福祉の「恩恵」ではなく、不合理の「是正」を (第26回)

〝教育〟はどこに届くのか(第26回)

三戸学さんが提出した「最終陳述書」から

 前回は車椅子の中学校教師、三戸学さんの「第1回口頭審理調書」を読み、率直な感想を書かせてもらいました。その後、さらに動きがあり、口頭審理から2か月近くを経た9月24日、秋田県人事委員会に「最終陳述書」を提出したという報告を三戸さんよりいただきました。手短に紹介してみます。

 三戸さんは次の3点を秋田県教育委員会(県教委)に要求しています。

(1)前回の異動命令は、合理的配慮を欠いたものである。これは障害者差別であって、身体的・心理的苦痛を受けており、その点について謝罪を求める。
(2)今後は異動の条件(交通手段、居住条件など)を整えたうえでの移動となるよう、確約してほしい。
(3)タクシー利用に対しての交通費支給となったが、それでも2万8千円の自己負担であり、この速やかな是正を求める。

 以上のようなものですが、これまでほとんど使うことのなかった障害者「差別」という言葉を使い、自分が受けた心身の苦痛に対して「謝罪」を求めています。「確約」という言葉で要求を示すなど、以前よりも、踏み込んだ要求になっていると感じました。

 次に、口頭審理の際の証人の答えに感じた課題を指摘していますが、大まかにまとめるならば次のようになります。
管理職による通勤支援を受ける身に証人自身がなったときどう感じるかをたずねたが、明確な答えはなかった。これは自身が返答に困るような通勤方法を、自分(三戸さん)にさせていたことにならないか。腰痛等の不都合を訴えても検討されなかった。さらに説明がないまま、当初の
「ボランティア」から「公務」に切り替えられていたが、それは適切だったのか。こうした通勤支援は、ほかの障害のある教職員にも適応されるのか尋ねたが、明確な回答はなかった。これでは、自分に対する対応はその場しのぎのものだったのではないかと考えざるを得ない。

 またこの支援方法が踏襲され、同僚の教員が公務として通勤支援にあたった場合、過度の負担となることが危惧されるが、それでよいのか。三戸さんの補助にあたる加配教員の有無が勤務する学校によって異なっているが、これでは合理的配慮の理解が学校によって変わってしまうことになるのではないか。そして20年間、学級担任の希望を斥けられてきたが、それは「法令等には明白に違背していない」が、2019年に文科省が策定した「教育委員会における障害者雇用推進プラン」には違背しているのではないか。

 概略、これらの点を課題として指摘していました。つまりは、合理的配慮として示されてきた対応は、合理的配慮とは呼べないものではないかということが含意されています。

これまで以上に踏み込んで発せられた問いかけ

 そして以上を踏まえたうえで、秋田県教育委員会へ質問が8点出されています。一つひとつは取り出しませんが、主だったことだけ書けば、次のようになります。障害者差別の解消にとって必要な研修を受けていないが、秋田県で実施した研修・啓発の取り組み状況を教えてほしいこと。文科省の「障害者雇用促進プラン」の内容を、全職員で共通理解することに必要性についてどう考えるか。県内の障害のある教職員の勤務状況の変化について。まずはこうした問いかけがなされています。

 次の質問がとくに目を引いたのですが、八郎潟町の教育長が示した合理的配慮への理解について、それは間違いであるが、県教委はその理解に同意できるのか。自分(三戸さん)のケースを、「障害のある教員」に対する合理的理解がなされている好事例として全国に発信できるのか。合理的配慮をどのように考えているのか、とそのように問いかけています。

 私もまた、三戸さんの今回の申し立ては、秋田県という一地方のローカルな事態にとどまるものではなく、いまや全国の「障害のある先生」たちが注目している、と考えています。ともあれ、自分に対する処遇は大変に不合理なものであり、その是正を求めると真正面から主張を申し述べているのが、三戸さんの「最終意見陳述書」です。

 また、代理人の清水建夫弁護士も10点にわたって意見陳述をしていますが、そのなかでひときわ目立つのが、八郎潟町教育長の「偏見」に対して強く糾弾している点です。教育長は次のように述べていました。……この地域は教育に異常なほど敏感で、すぐに苦情を訴える、そのクレームが三戸教諭に及ばないように多くの合理的配慮をしながら支援してきた……。つまりはクレームが及ばないよう担任をもたせないようにすることを、三戸さんに合理的配慮として示してきた、という見解です。

 清水弁護士もこの点を正面から突き、それは障害者への「偏見」であり、「差別」だと批判しています。少し口を挟ませてもらうならば、まず、障害をもつ教師に対し住民は苦情を殺到させかねないという発言は、地域住民は差別感情をいだいているのだと暗に伝えていることになり、それは失礼な発言ではないでしょうか。仮にそのような地域だとしても、困難を乗り越えられるように全面的にバックアップしていきますよ、ということでなされる支援が、私が考える「合理的配慮」です。困難があってそれはあなたには無理だからその仕事には付けさせません、というのは排除の論理です。担任は無理だという理由は、「障害があるから」というもので、それ以外にはありません。これでは障害者差別だと批判されても弁解のしようがないものです。

 前回同様の批判を繰り返していますが、個人的に糾弾したいのではありません。公職にあり、かつ組織の上層にいる人が、言い換えればそれなりの影響力を持つ人が、「障害」や「障害者」に対してどのような理解を有しているか、かなり厳しく問われる時代になっていることを強く感じます。自戒を込めて書くのですが、そこでなされる合理的配慮が、じつは「上から目線」のものになっていないか、「お情け」をかけていると言わんばかりのものだとなっていないか。そこまで時代の感度は上がっているのだということを、改めて感じます。

 秋田県教育委員会からの「最終意見陳述書」もありますが、こちらは、これまでの見解をそのままなぞったものにすぎません。立場上、簡単に撤回はできないだろうことは理解できますが、県教委は、自分たちの言い分が認められたか、認められなかったかというだけではなく、三戸さんにとっても、何らかの納得が生じるような見解を示していただきたいものだと強く念願します。

理念を空洞化させないために

 ところで、前回私は、教育委員会は教員を志望する「障害のある人たち」に門戸を開いているようでいて、じつは、ハードルを上げたままにしているのではないか、と書きました。そして、学校のもつある種の閉鎖性、身内意識を批判しました。例証として久米祐子さんという方のエッセイを引いたのですが、そこでは、教育委員会の実雇用率が低いのは、雇用に至らないための様々なハードルが存在するのだと書かれていました。

 推測するなら、3年に1回の異動命令や、担任をもった経験がないという三戸さんの訴えの奥には、はっきりと表れてはいないけれども、周りに高いハードルがあって、それが自分を拒んでいる、何度挑んでも打破することができない、そうした強い不全感があると私には推測されるのです。どうしたら少しでもこれを打ち破ることができるでしょうか。

 このコーナーの第19回(2020年5月号)に、特別支援の名のもとで子どもたちの排除や分断が行われている実情を報告しました。私の理解する限りでは、特別支援教育の当初の導入の目的は、どの子も通常の学級で、他の子どもたちと同じように学習の機会を保障するということが目指されたはずでした。教育における社会的包摂(インクルーシブ)が目的とされたはずでした。

 そしてユニバーサルという考え方が、いつのまにか学校スタンダードというものに変質してしまっている現状も書きました。多様性へどうひらいていくかというユニバーサルの理念が、まったく逆に、画一性を押し進めるためのロジックに転用されてしまっていたのです。なぜこのように、社会的包摂もユニバーサルも、学校文化のなかに入ったとたん骨抜きにされ、空洞化してしまうのでしょうか。私がこの間指摘してきたのはこのことです。

 合理的配慮とは障害のある人だけになされているのではなく、いわゆる健常の私たちも様々なかたちで合理的配慮の恩恵を受けているのだと、法律用語としてはいささか逸脱したような見解もあえて示しました。私は法律には詳しくはないのですが、教育公務員であることには様々な義務と禁止を課せられながらも、その範囲において身分は保障されています。労働基準も定められています。有給休暇他、共済組合制度などによって服務に関する保障もなされています。こうしたことを、それは障害者にとっての合理的配慮に相当するだろうといいたかったわけです。

 今回、僭越にも三戸さんの学級担任や異動をめぐる問題に対し、教育委員会や教育長が示した見解に異論を唱えてきたのは、このことにかかわります。社会的包摂やユニバーサル、合理的配慮といった理念が、なぜ学校の中にあって空洞化し、絵に描いた餅になってしまうのか。生きた理念となるためには何が必要なのか。そのことを指摘したかったが故の批判でした。


「社会的障壁」はどうすれば解消できるか
 
 少し視点を変えてみます。

 中村雅也さんという方が、『障害教師論―インクルーシブ教育と教師支援の新たな射程』(学文社)という本を、2020年7月に上梓しました。中村さんは視覚障害をもちながら、高校、盲学校、肢体不自由養護学校などの教員を経て、現在ある大学で研究者としての道を歩んでいる学究です。「あとがき」を読むと、中村さんもまた先の久米祐子さん同様、教員採用の際、ある自治体の二次試験のあと、視力を再検査して診断書を再提出するよう求められたといいます。危惧とともに「低い視力が記された診断書を再提出したところ、採用試験の結果は不合格だった」と書いています。この本は学術書ですのでそれ以上の個人的な感情は洩らしてはいないのですが、やはり障害へのハードルを指摘する記述になっています。

 本書の全体を紹介する余裕はないのですが、かいつまんでいえば、教育政策と労働政策の歴史と現状、聞き書きと調査を通して分析されていく障害教員のライフヒストリー、そこから抽出される教員としての経験と意味づけ、その支援、といった点が主題化されています。いわば、「障害のある先生」をめぐる社会的問題と、個々人が遭遇する教師としての個別的・実存的課題を網羅するようにして本書は編まれています。
ここで紹介したいのは、第4章「障害者が教員になることを阻む社会的障壁」とタイトルされ、「阻む要因」として、次の点があげられていることです(中村さんの記述は視覚障害に焦点があてられています)。

 教員志望の動機として、障害教員が少数のため、障害のある児童・生徒にとってロールモデルとできる機会が少なく、それが教員志望の機会を制限している。教育実習に関しても、通常学校において障害のある実習生を受け入れる体制が不十分であり、排除されやすい構造がある。採用試験において、時代とともに改善されてきてはいるが、自治体によって対応が異なり、適切な試験方法が提供されていない例がいまだみられる。臨時講師として教育現場に参入しにくい状況があり、そのことが採用試験の合格から遠ざけている。おおむね、こうした点を挙げています。これらが社会的障壁となっており、その解消が急務であることを訴えるというのが第4章の主調音です。

 私が指摘してきたことは、空洞化する理念、という学校のなかの「見えざる障壁」とでもいうべきものでした。中村さんはそれに対し、制度や仕組みとそれを取り巻く現状というように、社会的障壁をより客観性のある、広い観点から取り出して指摘したものです。

 さて、問題はこの先です。様々な社会的障壁があり、それを解消するためにはどういう具体的なステップを踏んでいくことが求められるのか。通常学校において、視覚や聴覚や身体に障害のある実習生を受け入れるための合理的配慮とはどんなものか。採用試験にあたってはどうか。非常勤講師としてなかなか任用されないのはなぜか。どうすればそれは可能になっていくのか。その具体的な提言が中村さんにとっての、もちろん私にとっても、次の課題になるだろうと思います。

「言葉のユニバーサルデザイン」について
 
 もう一つ、次のことを指摘したいと思います。

 私の問題意識に引き寄せた読みになってしまうのですが、三戸さんの社会的アピールと中村さんの『障害教師論』から受け取った共通のメッセージについてです。それは二人とも自分の言葉で、自分の考えることを、明確な意図や目的をもって発信しているというそのことです。
自分のことを、自分の言葉で発信するなど当たり前だと思われるかもしれませんが、障害をもつ人がそうやって社会に発信することの重要さが広く認識されたのは、この10年の間のことです。「当事者」や「意思決定」という言葉がある危うさをはらみながらも、とりあえずは当たり前のこととして流布するようになっています。

 しかしここに至りつくまでには、70年代の当事者運動から始まり、2000年代の「浦河べてるの家」の当事者研究を経てここに至ったという、長い歴史があります。なぜそれほどの時間を要したのか。そこでの訴えが、障害者(病者)という「弱者(マイノリティ)」であるゆえに、福祉の恩恵や同情・哀れみを求めているのではない、人として当然の生活と尊厳を求めているのだというそのことに、私たちが気づくまでに要した時間でした。

 熊谷晋一郎さんが(彼もまた脳性まひを持ちながら、小児科医として、あるいは研究者として一線で活躍している人です)、「言葉のユニバーサルデザイン」という言い方で、次のように書いています。

 「当事者研究は、少数派同士が、自分の体験の中で繰り返されていたり、互いの体験の中で繰り返されたりしているパターンを発見し、そこに新しい言葉をあてはめていくことで、「言葉のユニバーサルデザイン」を実現する実践ともいえるだろう」(強調は原文。熊谷『当事者研究―等身大の〈わたし〉の発見と回復』岩波書店・2020年7月)

 まずは自分の言葉で、自分のことを発信すること。そのことによって、障害をもつ人だけではなく誰にとっても理解され、そこでの訴え(言葉)が受け入れられるようなものとして社会を変容させる試み。そのような言葉をつかむこと。そうした意図を込めて、「言葉のユニバーサルデザイン」と言われているのだと受け止めてよいでしょう。

 三戸さんも中村さんも、「弱者」や「同情されるべき人」として、福祉の「恩恵」を求めているのではありません。自分の目の前にある不合理に対し、一人の確固たる教師として、一人の学問研究に専心する学究として、どうすればそれが是正できるのかと発信しています。くり返しますが、求めているのは福祉の「恩恵」ではなく、不合理の「是正」です。重要なことは、一方がもう一方への、価値の押し付けではありありません。双方の変容です。つまりはユニバーサルな訴えへとつながるものです。

 二人が投げかけているボールをどう受け止めるのか。そしてどんなふうに返すのか。私たちが問われている番なのだと思います。

教職課程 2020年 12 月号 [雑誌]
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