「野田市小4女児虐待死事件」、母親の公判を終えて(その1)

〝教育〟はどこに届くのか(第11回)                佐 藤 幹 夫
「野田市小4女児虐待死事件」、母親の公判を終えて(その1)

 今回は、野田市の事件の続報を書いてみたいと思います。
 2019年5月16日、千葉地裁にて、母親に対する第1回公判が開かれました。6月26日には判決公判となり、「懲役2年6カ月保護観察付執行猶予5年」の判決が言い渡されました(求刑は2年)。どちらの裁判も傍聴できませんでしたが、こういう時、フリーとして単独取材をしなければならない限界を痛感します。〝ツキ〟とか、事件との〝縁〟のようなものを得て初めて取材が進められていく。ダメなときはどう頑張ってもダメ。不思議なものだといつも感じます。そんなわけで、今回は各種報道記事を借りての報告になります。

 まず、初公判を報じた産経新聞の次の記事には息を呑みました。父親は心愛さんの「存在自体が嫌だ」と、1月22日から24日の明け方まで、「断続的に浴室やリビングに立たせ、食事を与えなかった」といい、次のように書かれています。「心愛さんは失禁を繰り返した。24日午後3時ごろには、浴室で「今から5秒以内に服を脱げ」とせかされますが、「服を脱ぐ気力がなくなり、シャワーで冷水を頭からかけられ、背中を丸めて震えていた」「同日夕、リビングに連れていかれてプロレス技をかけられ、また失禁。最後は夜に『掃除をさせる』と浴室に連れ出された」。ここで心愛さんの命は尽きます。「(略)なぎさ被告が浴室に行くと、心愛さんがあおむけで青ざめた状態で倒れていた」。これがなぎさ被告の供述調書に書かれていた、亡くなる前後の様子です。

 虐待事案はどれも凄惨なものですが、父親が実の娘に(しかも10歳の子どもに)、ここまで酷いことができる。しかも理由が「存在自体が嫌だ」という憎悪。私は基本的に、人はある特殊な状況下に置かれ、ある特殊な心理的作用が働いてしまうと歯止めを失い、想像を絶するどんなことでも行ってしまう。人はそのような存在であると考えています。高齢者施設や、障害者施設での虐待死や暴力行為が後をたたないのも、教員の体罰が時に激しく常軌を逸した結果となるのも、まさにこうした特性がもたらしものだと考えています。
しかしそれにしても、先の産経新聞の記事を読み、しばらくはまともに物事が考えられませんでした。この衝撃が一つです。

 二つ目は、「懲役2年6カ月保護観察付執行猶予5年」という判決についてです。求刑以上の判決となっている一方、5年間の保護観察付きの執行猶予がついています。長期間、夫による凄まじい暴力の中に置かれ、精神的な支配下にあった母親を逮捕拘束し、刑事被告人として法廷に立たせる。このことの是非をめぐっては、多くの反対意見が出されていました。私もまた、母親は心愛さんへの加害者である前に夫の暴力の被害者であったのだから、裁判所はその点を最大限考慮すべきではないか。そう考えていました。その立場から見たときに地裁判決をどう受け止めたらいいのか。

 求刑以上の懲役を示すことで検察側の顔を立てつつも、5年間の執行猶予を付けています。受刑者となって刑事施設で更生をはかるのではなく、いわゆる社会内処遇を選択しているわけで、この点では母親への大きな配慮が感じられます。ただ、保護観察5年というのは、シロウト判断では両義的な作用をもつのではないか。5年間は、なんらかの司法による支援機関とつながることが保障されるわけですが、逆に言えば5年間は、司法的監視が解かれない。真っ新(さら・ルビ)になって一市民の身に戻るには、5年間の司法関与を受けなければならない。これを重いと受け取るか、かけがえのない命が失われたことに比べれば軽すぎると受け取るか。意見の分かれるところでしょうが、各報道は、被告人と検察双方への配慮を示した判決という論調でした。私の関心は次の点に向けられました。

 母親にはもう一人、子どもがいます。保護観察付きの執行猶予期間、母親はその子との関係を絶たれてしまうのか、ある条件下であれば接触が許可されるのか。判決が出る少し前、刑事被告人となれば子どもとの接触が禁じられる、あるいは著しく制限される、と書かれた本を読んだばかりでしたので、執行猶予の場合はどうかと気になったのです。急なことではあったのですが、以前取材をさせていただいた後藤弘子さん(千葉大学大学院専門法務研究科教授)に伺ってみました。こんな回答をいただきました(文責は佐藤)。

面会できるかどうかは、子どもがどこにいるかによる。同居していれば問題なく会えるし、児童養護施設にいる場合でも面会はできる。執行猶予で保護観察がついているからといって会えないことはない。ただし、下の子どもへのネグレクトがあるという児童相談所の判断のもとで児童養護施設にいる場合は、しばらくは会えなくなる。ただし、特別遵守事項に、子どもと会う際にスーパーバイズがつく等の制限は課せられる可能性はある。「子どもには会えない」ということが、特別遵守受講に付くことはないが(付くほうが問題)、確証はない。いずれにしても児相の判断が大きい。――

こういうお話でした。子どもがどこにいるのか調べてみようかとも思いましたが、新聞記者もどこへいるかは把握していないようだとも後藤さんはいいます。

ここでも、意見は分かれるかもしれません。心愛さんへの虐待に加担したような母親である、下の子も保護されて当然であるし、会えなくなったとしても自業自得である。まして現在のような脆弱な精神状態(双極性障害と診断されています)で、3歳に満たない幼児に会わせても、かえって不安を昂じさせるだけではないか。まして自分に激しい暴力をふるい、娘の命を奪ったような男の子どもである。心の底から可愛いと思えるかどうか、と。

このような危惧はそれなりに理解できるのですが、しかし私は、しっかりとしたサポートを受け、これまで以上の母子関係の回復を目指すのが、この母親の務めではないかと考えます。保護観察付きの執行猶予という裁判所の判断は、そのことを求めているのではないでしょうか。児童虐待の問題の難しいところは、子どもの安全のために保護を優先させるのか(そうすると必然的に親子は引き離されます)、関係の回復を目指すのか、難しい判断を迫られるところにある。以前の稿でそう指摘しました。

ところで、前回の報告(第7回、8回)の後、児童精神科医の滝川一廣さんより拙稿への感想をいただきました。滝川さんは昨今の児童虐待の報じられ方、その対応の在り方に対して、以前より警鐘を鳴らしてきた医師です。野田の事件にあっても、父親の所業や周囲の不手際に対する社会的な義憤はだれのものでもある。

とはいえ、子どもたちの「守護神」に成り代わったような事後的糾弾があふれ過ぎている。結果、必ずしも十分とは言えない検証のもとで「一時保護」の判断が下され、刑事事件に発展し、冤罪といった事態も起きている。
滝川さんは、その事実を明らかにした著書があると、柳原三佳さんの『わたしは虐待していない ―検証 揺さぶられっ子症候群』(講談社、2019)を紹介してくれました。「人間と発達を考える会」では、これをテキストに話し合いを持ちました。「児童虐待」と一言で括られても、そこには一筋縄ではいかない問題がある。そんなテーマです(これは学校で生じる様々な問題でも同様でしょう)。次回はこの報告をしたいと思います。

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