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zoom RSS 「相模原事件」について その4

<<   作成日時 : 2016/08/12 10:07   >>

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関係の学としての「障害者」支援論


1.
8月12日、読売新聞。
「職員連れ回し凶行 障害の程度聞き出す」との見出し記事。
入所者の障害の程度を聞き出し、確認して、重度障害者を選んで襲っていた。職員が動けなくなると、拘束バンドで動けなくし、一人で襲っていった、という趣旨だった。・・・

改めて思うが、この間考えてきたことは、「精神医療」の問題に還元しても、問題の肝心なところは見えてこない。容疑者の人となりに(かなり難しい作業ではあっても)、迫ろうとすることのほうが大事だということであった。すると、立岩真也氏のホームページを見ていたら、次のようなことが書かれてあった。

◆2016/07/28 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/758677691205758976
 「相模原での事件:http://www.arsvi.com/2010/20160726.htm … は精神障害者とその処遇の問題ではない。措置入院退院後の精神医療の問題でなく、その制度を改善しようということでない。政治家たちの誤った了解方向付け自信。(ママ)がメディアにもわかられてない。テロリストは精神障害者?。書いていく」
◆(略)
◆2016/07/30 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/759179796664332288
 「その人の「思想」は「精神医療」でどうかなるものでない(なると思う人はその人物と同じぐらい、まずい)。なのにもっと入院させておけばよかったなどと言うのは、やはりその人物とさして変わらない。「説明」は後、だが、相模原市での殺傷事件関連→http://www.arsvi.com/2010/20160726ts.htm

わたしはこの見解に、まったく同意する。正当な感覚であり、正当な思想であると思う。そして読売新聞の記事を見るかぎり、どうしてこの容疑者が「精神障害者の犯罪」という文脈の中で多くの報道がなされているのか、疑問に思う。「『宅間守 精神鑑定書』を読む』(飢餓陣営せれくしょん2)をぜひ読んでほしい。収録論文は、どれも参考になるはずだが、中でも滝川一廣氏の「「反社会性人格障害」は医療の対象か」が、問題の本質をズバリとついている。

ところで、これまで読んできた立岩氏の著作にはほとんど異論を感じるところはなかった。一つだけ氏と私の立場に違いがあるとすれば、立石氏は「生存学」の提唱者であること。つまりは、障害をもつその人個人の存在(実存)は、いつ、どのようなとき、どのような事態に置かれているとしても、それは一切の留保なしに肯定されるものである、という基本的な考えが貫かれていることだ。もちろん、だからこそ記述は一筋縄ではいかないのだが(問題の難しさからして当然なのだが)、まったくぶれることなく最後まで、その思想は貫かれる。

一方わたしのほうは(自己解説なので、我田引水の分は割り引いて聞いていただきたいが)、「関係の学としての支援論」とでも呼ぶべき見解を書き続けてきた。あくまでも「関係・かかわり」にまず、まなざしが向けられ(もちろん、ときにそれは背理や桎梏となるものではあるが)、どのように「重度」の人であっても、そこで目指される互いの承認の関係が、わたしのとるべきロジックの基本となる。だからこそ支援者の在り方とか、支援論に、わたしの記述の重点は置かれてきた。

2.
支援とか、ケアに当たっているひとたちが、今回の事件をどう受け止めているのか、この間、いただいたメールから少し拾わせていただく(もちろん、掲載には了承をいただいている)。

「佐藤様
寄稿、拝読しました。
本件は精神医療が関わっているゆえ、私自身論じることが難しいですが、次のように感じました。
社会防衛的な言論に終始する人々にとり、本件は所詮”ひとごと”であり、外部からのちん入者である罪なき人を害する”エイリアン”は処罰・管理せよ、ということなのでしょう。
一方、このエイリアンは誰のこころのうちにも潜む可能性があるため、それを排斥するのではなく直視しなくてはならない、という姿勢を持つ佐藤さんのような人々もいる。
しかし、両者の溝はなかなか埋めがたい。
また本件被疑者からは、ヒトラーまがいの奇妙な優生思想が持ち出され、障がい者さえもある種のエイリアンと見なそうというタブーが混ざり込んでおり、多くの人々はここにはなかなか触れようとしません。
佐藤さんはかねてから、障がい者に対し極めて高い当事者意識をお持ちで、この問題に真っ向から向き合ってこられました。
ゆえに本件について、今後の佐藤さんのご発言・活動に期待しています。
(なかなか声を大にしては言えませんが、私自身は、精神医療はただの権力の道具に堕してはならない、と常日頃思っています) 匿名」

今回、医医療関係者はさすがに慎重だし、また慎重であることは当然の振る舞いだと思う。
そして自分からはなかなか言いにくいことだが、ここで指摘してくれている「当事者意識」という考え方も、(わたしにとっては)もうひとつのキーワードとなる。これは、ジャーナリストという私の「肩書」と、ときに著しくバッティングする事態をもたらすものでもあるのだが。

さらにもうひとつ、福祉職員の方からのメールを掲載させていただく。

「佐藤幹夫様

ブログを拝読いたしました。
私が以前関わっていた方が入所している可能性があり、様々な感情が出てきてしまい、まだ整理して考えられない状況ですが、佐藤さんの文章を頼りに感想や考えを述べさせていただきます。

佐藤さんが記しているように、福祉施設の現状にもっと目を向けること、植松容疑者の変化の過程をとらえることが、不可欠であると、感情を抑えながら私も思います。本当に嫌になるくらい福祉施設は世間から取り残されている感があります。

私は大学院時代に、植松容疑者が言う重度の障害がある方の施設に実習に行っていました。
パンフレットには施設名の前に重度重複聴覚障害者施設と書かれ、実際聴覚障害に加え、知的障害、発達障害、視覚障害を持つ方が入所していました。

手話の本を購入して覚えても、人によっては、手のサインとその方が伝えようとする意味が、一般的な手話の意味と一致しないこともよくありました。
コミュニケーションが難しく、手話という言語の共同体に参入できなければ、手話も独特なものになりますが、
一緒に過ごしていくと、独自の手のサインが何を表しているかが、少しずつ分かってくるのです。
入所者の家族であれば、互いに分かり合えるサインも多いはずです。

実習期間が長くなるにつれ、「重度」とは、当事者の方たちから離れた場所にいるひとが使う言葉であり、その距離を表すような気がしました。
施設職員は利用者を「ここの仲間」と言い、「重度」という言葉を使うことはありません。

施設職員が対外的に仕事をする際の葛藤を察しましたが、この葛藤は福祉施設に勤める者には程度の差はあれ、あるかもしれません。これは入所者との関係を築いた結果であり、個々の職員を結束させる力にもなりますが、対外的には孤立感を強める場合があります。

施設方針が曖昧だったり、職員フォロー体制が整っていなかったり、コミュニケーションを意識的に図ったりしなければ、施設内でも簡単に孤立してしまいます。

私が携わる社会的養護の領域では(他の領域でも同様かもしれませんが)、研修でも法律や国の指針でも「専門性の向上」という言葉をよく見聞きします。
(専門性とは何かという問いは乏しいのですが・・・)。
確かにその通りなのですが、これでは、ますます世間から孤立してしまうような気がしてしまいます。
現状対する疑問や考えを施設職員が発信していくしかないです。
  (匿名)」

「「重度」というのは当事者の方たちから離れた場所にいるひとが使う言葉」であるという指摘には、はっとさせられた。その通りだと思った。


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