「Society 5.0」と子どもたちの身体知(連載23)

〝教育〟はどこに届くのか(第23回)               
「Society 5.0」と子どもたちの身体知

ウィルス感染の予防と子どもたちの教育機会の保障。この難しいバランスをどう両立させるか。それがいま、学校の最大の課題だろうと思います。前号では、感染予防対策の行きすぎは、子どもたちの成長にとって重大な支障をもたらすのではないか、という疑義を書きました。すると投稿後、SNSに次のような記事が上がってきたのです。

「学校でのフェイスシールドの着用 ちょっと待ってください 大阪小児科医会からのお願い」と、タイトルされたもので、引用します。
「★フェイスシールドは「うつさないため」にするものではありません。

・フェイスシールドは血液や飛沫から医療従事者を守るためにするもので、他人から「うつされるリスクが高いとき」に使用するものです。/学校生活では、児童・生徒にフェイスシールドの着用は必要ありません。

★フェイスシールドの着用で以下のようなトラブルが心配されます。
・熱中症のリスクが高まります。/物がゆがんで見えたり、光が反射して、授業に集中できません。/転倒などで顔面や眼を傷つける心配があります。」

あくまでも医療的観点からの提言という形をとっていますが、底流にあるのは、子どもたちの育ちへの危惧でしょう。大阪小児科医会の「お願い」は正論そのものです。

AIの時代とアナログ知の復権

わたしの危惧について、もう少し別の角度から光を当ててみましょう。科学技術の発展と情報ツールの拡大は、間違いなく暮らしの利便性を高めました。ただし物事には、作用があればかならず反作用があります。反作用の最たるものが、「身体知」を弱くさせていることだとわたしは考えてきました。いくらデジタル化が進もうとも、人間の「身体」は自然そのものです。理性や科学では統御できないものを、どうしたところで身体は抱え込んでいます。だからこそ教育の重要性があるわけです。近年強調される「自ら学び自ら考える力」とか、「生きる力」といったものは、身体知との相互作用によってこそ涵養されていくのではないか。そういう仮説さえわたしはもっています。

こうしたなか、「ウィルス感染の予防」が最優先される社会とは、人間の行動や暮らしを科学(医学)の名のもとでコントロールしようとする社会のことであり、学校も同様です。子どもたちにたいする管理とコントロールが、感染予防という誰にも反対できない名のもとでさらに強くなっていくならば、子どもたちは自然性から切り離され、身体知と学びはますます脆弱になっていく。それが、過剰な感染予防に感じるわたしの危惧です。

ここから「Society 5.0」の話題に少しずつ転じていくのですが、この間、こんなことがありました。わたしは「人間と発達を考える会」という勉強会を10年以上にわたって続けています(子どもの育ち、学び、発達障害、児童虐待や不登校など、様々な課題を取り上げて議論する会です)。そのメンバーの一人である佐川眞太郎さんより、『デジタル・AI時代の暮らし方』(浅間正通編著・南雲堂)という本を送っていただきました。佐川さんはある大学の相談室で心理臨床に取り組む公認心理師で、本のなかで分担執筆をしています。サブタイトルが「アナログ知のポテンシャル」、帯には「AIが浸透する社会と共存してゆくには――アナログ知の大切さを説く」とコピーされています。「コロナの時代と子どもたちの「身体知」」というテーマを、どう掘り下げていこうかと思案していた真っただ中。センサーが激しく作動し、すぐに読み始めたのですが、膝を叩くようなことばかりでした。

大雑把に分類すれば、情報処理という学問領域に入れていいでしょう。「デジタル学習ツール」「Web教材」「ディープラーニング」「AI学習」というように、学びのデジタル化が加速しているなかで、それぞれの分野のエキスパートがアナログ知の重要性を再認識しよう。そういう意図によって本書は編まれています。

例えば編者の浅間氏は情報リテラシーの立場から、電子辞書の再普及という昨今の現状を取り上げます。電子辞書派(電活派)と印刷辞書派(印活派)に分類し、双方がどのような翻訳をし、そこにどんな差異がみられるか、英単語検索実験を試みます。電活派のほうは一語一訳の罠にはまっており、文脈への配慮という点で印活派のほうが勝っている、という実験結果を導き、Eラーニング(electronic dictionary、電子辞書学習)に先んじるのは、「五感をしっかりと動員したところのアナログ(analog)ラーニングに尽きる」のではないか、とまとめています(第1章)。「五感」は、身体知の涵養にとっての土台です。

第2章の山下巌氏は、自動翻訳機が機能性と精度を高めながら広く普及し、語学学習不要説まで出始めている昨今の現状に注目します。「自動翻訳(デジタル知)」か「外国語学習(アナログ知)」か、と対立的に考える必要はない。自動翻訳機による外国人とのコミュニケーションは、語学学習を始めるきっかけとなる。自動翻訳は補助ツールとして活用してこそ、自力で外国語を話そうとする人が増えてゆく、と主張します。新たな語学の習得とは構文や文法、単語、発音といった技能の習得(身体化)であるとともに、その国の文化や風習を、まさに身体を通して獲得していくプロセスです。

第3章の小川あい氏。黙読の習慣がここまでが進み、スマートフォンが普及したいまだからこそ「音読と暗唱」が重要になっていると主張します。文の読み上げを繰り返すことは、知識をつながりのあるもの〔傍点に〕として記憶に定着させる。現代の教育は単なる情報処理に終始しているが、つながりある知識こそ、分析的思考力や発想力、創造力の基盤であり、音読や暗唱はその土台をつくる、というのが訴えの主眼です。
佐川さんは、以心伝心や「察し」という非言語によるコミュニケーションが、いかに人間交流に重要な役割を果たすか、しかし今それが損なわれていないかと、心理臨床の現場で鍛えてきた人らしい着眼から「身体知」の危機を訴えます(第6章)。わたしが述べてきた危惧がまさに共有されています。ほかにも絵本の読み聞かせ、ペンと紙の問題というような意表を突くような着眼から、その領域でどのようにデジタル化が進んでいるかを述べながら、アナログ知の復権、あるいはデジタル知との共存の重要性を示していきます。

Society5.0とはどんな社会か

さてここまでであれば、まさに我が意を得たりと共感し、本書を閉じたかもしれません。しかし、この本には先がありました。それが第Ⅳ部に収められた論文なのですが、ここでは文脈の都合上、前野博氏(至学館大学准教授、専門は教育情報学)の「2025年の崖への跳躍力― Society5.0実現に向けていま私たちが取り組むべきこと」という論文を取り上げます。おおむね、次のようなことが書かれていました。

Society5.0の5とは、これまでの社会の進展を、①狩猟社会、②農耕社会、③工業社会、④情報社会、と定義づけ、その5番目、次世代社会を指す象徴的な名称だとされます。「超スマート社会」とも称されていますが、「デジタルとアナログを高度に融合させて人間中心の」社会を創生すること、それがこの社会での目標となる。AIがどこまで高度化していくのか、人間の労働力のあらかたが不要になってしまうのではないか、という不安が高まっているなか、これからの社会や人間のあり方をどう構想すればよいか。そうした問題意識のもとで打ち出された国家戦略が、Society5.0をめぐる提言です。前野氏は、「これからの社会を変革していくには、デジタル一辺倒ではなく、アナログ的な思考や手法も融合的に用いながら取り組んでいくことが必須」であると述べます。

もう一つ、タイトルの「2025年の崖」とは何かという問題があります。インターネットはわたしたちの生活の隅々に浸透し、気がつくと、経済・物流・情報といったあらゆるモノとコトが一つのシステムに集中され、統御されている。集中が増せば増すほど利用する側には高い利便性になるわけですが、しかしたった一つのクラッシュが世界経済の破綻、情報や物流システムの大混乱を招きかねない。これまでそのことに気づかれながらも、代替案もないままやり過ごされてきた。しかし、もはやそういうわけにはいかないといいます。
現在、多くの企業で用いているコンピュータシステムは、ブラックボックス化している、管理する技術者の高齢化が進み、このままでは「現行のシステムは陳腐化し、さらにはゴミ化していく」。それが「2025年の崖」と呼ばれる事態だと説明されます(このとき前野氏が参照しているのは、経産省による「DXレポート」という報告です)。

こうした事態への対応は教育にあっても喫緊の問題です。その最重要課題がAI時代の到来に向けた人材育成であり、そのための国家戦略は次の3点。

① 文理を問わず、全高等機関での数理・データサイエンス、AI履修コース設置
② 社会人全体へのAIに関する実践的活用スキルが習得できる環境の用意
③ リベラルアーツ(教養教育)の充実化

リベラルアーツについては、「単に読書をたくさんするといった単純なイメージではなく、幅広く人とかかわりながら自ら学びの幅を広げたり深めたりすることが求められます」と注記されていますから、こちらに、本書の趣旨であるアナログ知につながる問題があると考えていいでしょう。この3点は、文言だけを見ているといいことづくめのような気がしますが、前野氏は次のような楔も忘れずに打ち込んでいます。

「AIを学ぶには相当な数学的知識や統計学的知識が必要であり、あらゆることを数理モデルに置き換えるための社会全般への理解も必要です。AI教育やプログラミング教育と巷間喧〔かまびす‐ルビ〕しいですが、言うは易く行うは難〔かた―ルビ〕しなのです」

前野氏が指摘するように、文理双方にわたるハイレベルな理解や知識を「国家戦略」は求めています。ここでは国を牽引するエリート層が想定されているのでしょうが、このハードルを越えられる人材は一体どれくらいいるのか、という素朴な感想を禁じえません。

「Society 5.0」についての文科省の見解

このあたりで前野論文から離れ、「Society 5.0」について文科省がどのような見解をもっているのか、そちらに目を転じてみます。文科省のホームページを検索していると、「Society5.0に向けた人材育成~社会が変わる、学びが変わる~」というレポートがヒットしました。https://www.mext.go.jp/component/a_menu/other/deta.

内容は3章構成になっており、第1章、その社会像と求められる人材像、学びの在り方(大臣と有識者による懇談会の整理)、第2章、取り組むべき政策の方向性(1章を踏まえた文科省職員による議論のまとめ)、第3章、学びの変革と取り組むべき施策(1章2章を受けて)、となっています。公式見解以前の、Society5.0に向けた文科省内部での議論の集約といってよいでしょう。以下はわたしなりのまとめです。

AI技術の発展によって社会や働き方が大きく変わる、それはかつてないもので、「これまでの延長線を大きく超えた劇的な変化が訪れる」というように、いかに激しい変化を目前にしているか、そのことが繰り返し強調されます。それがこのまとめの特徴の一つだと思われます。こうしたなか、日本のAIの技術開発は米国や中国に比べて大きく立ち遅れており、技術者や研究者の数もはるかに少ない、多くの学生が情報科学のトレーニングを受けていない、こうした現状をクリアしていかなければ先進国のなかでさらに遅れをとり、日本の存在感が発揮できなくなる、という強い危機意識が、二つ目の特徴だと受け取りました。

それを克服するにはどんな力が求められ、どんな教育が必要となるか。前野論文で示された概要が、教育現場に即した形で提言されていきます。AIやビッグデータを活用し、スキルをたえずアップデートできるような「自ら学び続ける力」、「現実世界を意味あるものとして理解」し、新たなイノベーションを創造できる力、そのときに重要な感性や知性や独創性。一方では学力の低下や「貧困の拡大、地域間格差」にもふれ、教育格差の解消は公教育の義務だと言い切ってもいます。さらに、教師を「子ども自身の学びの支援者」と位置付けていることなど、過不足のない提言といえば確かにその通りなのですが、先に指摘した危機意識の表明は、最終的に、急ぎ、大幅な教育改革を断行していかなくてはならないというメッセージに帰着しています。

ここで思い起こされるのが、学習指導要領が、特に20年のスパンで基本のコンセプトをがらりと変えるようにして、大きな改革を打ち出してきたことです。今から20年前、「小泉・竹中構造改革」のもと、新自由主義的教育政策が全面展開されました。その象徴が「総合的な学習」と「生きる力」の新規導入であり、学校と教員への評価制度です。さらに20年をさかのぼると、「ゆとり教育」と称されたように、各教科での習得すべき内容を大幅に絞り込みました。

この二つの大改革が現場にどれほどの混乱を巻き起こしたかは、記憶に新しいところです。どうしてここまで指導する内容が削減されなければならないのか、なぜ競争と評価が学校現場にあって必要なのか、現場の先生たちがどこまで理解し、納得していたか。その十全な説明が行われたのか、わたしはいまでも疑問に思っています。

改訂の時期となった1980年前後、2000年前後、それぞれどんな時代だったでしょうか。戦後の経済繁栄が70年代に「1億総中流」と呼ばれる国民の意識をつくり、その定着を見たのが80年前後です。来るべき時代に武器となるのは、知識の多寡ではなく、時代の変容に自らの手で適応していけるような、そのような力である、これまでの成長じだいとはまったくことなる学びの力だというのが、このときの改訂のメッセージがではなかったでしょうか。

00年代は日本の経済繁栄が終焉し、本格的なグローバリズムの時代に突入したことが、だれの目にも明らかとなりました。構造改革が叫ばれた時代です。ITもまた爆発的に浸透していきます。この時の改訂のメッセージは何だったでしょうか。これまでの家族主義的・共同体的な価値観を、アメリカ型の競争原理や自己責任といった「個」を単位とする価値観につくり変えること。それがこれからのグローバリズムのなかを生きていくための必須の力となる。そのようなものだったとわたしは受け止めてきました。そして今回のsociety5.0、あるいはポストコロナの時代。いかに劇的な変化を目前にしているかは、見てきたとおりです。

いずれも大きな社会の変容を目前にし、そのことへ備えようとした教育大改革であったことは間違いありません。しかしそこで行われた改革が、現場教員や研究者からどんな評価を受けてきたか。改革のたびに現場は混乱し働く環境が過酷になる、と多くが批判の中で語られてきたのが実情です。Society5.0を令和の教育大改革の提言だと受け止めれば、やはりここは立ち止まって注視したいと思うのです。

「教育改革によって、どのような問題が解決したのか。教育のどこが、どう改革されたのか。そうした政策評価のないまま、まるで熱病にとり憑かれたように、私たちは、さらなる改革を求め、推し進めてきた」と苅谷剛彦氏(『教育改革の幻想』・ちくま新書)、あるいは元中学教員の赤田圭亮氏。「子どもが育つためのゆったりとした場所と時間とリズム」。それが人が育つ場である。「教育改革が問題なのは、そうした学校に足りないものを拡充する方向ではなく、(略)学校に対して無用な容喙=カイゼンを繰り返して、「場」を壊し続けていることだ」という慨嘆が繰り返されないことを願うばかりです。
教職課程 2020年 09 月号
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