(連載31)「障害のある先生」への支援、理念と現実のはざまで(その1)


超えるのを難しくするハードル

ここまで車椅子の中学校教師三戸学さん、途中から視覚をすべて失い、学校教員から大学の研究者に転じた中村雅也さんなど、障害当事者の方たちへの取材を続けながら「障害のある先生」の問題を考えてきました。間もなく新年度が始まります。三戸さんは、念願の担任希望がかなえられるかどうか、私信で期待と不安を語っていました。お伝えしてきたように、管理職は、それは三戸さんへの「配慮」に基づく決定である、と色々と理由を述べていました。しかし私には、その「配慮」に合理性は感じられませんでした。

また(これまでの2回の記事では書き留めていませんが)、取材のなかで個人史について尋ねたとき、中村さんは次のように述べていました。自分は教師という仕事が好きで、人並み以上に打ち込んできた人間だと思っている。弱視ではあったが、生徒にも積極的にかかわったし、視覚教育の専門的な勉強もしたし、肢体不自由の養護学校に転勤になったときは、その方面の勉強にも取り組んできた。教師集団の中心的存在として仕事ができて、とても充実していた。そう言います。ところが、家庭の都合で他県に移ったところで事情が変わっていきます。新しく赴任した病弱の養護学校時代に視力が急速に落ちていき、全盲の教員として盲学校に異動しますが、そこで同僚教員の自分への見方や対応が、がらりと変わったのを感じたといいます。病気休暇に入り、間もなく退職。

「ごく普通に教員をやってきて、視覚障害者になってごく普通に色々と困ったことが起きて、ごく普通に排除されて教員を辞めた。そういうありがちな話です」

インタビューの冒頭、中村さんから、障害当事者ではなく、研究者・中村雅也として話したい、そこはきっちりと分けておきたいという要望が伝えられていたので、それ以上の質問を重ねることは控えました(私自身は、こうした考えは理解できます。研究者はその研究内容が問われるのであって、それを書いた人間に障害があるかどうかとか、どういう人間かといった問題は、二義的以下のことに過ぎない。障害があろうとなかろうと研究者は対等である。そういう基本的な考えを持っているのだろうと推察され、私は強く同意します)。そして中村さんは、ありがちな話だと述べるにとどめていましたが、教員集団のなかにあって、関係のあり方に相当苦慮されたであろうことは推測されます。

ここまでの取材を通し、私がいま強く感じていることは、「障害のある先生」と同僚教員との「関係」という問題です。「健常」の同僚たちが、「障害」や「障害者」という存在をどう理解し、日常的にどんなかかわりをつくろうとしているのか。教育行政の職員、管理職など、教職員に対して指導的な立場にある人についても同じことが言えます。いや、もっと重要なはずです。文科省が障害者雇用についてのさまざまな方針を打ち出すことは、もちろん大事です。法や制度を整えていくことは、何をなすべきかの根拠が示されることですから、それもまた重要です。しかし、法や制度や方針をどこまで命の通ったものにするか、骨抜きにして形骸化させるか、あるいは悪用するか、それは「ひと」次第です。やはり「ひと」という課題が最後まで残るようなのです。そこにどんな「関係」がつくられているか。

そしてこの課題は、日常的なかかわりの積み重ねである分、微妙ななかに置かれます。関係はあくまでも個別性です。「合理的配慮」という言葉にしても、それをどう受け止め、具体的な関係のなかでどんな形で示されるかは、一人一人によってさまざまなニュアンスを帯びるはずです。逆に言えば、当事者たちにとっては、言いたいことはあるけれども、この人にはどう伝えればいいのか難しいと感じたり、これは言わないほうがいいと考えたり、言っても理解してもらえないだろうと思ったり、なかなか口にしにくい事情が必ずそこには付随しているだろうと思います。

同僚教員の支持的なかかわりをどう引き出していくか。〝仲間外れ〟を導くような排除的なかかわりを、どう防いでいくことができるか。この問題を考えていきたいというのが、今回以降のテーマになります。

教員採用試験における「障害者特別選考」について

私の脳裏に真っ先に浮かんだのは、横浜市の公立中学校で教員として定年まで勤務していた赤田圭亮さんでした。赤田さんと岡崎勝さんが編者となった『わたしたちのホンネで語ろう 教員の働き方改革』(日本評論社)については、以前、紹介しています。その際のメールのやり取りに、50代の発達障害のある先生のサポートをした経験があるということが書かれており、いつか詳しい話を聞かせていただきたいと機会を待っていたのでした。

赤田さんについて簡単に紹介しておきます。著書を拝見するたびに、私は教員としての腕の確かさを受け取ってきました。学校現場の労働問題についてのエキスパートでもあり、少人数の独立系の教職員組合を立ち上げ、その代表を務めるなど、組合活動にも長く専心してきました。とは言っても、イデオロギーを前面に出して論難していくタイプとは異なっています。教育の現場は矛盾の塊であり、理念やイデオロギーで押し通そうとするだけではいかんともしがたい局面がたくさんあることを、熟知している実践者です。著書の記述はそのことを十分に伺わせるものでした。

先のメールを読むと、窮地に陥った50代教員へのサポートが、そうとう踏み込んだところまでなされていることを感じさせました。赤田さんがどんなかかわりかたをしたのか。同僚教員はどんな反応を示していたのか。管理職はどうだったのか。この点について話していただきたいというのが、私の問いの1点目です。2点目は、学校という現場で、あるいは教員集団のなかで、「障害のある先生」と一緒に仕事をするにあたって何をどう考えていくことが大事なのか。こうした二つの質問を用意していたのでした。

赤田さんは中学校を退職した後、ある大学の教職課程で「教職実践演習」を担当しています。今年度はオンラインでの授業を続けてきたのですが、なかに聴覚障害のある学生がいました。その学生から、教員になりたいのだが、受け入れの現状がどうなっているか、どんな準備が必要か教えてほしい、という依頼があったと言います。

「彼は4年生で間もなく卒業していきますが、ある競技のアスリートとして一般企業への就職が決まっています。そこで何年か働いた後、教
職に就きたいという希望を持っているのです。私は聴覚障害のある教員とは一緒に働いた経験がないものですから、佐藤さんの連載を紹介して、「今から準備しておいたほうがいいよ」と伝えてきました。佐藤さんが書かれていた奈良県や熊本県のように、進んだ取り組みをしているところがあるということは私も知りませんでした。そこで、横浜市の選考試験の受験案内を見てみました。選考の方法自体が遅れているというか、旧態依然というか、そんな印象を受けました。様々な特別選考枠のなかで、取ってつけたように最後に書かれているのです」

横浜市の選考区分を紹介してみます。一般選考(通常の選考枠)と特別選考とに、大きく分かれます。特別選考の①が教職経験者。資格を満たすための取り決めがありますが、こちらは省略。一次試験は学習指導案の提出のみ。②は社会人経験者と国際貢献活動経験者。やはり学習指導案の提出のみ。③が大学推薦。一次試験は免除。書類選考で不合格の場合は一般選考に回る。④スポーツ推薦。指導案のみ。⑤横浜市教育委員会が設置するアイカレッジ卒塾者という枠。一次試験は免除。

そして⑥が障害者特別選考です。受験資格は、一般選考区分を満たすこと。障害者手帳、療育手帳(知的障害者であることの判定書)、精神障害者保健手帳が交付されていること。一次試験は「各選考区分に従う」とあります。また〈配慮の具体例〉としては 〇視覚に障害のある方(具体例は抜粋(以下同):点字による出題、盲導犬の同行、問題用紙の拡大、試験時間の延長など) 〇聴覚に障害のある方(説明文の書面による配布、手話通訳者の配置(二次試験)など) 〇下肢等に障害のある方(スロープ、エレベーターの利用できる試験会場、車椅子が使用できる試験会場)、といった内容が記載されています。

赤田さんの指摘に示唆を受け、他県の「障害者特別選考」についても調べてみました。それぞれ特徴があり、主な点のみの記載ですが、以下のようになっていました。

秋田県。「一般選考に示した受験資格を有する者。身体障害者手帳(1級から6級)の交付を受けている者、また指定医による診断を受けている者」とありますが、療育手帳や精神障害者保健手帳の記載はありません。留意事項には「申し出により障害の種類や程度に応じて、受験方法や設備面での配慮をする」旨が書かれています。

東京都。教育委員会の選考試験に関するホームページには、「障害に配慮した選考」と題されたページが2ページ費やされ、他県にはない特徴になっていますが、「配慮の具体例」の欄は「視覚」「聴覚」「下肢」の3区分だけです。目を引いたのが、「過去の実施状況」として、平成27年度から令和元年度に実施された配慮事項、そこでの受験者数と合格者数が表になって示されていることです。配慮区分は、点字、拡大文字、手話、車椅子、その他とされ、各年度の申込者数と合格者数は次の通りです。合計数のみを(申込者/合格者)として示します。27年度(43/5)、28年度(47/9)、29年度(32/8)、30年度(34/10)、元年度(32/2)。

ちなみに大阪市の受験資格は、身体障害者手帳、療育手帳、精神保健福祉手帳の交付を受けている者、となっています。身体障害だけか、療育手帳や精神保健福祉手帳も記載されているか、このあたりで分かれるようです.

(ここには厄介な問題があって、私は6、7年ほど前に大学や高等専門学校を回り、「発達障害の学生」にどんな支援がなされているか、取材をさせてもらったことがあります。九州のある高専(高専の卒業生は即戦力としての期待が高く、採用率は非常に高いものでした)では、受験学生に発達障害があることを事前に伝えてしまうと採用にあたって不利になる、そのあと受験していく卒業生にとってもいい印象は持たれない、それで伏せたままの受験となっているが、それがアフターケアの難しさにつながっている、という話を担当者より聞きました。残念ながらそれが当時の現状でした)。

教員採用の「障害者特別選考」を詳細に見ていくと、ユニークな受験資格を定めている教育委員会や、全国の範例となるようなケースが見つかるかもしれません。「障害のある学生」に対しこうした情報がどこまで届いているか、その点が気になるところですが。

場を変える、方法を変える、関係を変える、視点を変える

赤田さんの話に戻りましょう。最初に若い先生2名について話し始めました。いずれも障害者手帳はもっておらず、発達障害という診断は受けていません。しかし、そうした傾向を強く感じた人たちだったと言います。
「教員生活の最後に出会った若い人は、理系の国立大学を出ている正規採用の教員です。能力的に高く、パソコンはとても詳しい。ところが相手の気持ちを察することが難しい。ときに、自分の理解の範囲だけで行動してしまうことが見られ、そのことが、同僚には協調性がないと思われてしまうのですね。厳しく指摘されるとパニックになったり、自信を喪失して激しく落ち込んだりするのです。一部の生徒とはうまく付き合うことができましたが、30人以上もの生徒を一斉に相手をする授業は、厳しいところがあると私は感じていました」。

管理職は「あなたは正規職員として採用されたのだから、できて当たり前でしょう、これくらいのことはできないと困るよ」というような、きつい対応が多かったといいます。周りの教員も同じことが何度か続くといらだち、この仕事に向いていないんじゃないか、とそんな言葉を向けることもあったといいます。

「あからさまな排除はしないけれども、軽視するという感じは明らかにありました」

赤田さんはどうしたか。「私は他の学年で主任をしていたので、私の学年に来てもらうように管理職と交渉しました。そして入ってもらったのですが、飲み会も含めて、とにかく彼の話を聞こうというところから始めました。ときには奥さんも呼んで一緒に話を聞いたのです」

赤田さんがやったのは、まず場を変えること、所属する学年を変えること。そしてとにかく話に耳を傾ける。そういうことだったといいます。
「同僚や管理職からお前はだめだとか、こういうときにはこうしなければいけない、といくら言われても、できないのは仕方がないわけです。それならばどうするかという話です。次に心がけたことは、彼の生徒に対する対応の優れている点をきちんと評価し、それを伝えていくことです。自信を持ってもらうことですね。それから、何かをするときには誰かと一緒にやる。あなたは一人ではないというメッセージでもありますが、要するに取り組むときの方法を変える。そして最後は視点を変えるということ。彼に、変わるようにと要求するのではなく、こちら側の視点を変えていく。こちらがどう自分の視点を変えていくか」

話に耳を傾け、関係を変えていくことを赤田さんは心がけたわけですが、おそらくここでの「関係の変容」は、若い教員と赤田さんたちとのあいだに信頼関係ができあがっていった、そういう変容だったろうと思います。もう一つ、次の指摘にも強く納得しました。

「集団のリーダーがどういう対応をするか、そのことで若い教員たちはずいぶんと変わります。だからこちらは、具体的な彼の失敗にこだわって感情的に受け止めるのではなく、一般化して受け止めるようにしました。これが生徒だったらどう考えるか。自分の家族だったらどうか。いろいろな視点で考えながら、思考を深めていくように心がけたのですね。私は「視点の転換」と言っていました」

障害をもつ人たちに対し、リーダーがどういう対応をするか。学校では管理職が、また学年主任が、教室では担任がどんな対応するかによってそれぞれの場に大きな影響を与えるという指摘は、まさに我が意を得たりです。場を変える、方法を変える、関係を変える、視点を変える。これが赤田さんがとったスタイルです。私は、「支援」という関係のポイントは、いかにして相互変容のきっかけを作っていくことができるか、そこにあると考えていますから、まったく異論がありません。強く賛同します。

「結果的に彼は教員を辞めていくのですが、私は、個人的な教授関係では優れたものを持っていると思っていたので、知り合いの個人塾を紹介し、そこで1,2年働いたのです。そのあと川崎の町工場に行き、工員として働き始めます。小さな町工場で働いている昔からの職人さんは、できれば食事は一人でしたい、一人でじっと機械に向かっているのが好きという個性的な人たちが多いですね。彼にはそんな環境が合っていたようで、そこでの仕事を何年か続け、いまは家族で生まれ故郷に帰り、別の仕事に就いているようです」

当時の学年の教員たちとはメールでのやり取りが続いているといいますから、良好な関係は保たれているようです。教職を辞めるにあたって何が原因となったのか、私は気になりました。校長との話し合いの中で、退職を決めないといけないところに追い込まれたということはないですか。そんなことを尋ねてみました。

「最後は副担任として私の学年で一年間勤めたのですが、管理職との話合いのなかで決めたとだけ本人は言いました。辞めると決めた後で私は聞かされ、相談に乗るとか翻意させるとか、そういう状況ではなかったですね。教員を続けていてもこれ以上の期待は持てない、そういうことではなかったかなと思います」

これが一人目の報告でした。身体に障害のある人たちとはまた異なる難しさが、如実に表れているケースでした。最後に赤田さんはこんな言葉で締めくくっています。

「彼の発達障害的な面を中心にお話しましたが、学生時代からバンドをやっていたこと、教員を辞めてからは全く畑違いの日本舞踊を習い始め、同僚の何人かが発表会を見に行ったこと。今でも日本舞踊を続けていること。そんなエピソードもあります。「発達障害」は彼のごく一部です。教職は挫折してしまったけれど、やった意義はあったし、再挑戦することがあってもいいと思っています。なにより受け止める側にとって、重要な提起をしてくれました。そんなことを感じています」

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ガマフヤー・具志堅隆松さんに「戦後七〇年」の沖縄戦を聞く   聞き手・佐藤 幹夫 「飢餓陣営」44号(2016年冬号より)


沖縄戦の遺骨はまだたくさん残っている


「ガマフヤー」というのは、沖縄戦の遺骨を掘る人、という意味ですね。
ぼくはここで生まれ育ったので、小さい時からこの真嘉比の山に入って遊んでいました。山には鉄兜をかぶった骸骨があって、大人からは、「触ってはいけない、近づいてはいけない、あとで家族が捜しに来るから」と言われていたのです。実際、沖縄が復帰した後、遺骨収集団が来ましたね。ぼくはいま六一歳ですが、二八歳の時から関わり出しました。最初は糸満や南部の方でやっていました。あの頃は気楽でしたね。一人で行って、一人で探せばいいわけですから。

でも、新都心の開発のとき、あそこには遺骨がたくさんあるから収集作業をするべきではないか、とマスコミにも役所にも言ったのですが、相手にされませんでした。もっとぼくも押せばよかったんでしょうね。それからは、これをやらないのは絶対におかしいという姿勢で臨むようにしました。

おかしな話ですが、工事現場から古い茶碗のかけらが出てくると、工事は止まるのです。でも、人間の骨が出てきても、工事は止まらんのですよ。警察を呼んで、事件性がないかどうかの確認作業をしてもらうのですが、戦没者遺骨だということになると工事は止まらんのです。
物の場合には文化財保護法があります。でも、遺骨発掘には法律がないのです。人間は古い茶碗以下なのか、それはおかしいだろうとずっと言ってきたのです。やっともうすぐ、法律ができます。衆議院を通り、参議院で審議されるときに日程切れになってしまいました。今度の臨時国会が開かれたときには、この法律が通ると思っているんですが、ぼくはそれがゴールだと思っていたのですけれどね。

一日で掘れる作業なんて、本当にたかが知れています。駐車スペース6台分できればいい方です。最初の市民参加で収集作業をしたときには、作業をする人が八〇人、マスコミの人たちが二〇人くらいいたと思います。それでもまだ手付かずのところは多いし、その手付かずの所が整地され、どんどん家が建っていく。不発弾が出たときには国による対応策がとられ、自衛隊が処理してくれるようになったのですが、遺骨については何も法律がないのです。

だから待っているのですが、ただ法律が通ったとしても工事規制にまで及ぶかどうかはまだ分からない。遺骨収集は国がやらなくてはいけない作業だという根拠を示した法律ですが、でも国が考えているのは、南方の太平洋の島々に遺骨収集に行く、というそのための法律です。沖縄戦で、激戦地だったところでまだ遺骨収集がされていない場所はいくつもあるから、とぼくはいっているのですが、開発のときには相手は市や県の行政だから向かっていけるのですが、個人が家を建てるときには非常に苦しいものがあります。工事が止まってしまったら、当然その人は怒りますよね。なかなか苦しいです。それから、整地をする土建屋さんが、遺骨が出てきたときにちゃんと対応してくれるかどうか、という問題ですね。

向こうにシュガーローフという丘がありますが、その工事のときにはたくさん出ていたと言われているのですが、遺骨収集は、まったくされなかったですね。土砂といっしょに運び出されたといいます。それはひどいじゃないかとぼくは思いましたね。

真嘉比の丘のモニュメントに立って

以前、この真嘉比はまったくの山で、山のなかにお墓が点在するようなところでした。戦前の墓地地帯だったのです。東西に延びている丘で、半月状なのでハーフムーン・ヒルと呼んでいますが、このあたりから向こうに小さな尾根が伸びていたのです。この右側から出てくる遺骨は、全員、陸軍のもちものをもっていて、尾根の東側から出てくる遺骨は、全員海軍の遺骨をもっていました。陸軍と海軍とは、作戦の担当を区分けしていたんだろうと思います。

開発は二〇〇九年からですから、それまではずっと残っていたのです。墓地地帯だったのでなんの工事もなく、下水道などのインフラもなくて、手をつけにくかったんでしょうね。本当に何もなかったですよ。一〇年ぶりくらいにここに来る人は、あまりの変わりように、分からないでしょうね。開発するにしても、遺骨収集をしないで開発をするのは、これはおかしいだろう、遺骨収集は戦没者墓地に反して終わりではなく、この人たちが帰るのは家族のもとじゃないか、というのがぼくの考えなのです。

沖縄県庁も、戦争とともに転々としていくのですが、県庁の体はしていなかったのです。戦禍を避けて、役人が警察と一緒に避難しているという状況でしたからね。那覇も、「10・10空襲」で壊滅的な被害を受けますから。

このモニュメントは、ここはかつて激しい戦闘がおこなわれた場所であり、ここで遺骨収集がおこなわれた、ということを後世に残すために作ってほしいと那覇市にお願いをして作ってもらったものです。

二〇〇九年の一〇月九日から一二月一〇日までの約二カ月間、緊急雇用創出事業を導入して、ホームレスの人たちに掘ってもらいました。本土から沖縄に来て公園で暮らしている方が、半数近くいたんじゃないでしょうか。あとは沖縄のホームレスの方ですね。

モニュメントをつくる時、現場に残っている物を活用してほしいということで、この石材は墓石ですし、ところどころ小さくへこんでいると思いますが、弾痕ですね。ここは向こう側に貫通していますが、こうした穴に、子どもたちがよく石を詰めて遊んでいます。山の頂上だと、それほど遺骨の上に堆積はないのですが、裾に降りるに従って上から流れてきた土が堆積して、深いところだと四メートルくらいありました。

ここに見える物も収集品の一部ですが、一番多いのは砲弾の破片です。小銃弾もあったのですが、地上戦の跡が見てとれるように銃だとか水筒だとか、アメリカ軍の持ち物が出ていますが、それもここまでですね。つまり、戦場に残っている武器というものは、持ち主が戦死したことを表していて、アメリカ軍が犠牲を出すのも、地理的にここまでだということです。

アメリカ軍は読谷村から上陸し、北と南に分かれて進撃していくのですが、ここは南に向かう師団との激戦になった場所です。もう少し南の嘉数高地とか浦添の前田高地とか、末吉とか首里でも、アメリカ軍はそれなりの犠牲を出しているのですが、ここが最大の激戦地と言われるように、アメリカ軍の犠牲者がとても多いのです。ここと、すぐ近くのシュガーローフですね。一帯が、日本軍の一連の陣地です。アメリカ軍は首里城地下の、第三二軍の本部を目指すのですが、その西の守りの要衝がここです。ここでの戦闘が五月一二日から一八日まで約一週間続きます。ここは地下壕になっていて、丘のあちこちにだいぶ強力なものが作られていたのです。

ここには大きなクレーターが残っていました。着弾孔ですね。八一ミリ砲か、一〇五ミリ砲ですね。ここはもともと墓地があったのですが、開発のときに点在していたものを一か所に集め、現在のようになったのです。わたしたちが遺骨収集をして、それから工事に入り、そのときにお墓をここに集約したのです。向こうが真嘉比小学校。大きなビルが二つ見えますね。その下に白い水タングが見ますが、あれがシュガーローフです。あそことここが一連の陣地で、日本軍はここで待ち受けているのです。

那覇市と交渉をして分かった意外な実態

この場所の遺骨収集を手掛ける以前はほとんど南部に行っていましたが、ここが激戦地だったことは昔から知っていました。緑が残っているあの辺りには、まだ遺骨があるはずです。新都心が開発され、開発がここに及んできたとき、那覇市が遺骨収集をするもんだと思っていたのです。新都心の開発のときにもそう思ったのですが、ところが何もなされないまま開発されていった。

それで、ここでは開発の工事を止めてでも遺骨収集をしないといけないだろうということで、最初の遺骨が出たのは、目の前に白い建物がありますね、あそこなのですが、工事が止まっている日曜日にその工事現場に入っていって、遺骨を動かさないようにして周りの土を掘り下げていって遺骨があることが分かるようにし、そこに新聞記者を呼び、こんなふうに遺骨があるにもかかわらず、遺骨収集が行われないままに開発が行われているんだという話をしたのです。

那覇市にもその旨を申し出たら、話し合いがしたいということで応じると、遺骨収集は厚生労働省がやっています、沖縄県においては県の援護課がやっています、私たち那覇市にはその予算がないのですという。こっちは別に予算化してくれという話ではない、私たちが日曜日に工事現場に入って遺骨収集することを認めてくれたらそれでいい。そいう話をしたのです。結果は、いいということになりました。

本当は困ったことで、「私たち」じゃなくて、「私一人」なのです。役所との交渉なので、できるだけ団体であるかのようにして話をしていたのです。二〇〇七年か二〇〇八年ごろでしたね。そこで考えたのが、市民参加の遺骨収集でした。多くの市民に「一緒に遺骨収集をやりませんか」と訴える取り組みを考え、その呼びかけをしたときには那覇市も共催になってくれたのです。

それをおこなったのが〇八年の六月二八日。そのときにはたくさん来てくれました。そして遺骨もたくさん出ました、二回目を八月三日にやったのです。午後から、ものすごいどしゃ降りになって、午後からは中止にしたのですが、何人かで壕のなかで雨宿りをしていたら、別に掘らなくても土を少し寄せるだけで遺骨が出てくるもんだから、それならと皆で掘りはじめたのです。

それから二、三日して不発弾が出てきて、警察に届け、来てもらって確認し、今度は自衛隊に来てもらったのです。自衛隊が持っていったあと、どうも毒ガス弾のようだということが分かったという。それで市民参加は即中止です。毒ガスが出るような現場に不特定多数の市民を動員することはできないということで、環境省が入ってきました。地下水、土壌、空気にも漏えいがないということで、安全宣言は出たのですが、一般市民の公募はもうできないと思いました。

その頃から手伝いたいという人が、何人か手を上げてくれるようになってきたのです。そういう人たちといっしょに日曜日だけやっていて、我々が調べた所から那覇市が工事に入る、という取り決めをしていたのです。もっと早くできませんかと言われ、ボランティアの日曜だけの作業だからこんなものだろうと思っていたのですが、でも我々のせいで工事を遅らせるのは悪いから、ここからは国にやってもらおうかということで、国にお願いをするために県を訪ねたのです。厚生労働省の出先がなくて、県の援護課というところが遺骨収集を所管していました。そこに訪ねていって、真嘉比での遺骨収集を厚労省がやってくれませんか、とお願いをしたのです。

すると、とんでもないことを言われました。「国も沖縄県も、沖縄の遺骨収集はもう終ったものだと捉えている」、というのです。収束したものと捉えていると言ったって、現に出ているじゃないですか、といったのですが、それでも譲らないので、不思議だなと思いながら、じゃあどうすればやってくれるんですかと聞くと、「埋没壕があったらやります」というのです。入口が塞がっている壕ですね。それは建設機械をもってきて掘らないといけないので、民間のボランティアではできないだろうということでした。国の遺骨収集は終っていて、埋没壕だったらやるというのも、おかしな話ですよね。

それからもう一つ分かったことは、遺骨収集というのは国がやるのではないのですね。企業がやるのです。土木会社が委託をされてやるんです
よ。それも業者を入札で選んでやるというのです。このあたりから私も段々腹が立ってきて、あんたがた、じゃあ、遺骨収集を業者の金もうけにさせているのか、それだったら止めてくれということで帰ってきてしまったのです。お願いしに行って、やるなといって帰って来たようなものでしたけれどね。

緊急雇用創出作業としての遺骨収集

次に考えたことは、こちらはボランティアで日曜日しかできないし、少人数。国が金を出してもいいと言っている、周りを見てみるとホームレスの人たちがいっぱいいて、失業者もたくさんいる。それなら、仕事がなくて困っている人が、戦争で亡くなった人の遺骨を探す。そういうのはどうか。

ぼくはそのとき、戦争で亡くなった人たちの遺骨は、弱者のなかの弱者だと言っていたんだけれども、お互いを援けるという構図が書けるんじゃないか。ホームレスを支援しているNPOに「フロンスキーパーズ」という、キリスト教会関係のNPO法人があるのですが、そこを訪ねていってお願いをしてみたのです。

すると、それならやりますということで、国に対して、我々がホームレスの人たちを集めるから、彼らを作業員とした遺骨収集作業をやってほしいという要望書を、正式に出したのです。そうしたらある国会議員が、「厚労大臣に会えるとしたら、会ってみるかい」というので、「ぜひ、会いたい」と答えました。実現したのが〇九年の三月ごろでしたが、当時の厚生労働大臣は増添要一さんでした。会って話すと非常によく理解しておられ、話が速かったです。「沖縄戦の戦後処理と雇用対策・失業対策が同時にできて、いいアイデアだと思います。国も全面的に協力しますから、ぜひやってください」。そう言われたのです。「緊急雇用創出事業としてやりませんか」ともいう。内容をある程度知っていましたし、こっちが言っていることと変わらないので、「ぜひお願いします」というと「そのためには早く沖縄県から厚労省に、事業計画書を上げて下さい」という。

沖縄に帰ってきてすぐに県を訪ね、国がこういっているから、緊急雇用創出事業の事業主体としてぜひ沖縄県がやってほしいというと、「駄目だ、駄目だ」の一点張りです。どうしてですかと聞くと、「沖縄の遺骨収集はもう終わっている」という。「でも現に出ていますよ」というと、「しかし戦後処理は国に責任がある」と答えるので、「その国がやってくれと言っているんですよ」といっても、「駄目だ、駄目だ」なんです。

困ってしまったので、次には国会議員に一緒に行ってもらったのですが、県は同じことをいうのです。どうして一部署の個人がそういうことを言うことができるのか、ぼくには不思議だったですね。それで困ってしまって、都市開発の工事をやっているのは那覇市なので、市を訪ねていって、「那覇市が、国の緊急雇用創出事業の事業主体になることはできませんか」というと、「できます」というのです。

それはぜひお願いしたいというと、関係する部署をすぐに集めてくれたのです。そこではこちらが説明をし、県の方たちが「自分たちの仕事と関係があるところから問題点を洗い出すから」ということで持ち帰り、二日後にまた集まり、いろいろな部署から質問がありました。ど、やろうということになりました。それでこの真嘉比地区での遺骨収集作業を二カ月間、緊急雇用創出事業としてやったのです。

この事業は、本来半年間の期間をもらっていたのですが、工事の関係でできるだけ急いでほしいということで、最初は一か月でやってほしいといわれました。こちらは四ヶ月くらい粘りたかったのですが、それなら二カ月で、ということでした。そこで一人あたりの発掘面積を割り出したのですが、通常の労務作業と、教育委員会がやる考古学の発掘作業の中間をとったのです。結果として五五人のホームレスと失業者の人たちを、ハローワークを通じて募集し、遺骨収集をやってもらったのです。

宜野座村の捕虜収容所の埋葬地を掘る

現在、北部地区の捕虜収容所の埋葬地を手掛けています。始めたばかりです。宜野座村で、場所が大きいので数名で行っていますが、未収用の遺骨にはまだたどり着いてはいません。宜野座村だけで一一の収容所があって、九つの埋葬地があるのです。宜野座村などの北部に、当時の人口の三分の二が移されていたと言います。強制的に捕虜となってから移動させられています。

収容所の中ではたくさん人が死ぬのです。我々も認識を新たにさせられたのですが、最近分かったのは、遺族の方は、病気で死んだという言い方をするのです。マラリアのことを言っているのですが、マラリアに罹る以前、栄養失調になっているのです。戦闘地域で米軍の捕虜になれば、収容所で衣食住をあてがわれ、あとは助かったんだと我々は思っていたのですが、ところがそうではないことが分かった。

収容所から逃げようとしたら、射殺されることもあったと言われます。そういう強制収容であるにもかかわらず、食糧が十分になくて、食べられるものは何でも食べたと言います。桑の葉もほとんどなくなったというし、そんな中でみんな栄養失調になり、そこにマラリアが蔓延し、弱い者からどんどん死んでいった。死亡者の年齢を見てみると、ほとんどが子どもと年寄りなんです。

写真では子どもに優しくしたり、人道的な処遇をしたかのようなものがたくさんあります。一面では確かにそうなのですが、集められた人たちへの対応となると、まったく違いますね。収容所によっても差があって、コザ、石川、宜野座、辺野古、国頭というように、北に行くほど劣悪になっていきます。米軍が発給する食糧が、端に行くほど届かなくなるわけです。辺野古の次の大川という収容所では、四〇〇〇人余り収容されているうちの一〇一三人が死んだと言われます。たとえば南部で、九人家族だったかな、全員生きて捕虜になり、収容所で七人死んだと言います。収容所のなかも決して生き延びられる状況ではなかった。

亡くなった人たちがどうなったか。仮埋葬されます。家族が残っていれば、戦後、家族が掘り出しに来ます。しかし、一人で収容されて一人で死んだという人が少なからずいたわけです。年寄りと子供だけでいて、年寄りが死んで子どもはなす術を知らなくて、ただ見ていた。宜野座の埋葬地を掘るということが分かったとき、遺族から電話が来て、今からでも探せませんかという。やりますが、遺骨が出てこないことにはDNA鑑定まで持ち込めない。出てくれば、国に、まだ残っているんだから、遺骨収集をやってくれと言えるのです。DNA鑑定は厚生労働省にお願いすることになります。厚生労働省は、やってはいるのですが、鑑定するための条件をつくっていて、遺骨が見つかったときに、名前のある遺品を伴っていること。それがあれば遺族に照会し、遺族がDNA鑑定を了解すればやってもいいというのです。

でも、名前のある遺品を見つけ出すのは、とても至難の技で、兵隊ですら一〇〇体堀り出して五体もないです。いままで、沖縄戦の戦没者でDNA鑑定をやり、四体帰っているのですが、全部こちらが出した分だけです。この真嘉比からも三体帰りました。一番新しいのが、浦添・前田の、前田小学校の校門前から出てきたタバタコウゾウさんという方の遺骨です。

宜野座の収容所の場合、名前のある遺品がなくとも、そこに収容者名簿があてもなくても、やってほしい。どうしてかというと、名前の分からない埋葬者がいるのです。沖縄戦の特徴は、誰がどこで死んだのかが分からないということです。分からないのです。それで沖縄では、最期に見かけた場所を死に場所とし、そこから石を拾ってくるのです。それを遺骨代わりに納めています。

遺骨のDNA鑑定の問題

いま、収容所の名簿があるところを調べているのですが、摩文仁の平和の礎にも、沖縄戦の犠牲者は刻印されていますね。平和の礎の情報は、資料館に検索機があって、氏名を入れると、ある程度取り出すことができるのです。どこに刻銘されていますよ、ということが分かるのですね。発掘現場で名前が見つかると、沖縄戦の犠牲者かどうかを、その検索機を使って確認しているのです。

名前の書かれた万年筆が遺骨といっしょに出てきた、これを遺族に返すということでこれまでは済んでいたのですが、DNA鑑定というものが出てきたので、今度はそちらをやらないといけなくなった。遺骨と、遺族との血縁関係が、DNA鑑定で確認できるかということですね。

自分は、遺骨に持ち物がなくても、ある程度状況証拠がそろえばDNA鑑定をやってくれと言っているのです。遺族が浦添の前田で亡くなったと言っているのであれ、前田から見つかった遺体のDNA鑑定をすることに、何か無理がありますか。ほとんどの遺骨に名前がないわけですから、せめてそうやって亡くなったと言われている場所で鑑定をするのが、国の戦争責任ではないですか。そう言っているのです。本当だったら、本土の遺族に「沖縄のどこで亡くなったんですか」と聞くこと自体が、ぼくは不謹慎だと思うのです。沖縄の地名もよく分からないですよね。この小さな島で亡くなったのであれば、遺族とDNA鑑定をすることくらい、やってくれてもいいではないですか。ところがそれをやってくれないのです。

このまま何もしなかったら、遺族の方から、何もしてくれなかったと言われるから、戦後七〇年にしてやっと遺骨収集の法案をつくり、やりましたというポーズにはなるでしょうが、ぼくらとしては、七〇年を追い風に、できるだけのことはやりたいと思っているのです。

これまでも、遺骨収集をする人はいました。ぼくは彼らに、一生懸命DNA鑑定の話をするんだけれど、たくさん掘り出して、たくさん県に渡せばいい、というこれまでのやり方をずっと守り続けているんです。でもぼくとしては、見つかった遺骨は戦没者霊園に収めるのではなく、家族の元に帰るべきだろうと思うのです。

国にも言うのです。沖縄に遺骨がある理由は、日本全国の各家庭の父親や成人に達した息子たちを、召集令状一枚で呼び出し、沖縄の戦地へ送り、戦死させた。その遺体がまだ家族の元に帰っていないんだから、国は家族の元に返す責任があるでしょう、とそういうんです。するとはいっていう。でも身元が確認できないんですという。今はDNA鑑定というものがありますよというと、さっきいったように名前のある遺品があるという条件が整えばやるようにしています、と答えるのです。

今年は戦後七〇年で、マスコミも沖縄戦のことを取り上げるようになりましたが、これが最後のチャンスだと思います。戦後八〇年は、存在しないですよ。遺族はいないですからね。ほんとうは遺族の方たちがもっと国に対して、このままじゃ死ねないぞと言っていいんじゃないかと思うのです。遺族会も、個々人では、なかなか自由な発言はできないんでしょうね。わたしは遺族が生きているこの五年ないし一〇年にはけりをつけるという、それくらいのものにしてほしいなと思いますね。

沖縄は、工事をすれば不発弾が見つかるということになるはずです。我々がやっていた場所でも、あと一〇センチ掘っていれば、不発弾が出たということはありますし。

戦争遺跡をどう継承し保存するか
――いつまでも過去を向いているのではなく、将来を、明日のことを考えないといけない、という声が大きくなるにつれて、戦争の記憶も遺跡も風化していく。「戦後八〇年はもうない」と先ほど言われましたが、戦闘の当事者はもち論、家族も遺族もいなくなっていく。それにつれて、戦跡の保存とか、遺骨収集とか、どんどん難しくなっていきませんか。

この真嘉比の開発もそうですね。こうやって開発されるのは、だれにも止めることはできない。だからこそ、沖縄戦の継承と検証はむしろいま生きている自分たちでやらないといけないだろう。アジア太平洋戦争のなかでの沖縄戦の位置づけは、一五年戦争のなかで、自分たちは被害者ではあるけれども、加害者の側でもあったという面もありますね。そうした面もしっかりと継承していかないといけないわけで、その責任が私たちにはあるわけですね。そうすると継承は自分たちがやらないといけない。いずれは、当事者だった人たちがいなくなり、物がなくなり、記憶も薄れ、はじめて騒ぎ出すのは目に見えている。あの時もっと聞いておけばよかった、こういう記録をきちんと残すべきだった、ということになるだろうし、そうならないようにやっているのが南風原文化センターとか、宜野座村の博物館ですね。宜野座村ではいま収容所の特別展をやっています。

 ぼくは、ここから遺骨が出ている段階で何とか保存できないか、ということを申し出たのです。ここは戦闘の様子もわかる現場であるということで、何とか後世に残したい。相手が行政だけだったらがんばりようがあったのですが、個人の地主さんがいて、みんな早く家を造りたいんだと言っている。そういう話を聞くとさすがに悩みます。他の場所に換地してもらうというやり方ができなかったんだったら、せめてこの場所の一角だけでも残して、様子が分かる戦跡公園にする。遺骨は残すわけにはいかないから、レプリカと置き換えることもできる。

 沖縄のリゾートに遊びに来た本土の人たちにとっては、冷や水を掛けられるようなことになるかもしれないと思うのと同時に、沖縄が明るくて楽しい場所だけではなかったんだよということも知ってもらいたい。現在もそうですね。勝ったアメリカ軍は出ていってくれなかったんだよ、今度は、自衛隊という名前になった日本軍もやってきたんだよ、ということも知ってほしい。アメリカ軍も自衛隊もどんどん増えていくばかりで、このままだったら、また本土のための「南の防波堤」にされてしまうんじゃないか。そういう危機感を、我々は持っているんだよということを、知ってほしいのです。

――戦跡や戦争記念館の遺し方は、地域の人たちの意見を二分させると本には書いてありますね。できれば街おこしの機会にし、たくさん人を呼び寄せたい、「観光」の一つとして組み込みたいという意見。いや、戦跡を商売にするのはおかしい、失礼な話だとする意見。『「知覧」の誕生』という本を読むと、戦跡をもつ多くの地域が、意見を二分させている、と書かれていますね。

 地元の人や学者の人たちがいろいろなことを言っていますが、そこらへんに関しては、自分は何とも言えないですね。要は、たとえ観光という軽い気持ちで訪れたとしても、そこで知ることが、その人が戦争を真剣に考えていくきっかけになるかもしれないし、逆に、残す側がまじめに重く準備をしていても、来る人間が、もういいよ、おれは遊びに来たんだから、ということもあるでしょう。

押しつけることはなくても、そういうものが残っていると、とにかく見てくれるかもしれない、どう見るかはもうその人に任せるしかない。そのときは感じなくても、後で何かで触発されて、もう一回沖縄に行こうと思ってくれるかもしれない。だから、まったく残さないのではなく、できるだけオリジナルに近い状態のものを残し、押し付けるのではないかたちにして、自分で見て、聞いて、感じて、その時には整理できなくても、あとで自分のなかで消化していき、その人なりの判断に結び付いていけばいい。そう思っています。だからぼくは、はむしろ事実を残し、事実を示す。そういう意味で現場を残すというのは、とても大事なことだと思っています。

――わたしは沖縄戦については全く不勉強でお恥ずかしい限りなのですが、ここに、こういう戦争激戦地の跡があるということは、今日までまったく知らなかったですね。インターネットを見れば、いくつかのホームページがありますが、多くの人は知らないのではないでしょうか。

 そうですね。私たちももっと発信しないといけないのかと思いますね。説明不足なんです。石碑を読んで、帰ってから、それに関連する資料を調べて、それで始めて前後と中とがつながって、だんだん分かってくる。沖縄にはこういう現場は、もっとあります。オリジナルなものが残せる現場にしたいし、そういう現場がいくつも出てきているのです。現場を訪れてほしい。戦争の犠牲者である「遺骨の人たち」と会って欲しい。「その人たち」は声は出せないけれども、なにを言おうとしているのか、そこで自分で感じてほしい。そう思いますね。思うから、きちんとした遺跡を残したい。

 遺骨収集をやった現場を残したいのですが、人道上、遺骨をそこにずっと置いておくことはできないのです。西原では、遺骨が見つかったときにDNA鑑定を国に要求し、遺族の可能性がある人たちが現場を訪れたのです。それが判明したら、遺族の手でそこから取り上げてもらいたいという気持ちがあったのです。だから動かさず、見つかった状態をそのままにしておいたのです。分かった段階で遺族の人がそれを取り上げていく。置いてあった遺骨を見て、どうして収骨しないのかという意見もあったのですが、でも身元が分かったところで家族に取り上げて欲しい。そう考えたのです。

 長いこと南部で遺骨収集をやっていたときに、遺骨を掘り出すと、摩文仁に戦没者遺骨を受け取る事務所があるのですが、そこに引き渡していたのです。三月の末に毎年納骨式があって、そのときいつも呼ばれていたのです。でも、いつも悪いことをしているような気がしていたのです。自分は遺族でもないのに、見つけた遺骨を誰とも合わすこともなく国立墓苑に押し込んでしまった。せっかく明るいところに出せたのに、また暗い所押しこんでしまった。今度はもう二度と出てくることができない。その間、誰にも会わせられなかったわけです。

 もし遺族の人がそこに参加していれば、二〇万分の一の確率ではあっても、相まみえたことになるかもしれない。遺族である人が接するのと、他人である自分が接するのとでは、違うはずだという気がするし、遺族に関わって欲しい。しかし遺族は高齢化していて、もう現場には足を運ぶことができなくなっている。

 国立墓苑に納めるときには火葬され、その上で納骨されるのですが、DNA鑑定が判明して以降、県に対して、火葬中止の要請をおこなったのです。火葬してしまうと、DNA鑑定をして遺族のもとに帰るという道がなくなってしまう、だから火葬しないでほしいということを県議会に上げてもらい、県議会でそれが採択され、火葬が止まったのです。二〇一三年でした。

ところが去年(二〇一四年)の六月二三日の新聞に載っているのですが、仮安置の場所が満杯になったから、県が火葬を再開するというのです。また陳情を出し、これは物ではなくて人だよ、遺族の人にとって、DNAをして帰ってくるというのは希望であり、権利だよ。県が火葬をするというけど、そもそも遺族の了解を得ているの。おかしいですよ。そういう陳情を出したら、また採択されたんです。それで、現在まで六〇〇体余りたまっているという。

 私一人で陳情を出したのではなく、他の遺骨収集をしているグループもありますし、道路工事で見つかるケースもありますからね。宜野座村の埋葬地については、県とガマフェアと、宜野座村の博物館と、この三者でやっています。

沖縄戦と戦争孤児の問題

 沖縄戦にはじつはもう一つ戦争孤児の問題があって、これについては時期を逃してしまった。北部の収容所で作業をしている段階で分かったのですが、戦争孤児の方たちが、いろいろなケースで戦後を生きていくわけです。身元不明の戦争孤児ですね。あまり小さすぎて、本人が自分のことを語れない。そういう孤児が、収容所のなかの孤児院でどうにか生き延びていく。そしていまだに身元不明のまま生きているのです。
その人たちにはいくつかのパターンがあって、普通に結婚して、おじいちゃん、おばあちゃんになっている人もいる。なかには孤児院を脱走したという人、孤児院からもらわれたけれど、もらわれた先が児童労働のために酷使する場所で、そこから逃げたという人、本人が、自分のことをまったく知らないまま高齢になってしまったという人。

なかには戸籍のない人もいましたね。この人は、ホームレスの支援団体の支援を受けるようになったときに、そのことが分かったのです。自分の本当の名前もわからないし、字も書けない。学校に行っていないですからね。どうやって生きていたのかと聞くと、ずっと労務作業で食いつないでいたという。戸籍がないというので、病院に行くときどうしていたのと聞くと、病院は一回も行ったことがないという。

これを聞いたとき、いろんな問題があると感じた。人権の喪失であり、人格の喪失じゃないか。そういう人間がわたしたちの周りにいたことに対し、我々にも責任があるんじゃないか。ぼくは以前から戦没者遺骨と遺族のDNA鑑定を、と言っているのですが、その中にこの人たちも入れるべきじゃないか。この人たちは、家族にとっては死んだことになっているはずなんです。いま生きている人たちがDNA鑑定を希望すれば、身元が判明する人が出るかもしれない。もちろん色々な問題があり、双方が相手に知らせてもいいという前提があって、初めて知らせる。でも予測できない問題は他にもあるんだろうなと思います。

 このとき思ったのは、中国残留孤児の問題がありますね。あれだけやってもらったというか、少なくとも国が対応してくれたわけです。帰国できた人は何人もいますね。でも沖縄の身元不明の個人については、その人たちが声を上げないまま終わってしまうのかな。いまは結婚して幸せに暮らしている人たちもいます。そういう人たちは今さらと思うかもしれない。家族にはそのことを言っていないかもしれない。このことを少し追いかけたことがあったのですが、個人のプライバシーに立ち入るようなことになるのかなと思い、でもそれでも、国は一度でもいいから、そういう人たちに自らの身元を知りたい人に関しては応援するべきじゃないか。匿名のままでも、身元捜しに協力しますといってもいいんじゃないか。

 自分の支援団体に拾われ、そこで自分の身元を打ち明けた人たちですね。会えないかと聞いたら、これ以上恥をかかせないでくれと言っているというんです。その人たちに共通しているのは、全部自分が悪いと思っていることです。戦争の被害者だという意識はないのです。この人たちが生きている間に、なにかできないか。この人たちは、なにもいらないから、自分が誰であるか、それだけでも知りたい。親の墓参りがしたいと言います。

 何か望むことがあったら、それは国がやるべきだろう。それくらいのことは代わりに言ってもいいと思っています。言ってみれば、「生きている戦没者」ですよ。デリケートで気を使う問題ではあるのですが、この人たちが何もされないまま、年を取って死んでいくというのでは、国の戦争責任を免罪してしまうことになる。

 このまま国は知らん顔をして死ぬを待っているのか、それとも支援の用意があるから、匿名のままでも手を上げてくれませんか、呼びかけるのか。国としてではなく、人として最後の呼びかけをしてほしいですね。そういう幼かった妹弟を探している人はいるのです。自分には幼い妹や弟がいたんだ、収容所まで一緒だったんだん、怪我をしていたんで、アメリカ兵が病院に連れて行って、病院に預けられている間に連絡が断ち切られてしまった人たちですね。

 いまからでもいいから、国がそういう人たちに対応するんだということを、示してほしい。私はできる分だけ、やるだけですけれどね。
これが、戦後七〇年経っての沖縄戦ですね。今も続いているんです。
 (二〇一五年一一月二日 ハーフムーン・ヒルと呼ばれた真嘉比の丘にて)

[佐藤註]
 具志堅氏への取材は、二〇一六年五月一二日に第二回目が行われた(偶然にも、このあたりでの一週間に及ぶ戦闘が始まった日だった)。本稿、一回目のインタビュー後の経過をお聞きしたかったのだが、それは次号以降での報告となる。九月二七日、具志堅氏に、本インタビューの掲載の許諾をいただいた後、次のような「「戦没者遺骨返還のあり方を考える国会内集会」への参加のお願い」というタイトルのファックスが入ってきた。現在どのような進行状況にあるかをよく示しているため、ここに転記する。

呼びかけ団体 沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤ―」
「(前略)皆様ご存知のように、本年4月に施行された「戦没者遺骨収集推進法」では、第1条で、「戦没者遺骨収集」を初めて国の責務とし、第2条において、「戦没者遺骨収集」とは「収容し、本邦に送還し、及び当該戦没者の遺族に引き渡すこと等をいう」と明記されました。

 すでに沖縄戦での戦没者2533名のご遺族(沖縄、北海道、愛知県など)に対してDNA鑑定参加呼びかけ通知が始まっています。沖縄での実施のありようが、遺骨収集を行っている他の地域の先行事例になると私たちは考えます。しかし全国の遺族に今の鑑定が始まった状況が十分知れ渡っていないのが現状です。

 また法案の国会審議においては、参議院厚生労働委員会を中心に、一体でも多くのご遺骨を家族の元に戻すために、活発な議論が行われました。まず「照合する遺族」の鑑定については、現在、出土地点に関連する部隊の希望するご遺族に限定されていますが、ご遺族の照合範囲を拡大すべきという議論や、ご遺族の高齢化に鑑み、すべての希望するご遺族から検体を取るべきという議論がなされました。

 さらには、これまでご遺骨のDNA鑑定は「歯」のみに限定されていますが、「歯」だけではなく「手足など四肢骨」も対象にすべきであるとの議論が提起されました。これらの議論を踏まえ、2月18日には「戦没者の遺骨から抽出したDNA情報のデータベース化に当たっては、できるだけ多くの遺骨の身元を特定し遺族に引き渡せるよう、遺族からの幅広いDNA検体の提供の仕組みについて検討すること」との附帯決議が、参院公労委の全会一致で可決されています。国会ではさらに、朝鮮戦争時の遺骨収集を行っている韓国では「歯に比べ四肢骨の方がDNAデータが抽出している」ことが示され、厚労省は、米国や韓国の取り組みについて情報収集をしていくことを表明しています。沖縄では、現在保管されている出土遺骨600体に対し、「歯」は87体しかありません。四肢骨の鑑定は、沖縄戦遺族のみならず南方など他地域のご遺族にとっても大きな希望となると考えます。

 そこで法施行から半年の機会に、厚労省から現状の報告をいただいた上で、関係ご遺族の発言をいただくほか、ぜひ関係団体の皆さまからもご意見をいただき、衆参国会議員の皆様とともに遺骨返還のあり方のよりよい方向を探りたいと思います(後略)。」


(第30回)少しずつ始まっている「障害のある先生」への働き方支援



取り組みの始まった教育委員会と国立教員養成大学

 SNSをのぞいていると、2月4日の読売新聞オンラインに次のような記事がありました。障害をもつ教員志望の大学生、大学院生を支援するために、奈良県教育委員会が「全国障害学生支援ならネット」を立ち上げ、参加者を募集している。学生同士や、障害のある教員とオンライン上で交流できる他に、奈良県内であれば希望者の教育実習も受け入れる。対象は全国の学生。こんな内容でした。奈良県教委の障害者雇用の法定雇用率のアップと、教員を希望する障害のある学生への支援との、両方をめざしたものと説明されています。

 なかなかのアイデアです。奈良県内で受験する場合、一次試験の一般教養と面接を免除するという特典までついています。これは魅力的です。他県の教育委員会にも普及していけばいいなあ、と感じさせる好企画です。特典をどうするかは議論が百出しそうですが。

 また文部科学省のホームページには、「教育委員会における障害者雇用に関する実態調査」の結果が公開されており、次のようなケースが報告されています。

「川崎市:聴覚障害のある教員の情報保障のため、手話通訳者を配置(市単独事業・令和元年度より実施)」「宮城県:県立学校等に障害のある教務・業務補助員を配置し、教職員の業務を軽減(県単独事業)」「熊本市:教育委員会事務局に執務室を設置し、各学校へローテーションで派遣」「静岡県:視覚障害のある教員には、パソコンの読み上げソフトを活用し、職員会議の資料などをテキストファイル化してデータの提供を行っている」

「(島根大学)障がい学生支援室を窓口として、障害のある高校生や特別支援学校生徒の大学見学・体験入学の受け入れ、教員(担任や進路担当教員等)からの質問や事前相談、見学等に対応している」「(滋賀大学)教育学部では独自に、障害のある学生の入学が決定した時点で、個別支援チームを立ち上げ、入学前の3月に高等学校教諭、本人、保護者を含めて打ち合わせを行い、①当面のスケジュール、②修学支援の実情等の共有等を行っている」

 こうした支援体制が、より多くの教育委員会や教員養成大学で充実したものになっていけば、障害のある先生が増えていくための確実な後押しになるだろうと思います。

三戸学さんの問題をどう一般化していくか

 さて前号では、『障害教師論』の著者で研究者の中村雅也さんにご登場いただき、三戸学さんが提示した問題への感想をお聞きしました。三戸学さんは車椅子の中学教師です。秋田県教育委員会の異動命令の是非をめぐる問題、タクシー通勤の自己負担分をめぐる問題、この二点を中心に、秋田県人事委員会に対し異動の無効を申し立てていましたが、いずれも訴えは棄却。その点についての感想を伺ったのでした。

 中村さんは、おおむね次のようなことを述べました。これまで教員採用試験の受験資格として、「自力通勤ができる」という項目があったが、それが撤廃されたことで新たにクローズアップされた問題であること。県教委が示した「タクシー通勤を認め、上限55,000円までの交通費を県が負担する」という決定が、これから全国的にどんな影響を与えていくか、その点が大変注目されるところだ、こんな内容でした。

 ちなみに先に紹介した文科省の実態調査の、職場でなされている「合理的配慮」の具体例には、三戸さんが希望する「修学旅行の引率」や「学級担任」の紹介はありますが、通勤をめぐる記載はありません。通勤に関して中村さんは、かねてから障害のある先生を悩ませてきた問題であり、表面化はしていないだけで全国的に共通する問題ではないか、という見解でした。

 一通り感想をお聞きした後、私は「三戸さんの問題から、「障害のある先生」全体に通じる一般的な問題として、どんなことが取り出せるだろうか」と問いかけました。中村さんは、『障害教師論』のなかに「障害者労働の業務支援理論」というテーマで一章を割いている、これは障害者の労働をどう支援したらいいかというモデルの提案であるとし、次のように話し始めました。

「障害のある教員に人的支援をつけるとき、同僚の教師がサポートしているケースが多いですね。たとえばTT(ティームティーチング)という形で、数学だったら同じ数学の先生が授業のサポートに入る、非常勤の先生を入れて、採点のお手伝いをしてもらう、そういう形です。三戸先生にも一時、人的サポートがついていたことがありますが、これにはいい面があります。数学であれば、数学の専門性のある先生にサポートしてもらったほうが、数学の力があるし、採点の要領も分かっているので都合がいいわけです。しかしその一方で障害のある教員の支援は、教科指導だけにはとどまらないものがありますね」

 それが、今回の三戸さんのケースで典型的に現れた問題だと言います。

「三戸さんの場合は通勤支援がそうだったわけですし、洋服を着るときにもサポートを必要とします。そういう生活のサポートは同僚の教員でなくともいいわけですが、しかしここにはまた、別の専門性を要します」

 三戸さんが明らかにした「通勤支援」という問題は、福祉用語に置き換えると「移動支援」という問題になると指摘し、そして続けます。

「「移動支援」を専門性のない、例えば教頭がやってしまうと、車に移乗させるときどういうふうに乗せれば快適かは分からない、乗せ方によっては三戸さんが怖い思いをする、そうしたことは分からないわけです。身体に不自由のある方の介助はそれなりに慣れていないとできないですね。車椅子の操作にしても、本当は怖いけれど我慢している、本心では専門性のある支援者にやってもらいたい。そういうことをふくめ、支援には様々なものがあり、適格性のある人は限られています」

 中村さんはさらに、次のように述べました。たとえば視覚障害のある数学教員への支援。同僚の数学教員でもテストの採点はできる、しかし点訳の教科書を作ってくれと言っても、それはできない。聴覚障害のある数学教員への支援も、生徒たちの発言を手話で通訳してくれる同僚は、ごく少数ならばいるかもしれないが、では数学という教科の専門的なサポートをしてもらえるかというと、そこはうまくいかないことはありうる、そう言います。

障害支援要件と職業要件

 「ぼくは四つに類型化したのですが、障害のある教師を支援するためには二つの要件がいるのです。一つは教師であることとか、数学の教師であるというような意味での、職業に関する専門性についての要件。これを「職業要件」と言います。

 もう一つは、車いす使用の教員だったら、車いす使用についての専門性。全盲の教員であれば、移動のサポートをしたり点字の教科書をつくったりする、盲という障害についての専門性。聴覚障害の人であれば、手話をしたり、パソコンの要約筆記ができるような専門性です。これを「障害支援要件」とぼくは名付けています」

と障害支援要件の二つを必要とし、

・職業支援要件を満たす人による支援
・障害支援要件を満たす人による支援
・両方を兼ねそなえている人による支援
・特別な要件を必要としない一般の人的支援で充分な支援

 この四つの類型に分類できると言います。
 
「教科の専門性のある人には採点、板書、指導補助、そういうサポートを任せればいい。教科の専門性がなくても、車椅子を押したり、視覚障害の人の移動支援については、ガイドヘルパーのような専門性のある人がいるわけですから、その人に任せればいい。洋服を着る手伝い、給食を運ぶ、といった特に専門性を必要としない支援もあるわけですが、でも、それがなければ障害者は生活ができないですから、これはこれで必要な支援です」

 障害のある先生の支援を、これまでのようにすべて同僚教員に担ってもらう、学校の中だけで完結させてしまうという発想は、これからは改めていったほうがいい。それが中村さんの主張するところでした。

 「三戸さんの場合でも、教科の支援は同僚にやってもらうにしても、通勤は福祉タクシーという移動支援の専門性の人がいるわけだから、その人にやってもらう。必要な福祉タクシーは教育委員会が準備する。社会には障害を支援する資源がたくさんあるわけですから、そういう資源をフル活用して障害のある先生を支援する。必要なものには教育委員会がお金を出して用意する。そういうことが必要性があるということを、「障害者労働の業務支援理論」で書いています」

 ただしこの問題にも、分厚い人材の層がある地域と、薄いところ、場合によっては全くなかったりする地域があります。地域差の問題です。この点については次のように述べました。

「これは学校の教員の問題だけではなく、もっと端的に表れているのは、障害者の自立生活ができるかできないか、高齢になっても一人で生活できるかどうか、そういう問題です。それは地域の社会資源の厚さがどれくらいかによって変わってきます。教育委員会がお金を出すと言っても、使える内容は大きく違ってしまうという課題は残りますね。

 障害者運動では、資源がなければ要請する、資源をつくっていくという運動をするわけです。ひょっとしたら社会資源が少ない地方のほうが、働き手は余っているかもしれません。その潜在的なパワーをうまく取り込んでいく。もちろんそのとき、搾取するのではなく、十分な給料がもらえて、充実した仕事につながるということが前提です。安い給料で障害者の面倒をみてもらうといった、ときにありがちな発想は論外です」

 これが中村さんによる、障害のある教師の「業務支援理論」の基本的な考え方でした。

障害のある先生を「感動の物語」にしないために

 それから中村さんは「三戸さんのおっしゃっていることや佐藤さんの書かれていることを読んで、一番言いたいことを話してもいいですか」と前置きをして、次のようなことを話し始めました。少しばかり微妙な話題になります。
 
「障害のある教師の問題で一番混同させてはいけない、とぼくが感じていることは、障害のある教師の教育的効果という問題と、障害のある教師を支援しなければいけないという問題とを、同じ次元で語ってはいけないということなのです。

 たとえば三戸さんは、自分が障害のある教師であることで、がんばっている姿を生徒たちに見せる、卓球に打ち込んでいる姿を見せることで、生徒たちにいい影響を与えているという主張をしますね。たしかに障害のある先生の強みはたくさんあって、現場に入ることで素晴らしい教育効果があることは確かなんです」

 以前も紹介していますが、文部科学省の「障害者雇用推進プラン」のなかでも次のように謳われています。

「児童生徒等にとって、障害のある教師等が身近にいることは、
①障害のある人に対する知識が深まる
②障害のある児童生徒等にとってのロールモデルとなる などの教育的効果が期待されるところである。さらに、新しい学習指導要領において対話的な学びの実現が求められる中、 障害のある教師等との対話は、児童生徒等にとって、共生社会に関する自己の 考えを広げ深める重要な教育資源となることも期待される」

 この点につながる問題提起だと、私は受け止めました。中村さんは続けます。

 「障害のある先生が学校にいることで、こんなにいいことがある。だから学校で採用しなければいけない、支援しなければいけないと結びつけてしまうのは、趣旨が違っていると思うのです。たとえば数学の教師としての実力をつけたい、それが教師としての自分の目標である、と考える障害のある先生がいたとします。その先生に対して周りから、「君は障害者なんだから、障害のある教師としての特性を生かし、子どもたちの「心の教育」をしなければいけない、というような役割分担を押し付けられるとしたら、これはおかしいわけです。

 あるいは車椅子の先生が管理職に、「三戸先生は車椅子で卓球部の指導をし、あれほど教育的効果を上げている、君もなぜそうしないのか、それをしないのはだめではないか」、と言われてしまう可能性もあるわけです。つまり、障害があることで素晴らしい教育的効果を発揮する、だから採用し、支援する。そういう考え方は筋違いだということですね」

 中村さんはもう少し踏み込んで、次のようにも言いました。

「障害者であることで、その効果を発揮しなさいと求められることは、障害があることによる見返りを求められていることですね。見返りというお土産を持ってくれば、できないところは大目に見てやろう、役割を与えてやろう。そういう発想が潜んでいると思うのです。つまり障害者はできない存在、劣った存在として見られている。そういう障害者差別の発想が潜んでいると思うのです」

 この話から私が連想したことは、少し前にNHKEテレの『バリバラ』で、障害者による感動物語を取り上げて「感動ポルノ」と称していたことでした。ここまでうまいネーミングは私にはできなかったのですが、『ハンディキャップ論』(2003年・洋泉社・新書y)という本で、私は「感動物語」について皮肉を込めて触れたことがあります。その後、「テレビの障害者感動物語は、一般視聴者を感動させてくれない障害者は要らない、感動させてくれる障害者だけがテレビには必要なんだ、要するにそういっている番組じゃないのか」といった趣旨のことを話して、少しばかり叱られたのでした。

 中村さんの言っていることをこちらの趣旨に引っ張れば、「感動させてくれる先生でなければ支援はしない。そう考えるならば、それは本末転倒だ」、そういう指摘として受け止めてもあながち間違いではないのではないか。強い同意とともに私はそんなことを考えたのでした。

「教育効果が高くなることは確かなのでつい強調してしまうのですが、障害のある先生が孤立しがちな中で同僚や保護者に自分をアピールしたり、障害者運動で相手を納得させるためのロジックとしては、あっていいと思います。しかしそのことと支援の必要性を直結させてはいけない。問題は別のことにしておかないといけない。もちろん三戸さんは分かっておられると思います」

 まずは支援の手立てをする。しかしこの手立てもその人を優遇する特別な手立てではなく、社会に参加するときに対等なスタートラインにつくための、当然の準備である。

「これを合理的配慮というのだと思うのですが、権利としての支援です。世の中にはすでに配慮されている人たちと、配慮されていない人たちがいる。健康な人たちはすでに配慮されている。例えば2階に行けるように階段がつけてあり、男女のトイレを間違わないようにシンボルマークが掲げてある。だから困らない。でも障害のある人には階段やマークは配慮にならない。だから困ることが多いわけです」

 対等なスタートラインにつくための配慮、それが合理的配慮である、特別の優遇ではない、中村さんはそう繰り返したのでした。


教職課程 2021年 04 月号 [雑誌]
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