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zoom RSS 『オープンダイアローグとは何か』を読む

<<   作成日時 : 2015/10/19 14:51   >>

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2015年10月17日、「人間と発達を考える会」では、斎藤環氏の訳と解説による『オープンダイアローグとは何か』をテキストとして取り上げ、4時間にわたって論議しました。以下は、佐藤のレポート・レジュメを基に、文章に直したものです。基本的には、討議前の感想によっています。


[以下、佐藤による]
 斎藤環さんが解説と、原著者の翻訳論文を掲載した『オープンダイアローグとは何か』を読みました。フィンランドの西ラップランドを発祥とし、統合失調症にたいして高い治癒率を誇り、しかも薬物はほとんど使わず、入院もせず、タイトル通り、患者さんを中心とし、家族や支援者たちとのダイアローグが、その治療スタイルだというのです。
 この本では、第1部が斎藤環さんによる解説です。斎藤さんも、最初は半信半疑。代替療法やマガイモノではないかと疑ってかかりながらも、あっという間に、この本物性≠ノ惹かれていく様子が、解説を通してよく伝わってきます。

斎藤環氏による「解説」
「1.概略」
・治療プログラムではなく、哲学や考え方である
・発症後、即座にチームで会いに行く
・薬物は使わない。保険として使うことはある
・リフレクティング(自分についての噂話)を聴く
とあります。

 「発達を考える会」のメンバーの臨床家の方々は、まず「発症後24時間以内にチームをつくり、患者に会いに行く」というところに着眼したようでした。初期対応の重要さです。どんな状態で治療要請が入るかは千差万別だとは思いますが、共通して、激しい緊張状態と不安、外界の事物知覚の侵襲など、大きな混乱が生じているだろうと思われます。

 こうしたときに、たしかに即座にチームがそばに来てくれて、話しかけてくれたり、問いかけてくれたりすることは、患者さんに、大きな安心感と信頼を与えるだろうことは推測されます。そして患者家族も、同様に、溺れかけていたときにつかんだ藁が、こんなに頼りがいのあるものか、ということが感じ取れれば、やはり安心と信頼はとても大きなものになるはずです。

 治療者と患者との「安心と信頼の関係」、これがどれほどその後の回復過程に大きな影響を与えるかは、私が改めて書くまでもないことでしょう。

「2.理論」
ここでは
・不確実性への耐性(解答を出さない、患者本人の意思決定が優先される)
・対話主義(言語構成主義、言語化されにくい病状の本人による言語化)
・社会ネットワークのポリフォニー
・複数の声が鳴り響く
などが、キーワードとして挙げられています。

 とくに「複数の声が鳴り響く」という件。これは、ダイアローグの際の、様々な発言のありかたや受け取り方、といった書かれ方をしていますが、私はむしろ、患者が聞いている幻聴、あるいはざわめき(中井久夫)、と受け取りたくなりました。急性期の混乱にあるときに、かたわらでダイアローグをする複数の声は、最初は幻聴の声のように聞こえてくるのではないか。そんなことを感じました。

 そもそも幻聴といっても色々なタイプがあるようで、特定の人からの、比較的はっきりとした意味内容の声を受け取るもの(たとえば性的な虐待のトラウマ症状を抱える人が、守ってくれなかった母親(らしき人物)からの、「死ね」という声に苦しみ続けているとか)。このかたは、解離性障害とPTSDと診断を受けています。

 あるいは、だれかは分からないし、何を言っているかも分からない、ただ耳(頭)のなかで、多くのざわつく声がしている、という報告もありました。この方も、統合失調症の入院治療を経て退院し、アパートでのひとり暮らしを始めた方でした。

 これは『オープンダイアローグ』という本の特徴のひとつだろうと思われるのですが、統合失調症の具体的な記述は概略では述べられておらず、第2部の論文中、実際のダイアローグが再録されところで、それが示されますが、全体的には、患者のデータは、非常に少ないものになっています。従来のように、症状がこんな始まり方をして、こんな経過を経て、こんなふうにして落ち着いて行った、ダイアローグは、そのときどきにおいて、こんなふうに進んで行った、というような記述が取られていません。斎藤さんの解説もそうですし、第2部の論文でもそうです。

「解釈をするな」というのが、ここでの戒めのようですから、おそらくそれなりの意図があるのだろうとも考えられますが、プロセスが見えない、というのが、やや食い足りないところでした。

 もう1つ。
・「ひとつの真実ではなく多様な表現へ」
という件もあります。
 このあたりはいかにもポスト・モダンらしいというか、相対主義だと感じたところでした。いかにもポスト・モダン思想であるとは、「一つの真実」「一つの主体」「一つの自己」「大きな物語」に、禁欲的であり、禁じ手にしていることを感じさせるところです。斎藤環さんのバイアスによるところが大きいのか、原著者のもつ相対主義的特性の故なのか判別できませんが、ところどころで、こうした相対主義が顔を出します。

ポスト・モダンと言えば、もうひとつ。
「オープンダイアローグ」は「ナラティブ」と家族療法をその原型にもち、基本的な考え方は「言語構成主義」と「ポリフォニー」である、とされます。「ナラティブ」については、次の文章を引用しておきます。

『ナラティブ・ベイスト・メディスンの実践』齋藤清二/岸本真史(金剛出版)
「人間は成長や人生の過程で、新しい出来事や状況に接するたびに、新しいナラティブを獲得する必要があり、「自身の物語りを新しく書き換える」必要がある。このような「新たな物語りの構築」がうまく行かない時、人間はいわゆる病に陥る。したがって、病む人にたいする援助者である医療従事者の重要な役割の一つは、このような「物語りの書き換え」に付き添い、援助することである。ナラティブの視点から言うと、治療関係の中で「医療従事者と患者が『患者にとってより望ましい新しい物語り』の共同執筆者となること」こそが治療の本質であるということになる」
齋藤清二 「第1章 ナラティブ・ベイスト・メディスンとは何か」(P21)

 これはほとんど違和感のない考え方であり、援助方法です。とくに言語構築主義やナラティブは、ポスト・モダンだからどうした、と指摘する必要のないところまで、なじみ深いものになっています(少なくとも、私には)。現に、こんどの『飢餓陣営せれくしょん3』で「かりいほの自分語り」を特集しているように、「自身の物語の書き換え」は、ずっと実践・支援の対象でした。ここで、私(たち)なりの、ナラティブに関する考え方をまとめていますので、参照していただけると嬉しい。

(ちなみに齋藤清二先生には、富山大学におられたときに取材に伺い、大変お世話になりました。齋藤先生の、富山大学での学生相談の仕事には感銘を受けて戻ってきましたが、その考え方を、『青年期の発達障害とどう向き合うか』(PHP)のなかでまとめています。よろしければご一読を)

さてもう一つの「ポリフォニー」。これには、バフチンの次の文章を引用しておきます。
『ドストエフスキーの詩学』ミハイル・バフチン 望月哲男訳(ちくま学芸文庫)より。

「ドストエフスキーの独自性は、彼が人格の価値をモノローグ的に宣言したといったことにあるのではない(そうしたことはすでに彼以前に他の者たちが行っていたことだ)。彼の独自性は、人格としての人間を客観的・芸術的な仕方で見出すことができたこと、そしてそれを抒情化することも、そこに自分の声を混入させることもなく、しかもそれを物象化された心理学的事象におとしめることもなく、別の、他者の人格として表現し得たことにあるのだ。(略)他者の人格を芸術的な形象として描くこと、さらには数多くの人格が相互に融け合わぬままに、ある種の精神的な事件の総体として一つにまとまっている様を芸術的に描くことは、彼の小説をもって初めて完全な形で成し遂げられたのである」。
(第一章「ドストエフスキーのポリフォニー小説および従来の批評におけるその解釈」)

バフチンは、ドストエフスキーの文学世界を、「完全な他者の人格」を独立した存在として形象化し、それが芸術的事象として描かれている、そのような作品である、と繰り返し指摘しています。この基本的なモチーフが、書中、様々な角度から論じられていく。これが『ドストエフスキーの詩学』の基本テーマであり、最大のメッセージだと見ていいでしょう。

 それまでにも19世紀のヨーロッパでは、「三人称小説」として独立した「他者」を書いている大作・名作は、多数存在してきました。すぐに思いつくところでは、たとえば、トルストイ『戦争と平和』、スタンダール『赤と黒』、バルザック『居酒屋』、ゲーテ『親和力』などなど。

 バフチンの場合、こうした作品群とドストエフスキーとが、どう区別されているか。
 私見では、いずれもそこでの「他者」は、作者の何らかの(たとえば人格の、たとえば人間観といった思想の、といった)反映でした。なんらかのかたちで作者の分身だった、と言い換えてもいいものでした。ところがドストエフスキーの小説群に登場する人物は、「作者の反映」ではなく、それぞれが、作者からも完全に「独立した他者」であること。そして、そのことによって「小説」という形式の芸術性が、ドストエフスキーにあっては高い達成を示している。――これが、この本の中でのバフチンの最大のテーマです。

さて、斎藤環さんの解説の次に登場するのは、
3.臨床「・実践のための12項目(P46−47)」
です。これは引用しませんので本文に当たっていただければと思います。

そして次が、
4.ダイアローグとその周辺
となっています。私はここが、最も訳者の、訳者らしさを発揮している解説ヵ所ではないかと感じました。たとえば「むしろ臨床的な有効性は、理論としての衰弱ないし無効化を意味するかもしれない」(P52)とか、「精神分析が言葉をメスとして用いるというのなら、オープンダイアローグは言葉を包帯として用いるのです」とか、「冴えたロジック」がお好きな斎藤環先生らしい語り口≠ナす。

そして「オートポイエーシス理論」をひきます。これは、自己創出理論・自己生成理論と言われますが、簡単に言えば、「対話」を続けること自体が目的となる、という言い方がされているところに該当させていいと思います。「対話」が「対話」を自己創出する。自己創出されるようになった「対話」は、患者を、これまでとはどこか別の所に導いていく。そういう道筋になっているようです。

さらに「第2部 オープンダイアローグの実際」とされ、論文が3本掲載されています。
ミーティングの設定の仕方や、進めるにあたっての支援者の心構えが記述されていますが、これ以降について、斎藤環さんも解説をしているところでもあり、屋上屋を重ねるよりも「論文を読んでの感想」に代えたいと思います。

[感想]
 まず「オープンダイアローグ」のすごみ≠ェどこにあるのか、1読2読しただけでは、なかなか実感できませんでした。何が書かれてあるか≠ヘ、当然、読めば分かります。納得もしますし、多くの部分に、賛同もします。ところが、「そうか、オープンダイアローグって、こういうアプローチなのか」という体感というか、ストンと落ちてくるような納得がやってこないのです。これが正直なところでした。

そもそもここでの「ダイアローグ」と、私たちが「対話」という言葉で思い描く内容とが、同じである、きちんと重なるという保証はないわけです。

 たとえば、滝川一廣さんは、「チャイルド・アビューズ」を「児童虐待」と訳してしまうと、そこにズレが生じる。「アビューズ」は、平均からずれているという意味であり、必ずしも「虐待」だけを指すとは限らないと指摘しました。小林隆児さんは、「アタッチメント」を通常は「愛着」と訳すが、これを「甘え」という日本語と混同しては間違う。「アタッチメント=愛着」は、「甘え」とイコールではない、と指摘しました。

 精神医学領域にあっても、ときに、原義と日本語との間で、こうしたズレが生じるようです。「ダイアローグ」=「対話」なのか。

 そこで問いを、「ダイアローグを「オープン」にすることで、何を求めているのか。何が起こっているのか」というかたちにしてみました。

◎最大のポイント(もちろん個人的感想として)
「ポリフォニー」「不確実性への耐性」「対話主義(応答性)」といった姿勢、哲学が目指すものは、
(1) 病者が自身を、症状や病状の一番の主体として引き受ける存在となること。自分自身のこと≠ニして、自身の病状を語る≠アと、言語化すること。「させられる治療」ではなく、「患者であることを主体的(言語構成的)に指し示すことで、結果的に快方に向かう治療」。このことが求められているのではないか。

 こうした認識が、浮かんできました。従来の精神疾患治療にあっては、「治療者(専門家)=主」であり、クライアント=従」であって、クライアント(患者)は、治療者に言われるままに治療を受けること≠ェ、治療者にとっても、良き治療となるために望まれていた、といえるのではないでしょうか。患者は、尋ねられたことにのみ、応えていた。尋ねられないことには答えない。これが患者の役割≠セった。そんなふうに理解しているのですが、いかがでしょうか。もちろん、そうではない医師もたくさんおられるでしょうが、このことが精神科治療に対する多数派の考え方ではなかったでしょうか。

 同じことですが、少し比重を変えて言い換えてみます。
病者は、病気ゆえに医療の一定の管理のもとに置かれる。キツイいい方をすれば、主体性が一定程度奪われてしまう。奪われることを良しとして、治療に専念するのが良い患者=B精神疾患の場合、とくにこうした傾向があったのではないか。こうしたあり方をどう脱構築するかが、これまでの医師たちの運動・活動ではなかったでしょうか。くりかえしますが、もちろん、一般論としてです。
 
 以上の指摘から、少し結論めいたことを述べましょう。
病者(患者)は、家族や、治療者を前に、自ら考え、自ら考え、感じたことを、積極的かつ主体的に語ることが、「オープンダイアローグ」では望まれているのではないか。なぜ望まれるかと言えば、「語り」を取り戻すためであり、「自分の病状について語り(説明)を、自分のものとして取り戻すこと」、だからこそ、治療者は、主体となった患者に付き合う(寄り添う)ことが、最大の仕事となるわけです。

(2)このことで何が起きるか
 治ろうとする意欲が立ちあがってくる(治ろうという意欲が「主体」をさらに強くする)。自然治癒力が立ちあがって(回復して)くる。当たり前のことですが、この基本は、』やはり『オープンダイアローグ』にあっても、変わらない。

 だから、考え方としては、オープンなダイアローグは、患者が主体的に自身の病状と向き合うような方向に導き、そのことで「意欲‐主体‐自然治癒力 が相互作用を及ぼしながら、よりよい状態を作り出していく」。こんな風に理解したらどうか、と考えたわけです。

もう一つ。
(3)「対話が開かれる」ことについて
「応答の開かれ」について、『飢餓陣営せれくしょん3』の「かりいほ利用者の「自分語り」」を参照していただけると、ありがたいのですが、ここで問いかけているのは、次のようなことです。

 かりいほの利用者にとって、誰によって「私」は語られてきただろうか。おそらく多くが、たとえば教員であり医師であり、警察関係者であり、福祉関係者であり、自分で自分のことを語る、という体験はほとんどされてこなかったのではないか。したがって、かりいほの自分語りには、「語り」の取り戻し、そのことによる「私」の取り戻し、という意図がある。

そしてこの取り組みによって見られた利用者さんの変化を、「モノローグ的な答えから、応答性を持った答えに変化した。開かれた対話することで、「内省が深まっている」という印象を持った」、と記したのでした。

『オープンダイアローグ』でも、モノローグとダイアローグが問題になっています。
 以下は、そのことについてのメモ、という程度の受け取り方をしていただけるとよいのですが。
〈前提〉は(勘ぐりや妄想はモノローグ的思考)であることです。つまり、統合失調症的な症状の始まりは、ダイアローグの通路を失っていくプロセスではないか。
「モノローグは妄想を強め、「対話」は妄想を解きほぐす」

自由で開かれた対話、仕切り屋のいない対話(ポリフォニックな対話)、結論や解答を求めない対話(不確実性に耐える)、がここで目指されている。逆に、統合失調症の病理としての閉ざされたモノローグとは、「指示待ち的な応答あるいはYes‐Sayingなど、決めつけ傾向」、といった性格を強めていく。対話や会話から、遊び、ゆとり、甘えや、情動共有といった特性を失っていく。コミュニケーションから、象徴性を失っていく。

「暗喩(メタファー)」の表出とは、「遊びやゆとり」の産物であり、甘えが前提になっています。あるいは、メタファーと受け取ることによって、遊びやゆとりが共有され、甘えが可能になるきっかけになる、と考えられます。オープンダイアローグが立ちあがってくる。

(以上)


まとまりませんが、こんなことを考えながら、「人間と発達を考える会」の議論に参加しました。
なるべく近いうちに当日の、論議を起こし、活字にし、『飢餓陣営』本誌か『飢餓陣営せれくしょん』で公開できればと考えています。具体的な方向が決まった時にはお知らせします。ホームページをご覧ください。



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