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zoom RSS 加藤典洋『戦後入門』(ちくま新書)を読む その2

<<   作成日時 : 2016/03/12 13:05   >>

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2.
 以下、『戦後入門』に対して、思いつくままに感想を述べていきたい。
 加藤典洋の『戦後入門』は、第一部「対米従属とねじれ」という『アメリカの影』以来のテーマが、もう一度振り返られている。そこで、『アメリカの影』を再読してみたところ、冒頭で、次のようなかなり辛辣な指摘が目に入った。
加藤は、江藤淳が村上龍の『限りなく透明に近いブルー』を激しく批判する一方で、田中康夫の『なんとなくクリスタル』を評価していることを取り上げ(*)、その後、文壇から「村八分的な田中つぶし(?)の批評」が前面に出てくる、と書いたあと、次のように続ける。

  《 彼(江藤淳―佐藤)の一番深い認識は、やはり、日本はいまアメリカなしにはやっていけない、というものである。
 そしてこれはタブーなのだ。
 なぜ、このことがタブーとなっているのだろうか。
 ぼくはここで一つだけ簡単にいっておきたい。日本文壇(?)は、日本はいまアメリカなしにはやっていけない思いをいちばん深いところに隠しているが、それをアメリカなしでもやっていけるという身ぶりで隠蔽している。アメリカなしでもやっていける、という身ぶりが身ぶりでしかないのは、彼らが貧乏を恐れている(!)からである。「アメリカ」なしでやる場合、彼らは経済的困窮を覚悟しなければならないが、いまよりも生活程度が下がることを恐れる彼らの本音が『なんとなくクリスタル』にあらわに現われていればこそ、彼らはこの作品に生理的な反応を生じているのである。(文庫版p43)》

 『アメリカの影』は、江藤淳の占領研究を引き受けるように書かれた作品である。主要テーマの一つは江藤批判といってもよく、二つには当時の文壇や言論界が、その江藤の仕事を無視し続けた事実にひそむ背景事情を分析し、戦後社会(と文学の書き手たち)が陥っている欺瞞的な状況を露出させようとしたものだった。『戦後入門』を読んだ目で振り返れば、とくに「天皇・原爆・無条件降伏」とサブタイトルされた第三の論文は、著者のなかで、ますます重要なテーマとなっていくものであったことがわかる。

 この「ねじれ」や隠蔽が、いかに深く私たちに内在化しているか。
 『戦後入門』で、加藤がまず徹底して行ったのが、「世界戦争」の意義を捉えかえすことであった。どう捉えられているかは本文に当たってほしい。本書において、なぜこの作業が必要であったかと言えば、世界戦争に「敗戦」(無条件降伏)するということ、「占領」されるということ。それが日本国と国民に何をもたらし、どのように重大なことであったか、それを加藤は示してみせる必要があった。

 もうひとつ、そこに「原子爆弾」というものが、いかに深く関与していたか。無差別の大量殺戮というその非人道性ばかりではなく、その後の世界秩序のあり方に、どれほど大きな影響を及ぼしていったか、丹念に、執拗に記述される(このあたりの、多くの資料を駆使した歴史叙述は、非常に迫真性と説得性をもっている、と私には受け取られた)。
  ともあれ、私たちの国が「敗戦国」(無条件降伏した国)であること、「被占領国」であること。この事実にしっかりと向き合えないことが、「ねじれ」を自覚できない最大の原因となる、と加藤はいう。こうした言説に対し、「それは自虐史観だ」という反論が、たちどころに返される。しかしそれではますます深く「ねじれ」と隠蔽が、内在化されていくだけではないか。

  くり返すまでもなく、これらは、『アメリカの影』以来の加藤の主張である。
  ただし注意を要することがある。
『アメリカの影』も『敗戦後論』も、社会思想的なテーマを取り扱ってはいるが、その根幹は文芸批評であり、「文学」の書であった。加藤自身も「文学でしか扱えないテーマがある」と『敗戦後論』で書いていたし、このことが、『アメリカの影』と『敗戦後論』にとって、固有の意義となっていた(ここは賛否が大きく分かれてきたところではあるが、少なくともわたし自身は、「文学の力」の発揮であることに、多大な価値を見出してきた)。
  江藤淳の『成熟と喪失』をもちだすまでもなく、文芸の批評が社会批評であり、文明批評でもあるというあり方は、それまでは決して少数派ではなかったのである(中村光夫しかり、福田恆存しかり、磯田光一もそうであった)。
  ところが、『戦後入門』にあって前面に出ているのは、「天皇・原爆・無条件降伏」という、文字通り歴史的・社会思想的テーマであり、文学のテーマや文体は、少なくとも表面的にはほぼ消えている。加藤に特有の喩≠焉A文学的修辞(レトリック)も、ほぼ姿を消している。
 そしてわたしの方もまた、『敗戦後論』のときとは異なって、膨大な戦史研究や政治史的資料・文献を駆使しながら、近・現代史と社会思想の叙述≠ノ徹したことは、むしろ理にかなっている、と感じられる。加藤的な文学の修辞と喩から、歴史思想と事実の叙述へ。この変容を見るかぎりでも、『敗戦後論』以降の10年に近い歳月のなかで、確実に何かが動いたのである。
  これが、『戦後入門』と、上記の引用からやってきた一つ目の感想であった。

3.
 ちなみに、『アメリカの影』に収められた論文は、1982年から84年の間に書かれたとある。
 くり返しておけば、上記の引用に見られる「アメリカなしではやっていけない」という真実(屈辱的な)を、「アメリカなしでもやっていける」という建前で隠蔽してきた、という「ねじれ」(これは、反米か親米か、といった問いかけではない。反米にしろ親米にしろ、どちらにしても「ねじれ」ている。念のため)。
 この「ねじれ」をどう解消するか、というテーマこそが、加藤が30年以上にわたって、一貫して追い求めてきたものであるが、時代は、高度成長期のまっさかりだった。
 その先駆的洞察が可能だったのは、高度成長真っ盛りだったからこそ、と受け取るべきか、真っ盛りだったにもかかわらず、と受け取るべきか、どちらにしても、『戦後入門』に通奏低音として流れているのは、30年を経て、「この状態はもはや維持できなくなった」という現状認識と、切迫したトーンである。

 では、限界に達しつつあるねじれ、隠蔽、自己欺瞞は、なぜ解消される必要があるか。

 一つは、ますますアメリカへの隷属化、従属化が進むことになるが、それが何を生み出すか。今でさえ、軍事外交、経済、情報などの主要部分は、アメリカの意向に反する単独の政治決定は、ほぼできない状況に置かれているが、そのような事態は、さらに進行するだろう。場合によっては、アメリカ本国以上に、アメリカの国益に沿うような行動をとる以外の選択肢が、あるいは採れなくなっていく、そんな事態も十分に予測される。
 もちろんアメリカは、露骨な強制や弾圧の方法は採らないだろう。民主主義のルールと手続きにのっとり、あたかも国民が自分たちの手で選びとったかのようにして、その決定を「選択」させる。そしていずれ、じわじわと内在化されていく。
 
 そうした「ねじれ」や隠蔽や自己欺瞞を、党派を超えた結束で、はっきりと拒んでいるのが沖縄である。
 現在それは、辺野古の基地移転問題に端的にあらわれているのだが、これは単なる内政の問題、国と沖縄県の問題にとどまらないものとなった。加藤は次のように書いている。

 《ところで、これらの基地問題の特徴は、基地周辺の住民の安全上の不安などからその改善をめざしても、米 国の法的な権利の壁にぶつかって、ほとんど事態が動かないことです。
現在、沖縄で問題になっている普天間基地の移転に伴う辺野古での新しい飛行場建設をめぐる問題などは、その好個の例でしょう。(略)
  日本の基地問題とは、こう見てくればわかるように、占領の永続という文脈から自由ではない、日本の主権にかかわる厄介な問題なのです。(『戦後入門』第五部より p498)》

 ここに書かれているように、現在の辺野古の問題とは、まさに「日本の主権にかかわる問題」となっているし、「日本の主権」にかかわる問題とは、「ねじれ」や隠蔽をどこまで解消できるか、という問題にほかならない。
 そして新崎盛暉が書いているように、「辺野古新基地の問題が、日米沖関係史の戦後七〇年の総括点であり、その今後を考える起点」(『日本にとって沖縄とは何か』「はじめに」)となった。
 「戦後70年」以後の問題をどう切り開いていくかという、これ以上にないアクチュアルな問題となってせり上がってきているのである。
  
 もちろん、事は安全保障に関することであるから、簡単に動かせるわけはない。
 注意したいのは、『戦後入門』の主張は、日米安全保障条約を廃棄せよ、憲法を改正し、自主防衛せよという、いわゆる従来の保守派や復古派の主張ではないことだ。
 国際社会からも孤立せず、アメリカとも敵対せず、中韓からも敵対されず、その中で主権国家としてのあり方をどう作り上げていくか。「ねじれ」をどう解消していくか。

 もし、そんなことは絶望的に不可能だ、と感じるならば、それjは、私たちが自らに内在させている「ねじれ」や隠蔽が、それほど深いということの証である。
 おそらくこの困難さは、『敗戦後』以来の主張となっている「憲法の選び直し」の困難さにも通じるはずである。
 具体的な手続きに関するプランは、『戦後入門』ではまだ明らかではないが、いずれにしても、「戦後70年以後」を始めるための、重要な提案となった。
 それが、わたしが本書から受け取った最大のメッセージであった。


  (*)ちなみに江藤淳は、村上春樹についても、生涯、とうとう肯定的な評価はしなかった。春樹論執筆の際、村上龍批判の激しさに驚いて、では村上春樹についてはどんな評価をしているのかと調べたのだが、わたしの目にした限りでは、最後まで一言も触れていなかった。







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著者加藤典洋(著)出版社筑摩書房発行年月2015年10月ISBN9784480068569ページ数6

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