生命とはそのバランスの上に成り立つ「効果」であるからだ。
 合成と分解との平衡状態を保つことによってのみ、生命は環境に適応するよう自分自身の状態を調節することができる。これはまさに「生きている」ということと同義である。》p75

 ここに書かれている生命の平衡状態が、支援の最も本質的なポイントではないか。繰り返すが、支援とは、日々なされる更新であり、更新される限りにおいて支援としての生命を保つ。人と人とのあいだでなされる、ある動的な営みなのである。

 福岡氏は、さらに次のように書く。
《サスティナブル(持続可能性)とは、常に動的な状態のことである。》
 支援が持続可能であるためには、「動的」でなければならない。作り上げては、もう一度作り上げ、という絶えざる更新のその過程こそが、「持続可能性」である。

 ここにいたって、「言葉に手垢がまみれている」という私の実感が、なにに向けられたものだったのか、いくらかなりとも明らかになったのではないかと思う。

「障害者」も「障害」も、その内実が「動的な平衡」を失ったとき、手垢にまみれた言葉になる。支援とは、たえず更新されるものだと述べたように、「障害観」も更新されうる(どう更新されるかは、拙著『ルポ青年期の発達障害とどう向き合うか』(PHP)において、その概要をスケッチしているので、ここでは述べない。ぜひそちらを参照していただきたい)。http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_ss_gw/250-3176836-8255456?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&initialSearch=1&url=search-alias%3Daps&field-keywords=%8D%B2%93%A1%8A%B2%95v&Go.x=9&Go.y=15

 私自身は、山谷地区に足を運ぶようになって、まだ三年ほどしかたっていない新参者にすぎない。それでも、少なくないNPOやその他の支援団体が、新たな仕組みづくりの必要性を訴える場面に出くわしてきた。
したがってこのあたりの事情は、「ホームレス」あるいは「ホームレス支援」という言葉にあっても、同様なのではないか、というのが、本稿一編に託した主題である。

「緊急災害時を高齢者介護施設はどう乗り切ったか」その2

 『飢餓陣営』36号を出してから、ブログの更新が滞ってしまった。決してサボっていたわけではない。少し宣伝をさせていただこう。

 「そだちの科学」が本日20日発売になったが、拙稿の掲載あり。雑誌のテーマは「アスペルガー症候群のいま」。当方は就労支援について書かせていただいた。そして柏書房より刊行された『ぼくたちが見た世界 自閉症者によって綴られた物語』に「解説」を書き、『ホームレスと社会』に「ふるさとの会」の事例検討会のレポートを書いた。こちらのテーマは「孤独死」。そして『健康保険』では、警察医に取材し、検案についての原稿を仕上げた。

 そして講演をこなしたはいいが、台風の大荒れの日で、帰路、地下鉄千代田線町屋駅で、電車が動かなくなってしまった。常磐線で倒木があり、乗り入れができなくなったためだという。駅でタクシー券が配布されたが、タクシーが捕まらなかった。さらには東金事件関係の取材に出向いた。門前仲町や津田沼や船橋や八柱あたりで飲み会をし、とあいかわらず、ばたばたと過ごしていた。こうした日々は、「佐藤幹夫のホームページ」のほうに、「身辺雑記」として載せるので、そちらをお読みいただけるとうれしい。

 今回のブログ掲載は、『健康保険』より、兵庫県尼崎市の「きらくえん」取材の2回目。タイトルは「緊急災害時を高齢者介護施設はどう乗り切ったか」その2。

――ここから
ケア付き仮設住宅をつくる
 3月から建設がはじまった仮設住宅は、4月1日に、芦屋市で1棟がオープンする。高齢者に加えて障害をもつ人びとも入居対象となり、「高齢者・障害者地域型仮設住宅―グループホームケア型」という正式名称になった(以下、「ケア付き仮設住宅」)。

「急いで建てた一般の仮設住宅が、都市部には土地がないということで、地域から離れた六甲の山裾や芦屋の埋め立て地に建っていました。医者もいない。かつての近隣とのコミュニケーションもなくなってしまった。そのため、孤独死が続いていました。ケア付き仮設住宅を「地域型」といっているのは、住み慣れた地域のなかに作っていただきたいという要望を強く出していましたので、「地域型」としたのです。これが良かった。〝被災地の希望〟と言われました」

 1棟14人。真ん中に50平米ほどのリビング兼キッチンがあり、左右に6室8室の個室が並ぶ。洋室か和室かを選ぶこともでき、夫婦でも1つずつ居室がもらえる。各個室にはトイレ、洗面所、押入れ付がいていた。リビングの横には男性用と女性用の浴室もあり、その後生活援助員と呼ばれたケアする職員たちの部屋も用意された。

 利用者のなかには、身体の状態が良くないなかを、あちこち転々としてきた人がいた。避難所から一般の仮設住宅に、そして特養に入り、すぐにまた別の施設に。そんな人もやっと落ち着くことができた。しかしまだ課題は山積していた。

 「まず大変だったのが、食事の問題です。避難所での生活のあいだは、一応弁当などの食事が提供されていました。ところがここは食事提供がなく、自分でご飯をつくって食べないといけません。このときの入居者の方たちは心身ともに最悪の状態で、救急車で運ばれる人が続出しました。食事を作るのが辛いと泣いた人もいました。

 これではいけないと、友人知人にボランティアをお願いして60人の人たちに来てもらい、朝昼晩、手作りの食事を作ってもらうようにしたのです。そうこうするうちに、芦屋市の福祉公社が配食サービスを始めていましたので、夜は大変だろうから配食サービスを入れましょうということになりました。ボランティアの人たちが最初の日に炊いてくださったご飯から温かい湯気がたちのぼったときには、皆さん泣いておられましたね。それまでは冷たいお弁当ばかりでしたから。あの光景は今も忘れられません」

 住宅と食事が確保される一方、医療とつなぐことも急務だった。過半が障害や疾患を持っていたし、避難したときに薬を持ち出していなかった。根強く残る地震への恐怖、家財のすべてを喪ったことへの激しい喪失感などから、PTSDの症状を見せる人もいた。しかし診療所はすべて全壊状態。医師たちがどこにいるのかも分からなかった。市川理事長は、援助員のなかに配属されていた保健師を中心に、医療につなぐことに力を注いだ。

 食事が充実し、医療とつながると、入居者たちは驚くほど元気になったという。30代の脳性マヒの青年、50代の知的障害をもつ人、精神障害の人、重い認知症の高齢者といった人たちが4棟で50人余り一緒に暮らしていたが、みな、どんどん回復していった。

 「いつでも一人に慣れる自分の空間を得て、医療と食事が整う。すると、あんなにバタバタ倒れていた人たちがこんなに元気になるのかと実感しました」

 市川理事長はそう繰り返す。
 
「芦屋市の4棟、尼崎市では4棟のうちの2棟の運営を私たちの法人に託されたのですが、皆さん、自分たちはこうした福祉サービスを望んでいたんだと、とても喜んでくださったのです。施設ではなく住宅ですから24時間自由です。好きなように暮らすことができるし、生活援助職員が1棟に4人配置できたので、1人か2人は必ず傍にいてくれる。深夜も一人いましたから、何かがあってもすぐに駆け付けてくれる。こんなにも安心で、うれしいことはない。皆さんに、そうおっしゃっていただきました」

 そして次のように言う。

 「安心すると、逆にできるだけ自分の力で頑張ろうとするのですね。それまでは不安で不安で、不安が病気を作っていた。安心を得ることによって自立への意欲が増したのです。スウェーデンに行ったとき、福祉はフォーマルなケアが整えば整うほどインフォーマルなケアが高まると聞いていましたが、私は、嘘だろうと思っていたんですよ。制度が整うほど依存的になり、インフォーマルなケアは後退していくんじゃないかと思っていたのです。ところが向うの方は、そうじゃないと確信的におっしゃった。ケア付き仮設住宅ではじめて、その言葉の真意が分かりました。きちんとした制度を作ることは、何かあったらすぐ対応してくれるという安心感となる。すると、自分で頑張ってみようと思われる。そのことがよく分かったのです」

 仮設住宅では3年2カ月間の暮らしとなった。途中でアンケート調査をとったりしながら、さまざま試みをつづけてきた。環境を整えるために観葉植物を入れたり、花を飾ったり、さらには有馬温泉に出かける1泊旅行を企画するなど、少しでも心が晴れるように様ざまな取り組みを行った。

 ちなみに、こうしたケア付き住宅を常設してほしいという要望が高まり、法人では2000年に、生活支援型グループハウス「きらくえん倶楽部大桝町」の開設に至り着くことになる。

復興公営住宅にLSA(生活援助員)を
 話を戻そう。被災地では1998年4月から6月にかけ、約2万5千戸の復興公営住宅が建設された。そのためにケア付き仮設住宅は撤去されることになり、住んでいた人たちは転居を迫られた。子どもたちが引き取ろうとした人もいたし、特養や療養型医療施設に移った人もいた。しかし多くの人が、復興公営住宅への入居となった。南芦屋浜の埋立地に814戸の復興公営住宅が建設されたが、そのなかの230戸をシルバーハウジングとした(このとき、兵庫県は4000戸のシルバーハウジングを入れたという。仮設住宅がなくなったあとにどうしても自宅再建ができないのは高齢者であり、高齢化率も高かった故のことだった。95年当時の全国のシルバーハウジングの総数が約4000戸、2倍の数になった)。

 復興公営住宅で24時間の安心をどう保障するか。高齢者は深夜が最も不安であり、それを解消するためにもLSA(生活支援員・ライフ・サポート・アドバイザー)を配置したい、と市川理事長は考えた。南芦屋浜のシルバーハウジングでは、30人に1人のLSAの配置基準が国によって認められた。しかし深夜の見守りは業務に含まれていない。芦屋市は、ケア付き仮設住宅における市川理事長たちの取り組みを知っていたから、市の予算を拠出し、LSAの夜間配置が可能になった。

 ちなみに、兵庫県の復興公営住宅の高齢化率は高い。1998年12月時点での南芦屋浜復興公営団地での調査によれば、すでに43.6%。09年の全復興公営団地の高齢化率は48・2%、独居高齢化率は43・3%となっている。震災関連死が言われ、復興住宅での孤独死の多さが指摘されていた。

 「2万5000戸ある被災地の復興団地で24時間の見守りをしているのは、南芦屋浜の復興公営住宅だけです。結果、他ではたくさんの孤独死が起きているのに、私たちの復興住宅では11年間孤独死がゼロだったのです」
そう市川理事長は胸を張る。残念ながら12年目になって1人亡くなったというが、13年間のなかで孤独死は1名だけである。

 認知症や身体に障害をもつ高齢者は、介護保険を使ってヘルパーや訪問看護のサービスを受けることができる。しかしそれ以外の多くの時間を、一人で過ごさなくてはならない。夕刻、電気の球が切れたので、とり替えてほしい。朝食時、ジャムのふたが開けられないので開けてほしい。こうした依頼が入り、LSAはその都度対応する。団地内にはLSAのスタッフが夜間に詰めている事務所があり、その明かりを見ると、皆安堵をおぼえるとも言う。

災害時福祉避難所としての備え
 市川理事長がもうひとつ強調していたことは、災害時、介護施設が緊急避難所として、きわめて高い機能をもつということだった。そのためにも、普段から十分な備えをしておくという観点を、施設内でも行政も、もっと高めていく必要があるのではないか。

 阪神・淡路大震災のとき、在宅介護者2899名が緊急保護された。しかし既述したように避難所での震災関連死が多く、市川理事長は、その環境の悪さを何度も指摘した(4月29日より5月3日まで、筆者も南三陸町の避難所を取材したが、きわめて劣悪な環境であることに驚いた)。

 一方、介護施設に避難した人の死亡率は2.4%。ふだんでも5%ほどだから、それよりも低い数字が出ていると、市川理事長は言う。これがはっきりと、明暗を分けた。施設はバリアフリーであり、食事は栄養士によって提供され、介護スタッフ、医師、看護師もいる。

「このとき私は、介護施設をすべての障害者の方の福祉避難所にすべきだという提案をしたのですが、その後、災害救助法が改正され、阪神・淡路後の自然災害では介護施設が福祉避難所として提供されるようになりました。現在も福祉避難所に指定されているのですから、そこには、せめてライフラインが5日分ほどは持ちこたえる備えをしてほしいと思っています。いまの貯水層は小さいですし、自家発電装置も十分にはない。都市ガスだけだったら災害時には使用できなくなりますから、ボンベを備えておくとか、燃料などの用意をしておかないと、福祉避難所といっても名前だけになります。経験した人間からすれば、施策の足りないところが山ほどあるのです」

 災害時に重要なことをもう一つ、市川理事長は指摘した。地域とのつながりである。

 「高齢者の方々と職員の人権を守ることとともに、地域に根ざす運営を目指すことが、私どもの法人の基本的な理念です。日頃から地域の方たちが多勢出入りしますし、我々も地域の課題解決に協力しています。普段からそういう関係を作っている所は、震災のときにも頼られます。閉鎖的なところは、結局、緊急時にも何もしないし、できません。日頃からの活動が、いざというときに全て生きる。日頃の運営のあり方が、緊急時に、そのまま映し出されてくるのです」

 阪神淡路大震災では、6434名が亡くなり、そのうち兵庫県内の犠牲者が6402名、同県内における震災関連死は919名である。半数は60歳以上。その半数が避難所に入っている人だともいう。
「今回の東日本大震災で宮城県と岩手県の沿岸部だけで、52の特養が使用できない状態になりました。福島県はカウントさえできていません。入居者の方はどうされているのでしょう。集計は難しいでしょうが、関連死は阪神淡路よりはるかに多いだろうと思います。私は、一刻も早く避難所から早く出て、24時間ケアの付いた仮設住宅に移してあげてください、と随分前からメディアに、先日は内閣府の関係者にお伝えしてきました。新聞やテレビ報道を見ていても、24時間体制でのケア付き仮設住宅ができたということが報じられないので、気が急いてなりません。一人ひとりの命がかかっているのです」

 大変に学ぶところの多い取材だった。次回は、けま喜楽苑における終末期ケアの報告となる。

「災害派遣教育支援チーム」の設立を・再説

 8月2日の朝日新聞夕刊に「被災地 集まる先生 夏休み中に勉強会」という見出しで、次のような記事が掲載された。

「授業の開始が遅れたり、避難所暮らしが続いたりして勉強が十分にできなかった被災地の子どもたちのために、夏休みを利用して全国から先生たちが駆けつけた。学習支援に加え、自らも被災者である現地の先生たちをサポートする役割もある」。そして横浜市立の小中学校の現役教師三二名が夜行バスに乗って石巻市の小学校に。横浜市教委は、二泊三日を出張扱いとし、1162名を現地に送り込むという。南三陸町でも、兵庫県教委や長崎県教委から現役教師が訪れ、中学生を対象として「夏季学習会」を開催するという内容の記事だった(三浦英之記者)。

 「教育委員会も、やればできるじゃないか」と、ついエラソウに、そう思ってしまった。実はこの7月に刊行した新著、『青年期の発達障害にどう向き合うか』(PHP)の「おわりに」を、次のような要望を書き留めて、締めくくりとしていた。

<以下引用>
「災害派遣教育チーム」の設立を
 僭越なこことは思うが、この間感じてきたことを最後に書かせていただき、まとめとしたいと思う。
 
 被災直後、さすがに医師たちの迅速な対応が目についた。昭和大学のDMAT(災害派遣医療チーム)は一二日未明に仙台入りし、四日後には別の医療救援隊が岩手に駆けつけたという。第一陣は医師五名、看護師・助産師六名に薬剤師、事務員、調理師各一名の総勢一四名で現地入りしている(四月一六日『読売新聞』朝刊「論点スペシャル」有賀徹昭和大学病院長の談話より)。

 また阪神大震災を経験した行政職の方たちを中心に、支援体制をつくって現地入りする動きがあったことも報道され、これにもまた深く感銘し励まされる思いだった。さらには民間企業の迅速な対応。独自の判断で支援物資を早くから輸送し始めており、多くの人々が安堵し、勇気づけられたことと思う。

 私は報道にくぎ付けになりながらも、あることに目を凝らしていた。学校関係機関がどのような対応をとるか、文部科学省や各都道府県教育委員会がどんな支援活動に乗り出すのか、その報道を待ちわびていたのである。被災した学校の惨状、窮状は誰の目にも明らかである。子どもたちへの緊急の救援や支援も、一刻を争う事態である。

 三月も二〇日を過ぎれば春休みに入る。むろん普通に言われる〝休み〟ではないし、新年度に向けた準備や引き継ぎなど、慌ただしい時期であることは知っている。しかし、多忙であるという事情は、医師たちも、行政関係者も同じである。民間の業者も、通常の業務外で対応したはずである。教職員にあっても、やってやれないことはない。そんなことを思いながら、報道を注視していた。

 私は私なりに、ぜひともこれは、と考えていたのは次のようなプランだった。

 教職員からボランティアで応援要員を募り(各教育委員会が一〇名ほど募集すれば十分な人員になる)、一つには、被災した学校をできるだけ早く再開するための準備スタッフとして派遣すること。子どもたちの持ち物はどうするか、教室まわりの環境や教材置き場のどこがどうなっているの。事務用品や書類関係はどうか。一般のボランティアよりも事情を知悉しているはずだから、おそらくそうとうの戦力になることは間違いない。現地の教員の方々も被災者である。同職者の応援がどれくらい精神的支えになるか。1日に一五分、二〇分、話し相手になるだけで、ずいぶんと力づけられるはずである。

 次には、ボランティア要員のなかから、避難所にいる子どもや、自宅退避している子どもたちの「出張授業」を行うスタッフとして派遣する。避難所では若い学生ボランティアが子どもたちに勉強を教えたり一緒に遊んだりして、大活躍をしていたことは、東災ボで食事後に行われていた報告会において、私も聞いている。医師や心理士も早い時期からメンタルケアに入って支援している。

 その活動の重要さを十分に承知したうえで言わせていただくが、それはそれとして、小学校、中学校の「先生のもつ力」は、子どもたちには最も身近で、浸透力が大きいだものではないだろうか。「他県から応援に来てくれた先生たち」という言葉は、母親たちにとっても子どもたちにとっても、大きな安心感となるはずである。そう考えるのは、身びいきに過ぎるだろうか。

「学校」や「先生」は、子どもたちにとって、最大の防波堤である(保護者にとってもそうであり、そのことは逆に、大きな悲劇にもなりうるが)。これらが一つ目である。

 二つ目はすでに書いているように、発達障害をもつ子どもたちの避難支援が、まとまった体制をとって、まぜできなかったかということである。私の具体的策はきわめて単純である。まず避難場所を用意する。スクールバスを数台、必要に応じて準備し、学校なり教育委員会が避難を希望する家庭を集約する。あるいは何らかの形で周知する。各地域でスクールバスをまわし、用意した避難場所へ搬送する。まさに福祉避難所である。

 こうした避難場所ならば、親御さんたちも気兼ねなく過ごせるだろうし、子どもたちも多少なりとも動き回ったり、騒いだりしても、一般の避難所とははるかに気を遣う遼が異なるはずである。また支援ボランティアや支援教育専門の教員、心理職を派遣し、まとまった教育的援助や、遊びなりゲームなりの活動を組織して、ストレス解消の方策も取れるだろう。保護者たちへの心理的ケアもできる。

 あるNPOが単独で、発達障害の子どもたちの支援をしているというテレビ報道はあった。しかし、文部科学省や教育委員会が何らかの通達を出し、組織的な支援を働きかけたという話はついに聞くことはなかった。しばらくたってから、厚生労働省が各自治体に対して、「福祉避難所」の整備を促していることは報じられた(五月二〇日『朝日新聞』朝刊)。これは大事な取り組みであり、ぜひとも各自治体でも進めていただくことを切望する。

 ただし、緊急時の避難、二四時間の生活を長期にわたって共にする避難場所としては、発達障害のある子どもたち(大人も含め)のそれは、別途用意していただけないものか。平時のデイサービスなどについては、私は〝共生型スタイル〟を推奨しているが、大人も子どもも精神的・情緒的に極限状態が続く避難生活にあっては、共生型では負担が大きい。

 そんなことを考えながら報道を注視していたのだが、震災発生から一月が過ぎても、文科省からも各教育委員会からもまとまった支援活動の動きがあると報じられなかった。このことが、私には残念でならなかった。あるいは私が知らなかった、ということだけなのかもしれず、もし何らかの事実があったときにはご教示いただければありがたい。現状がどうであったか、今後の課題として、私も取材を重ねてきたいと思う。

 大きな災害時、障害の有無にかかわらず、子どもたちの教育支援をいかに早く始め、復帰の一助とするか。学校が避難所となるから、難しい問題が多々生じるとは思うが、教室での教育を再開するまでの緊急教育支援にかぎっても、文部科学省や教育委員会ができることは少なくないと思う。

 災害時に、他地域からの教育支援をどう組織するか(今回のように全国的規模になることもあるだろう)、平時から想定し、準備しておくこと。医師たちの「災害派遣医療チーム」のような、「緊急派遣教育支援チーム」があってよいのではないか。いや、なくてはならない。当然、障害の有無にはかかわらずに対応できる教育チームである。(こうした臨機応変さこそ、特別支援教育の命綱ではなかったろうか)。

 このことを本書の最後に望み、「おわりに」に代えたいと思う。
                                                  2011年5月22日
<引用ここまで>

 以上が、私の要望である。お断りしておくが、記事に書かれているような事態が生まれたことを、自分の本の手柄である、と誇りたいのではない。そんなことはどうでもいいことだ。

 まずは、子どもたち。地震と津波による大きな被害に加え、教育の機会を奪われ続ける、という三重四重の人的被害を受けてきた被災地の子どもたちが、やっとよき機会を得るに至ったことを、心より喜びたいと思う。

 そして避難所で奮闘してきた教師の方々。その活動の、ほんの一端は拙著の「終わりに」で紹介させていただいているが、かれらの疲弊困憊は相当なものだろうことが察せられる。その方々にとっても、活力を取り戻す機会とならんことを願う。

 さらには支援に乗り出した横浜、兵庫、長崎の各教育委員会の英断。まさに私が願っていた「緊急派遣教育チーム」の誕生である。こうした支援が全国に広がることを、強く願う。繰り返すが、何かあったら、すぐに支援に入ることのできる体制を平時から整えておくこと。いま最も重要なことは、縦割り意識や旧来の慣習からどれだけ自由な発想で、被災地を支援できるか、緊急の事態に対応できるか。その対応力を強くすること。この1点に尽きるのではないかと思う。


「3.11」クリップボード その1                      

 この「クリップボード」と題されたエッセイは、三・一一以降の、印象に残った言葉を引用することを目的としているが、最初に、ぜひとも特筆しておかなくてはならないことがある。

 3・11東日本巨大地震の直後、誰もが「自分も何かをしなければならない」という自問自答の中に置かれていたことと思われるが、私がもっとも感心したのは、最相葉月が中井久夫に直接依頼し、「災害が本当に襲った時」を電子版としてインターネット上で無料公開したことだった。(http://homepage2.nifty.com/jyuseiran/shin/shinall.html
この文章は『1995年1月・神戸「阪神大震災」下の精神科医たち』(みすず書房)に収められているが、巨大地震からほどなくして、電子版という無料スタイルで「東北関東大震災下で働く医療関係者の皆様へ」として公開することを思いついた最相さんの叡智は、称賛に値する。あのような非常事態の渦中にあって、よくぞこれだけのことが発想できたものだ、とそう思った。むろん、それを諒とした中井氏も、公開に応じた版元も見事である。こうやって叡智が結集され、人間は困難を乗り越えていくのだ、そういう生き物なのだ、ということを改めて目の当たりにする思いだった。

 当初は、そんなふうにして最相さんの見事さに感嘆しているだけだったが、やがて、私は次のようなことを考え始めた。

 なぜ中井氏のテキストでなくてはならなかったのか。あるいは、私は氏の言葉の一つ一つが、災害現場で苦闘していた大勢のスタッフたちを励ましたことを疑わないが、緊急時にあって、おそらくこれまでにも増して中井氏の言葉が力を発揮するだろうと直感したのは、いったいなぜだったのか。

 あるいはもうひと方、吉本隆明。3・11の後、各メディアはさかんに吉本氏のコメントを求めていた(いうまでもなく飢餓陣営佐藤もその一人である)。なぜ吉本隆明だったのか。単なるノスタルジアでも、いま、ちょっとした〝吉本ブーム〟だから、という理由だけでもないだろうと思う。ここには共通する何かがある。私は、そのように考え始めたのである。

 かつて共同体は、人知を超えた危機に直面し、なにごとかの決断を迫られたとき、まずは「長老」の言葉が求められた。遭遇した危機が大きければ大きいほど、リーダーたちは絶体絶命のなか、メンバーの生死にそのまま直結する決断になるが、そのとき、まず聞くべきは「長老」の声であり、その意思であった。

 むろん最判断は現役メンバーのトップが、あるいは最前線で指揮を執るリーダーが下すことになるのだが、「長老」の叡智とそこで示される意思は、彼らが決断を下す際の精神的支柱となるものであった。共同体は、さまざまなスタイルはあるにしろ、基本的にはそのようなシステムを保存してきた。中井久夫は精神医学において、吉本隆明は思想の世界において、だれの目にも動かし難い「長老」である。そのように言って差し支えない、と感知されているだろうと思う。だから私たちは、おのれの見解との差異や賛否を超え、立場を超え、いつにも増して二人の言葉を聞きたいと願い、耳を傾けたのではなかったろうか。

「長老」などという前近代的言葉はすでに輝きを失っていると言われるかもしれないが、そうではない。おそらく、1000年に一度などという重大な事態に遭遇したとき、そこで可能な行動や思考のパターンはごく限られている。危機意識を募らせたものであればあるほど、重大な決断を求められたものであればあるほど、「長老」の発言を大きな精神的支えとして受けとめることになったと想像しても、大過はないだろうと思う。

 むろん「長老」を、吉本隆明や中井久夫に限る必要はない。それぞれにとっての「長老」、つまりはもっとも信頼でき、物事の是非や正誤を超えた(と感じられる)大きな叡智が発する声を、私たちは求めていたのではなかったかと思う。

 おそらく最相さんが中井氏の「災害が本当に襲った時」を、広く公開しなければならないと考えたとき、まずは最相さん自身にとって必要な行為だったのではないかと推測されるのである。震災直後の極限の状態にあって、中井久夫というもっとも信頼し、畏敬する存在、つまりは「長老」の叡智を、最相さん自身が何よりも必要としていた、というように読み取ることもできそうなのである。

 さて、「災害が本当に襲った時」の文中、中井氏は次のように書きつけている。

「(略)災害においては柔らかい頭はますます柔らかく、硬い頭はますます硬くなることが一般法則なのであろう。心身の余裕のない状態に置いてそうなることは容易に理解されることである。」

 こうした言葉は、一見何気ないが、被災現場で激しいストレスにさらされながら闘いつづけている人々にとっては、ふと緊張を解きほぐす役目を果たすことになるだろう。さりげなくクールダウンし、煮詰まった状況と頭脳をもう一度整理し直させる役目をも、「長老」は担っている。大規模な災害現場は、「万人の万人に対する戦争状態」のごとき状況になっているだろうからだ。

 中井氏は、三月一五日の段階ですでに第一声を発している。
●中井久夫「忘却こそ被災者の危機」(朝日新聞三月一五日)
「失ったものへの思いは人それぞれだし、共感するのが簡単ではないくらい、災害は一人ひとり違う。地域によっても集落が全滅した所とそうでない所では、対応も違ってくる。心の傷は、回復する力を持っている。だからこそ被災者に敬意を持って、自尊心を尊重するのが大切だと思う。/(略)

 それから阪神の経験で言えば、40日~50日でやるべきことはやっておかないと、その後は頭が動かなくなる。第1次世界大戦の時、兵士が戦場に40~50日いると、限界がきて武器を投げ出したくなったという話がある。私も40日過ぎに、まる1日眠り続けた。

 食事も大切だった。乾パンと水で持つのは2日、カップ麺で持つのは5日。1週間を過ぎたらうまい食事をとらないと、精神的にも苦しくなる。」 

 短文ながら、必要なことが、必要な分だけ語られていると思った。被災の現場で働く人間にとって、この数行だけであってもどれほど大きな力になるか。さらにもう一つ。

●中井久夫「被災者の悲嘆に寄り添う」(読売新聞四月五日)
「しかし、災害で失ったものや、ストレスの受け止め方は様々だ。そのうえ、災害は、絶えず人びとの「格差」を拡大させていく。

 例えば、最初は津波で安全な場所にたどり着いた人と逃げ切れなかった人。そして、仮設住宅の抽選に当たった人とそうでない人。生活再建が出来る人と取り残される人――。一つの格差を解消すれば、また次のレベルの格差が生まれる。被災地では必然の流れだ。

 心のケアというのは、こうした中で生まれる被災者のストレスをできるだけ軽減させ、気持ちを和らげてあげる仕事だ。人間の心には自然治癒力があり、何もしない方がいいケースだってある。被災者一人ひとりの置かれている状況に注意深く耳を傾ける必要がある。」

 避難所を出るのは力のある人から。最後まで残るのは高齢者と、頼ることのできる身寄りや知人も、仕事に復帰する力もない人たちである。自分を守るセーフティネットの弱い人が、最後まで残ることになる。
 さらに中井氏。

 「被災地の救援者に対する心のケアも忘れてはいけない。阪神大震災まで、日本ではあまり注目されていなかったが、元々、米国では優先度が高い。阪神大震災では思うように救助活動が進まなかったことから、消防隊員が、その後も無力感や罪悪感にさいなまれていた。今回の場合、福島第一原子力発電所の密室で作業を続ける東京電力の関係者らにも当てはまるだろう。」

 別の所で中井氏は、現地にあっていかに温かい飲み物や食べ物が大事か、とも指摘しているが、また、「災害が本当に襲った時」には、次のような文章がある。

「初期の修羅場を切り抜けおおせる大仕事は、当直医などたまたま病院にいあわせた者、徒歩で到着できた者の荷にかかっていた。有効なことをなしえたものは、すべて、自分でその時点で最良と思う行動を自己の責任において行ったものであった。(略)おそらく、「なにができるかを考えてそれをなせ」は災害時の一般原則である。このことによって先が見えてくる。たとえ錯誤であっても、取り返しのつく錯誤ならばよい。後から咎められる恐れを抱かせるのは、士気の委縮を招く効果しかない。現実と相渉ることはすべて錯誤の連続である。(略)指示を待ったものは何事もなしえなかった。統制、調整、一元化を要求したものは現場の足をしばしば引っ張った。」

 中井はドゴールを引き、災害支援が戦争時の戦略論と似たものとなることを指摘している。なるほどと思った。(7.28)




復興の道なかばで——阪神淡路大震災一年の記録
みすず書房
中井 久夫

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阪神・淡路大震災を介護施設はどう乗り切ったか

 被災地の報道が、連日、テレビや新聞を埋める。震災関連の本も、いつになったらピークになるのかと思わせるほど、次々に送り出されてくる。特集ドキュメンタリー番組も多い。しかもどれも充実している。一方、現場に入り込む取材の「足」も「ツテ」も、「立場」ももたない私は、ほとんどなにもできないに等しい。「ジャーナリスト」としての役割は、ほとんど機能していない。いわゆるジャーナリズムから見れば、おそらくは、それが私の現在の情況である。

 しかしそれでも、だれも書いていないような「東北復興」の本を書かなくては、被災して亡くなった東北の人びとが浮かばれないだろう、という、傍から見ればほとんど「思い込み」のような考えが膨らんでいる。具体的に何をどう書けば、その、「だれも書いていない東北復興」の本になるのか、まったく見当はつかないが、私の中ではほぼ確信のようになって、からだのど真ん中に座り込んでいる。(ちなみに精神医学では、「妄想」を、「訂正のきかぬ信念」と定義づけるのだそうである)。

 現地へは、4月29日より5月3日までの期間にボランティアで入った以外、足を運んでいない。現在の私が行っているのは、「周辺領域」への取材とも言うべき作業である。現場に入って緊急支援を行った医師、この間、限りなく往復しながらカウンセリングを行ってきた医師など、医療関係者への取材。そしてボランティアセンターを統括する、ネットワークの統括者(事務局長)への取材。といったように、「支援」に当たってきた人びとを通して、「被災」することがひとになにをもたらすか、そのことを描こうとしている、といえるだろう。

 そしてその作業と並行して、阪神・淡路大震災を経験した介護施設を訪ね、どのような体験となっているか。教訓としてなにが残っているのか。今回、それはどう生かされ、また生かされなかったか。そのことを明らかにしようとした原稿を、以下に、2回にわたって、「転載」する。もとの掲載は『健康保険』2011年6月号(健康保険連合組合)である。

―ここから。
1995年1月17日午前5時46分
 東日本巨大地震の直後、病院や介護施設がどのような状況に追い込まれたか。その詳細を明らかにしていくことが、本連載の今後の課題となる。今稿では、阪神・淡路大震災のときに介護施設がどんな困難に直面し、どう対応し、どう乗り越えたか。まずはその体験に耳を傾けておきたいと考えた。

 取材先は尼崎市や芦屋市で、特別養護老人ホーム(以下特養)やグループホームを経営する「社会福祉法人きらくえん」。理事長の市川禮子氏にお話を伺うことができた。

 市川理事長は、真っ先に次のように言った。

 「阪神・淡路大震災の復興は、まだ現在進行中です。終わっていません。復興住宅全体の高齢化率は約50パーセントほど。そこで年間50人から60人の孤独死が、いまも起こりつづけています。高齢者の方ばかりでなく、50代60代でアルコール依存症のために亡くなる方もいます」

 巨大地震とその後の避難生活がもたらすダメージがいかに深いか、当方の認識不足をいきなり指摘された思いだった。被災からすでに16年。神戸地区一帯、街のにぎわいも戻り、経済活動も以前にも増して進展を見せているように思えるが、「復興はまだ終わっていない」という言葉は重いものとして筆者の胸にこたえた。
 
 1995年1月17日、市川理事長は、芦屋市の自宅高層マンションの24階で震災に遭遇した。エレベータは停まっていたから階段で地上まで降り、通常は車で30分の尼崎「喜楽苑」まで、5時間をかけてたどり着いた。尼崎は被害が少なく、街の光景は、西宮や芦屋とはまったく別のものだったことに驚いたという。

 喜楽苑の建物は、辛うじて被害を免れた。当時は措置制度の時代で、50名定員に対して夜勤が2名。早朝5時46分の発災時には2名の夜勤担当者しかおらず、2人ともおむつ交換の最中で、目の前の利用者に抱きつき、収まるまで待つことしかできなかった。

 「そのような少ない人員配置で施設運営をしてこざるを得なかったのですから、残りの48人に対してはなんの避難介助も誘導もできませんでした。現在は個室ユニットケアになり、20名に1人の夜勤ですが、重度だったり認知症だったりする20名の利用者を、1名で、深夜どこかへ助けるなどということは不可能です。施設の配置基準がこのままであれば、夜に大震災が襲ったら、もうどうにもならない。それを身をもって体験しました」

 その日、交通はすべて途絶し、3分の1の職員が出勤できなかった。力強かったのは近隣に住むパートの職員たちがすぐにやってきてくれたことだったという。

 市川理事長は、当日の夕刻、駆けつけていた全職員を集め、次のような指示を出した。

①24時間介護が必要な入居者の命を守ることを第1義とし、水と食料の確保に全力をあげること。

②まったく不明の、併設のデイサービス等の在宅サービスなどの利用者全員と、連絡のつかない職員や入居者の家族、関係者など約300人の安否確認と状況の把握を(場合によっては救出を)。

③近隣の独居世帯への毎日の配食サービスの続行。

職員たちで安否確認に行こうということになり、翌日、3人ほど選び、バイクや自転車で、4日間かけて連絡のつかない職員、利用者、特養入居者の家族など約300人の確認をやり遂げた。

 水と食料をどうするか。特養には3日分の食事がストックされている。基本的にはそれでしのぎ、あとは救援物資に頼った。また大阪市域はほとんど被害に遭っておらず、食料には不足していなかったし、救援物資も次々に到着してきたが、とにかく今後の1週間を持ちこたえなくてはならない。

法人で取り組んだ被災者支援

 そうやって1週間を耐えしのぐことになるのだが、その間1番辛かったのは、自宅で介護をしていた人たちが「家が半壊してしまい介護ができない、どうすればいいか」と駆け込んでくることだったという。

 市川理事長たちはすぐに市役所へ出向いた。しかし介護福祉の係りは徹夜同然で、救援物資を受け取ってはあちこちの避難所に配るという仕分け作業に追われていたため、身近なところで起こっている出来事にはまったく対応できなかった。市川理事長はそのような状況を見て、こういうときは市には頼れない、各施設の判断で引き取ってしばらく預かる、という決断をした。

 「被災直後、市内にあった古い文化住宅を1棟借り上げました。出勤体制をとるためには住まいをなんとかしないといけないと思ったのです。数人の職員と家族をそこに住ませ、それで出勤体制が取れたのが1週間目でした。ライフラインも尼崎は割と早く復旧しましたので、1週間後には整っていました。これで落ち着きを取り戻すことができたのです」

 そして1週間を過ぎたころには付き合いのある全国の介護施設から、スタッフたちがボランティアにもきてくれるようになった。自分たちの安全が確保できたところで、周囲にいる被災者の様子が気になり出した。そこで、地域の避難所に支援に行こうということになったという。

 避難所の支援に入ったところ、目を疑うような光景があった。学校の体育館と消防署の大きな広間を回ったが、高齢者や障害者が一番寒い入口に固まっていた。1月17日も、それ以降も、寒い日が続いていた。自衛隊がグラウンドに設置してくれたトイレは、体の不自由な人たちには使えなかったのである。夜起きて、外に出ていくことも寒くて辛い。市川理事長が「奥の方がもっと温かいですよ」と声をかけても、その人たちは動こうとはしなかった。空気もひどく悪かった。

 「このままだとこの人たちはだめだ、と思いました。そしてスウェーデンで見たグループホームのことがひらめいたのです。こういう方がたは、グループホームのような仮設住宅を作り、そこに入っていただいてケアをすればいいんじゃないか」

 このとき、法人全体が全力を挙げて、次のような支援を行うことを決めたのだという。

①緊急ショートステイを、定員にこだわらず、可能な限り受け入れる。

②苑のすべての浴室を市民に開放する(芦屋市はまだ断水が続いていた)。

③避難所への支援

④困窮度の高い他施設への職員の派遣

⑤相談援助活動

法人が受けた甚大な被害

 ところがこうしたなかで、じつは法人自体が重大な危機に直面していた。

 社会福祉法人「きらくえん」の一番古い特養は、1983年にオープンした尼崎市の「喜楽苑」である。92年には朝来市生野町にいくの喜楽苑を開設させ、震災時、3つ目の特養を芦屋市に建設途中だった。

 95年の4月1日オープンを目指して工事は順調に進んでいたのだが、震災時、敷地に大きな地割れが走り、建物全体が1メートルほど傾いてしまった。ほとんどできあがっていて、残されたのは内装作業だけという矢先の被災だった。土木学者を招き、再建方法の議論をしてもらったところ、液状化による地盤の傾きが原因で、ジャッキアップをして直す以外、再建方法はないという。ところがそのための工事費が、さらに14億3千万円かかるという。これまでの総事業費が19億ほど。このうえさらに14億3千万という負債を抱えることは、とてもできることではない。

 加えて、4月1日オープンの予定だったから、建物自体がまだ国の認可を受けていなかったため、災害復旧費の対象にはならなかった。入居者もすでに決まっていたのだが、工事が終了するまで待ってもらうしかない。震災によってさらに待機者は増えていたし、早急に対策を講じなくてはならない。しかし1年間、そのまま放置された。

 1年後、やっと特例で、国が2分の1、県と市がそれぞれ4分の1を補助し、法人が2億円ほど上のせをすることになって、再建工事にとりかかることになった。寄付集めにも奔走し、震災から2年後の97年の1月に、オープンにこぎつけたのだという。
 
 話は再び震災直後のことに戻る。
 
「あしや喜楽苑」はオープンに向けて、新スタッフ40名の採用が決定していた。しかし再建するまで働く場所がなくなってしまった。去就を尋ねると、1名を除き、残りの全員が再建を待つという。4倍という競争率から選抜した職員たちで、保健師、介護福祉士、社会福祉士など、多様な専門的人材がそろっており、彼らの働く場所と人件費の確保が法人の大きな課題となった。

 ここで市川理事長のあるひらめきが功を奏することになる。

 理事長はかつてスウェーデンを訪れた際、日本ではまだ珍しかったグループホームを見て強い関心をもつようになっていた。自宅が全半壊した要介護者に対し、他県を含めた施設等への緊急保護数が、最高時で約2900人に上るといい、仮設住宅をケア付きのグループホームとして作ることはできないか。そうすればケアを必要とする高齢者にとっても安心だろうし、ケアスタッフとして再建を待つ40名の職員の雇用にもつながる。

 市川理事長は震災から10日後の1月27日には、早くも芦屋市と尼崎市に陳情のために足を運んでいた。すでに述べたように市行政は混乱の渦中にあったから、さらに2月1日に県庁を訪ねたという。くり返すが、被災からわずか2週間ほどたってのこと、リュックを背負い、バスを乗り継いでの訪問だった。

 それから間もなく、兵庫県と芦屋市から、実現したいという通知が来た。2月には補正予算が付き、現実化へ向けて一気に動き始めた。自宅が全半壊した要介護高齢者への支援と、法人職員の仕事の確保という二つの課題が、こうして実現することとなった。

「高齢者の医療と介護の現場から(第75回)」
―ここまで。

被災地レポートと取材報告

前回に引き続き、雑誌『健康保険』に連載中のリポートを転載する。(若干の修正を施してある)。

在宅で見取りをする開業医をどう増やすか

宮城県南三陸町でのボランティア活動
 新田クリニックの報告の2回目であるが、4月29日より5月3日まで、宮城県の南三陸町でボランティア活動をする機会を得たため、少しだけその報告をさせていただきたい。

 全国にボランティア団体を統括するネットワークはいくつかあるが、交流のあるNPO法人「ふるさとの会」の仲介で、東京災害ボランティアネットワーク(以下、東災ボhttp://www.tosaibo.net/)への参加が許可され、現地入りが適った。東災ボは宮城県の登米市健康保険センターを拠点とし、南三陸町の志津川地区の各避難所でボランティア活動を行っていた。

 登米から車を走らせていくと、通称「モアイ橋」を渡ったところで光景が一変する。海岸まで5キロ以上あるのだが、すでにこのあたりまで瓦礫が流され、志津川湾が近づくにつれ、ますます情け容赦のない津波の傷跡が目に飛び込んでくる。どうすればこんな壊れ方をするのかと思えるように、形にあらゆるものがよじれ、潰れ、ねじ曲げられて一面に散乱している。車体や船舶、ドラム缶、家の残骸が、瓦礫の下敷きになっていたり、家に寄りかかって立っていたりする。屋上に乗り上げている車も見える。〝瓦礫野原〟のなかに、ぽつりぽつりと鉄骨をむき出しにしたまま残っている4、5階建てのビルが、見る者の無力感をさらに増幅する。

 ボランティア活動の場所は、避難場所の一つとなっているベイサイドアリーナだった。到着した初日は、現地ボランティアセンターの道具置き場の整理。2日目と3日目が「思い出探し隊」と称する(このネーミングには最後まで慣れることができなかったが)活動班に入り、自衛隊員が拾い集めてきてくれた写真やアルバムの洗浄をする仕事だった。総勢は30名ほど。何もかも失った被災者に、せめて写真をきれいにして渡したい。そんな願いが込められた活動で、写真を散逸させないため、重機による瓦礫の撤去作業もこれまで控えてきたという。作業中、写真に映し出された家族の光景が否が応でも目に入ってきて、激しく胸が痛んだ。

 3日目と4日目は、登米の避難所に避難してきた人たちとの食事会。いわゆる「炊き出し」ではなく、食事を通して交流し、少しでも元気になり、1歩を踏み出すきっかけとなってもらえれば、という目的をもった取り組みだった。4日目のセンターには60名ほどの被災者がおり、介護を受けている高齢者が10名ほど家族と暮らしていた。認知症や精神疾患などの家族を優先的に避難させた〝福祉避難所〟ということだった。

 ボランティア活動がこのように組織的に、かつ目的を持って行われていることを今回の体験で初めて知ることができ、得難い体験だった。

新デイサービス「矢川」と最近の傾向
 本題に入ろう。新田クリニックの新しいデイサービスは、2008(平成20)年12月には開設していた。対応してくれたのは、前回同様、統括責任者の村松伸晃氏。

 施設名は「矢川」といい、受け入れ数は国立市民24名。利用者は認知症を持ち、新田院長が往診している患者が多い。困難ケースも少なくなく、夫婦ともに認知症である世帯の実情を村松氏は話してくれた。

 都営住宅に住んでいるが、認知症状が進み、家の鍵をあけることができない、隙を見てはデイサービスから帰ってしまう、などの行動が見られ、警察を呼ばれたこともあった。体力的には妻の方が弱いのだが、その妻を連れ回してしまうという。火の扱いも不安材料だし、その他、自己管理できなくないことが増えている。近隣家族との連携がとれなず、家族にもっと応援に入ってほしいのだが、難しい。村松氏は、在宅生活も限界かもしれないと考えているということだった。

 デイサービスの活動内容は、遊び、外出(散歩)、レクリエーション(取材時はテーブルホッケーを行っていた)、ゲーム、趣味活動に分かれている。また入浴希望も多く、しかも1人ずつの入浴を好むため、浴室を2つ用意し、小さな木の浴槽を1つ、もう1つはリフトが使用できる機械浴とした。静養室も3床つくり、いずれはショートステイを行っていきたいと考えているが、まだ東京都の方針が定まらないために取り組には至っていない。スタッフは10名で、1日7,8名で回している。

 前回の取材以降の新しい動向について、新田医師は次のように言った。
「『矢川』は、基本的には生活をそのまま重視したデイサービスです。食事づくりを自分たちでする、買い物をする、洗い物や片付けもするというように、通常のデイサービスとは意識して違うことをやっています。他にもいろいろ普通の生活をしていただきながら、残存能力を維持していくことを目的としています。

 2階にはグループホームを併設していますが、認知症の重度化が目立つようになりました。1年2年たつとあっという間に重度化していくのです。以前ご紹介した『野川』のグループホームは、半分が生活の場で、あとの半分が重度介護施設になっているのが現状です。私のところは最後までお世話をするのが基本方針なので、利用者たちはどこにも出ては行きませんから、重度の方が残る。そういう感じになります」

 2011年2月から、近隣に訪問看護ステーションが立ち上げられた。新田クリニックを中心とした一角に、隣接するデイサービス、訪問看護ステーション、NPOの「つくしのいえ」という宅老所、そして「矢川」がある。

「小さな一角ですが、ずいぶん社会資源がそろってきました。この近辺の住民に対しては、認知症になってもしっかり診ようという気持ちになっています」

 新田医師は言った。また認知症の軽度の人について、以前、新田医師は要支援1,2や要介護1までは、あまり生活支援をする必要はないと思っていたという。

「ところが、その方たちの平均年齢が、この間、4,5歳は上がっています。軽度の人も、もう80歳を超えてきているわけです。以前は1人で生活ができていた人が、要支援に入り、見守りが必要になったのです。買い物には行けないし、人による支援が必要で、介護保険で制度化できればいいのですが、それが無理ならば、生活支援保険のようなものが、介護保険とは別にあった方がいいのではないかとも考えます。

 軽度の認知症の人は、ちゃんとした見守りさえあれば一人暮らしができるわけです。この方たちに対してどういう手当をするか。ヘルパーさんがちょっといるだけでいい、買い物を少しやるだけでいい。それで十分に生活ができますから、生活支援の必要性と内容を明確にして制度改革をしてほしい」

 この問題は、少しずつ様々な所で話題に上るようになった。

看取りと終末期医療の問題
 もうひとつの取材のテーマが、在宅介護における看取りだった。

「病院で亡くなった患者さんは、急性の変化をした方を除いて、一人もいません。自宅やグループホームで亡くなっています。家族もそれを望まれるまるのです。急性の変化を起こした場合に、入院して1週間もすると認知症の状態が悪くなりますので、手術をしたら、早々に退院していただきます。そしてグループホームや自宅で、できる治療や処置を行っています」

 がん治療や緩和ケアも在宅で行っている。がんが見つかった場合、家族に症状を伝え、抗がん剤治療をすることを話す。そして、治療後はこうした変化が見られるということを伝える。治療の放棄ではなく、緩和ケアに入る前に少し治療する段階があり、緩和ケアとは異なった治療だということを説明するという。
終末期の治療については、次のように話した。

「今月(4月)、すでに6名の認知症の在宅の方が亡くなっています。土曜日曜に続きましたが、大変に多い数です。食べられなくなって、痰を誤嚥しますから、誤嚥性肺炎を起こすケースが過半です。治療をもう止めましょうかという感じになってきて、そのさ中に亡くなる方が増えています。家族は胃ロウの造設を嫌がり、肺炎になったときには鼻からチューブを入れて経鼻管栄養にし、肺炎が良くなるとチューブを外し、それを何回か繰り返すうちに衰弱して亡くなって行くというパターンです」

 最初に、治癒の見込みはない、これ以上の治療はしない、というようなヨーロッパのような割り切り方はできないのだという。

「もう終わりです、何も治療をしません、というわけにはいかないのです。肺炎が起きたために口から食べられなくなった。その間だけは肺炎の治療と、栄養を維持する。すると、もう一度食べられるようになる、という場合がある。よくなったらまた口から食べていただくことをくり返しますが、嚥下能力が衰えていくという問題があります。結局、誤嚥性肺炎をくり返しながら体力が落ちていく。家族に対して、これで最後だという着地点をどこで見つけるか。それが今の苦労です。こちらが、これで最後だろうと思っても、まだたもつ場合もありますからね」

 医師によって様ざまな見解があるだろうと思う。新田医師の治療は、本人の状態と、家族の希望・意思の双方を見ながら着地点を探していくというもので、看取る家族の立場に立ったときには、筆者個人としては違和感のない方法である。ただし生前の本人の意向などもあるだろうから、これがベストだ、とは一律には決め難いところがある。
新田医師は、平均すると、がん患者を含めて年間40名くらいを看取っているという。

 今後、独居の認知症高齢者の増加が予想され、家族以外による介護や看取りも増えていくと考えられるが、事前意思の確認をどうするか、その論議を進めていかないといけないのではないか、と尋ねた。新田医師は言った。

「一番遅れているのは法律だと思います。どの段階での事前意思を認めるかは、たとえばアメリカでは各州によって違います。もし1年以内の意思でないと認めないということになれば、認知症は診断されてから何年もたっているケースもありますから、当然、それは事前意思とは認められないことになる。こうした問題をどう整理するか。日本では議論にすらなっていない状態です」

 そして認知症患者を在宅で看取る開業医が、どれくらいいるかだろうという話題になった。

「ぼくは東京都の在宅医療委員会の会長をやっていますが、看取りもやる在宅医を広めるためにはどうしたらいいか、いろいろと議論をしている最中です。同時に、看取りの場所を本当に在宅だけに限る必要があるのか。我々のような看取りもできる在宅医はまだ点の存在で、点以外の医師は、いざとなったら療養型の医療施設に搬送し、そこで看取るというコースがあってもいいのではないか。そのことを、最近、検討をしたところです。

 要介護の高齢者が急変症状を起こした場合、引き取る病院がありません。脳梗塞であれば5分以内にどこでも行きますが、要介護の人たちは引き取り手がない。救命センターで、要介護高齢者の看取りは、あり得ないですよね。もっと主治医と家族は話し合いをし、重度で最後まで家で看るのが不安な場合、施設で最後の数日を過ごし、そこで看取る。そういうコースがあってもいいのではないか、とぼくは思っています」

現在の大勢は、病院では死にたくないというものだが、逆行している見解だと受け取られないだろうか。そう尋ねてみた。

「病院死を認めるのではなく、在宅療養を重視すると、選択肢の一つとしてそういう方向もあり得るということです。自宅で看取りたいという流れは、思想や願い・思いといったものの流れで、現状は違っていますね。思想としてはぼくも在宅で看取りを、と思いますが、現状はそうなっていない。このギャップはなかなか埋まらない。在宅で最後まで過ごすことは重要だよと言っていくためにも、こうしたコースも用意しておく必要があると思うのです」

 そのためには、在宅医療の後方支援してくれる医師の存在が重要になる。急性期になったら受け入れてくれる病院を確保し、状態が安定したら、また家に戻ってもらう。そういう態勢作りも同時に進めながら、在宅医療を普及させていかないと医師が追い付かない。24時間態勢を取れる医師がどれくらいいるか。新田医師は言う。

「若い医師は真面目だから、どこにも行くことができないのか、24時間、びっしり詰めているのかと訊きますが、そうではないよ、家族と信頼関係を作っていれば、看取りは家族がするわけだから、ずっと立ち会っている必要はないんだよ、24時間以内で診ていれば死亡診断書はかけるし、という話を若い医師たちにはしています」
                     
                                      『健康保険』2011年6月号掲載分に加筆
 

被災地の医療現場をどう支えるか(東京都国立市新田國夫医師氏への取材より‐第1回‐)

*東日本巨大地震以後、リハビリテーションをするように、少しずつ関連の原稿を書き始めている。
以下は、『健康保険』5月号に掲載した連載原稿より。(わずかに手直しした箇所がある)

被災地のケアと高齢者
 「3・11以前/以後」では、世界が全く様相を変えてしまった。本号より、筆者にとってまったく新たなスタートとなる、と感じさせるほどの大きな断絶がある。

 3・11以前の新聞報道を見てみると、例えば外務大臣が外国人献金問題で辞任したとか、大学の入学試験において不正行為が発覚し、浪人生が逮捕されたとか、いっとき大きく報じられたニュースでさえ、もうはるか以前の出来事としか感じられなくなっている。事件自体がどこか牧歌的だという印象さえ受けかねない。

 もちろん不正があるならばそれは見逃されてはならないことだが、私たちがいかに「安心」と「安全」のなかで過ごしていたか、それを当然のこととして享受してきたか、今更ながら思い知らされる。

 この号以降、高齢者医療・介護における「終末期」や「看取り」といった、以前からお伝えしてきたテーマをメインとしつつも、取材の場所を関東以北の東日本へと移していきたい。できれば、被災地東北へも足を運びながら「高齢者ケアと災害医療」といった課題にも取り組んでいきたいというのが、これからの筆者の方向となる。

 言い換えるならば、災害被災地からのレポートと、終末期の在宅医療と看取り、この二つの主題をどううまく交錯させながら一篇のレポートとすることができるか、というのが本号以降の課題である。

 さて、そのようなテーマをどう進めるか準備を進めていた4月10日、「朝日新聞」(朝刊)の1面トップに「死者1万2915人 半数高齢者」という見出しが出た。亡くなった方々のうち、年齢が判明した7935人の内訳が、「65歳以上55.4%」「40~64歳27.9%」「19~39歳10.0%」「7歳~18歳3.9%」「0~6歳2.8%」であり、県別の死亡高齢者は、「岩手県・死者の56.4%、宮城県・54.8%、福島県・57.7%」となっているという(ちなみに阪神淡路大震災の時には、6402人の犠牲者中、高齢者は49.6%だったという数が、兵庫県庁のHPに見られる)。

 被災した県の中でも岩手は高齢化率の高い県であり、2000(平成12)年に20%を超え、10(平成22)年には27.1%だった(岩手県庁HPより)。海岸各地域の高齢化率は以下の通りである。(転載はwebページ:富士通総研「東日本大震災の日本経済に与える影響と教訓(7)高齢社会における防災と地域づくりのあり方について」より。http://jp.fujitsu.com/group/fri/column/opinion/201103/2011-3-8.html

宮古市 30.0% 大船渡市 30.8% 陸全高田市 34.0%
釜石市 34.7% 大槌町 31.8% 山田町 31.5% 仙台市 18.7% ]
石巻市 27.1% 塩釜市 27.1% 気仙沼市 30.8% 名取市 20.0%
多賀城市 18.2% 岩沼市 19.3% 東松島市 22.8% 亘理町 22.8%
山元町 31,7% 七ヶ浜町  21.3%    新地町 27.3% 女川町   34.1%
相馬市 25.0% 南三陸町 29.6% いわき市 24.9%

(出典:国立社会保障・人口問題研究所「日本の市区町村別将来推計人口」(平成20年12月推計)より2010年時点での数値)とある。

仙台市周辺の市以外、ほぼ30%前後の高齢化率となっている。まさに高齢の市町を、東日本大震災と大津波は直撃していることを改めてうかがうことができる。

石巻における医療支援
 さて今回の取材は、東京都国立市で「新田クリニック」(http://health.yahoo.co.jp/hospital/detail/573433/)を営む新田國夫医師にお願いをした。氏への取材は2度目である。在宅医療における看取りが今回のメインテーマだったが、新田医師は、偶然、被災地での医療支援に出かけ、戻ってきたところだった。

 支援に向かった地域は石巻を中心としたその周辺地域。4月2日の早朝に国立を出発し、昼12時過ぎ頃に石巻入りしたという。現地が近づくにつれ、衝撃的な光景が目に飛び込んできた。壊滅的な被害を受けている地域、比較的被害から免れている地域と、被害が極端に分かれていることを真っ先に感じたというが、4月15日現在の情報では、「2750人死亡。約2770人行方不明。約1万3820人避難」とある。ひときわ被害の甚大な地域である。

 石巻市は、被災前の人口は16万人ほど。仙台市に次ぐ宮城県第二の人口圏だった。石巻市を中心に東松島市、女川町など、23万人をカバーする二次医療圏域は、石巻市立病院(206床)と、23科402床の石巻赤十字病院が担っていた。石巻日赤病院は大きな被災を免れていたが、石巻市立病院は1階部分が浸水を受け、医療機器などに甚大な被害が及び、新田医師が向かった2日にはまだ病院を再開できずにいた(その後、4月7日に仮診療所が開設となった)。

「ぼくがなぜ石巻に行ったかというと、多摩地区からも何人か医師が行っています、10数名ほどになるでしょうか。皆、それぞれの思いで行っているのですね。その話を聞いて、支援を継続しないといけないだろうと思ったのです。継続するため。これが駆け付けた理由の一つです。それから、これから石巻の医師会が本格的に動くだろうけれども、そこをどうコーディネートするか。そのためにも状況視察をしておこうということです」

 新田医師が向かった2日には、石巻における医療支援活動のコーディネートを、日本赤十字病院を中心とした救急医療の医師たちが中心になって行っていた。しかい現場は混乱していた。全国から来るボランティアの医師たちが、石巻赤十字病院へ集まる。それを取り仕切っていたのは、リーダー1名にサブ1名、合計2名の救急医療部の医師だった(4月6日の読売新聞に、石巻圏担当の医療コーディネーター・石井正氏のインタビューが掲載されている)。

支援に赴いた医師たちは、朝7時ごろ、その日どんな活動をするのか打ち合わせをする。そして夕方6時にもう一度集まり、情報交換。

「皆、がんばって現地に行くんだけど、それぞれの県から一度に来ているわけです。だから、何をしていいのか分からないような状況がつづき、僕が行ったときに、やっとまとまりつつあるかなという感じでした。医師の役割は避難所を中心とした医療ですが、難しいと思ったのは、どの医師も多忙で2、3日ほどしか滞在できず、すぐ去ってしまう。次の医師に申し渡しができていないのです。それがくり返されていた。やっと2週間目を過ぎる頃から市内を9ブロック化して、ある地域の先生はあそこに行ってもらう、こちらの地域の先生にはここに行ってもらう、というシステムが立ち上がっていました。それが3週間目になる頃の状況です」

新田医師は石巻医師会会長にも会い、今後の見通しを尋ねたが、避難所にまではとても手が回らない、医師各自がまずは自分たちの診療所を復活させてほしいということで、医師会としての機能は果たせていなかったという。石巻在住の医師も被災し、何人かの方が亡くなっていた。

私事になるが、石巻市釜谷地区で釜谷診療所を営んでいた医師、T・Kさんは筆者の高校1年のときの同級だが、彼も津波で命を落とした。釜谷地区というのは、全校児童107人のうち56人が死亡、18人が行方不明。教諭も11人中9人が死亡、1人が行方不明、と大きく報じられた大川小学校のあった地域である。Tさんは高校に入学したばかりの教室で私の前の席に座っていた。まじめで物静かで、芯の強い人だった。同期生たちの情報によれば、大地震の後、診療所のスタッフを避難させ、最後になった彼は逃げ遅れて津波に呑み込まれたという。痛ましくも彼らしい最期だと思った。こころより冥福を祈りたい。

高齢者の過酷な状況をどうすれば軽減できるのか
 新田医師に、避難者について尋ねた。避難所での暮らしはどなたにとっても過酷だろうが、とくに高齢者には、文字通り命を削る日々なのではないか。

 「体育館の床やコンクリートの上での生活で、とても冷たいですし、まだまだ悲惨な状態でした。住居の確保が急がれます。快適でなくともよいから、1日も早く住居問題を解決して避難している方々に入ってもらう。仮設住宅へも継続して医療支援が入って行く。それをしないと大変です。寒いし、夜は電源が来ていないので真っ暗になってしまう。寒さ対策に家族がひとまとまりになって過ごしていますが、それは過酷です。とくに高齢者は、あのままでは要介護者が病人になってしまう。現状の要介護状態をどう維持するか」

読売新聞4月11日夕刊に「震災関連死の疑い282人」の見出しが見られた。宮城、福島、岩手3県の合計数だが、「大半が高齢者とみられる」との1文もある。

新田医師は、遺体安置所にも足を向けた。
「安置所には行方不明者の写真が貼っているのですが、まだまだたくさん残っている。ということは、元の生活のはっきりしたことは分かりませんが、高齢世帯、独居の高齢者、そういう人たちが行方不明のままたくさんいるのではないか。そういう感覚を強く持ちました。高齢者には本当に過酷な状況ですね」

新田医師がもう一つ強く気にかけていたことは、子どもたちについてだった。

「子どもたちの心がどうなっているのか、見えないですね。避難所に逃げ、そこがだめだからということで、山に逃げて助かった子どももいる。ひょっとしたら、大人たちが信用できなくなったんじゃないかと思うんです。さんざん訓練していたことがだめになって、自分たちの友だちが、目の前で波に呑み込まれていくわけです。精神科の先生が、県が4月1日に被災地の教員も異動の発令をしたことに対し、何を考えているんだと怒っていたのです。命がけで一緒に避難し、がんばって一緒に避難所で暮らしてきた先生を、なぜ子どもたちから切り離してしまうのか。ぼくもそうだと思いました。明るく振る舞っているけれども、子どもたちの心も、大人たちは注意深く見守って行かないといけませんね」

 新田医師は、最も壊滅的な被害を受けた石巻市の東地区を、これから1年ほどのスパンで継続的に支援できたらと思う。そう、石巻で医療コーディネートをしている医師に表明してきたという。

「何だかんだ言っても、僕らは所詮よそ者です。現地の人を下支えするような支援が求められているので、大事なことは、リーダーを中心として現地の医師たちが活動すること。それができるように、我々を利用してほしい。僕らは出しゃばってはいけません。地域の医師たちが自立できるまでお手伝いをしますよ、という話をしました」
 
 さらには次のようなことも言った。テレビは映し出さないが、被災地には「死」が溢れている。生存している人は、目の前で親が波に呑み込まれていった、子どもの手が離れ、なすすべもなく流されていった、自分だけが助かってしまった。そういう凄まじい経験している。だから、皆、まだ動けない。しばらくじっとしているしかない。そう思った、と新田医師は言う。

「元気でやりましょう、と言ったところで無理です。まだまだショックフェイズです。何もかもなくなっているわけですから。どうしたらいいんでしょう。子どもたちや高齢者を、どう支援すればいいんでしょう」

 4月2日、石巻に赴いた新田医師への取材だった。

*この時期、私自身がどうやって被災地へ足を運ぶか、いろいろと算段をしているさなかだった。
とにかく身一つでも、と考えていたのだが、早計だった。

個人編集の雑誌とインターネット

 わたくしは、『飢餓陣営』というタイトルの個人編集誌を発行している(http://www5e.biglobe.ne.jp/~k-kiga/)

 雑誌の発行には、全体の内容を考え、コンテンツを立て、それを実現するために執筆依頼やインタビュー依頼をするという、企画・立案の作業がある。依頼の後には原稿が寄せられることになるが、構成(配置)を考え、レイアウトを考え、ページ割りをし、印刷の元となる原稿(これを版下という)をつくる作業がある。誤字脱字をチェックをするといういわゆる編集作業もある。

 そうやって雑誌の原型ができ、印刷に回ることになるが、しかしそれで終わりではない。でき上がった雑誌が届けられたら、急いで購読者や執筆者、全国の書店に発送するという、一連の荷造りと発送作業がある。すると書店から前号が返品されるから、その売り上げ金を回収しなくてはならない。次号発送の経費を出さなければならないから、宣伝や営業活動もときには必要となる。

 自慢できることなのかどうかは分からないが、1987年に創刊して以来、20年以上にわたってこれらのすべての作業を単独でやってきた。好きなことを好きなようにやっているのだから、「あんたの道楽だろう、こんな贅沢な道楽はそうそうあるものではない」と言われると、まったくそのとおりですと答えるしかない。たしかにわたくしは「雑誌を出す」という作業が大好きなようである(膨大なムダの山をつくりだしているという寂寥感に、ときにはげしく襲われることもあるが、それでも飽きることがないのである)。

 ともあれ、基本的には年2回の発行をめざしてきたのだが、労力的事情と経済的事情によって、現在は年1回の発行にとどまっている。スピードは遅くとも、とにかくパンチの効いた号を出し続けていくことができればそれでよい、と思っていた。
 
 ところがこの夏ごろから、雑誌発行のピッチを上げたい、と切に感じ始めている。

ここで話題が転じる。
 日本と周辺の状況が、どんどんとキナ臭くなっていることは、皆さんも強くお感じのことと思う。そしてキナ臭くなるにつれ、ますます勇ましくなっていく言説が、あちらからもこちらからも聞こえてくる。こうした状況が、わたくしにはとても居心地が悪い。

 「領土侵害行為に対しては、絶対に妥協してはいけない」
 「中国の領土的野望は明らかであり、徹底応戦せよ」
 「北朝鮮による日本攻撃の可能性が高まっているのに、わが国の軍備も、法の整備も、足りないところだらけではないか」
などなど。

 おそらくこれらの意見は正論なのだろう。しかし、こうした正論を聞くたびに、わたくしは、非常に憂鬱な気分になってしまうのである。この手の言説をエスカレートさせ、世界の孤児となり、悔やんでも悔やみきれないほどの犠牲を払ったのは、つい60年ほど前のことではなかったのか。

 勇ましい言説がメディアを占めるようになると、わたくしのような意見は、「この非常事態に、なにを悠長な甘いことを言っているのか」といった空気によって押し出されてしまう。独り言のように、いやだ、憂鬱だ、と言ってばかりいても、まったく埒が明かないことを痛感する。どうせ意見を述べるのなら、単発的な思い付きではなく、万全の用意をして臨んだ方がよくはないか。そう考え始めているのである。

 ここで再び雑誌の話題に戻るのだが、埒が明かない事態を打開するためには、『飢餓陣営』の刊行テンポを上げ、「勇ましい言説」にわたくしなりに対応すべく用意していったほうがよい。『飢餓陣営』に関しては誰かと共同で編集・発行しようという発想をまったくもっていないから、わたくしの馬力ががた落ちであることを痛感しつつも、どうすれば刊行スピードを維持できるか、ともかくこれからの数年、やれることはやっていったほうがよいいと思うのである。

 ここまでお読みなり、インターネットがこんなにも普及した現在、部数600から800程度の超マイナーな雑誌を刊行する意味が、いったいどこにあるのか。アナクロもいいところではないか、とお感じになるかもしれない。われながらそのように思うことがあるくらいだから、はたから見たら、ずいぶんな物好きに映るかもしれない。

 いまやインターネットで映像を1本流すだけで、世論が激変する時代である。政治さえ動かすことができる。いや、世界情勢さえ変えることができるところまで、インターネットというメディアは威力を持つようになっている。そんな御時世に、紙媒体の雑誌を、個人で細々と手作りで発行するなどというアナクロニズムめいた行為に固執するの意味が、いったいどこにあるのか。

 くり返すが、これはほとんど無力なアナクロなのではないのか。

 少し両者を比較してみよう。

 インターネットにできること。
  ・誰もが、自分の入手した情報を、一瞬で世界中に配信すること。
  ・情報の受け手は、それをキャッチすると同時に、自分の意見や感想をリターンすること。
  ・膨大な量の情報が日々発信され、それがストックされ、いつでも取り出してフィードバックすること。
 
 とりあえずこれくらいにしておくが、これらの特徴が、人間や社会のあり方をいかに変えたか、その意味の大きさはいかにわたくしといえども理解している。注意すべきは、インターネットは基本的に匿名のメディアであるということである。言い換えるなら、「だれが」発信したかということ以上に、情報そのものの威力の大きさや破壊力を競うのが、インターネットというあり方の、最大の特徴ではないかとわたくしには思われるのである。したがって、ウィキリークスのようなサイトが、今後どんどん増えるだろうことはすぐに想像できる。

 では雑誌にできることはなにか。
  ・無限に存在する情報を、一人の個人が選択し、構成する、という「編集」作業を加えて示すこと。
  ・何人かの「目」と「手」を経るという、記事へのチェック機能が働くこと。そのことによって情報の精度が高くなっていくこと。
  ・「紙」のもつ質感、雑誌(本)というオブジェの持つ質感を受け取ること。

 このように並べてみると、わたくしが手放したくないと考えているものが何であるか、おおよそのところはお分かりいただけるのではないかと思う。紙媒体においては、情報そのものとともに、「だれ」が、どのようにそれを選択し、どう配置しなおしているか、という「編集」の作業にインパクトが生じてくる。それこそが生命線だといってよい。インターネットという匿名性を基本とするメディアが興隆を誇れれば誇るほど、わたくしの「個別性・記名性・身体性」への欲望が高まるようなのである。

 おそらく今後も、わたくしは、匿名で情報を発信するという手段を選ぶことはないだろうと思う。それは倫理的なものというよりももっと身体的な何かとして、わたくしのなかに深く埋め込まれているのである。

 あるいは「私と読者」の距離感。「手渡す」という感覚。
 5万人、10万人という読者の一人一人をイメージすることは難しいが、1000人ならばその実在の感覚を、なんとか保ちながら作ることができる。

 加えていえば、この1000人の読者は、私を褒めたり励ましてくれたりするだけの、「お仲間」や「お友だち」ではない。「お友だち雑誌」はわたくしのもとめるところではない。1000人の読者は、いい雑誌ができたときには手にとってくれるし(それなりに売れるし)、定期購読の名乗りを上げてくれる。しかし、出来が悪いときにはすぐさま返品の山になるし、定期購読もパタリと途絶える。こうした遠慮のない「他者」であることが、わたくしの1000人の読者である。

 このように、インターネット情報の流通の仕方とは対極のあり方に、どうも私はこだわっているらしいのである。

 結局アナクロではないか、というところに落ち着いたように受け取られるかもしれないが、そうではない。このようなキナ臭い時代になったからこそ、より深く世界に「踏み込んでいく」作業が必要であり、そのとき、個人の手になる雑誌という紙媒体は、まさに格好のメディアではないかと思うのである。個人編集して自力で発行するなどというこのうえない「道楽」を、きな臭い時代にこそ存分に満喫したいと思うのである。

 詩人は、なぜ自分の言葉を「声」に乗せようとするのか。より身体に近い言葉を欲望しているからだと推測されるが、類似したメカニズムを、わたくしは雑誌という媒体に欲している。

 このような雑誌のあり方を、かつて吉本隆明は「自立誌」と呼んだのだとわたくしは勝手に思っている。