吉本隆明さんへの最後のインタビュー(「現代詩手帖」追悼号より転載)

吉本隆明さんへの最後のインタビュー
                                   佐藤幹夫

さる三月一六日の未明に、吉本隆明さんは他界された。八七歳だった。

一九八七年以来、私は多くの方々の協力を得ながら雑誌の発行を続けてきた。いうまでもなく吉本さんの『試行』や北川透さんの『あんかるわ』の真似事から始めたものだが、私にとっては優れた書き手たちの生の声に触れ、書き込みのある生の原稿を目の当たりにできる、贅沢な道楽であった。そのような気ままな雑誌にあっても、つい先ごろまで、最も望んでいたはずの吉本さんへのインタビュー依頼だけは、自制し続けていた。

そこにはオウム問題以降の、公私を含めた微妙な経緯がある。話の都合上一つだけ書き留めておけば、オウム問題の誌面作りの時に私が心がけたことは、小さなメディアとはいえ、できるだけ偏りの少ない誌面作りをすること。吉本氏を始め、どなたにたいしても、発行者が異論を感じたときは忌憚なく表明させていただくこと。そのように努めながら、あの大騒動の渦中で、オウムの特集を企画し、雑誌作りを続けていった。

その判断に間違いはなかった、といまも考えている。これからも弁解はしないだろうとも思う。だが、少なくとも「雑誌」というメディアに公平・中立などという立場はあり得ないのだということを、あのとき私は思い知らされた。結果、あれほどの孤立無援の苦難に立たされていた吉本氏を全面的に支えるという役割とは逆の働きを、私の雑誌はしてしまったのではないか、という苦い後味が残った。しかたがない。それならそれで引き受けていくしかない。忘れた振りをして、なかったかのごとく振る舞うことだけはやめよう。――それが吉本氏へのインタビュー依頼を自制し続けてきた私なりの、筋の通し方だった。

「飢餓陣営」創刊時に、いつか力をつけて吉本総特集を企画すること、ご本人へのインタビューをはたすこと、と掲げた二つの目標のうちの一つを、私は自ら断念したのである。そのような事情がありながら、東日本大震災の後から編集者Oさんの尽力のもと、急に思い立ったように吉本さんのご自宅に伺うようになったのである。

大地震の直後、東北の各地が破壊されていく映像に打ちのめされながら、「吉本隆明ならば、こんなときなにを言うだろうか」とすがるような思いで、日夜、その著作をめくり続けていた。だんだんと「直接その声を聞きたい、聞かなくてはならない」と、ほとんど思い込みのような考えにつかまれていった。

私は意を決してOさんに依頼し、出かけることが適ったのは、二〇一一年の四月一九日と二六日。二六日に収録した分が「吉本隆明、東北を想う」とタイトルされた、宮沢賢治と東北をテーマとするインタビューである。

この日の吉本さんの集中力は、およそ尋常なものではなかった。話し始めるとすぐにドライブがかかり、ほぼ三時間近く一気に語り続けた。ある人が「圧倒的な存在力」といったその言葉通り、私とOさんは、吉本さんの「存在力」に圧倒されていた。雑誌を続けることで、執筆者からいただいた原稿に喜び、乱舞したことはそれまでにも二度や三度ではなかったが、やっと念願がかなったこのインタビューには震えがくるほどの感謝と感慨を覚えた。そして吉本さんの語りには、どこにこれほどの気力と体力が潜んでいるのか、と空恐ろしささえ感じずにはおれないほどのものであった。

吉本さんから見れば、私などは、今頃何しに来たのかというような超新参者である。しかも負い目まで抱えている。それでも、半年に一回程度なら、という許諾を得た私が図々しくも次にお邪魔したのは、二〇一一年の一二月二日。四月の最初に伺った日、序説のように話された太宰治について、東北と津軽という観点を加えながらもっとお聞きしたいというのが、この日の目的であり、事前にそのようにお伝えしてもいた。

ところがこの日の吉本さんは、問いかけに最初の二言三言は答えたが、すぐに別の話題へと移っていった。気乗りがしないのだな、今日はやらないぞとおっしゃっているのだな、と判断し、こちらの質問はすべて封じたが、やはり二時間以上も話して下さった。途中、親鸞や、房総、信州の寺のことなどを語られただろうか。

同行してくれたOさんの用事も住み、そろそろ引き上げようかという段になったとき、吉本さんがふと漏らした。

「Oさん、ぼくももう、いろいろとめんどうくさくなってさ」

私とOさんに対し、もう仕事は勘弁してほしいと伝えているのだ、ということはすぐに理解された。当たり前だな、と思った。震災以降、このご高齢で一〇年前二〇年前と同じように、いやそれ以上のものを背負い込まされている。こんなことは、並みの人間にはとても出来ることではない。そう思いつつも、また一方で、これは四〇年に及ぶ付き合いを継続してきた編集者・Oさんへの別れの言葉ではないのか、とも思われた。私は一瞬うろたえた。目の前の吉本さんと、もう二度とお会いできなくなるのか、これでお別れになってしまうのか。そんな強い感情に襲われてもいた。あわてて打ち消して自宅を後にしたのだが、Oさんも何事かを察したらしく、帰路、ぼんやりと黙り込んでいた。その後の二人の酒も、まるではかばかしくなかった。

「あの人は、生死は分けない。とくに人間個々の生死を分けるというのは意味のないことだ、銀河系とともにあって、滅びるときも銀河系とともに滅んでいく。それでいいじゃないか。死するということはそういうことである」

宮沢賢治はそのように考えていた、と吉本さんは語った。それは宮沢賢治に託して述べられた、ご自身の最後の思想でもあったのだと思う。雑誌をもつようになって二五年、念願かなったインタビューで語られた吉本隆明の言葉が、そのような、はるか銀河系から人間存在を俯瞰する死生観だった。

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