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zoom RSS 松浦理英子『最愛の子ども』を読む

<<   作成日時 : 2017/02/12 13:23   >>

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2017年2月7日 松浦理英子「最愛の子ども」(『文学界』2月号)読了。(2.13 訂正)

1.どんな作品なのか

久々に、小説を読む醍醐味と愉悦を、全身で感じながら読み終えることができた。なによりも作者・松浦理英子の実力が存分に発揮されていて、前作の『犬身』よりもこちらを高く評価したい、それくらい作品の完成度が高い、と思った次第(もちろん『犬身』も、かなりハイレベル。『犬身』や『親指Pの修業時代』、読み返したいが時間がないのが悔しい)。

「最愛の子ども」は3人の女子高生を主人公とし、その友愛の関係が(と言ったらいいか、友情と言ったらいいか、ガールズ・ラブといま風?に言ったらいいか)、父(日夏)、母(真汐)、子(空穂)の3人で疑似的家族≠つくっている、という形で表現される(この設定が、いきなり松浦ワールドだね)。
ともあれ疑似でも家族は家族。日夏、真汐、空穂のやり取りは、ときに現実の家族関係のパロディのごとき観を呈するが、この疑似家族≠ニいう設定がただの思いつきにすぎないのか、ただただ珍しいだけのシロモノなのか、読者は、まずはそこに目を光らせながら読み進めていくことになる。

言い換えるならば、疑似家族≠ニいう装置の導入によって3人の交流はとても微妙なものにならざるを得ない。その世界がどこまでオリジナルで、個性的なものになっているのか。そこは松浦理英子。思い切り知的な仕掛けと、絶妙な筆さばきで、彼女たちの交流に分け入っていく。

そして「わたしたち」の外にいる同学年の男子たち(この高校は、女子クラスと男子クラスとに別れているという設定。男子高校生たち・ボーイズは、松浦ワールドに登場すると、ひときわむさくるしさ≠発揮する。作家が意図的にむさくるしさを露出させているというよりも、いわゆる草食系男子さえここではおのずと男臭くなる。そんな描き方になっている)。さらには、それぞれの、実際の家族メンバー。
これら、外部≠ニのコントラストによって、女子グループの微妙さや独特さが、さらに浮かび上がってくる、という仕掛けになっているのである。

終局、あるスキャンダラスな事件≠ェ用意される。
それは女子グループや、家族関係の破綻で閉じるのではなく、ありがちな大団円でもなく、主人公たちの人生の始まり≠ノ向けた時間の結節点として示され、とても見事に小説は閉じられていく。
いかにも評論家風な言い方をしてしまえば、セクシュアリティの多様性とか豊さとか、この作品はそんなメッセージを届けている、ということになるのだろう。しかし、文学ならではの、文学作品にしかできないやりかたで、「セクシュアリティの多様性やら豊かさ」を、松浦理英子は描いてみせた。
それがわたしの全体的な評価だ、ということになる。

2.知的な仕掛けとしての人称

この物語の大きな特徴は、「わたしたちは」という不思議な主格によって始められていることだが、どんな人称を選択しているかによって、物語構造は大きく規定される。物語構造とは、作家の世界観である。
冒頭の真汐の「女子高生らしさとは何か、と尋ねられるが、よく分からない」という挑発的な作文が置かれ、その後、こう書き出される。
「放課後、わたしたちは担任の唐津緑郎先生に呼び出された今里真汐が職員室から戻って来るのを、教室で待つともなく待っていた。」

そして「わたしたち」による描写が続く。「黄色い光の溜まりの真中に、舞原日夏がいた。・・・」というように、「わたしたち」の目からみた日夏が描写され、佐竹由梨乃、木村美織、田中加奈子、草森恵文といったメンバーたちが登場し、<夫婦>の<子ども>とされる薬井空穂が出てくるころには、あらかたの設定や状況は布置されている。
「わたしたちは」という主格をもつ三人称小説、という顔を見せながら物語は進んでいく。

ところが、第3章を過ぎるあたりから、「わたしたち」という主格は後景に退いていく。そして主人公たち3人の三人称による語りが多用されるのだが、「最愛の子」の物語がいわばトップギアに入っていく。
「わたしたち」という女子集団の描写から、主人公それぞれの世界の描写へと、比重が移っていく。もちろん読み手は、人称が自在に変換されていることに、違和感はおそらく持たないだろう。それだけ著者の筆さばきが、絶妙なのである。

もう一つ、わたしの目を引いたのは、「わたしたち」が誰なのかが、結局最後まで明示されないことだ。あくまでも、女子グループのメンバーの誰かである。そして誰であるかが明示されないことについても、まったく違和感はない。物語を破たんさせない配慮がなされながら、不思議な「わたしたち」によって、語りの構造が作られている。

3.ちょっとした知ったかぶり

ちなみに「あなたは」という二人称をもつ作品が、倉橋由美子の『パルタイ』であり、多和田葉子の『容疑者の夜行列車』だったと記憶する。とくに多和田作品は、読み初めの戸惑いはすぐに消え、不思議な文学空間を作り出していた。読了時には、作者がなぜ「あなたは」としなくてはならなかったのか、感銘のなかで深く納得していた。

「わたしたちは」‐「日夏は・真汐は」という三人称‐「わたしは」。
この自在に入れ替わる人称構造をもつ物語を示すことによって、作家は何を試みたのだろうか。
さらに推測を重ねることになるが、人称の自在な変換は、松浦理英子のこれまでの重要な主題だった「変身譚」と、深くかかわるのではないか。『親指Pの修業時代』では、足の親指をP(ペニス)に変身させ、『犬身』では主人公を「犬」に変身させたこの作家の変身のモチーフが、ここでの人称変換となったのではないか。
そのような推測を、わたしは持ったのである。

そして変身譚に何を託しているのかと言えば、おそらく、「自己」と「他者」の境界を突破することではないか、と思う。ここはもう少し具体的作品からの裏付けを要するところだが、「最愛の子ども」にあって、少女たちの情緒や情動の深い同調をつくることが「わたしたちは」という人称を導入することだった。
いわば松浦理英子のこれまでの試みが、この作品の人称構造として結実したのではないかというのが、わたしのたどり着いたとりあえずの読解である。



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