飢餓陣営52号【編集後記】フーコーの「規律・訓練型権力(生権力)」とコロナパンデミック


 ミシェル・フーコーの『監獄の誕生―監視と処罰―』中の「第三部 規律・訓練」の「第三章 一望監視方式」は、ペストの話から書き起こされている。一七世紀末の或る資料によれば、ペスト発生が宣言された際の採るべき規則は次の通りになっていたという。

 空間の厳重な封鎖、外に出ることの禁止、違反すれば死刑。つまりは「感染か、もしくは処刑」。たえず行われる巡視、いたるところで見張る視線。家に閉じ込められ、巡視者に名前を呼ばれたときには、窓から顔を出して返答しなければならない。これは、生者と死者を調べあげる大掛かりな「査閲」であり、死者を隠していないかどうかが徹底して調べられる。取り締まりのために全住民の名簿が作成され、「世話人」によって調べあげられた事実は毎日記録され、「代官」へ報告される。そこから市役人や市長にあげられ、翌日世話人はそれを持って再び取り締まりに出て行く。このような規律と仕組みをつくることが義務付けられていたという。

 『監獄の誕生』といえば「規律・訓練」と「パノプティコン(一望監視施設)」がひときわ名高い。規律・訓練はやがて生権力や生政治と呼ばれ、フーコーの権力論のもっとも根幹の思想になるのだが、なぜそのような章が、ペスト(感染症)の話から始められているのか。フーコーは、次のように論述を進めていく。

「閉鎖され、細分され、各所で監視されるこの空間、そこで個々人は固定した場所に組み入れられ、どんな些細な動きも取締られ、あらゆる出来事が記帳され、中断のない書記作業が都市の中枢部と周辺部をつなぎ、権力は、階層秩序的な連続した図柄をもとに一様に行使され、たえず各個人は評定され検査されて、生存者・病者・死者にふりわけられる――こうしたすべてが規律・訓練的な装置のまとまりのよいモデルを組み立てるのである」(p200)

 ペスト発生宣言の後の、その対処方法に規律・訓練型権力の初期のモデルを見て取っているわけであるが、なぜ、それは必要とされたのか。規律・訓練的権力装置の背後にあるものはなにか。ペストなどの伝染病のさいに生じる反抗、犯罪、放浪、脱走といった無秩序や暴力への恐怖であり、その強迫観念を読み取ることができるとフーコーはいう。

 では、規律・訓練型の権力とはどんなものか。個人に起こっている事態はなにか、それはどう特色付けられているかを、監視し把握する権力。個人と、個人に属するものを能う限り細分化し、そのすべてに最終的な決定を下す権力。あまねく行きわたりながらも姿を隠し、良き訓育(調教)を施す権力、それが規律・訓練型の権力だという。

 いわば新たな恐怖への対処方法が新たな権力を生じさせているのだが、この時に比較対照されるのが「癩病」(訳者によって選ばれたこの訳語をそのまま使用する)である。癩患者は刻印を押され、だれが患者であるかがはっきりと示される。そして「癩患者/そうでない者」と分割され、刻印された者は社会の外へ追放され、封じ込められる。その集団では分割はなされない。個別化や個々人の差異は重大ではなく、個人は集団内に埋没し、姿を消すがままにされる。しかしペストはそうではない。二元論的な分割ではなく、多種多様な個々人が分離され、そのなかで監視と取り締まりが細分化されていく。そうやって偏在化し、網の目を細かくすることで権力は強化される。

「前者は清浄純粋な共同体への夢想であり、後者は規律・訓練が加わる社会への夢想である」。このように、ペストと癩病への差異が対照的に描かれていくのだが、フーコーによるならば、感染症への対応は(ハンセン病も当時は感染する病と考えられていた)その時々の権力機構にとって重要な試金石となる。感染症の種類によって、あるいは対策の変化によって、権力のあり方に重要な変化を及ぼすという。

 さらに変化が生じる。「《癩者》をいわば《ペスト患者》のように扱うこと」。かつて癩者が閉じ込められていた監禁の空間へ、規律・訓練の緻密な細分化を投影させること。分析的な配分の方法でその空間に対処すること。この排除の空間は「乞食や放浪者や狂人や狂暴者〔犯罪者〕」もまた住民だったのだが、彼らにも規律・訓練的な装置が施されていく。これが一九世紀のはじめ以来、規律・訓練的な権力(生権力)がおこなってきたことだ、とフーコーはいう。

 そうした機能がより効果的に、巧妙に、隅々まで現れるように施された装置が「パノプティコン(一望監視施設)」である。その監視機能がどこまで巧妙で徹底したものなのか、具体的な紹介は割愛するが、フーコーの情け容赦のない分析によって、規律・訓練という権力がいかに私たちのなかで内面化されているか、思い知ることになる。重要なことは、規律・管理が、私たち自身さえ気づかないところで確実に進行していくことだ。

 *

 ところで、冒頭で紹介した空間の封鎖、徹底した監視とその記録という件をもう一度見ていただきたいのだが、ここを読んだとき、コロナパンデミックのさなかに置かれている私たちは、何一つとして変わらない事態に遭遇しているのではないか、と思えたのである。もしこの指摘に妥当性があるならば、次のことが言いうる。

 じつは私たちは自らのなかに強固なイメージとして、「感染か、もしくは死か」という封鎖空間を創りあげている。その中で、何をしたか、どこに行ったか、だれと会ったか、という監視の目にいつの間にか包囲されている。包囲されているだけではなく、誰かによって記憶され、記録されている。もちろん封鎖と監視と記録は、より巧妙に、洗練されたかたちで、さらにいえば自らがそれを望むようにして行われているわけだが、多かれ少なかれ、そのようなイメージを作り上げていないだろうか。ここでフーコーが描き出したものは、言ってみれば〝感染症の原風景〟とでもいうべきものなのである。

 たとえば毎日報じられる「今日の感染者数」などという数値は、私にはあまり意味のないものだと思われる。どのくらいの検査数を分母としてはじかれた数であるかが隠されているし(検査数が増えれば感染者数も増えることは、統計の素人にさえ分かる)、重要なことは感染者のなかにどれくらいの発症者がいて、症状の度合い(重症化率)はどのくらいで、死亡率はどれくらいカウントされるのか、と言ったことであるはずなのだが、より必要なはずの情報は、感染者数に比べたら二次的三次的なものの如く、はるかに少ないままにとどまっている。情報操作とまではいわないが、現状を伝える情報とその伝え方を鵜呑みにはできない、というセンサーが強く働くのである。

 しかし一方で、先ほど指摘した〝感染症の原風景〟という無意識は、私のなかにも間違いなく存在する。ウィルスがいつ牙をむき出しにし、いっときの欧米のような事態が襲来するかもしれないという怯えは、決して皆無ではない。なめてはいけないという心理は、確実に働いている。いわばいまの私は、〝なめてはいけない〟という感知と、根拠のない恐怖の煽りを〝鵜呑みにはできない〟という二つの感知に挟まれて、宙づりになっているようなのである。

 なにが言いたいのか。「今日の感染者数」という数値は、感染状況を正確に伝えるうえではあまり役に立たないものではあるのだが、しかしそれゆえに、ある重要な役割を果たしているのではないか。『監獄の誕生』のこの章を読んで以来、そう考え始めているのである。
 
 為政者(権力者)にとって最も憂慮すべきは、〝なめてはいけない〟が高じ、多くの人間が感染を恐怖するあまり、経済をはじめとする社会生活の維持を不可能にすることだろう。もう一つは〝鵜呑みにはできない〟が高じ、コロナパンデミックそれ自体がフィクションにすぎないとたかをくくり、為政者のメッセージが全く無視されてしまう状況を招来すること。この二つである。つまり「今日の感染者数」というくり返されるメッセージは、この二つの間で、絶妙なバランスシートを作る役割を果たしている。怖がられ過ぎてパニックを招いてもいけない、無視され、勝手な行動に走られてもいけない、その両者をつなぎとめながら、自分たちの政策決定のほうに誘導しなくてはならない。そのような巧妙な役割を果たしているのである。
 
 *
 
 もう一つ、私のなかで氷解した疑義がある。一方では三密の回避を繰り返し言い、ソーシャルディスタンスとか、手洗いとうがいの徹底とか、飲食店舗への自粛要請というようにして予防の努力を強いながら、もう一方では、だれがどう見てもウィルスのバラマキとしか思えない「Go to トラベル」などという愚策を強行するこの矛盾は、いったい何なのだろうか。そういう疑義である。これについての解説の過半が「予防と経済のバランスをどうとるか」という文脈で語られていたのだが、あまりにも当たり前すぎて私を説得しなかった。しかしフーコーの規律・訓練型権力論を読んで腑に落ちたのである。

 ペストと癩患者を比較対照したのち、「《癩者》をいわば《ペスト患者》のように扱うこと」としたフーコーの記述は、さらに次のように進んで行く。

 「規律・訓練には、したがって二つのイメージがあるのだ。一方の極には封鎖としての規律・訓練が、つまり周辺部で確立される閉鎖的な仕組があり、しかもそれは、悪の阻止、情報伝達の遮断、時間の中断などの消極的機能を完全に目指すのである。反対の極には、一望監視方式をふくむ機構としての規律・訓練がある。すなわち、権力の行使をより速やかな、より軽快な、より有効なものにしつつ、それを改善しなければならない機能的な仕掛けであり、来るべき或る社会のための巧妙な強制権の構想である」(P210)

 規律・訓練には二つの極がある、とするこの件は次のような推論を呼び寄せた。為政者(権力者)にとって、自粛の要請と、ウィルスのバラマキのような「go to トラベル」という両極に見える二つの施策は、決して矛盾していない。対立するものとは受け止められていない。むしろ積極的に、対立するものと考えてはいけない、逆接ではなく順接させなくてはならない。そのように思いなされているのではないか。生権力は、引用にあるように両極とも見える志向性を内包させているのであり、「巧妙な強制権への構想」、つまりはより巧妙な規律・訓練という訓育を施す構想を、つねに孕んでいる。フーコーの引用をそう受け取ったとき、得心したのである。

 くり返すが、「決して感染してはならない、しかし感染を恐れるな」、あるいは「死せずに生きよ、しかし恐れずに死の近までに行け」とでもいうべきパラドキシカルなメッセージを、為政者は必要とあらばいつでも送り出してくる(その最たるものが戦争であり、兵士たちへのそれである)。両極の逆接が深ければ深いほど、私たちがそれを矛盾とも思わずに適合し馴致すればするほど、生権力は、私たちのより深い内面に刻み込まれていることになる。感染パンデミックという非常事態は、それが深刻であればあるほど、為政者が送り出すメッセージは逆説を深くするのである。深くすればするほど、規律・訓練型権力は、より深く、広く、強く、私たちの内面を包囲することになる。(ちなみにいえば、
「植松聖」が「世界平和をめざせ」というメッセージと、「心失者のすべてを殲滅せよ」「現今の偽善的ルールを破壊せよ」というメッセージを矛盾なく同居させていたことは、彼がいかに深く規律・訓練の権力を内面化させていたか、そのことを窺わせるものである)。

 もちろん彼ら為政者たちの多くはフーコーなど読んでいないだろうし、ここに書いたようなことを、自覚しておこなったわけでもないだろう。しかし、感染パンデミックという事態にあってどのように振舞えばよいのか、一国の政治を司るものとして何事かを本能的に察知している。結果的にそれが、施策やメッセージに託されることになったという理解は、あながち買い被りではないだろうと、私には思われるのである。

 先の引用に戻るならば、ひときわ注意して読むべきは「来るべき或る社会のための巧妙な強制権の構想である」という一節ではないかと思われる。生権力(規律訓練・良き訓育・調教)は時代の進展とともに、より巧妙に進展していくものである。いま私たちは、為政者たちが示す、何やら迷走と混乱の際立った対応を目の当たりにしており、その無為・無策とでたらめぶりを批判することに忙しい(もちろん、私もその一人である)。しかしじつは、「より速やかな、より軽快」な機能的仕掛けと、「来るべき或る社会のための巧妙な強制権の構想」を、あれこれと試行錯誤しているのではないか。彼らの迷走と混乱こそ、新しい時代に向かうための生権力の更新が目指されているのではないか。そのようなことを明かしているようなのである。

 この後『監獄の誕生』は、監獄がいかなる機能を持ち、どのような作用を受刑者に及ぼすか。そこに寄せられる再犯の温床という批判に対し、フーコーがどんな仮説を示していくか、詳細が検討されて行く。パノプティコンという監視方式に端的に、象徴的に見られるのは、監獄と刑罰において規律・監視権力(生権力)が鋭く現われてくることである。その理解をどこまで私が血肉化するか。それは「植松聖」とやまゆり園事件の全体を、いかに深いところに降り立ってつかむことができるか、という作業とおそらく連動している。本号の特集を、「コロナ・やまゆり園・生権力」としたゆえんである。

 *

 そのようなメッセージを込めて、飢餓陣営52号をお届けする。ご覧の通り通常の二倍近いボリュームとなっているが、決してたんなる水増しでないことはすぐにご理解いただけると思う。編集人の無謀な、ときに強引な依頼に対して、多忙も顧みずにお付き合いくださった執筆者の皆さんに、まずは深くお礼を申し上げます。その一つ一つをじっくりとご堪能いただければ、お一人お一人の全身全力を、はっきりと受け取るはずです。

 それにしても、雑誌の発行を三五年近くもやっていながら、所定のページと、予算の枠内に収めて誌面作りをする、という発行人=編集人が持つべき基本のスキルが、いまだ身につかずにいる。ボリュームを倍にすれば、制作費用も二倍ちかい金額になることは当然であり、自分で自分の首を絞めることになる。その分かり切ったことができない。ルーズというかバカというか、場当たり的というか、発行人の愚かな人となりをまたしても明かしてしまったわけである。終刊号がどこになるかは分からないが、最後まで規律・訓練型の編集とは無縁な編集方針(?)は変わらないだろうと思う。

 津久井やまゆり園の事件も、裁判も、そして「植松聖」も、社会的関心という大海にあってほぼ沈没しかけている。こうした状況の中で、どうすれば少しでも関心を呼び戻してもらえるか。そのための仕掛けをどう作ればよいか。そこが最初の、最大の編集エネルギーの注ぎどころだった。「植松的思考」とウィルス感染のイメージが奇妙にダブっていることは、当初から直感していたが、それをどう具体的な企画として仕掛けるかは、やはり一筋縄ではいかないものがあった。ともあれこのような形で誌面を実現できたことに、深く安堵している。次の作業は、読者の皆さんにできるだけ早く、正確にお届けすることである(京都の三月書房さんが、この一二月に完全店じまい。どれだけ支えていただいたか。ありがとうございました)。

 次号の誌面をどう作るか。発送作業がひと段落したら、やまゆり園事件の本の執筆に没頭していくことになるが、そのなかで何かが作動し始めるだろうと思う。そのときには遠慮なく声をかけさせていただくことになる。おつきいただければ嬉しい次第です。次号は五月ごろの発行を目指したい。カンパ、定期購読での応援をよろしくお願いします。(20・11・20 幹)

■取扱い書店 池袋・ジュンク堂、新宿・模索舎、東京・八重洲ブックセンター、神田・三省堂、東京堂、長野・平安堂、名古屋・ウニタ書店、ちくさ正文館、大阪・梁山泊





IMG_3025.jpg

書評 下山 進『アルツハイマー征服』(角川書店)

 評者が全国の高齢者医療とケアの現場を回り始めたのは、二〇〇〇年代の初めだった。当時医師たちは、アルツハイマーの治療薬は十年もすればできるだろう、と大いなる希望を語ってくれた。一〇年代が近づくと、まただめだった、根治薬など無理なのではないか、悲嘆を込めてそう語るようになっていた。

評者は二〇年代の手前で取材を終えたのだが、その時には「治療薬は不可能」というイメージが根を下ろしていた。老化が不可避である限り、アルツハイマーの根治薬は不可能である、それは老化そのものなのだから。しかし本書はその認識を一掃してくれた。少なくとも「不可能」という一語は封印してよいと思えた。

アルツハイマー病は脳内にアミロイドβという蛋白質が蓄積し、脳の神経細胞を死滅させることで引き起こされる。脳は委縮し、認知、記憶、運動などの機能が障害され、やがては人格にも異変をきたす。なぜそうなるのか。どうすれば防ぐことができるのか。

一九八〇年代、遺伝子工学の急速な進展によって一気に研究が加速する。九〇年代になると病変遺伝子が発見され、幾つかの仮説が生まれる。進行を抑制するアリセプトが開発され、脳の病変にダイレクトに作用するワクチン療法も発見された(医師たちが希望を語っていたのはこの頃だろう)。

しかし以降、研究の挫折が続いていく。創薬のためには三段階の治験を経なくてはならないが、そのどこかで、有意性が得られない、副作用が生じるなど研究を中断するケースが相次いでいく(医師たちが悲嘆を語っていた頃だ)。

科学者たちの仮説の検証をめぐる鍔迫り合い、失敗と挫折が繰り返される実験、「最初の一人」を巡る熾烈な戦い。さらには生き残りを賭けた企業の、時に非情な経営戦略。これらを描く著者の取材は圧倒的である。ここに加わる患者と家族の切なるドラマ。

ラスト。著者は、未来のために挑戦は続くのだと書いて本書を終える。評者が「不可能」を封印したのはこのメッセージの力強さの故であった。

アルツハイマー征服 [ 下山 進 ] - 楽天ブックス
アルツハイマー征服 [ 下山 進 ] - 楽天ブックス書評 下山 進『アルツハイマー征服』(角川書店)東京新聞 ‘21、2,20   
「もう1冊」
新井平伊『脳寿命を延ばす 認知症にならない18の方法』(文春新書)