ガマフヤー・具志堅隆松さんに「戦後七〇年」の沖縄戦を聞く   聞き手・佐藤 幹夫 「飢餓陣営」44号(2016年冬号より)


沖縄戦の遺骨はまだたくさん残っている


「ガマフヤー」というのは、沖縄戦の遺骨を掘る人、という意味ですね。
ぼくはここで生まれ育ったので、小さい時からこの真嘉比の山に入って遊んでいました。山には鉄兜をかぶった骸骨があって、大人からは、「触ってはいけない、近づいてはいけない、あとで家族が捜しに来るから」と言われていたのです。実際、沖縄が復帰した後、遺骨収集団が来ましたね。ぼくはいま六一歳ですが、二八歳の時から関わり出しました。最初は糸満や南部の方でやっていました。あの頃は気楽でしたね。一人で行って、一人で探せばいいわけですから。

でも、新都心の開発のとき、あそこには遺骨がたくさんあるから収集作業をするべきではないか、とマスコミにも役所にも言ったのですが、相手にされませんでした。もっとぼくも押せばよかったんでしょうね。それからは、これをやらないのは絶対におかしいという姿勢で臨むようにしました。

おかしな話ですが、工事現場から古い茶碗のかけらが出てくると、工事は止まるのです。でも、人間の骨が出てきても、工事は止まらんのですよ。警察を呼んで、事件性がないかどうかの確認作業をしてもらうのですが、戦没者遺骨だということになると工事は止まらんのです。
物の場合には文化財保護法があります。でも、遺骨発掘には法律がないのです。人間は古い茶碗以下なのか、それはおかしいだろうとずっと言ってきたのです。やっともうすぐ、法律ができます。衆議院を通り、参議院で審議されるときに日程切れになってしまいました。今度の臨時国会が開かれたときには、この法律が通ると思っているんですが、ぼくはそれがゴールだと思っていたのですけれどね。

一日で掘れる作業なんて、本当にたかが知れています。駐車スペース6台分できればいい方です。最初の市民参加で収集作業をしたときには、作業をする人が八〇人、マスコミの人たちが二〇人くらいいたと思います。それでもまだ手付かずのところは多いし、その手付かずの所が整地され、どんどん家が建っていく。不発弾が出たときには国による対応策がとられ、自衛隊が処理してくれるようになったのですが、遺骨については何も法律がないのです。

だから待っているのですが、ただ法律が通ったとしても工事規制にまで及ぶかどうかはまだ分からない。遺骨収集は国がやらなくてはいけない作業だという根拠を示した法律ですが、でも国が考えているのは、南方の太平洋の島々に遺骨収集に行く、というそのための法律です。沖縄戦で、激戦地だったところでまだ遺骨収集がされていない場所はいくつもあるから、とぼくはいっているのですが、開発のときには相手は市や県の行政だから向かっていけるのですが、個人が家を建てるときには非常に苦しいものがあります。工事が止まってしまったら、当然その人は怒りますよね。なかなか苦しいです。それから、整地をする土建屋さんが、遺骨が出てきたときにちゃんと対応してくれるかどうか、という問題ですね。

向こうにシュガーローフという丘がありますが、その工事のときにはたくさん出ていたと言われているのですが、遺骨収集は、まったくされなかったですね。土砂といっしょに運び出されたといいます。それはひどいじゃないかとぼくは思いましたね。

真嘉比の丘のモニュメントに立って

以前、この真嘉比はまったくの山で、山のなかにお墓が点在するようなところでした。戦前の墓地地帯だったのです。東西に延びている丘で、半月状なのでハーフムーン・ヒルと呼んでいますが、このあたりから向こうに小さな尾根が伸びていたのです。この右側から出てくる遺骨は、全員、陸軍のもちものをもっていて、尾根の東側から出てくる遺骨は、全員海軍の遺骨をもっていました。陸軍と海軍とは、作戦の担当を区分けしていたんだろうと思います。

開発は二〇〇九年からですから、それまではずっと残っていたのです。墓地地帯だったのでなんの工事もなく、下水道などのインフラもなくて、手をつけにくかったんでしょうね。本当に何もなかったですよ。一〇年ぶりくらいにここに来る人は、あまりの変わりように、分からないでしょうね。開発するにしても、遺骨収集をしないで開発をするのは、これはおかしいだろう、遺骨収集は戦没者墓地に反して終わりではなく、この人たちが帰るのは家族のもとじゃないか、というのがぼくの考えなのです。

沖縄県庁も、戦争とともに転々としていくのですが、県庁の体はしていなかったのです。戦禍を避けて、役人が警察と一緒に避難しているという状況でしたからね。那覇も、「10・10空襲」で壊滅的な被害を受けますから。

このモニュメントは、ここはかつて激しい戦闘がおこなわれた場所であり、ここで遺骨収集がおこなわれた、ということを後世に残すために作ってほしいと那覇市にお願いをして作ってもらったものです。

二〇〇九年の一〇月九日から一二月一〇日までの約二カ月間、緊急雇用創出事業を導入して、ホームレスの人たちに掘ってもらいました。本土から沖縄に来て公園で暮らしている方が、半数近くいたんじゃないでしょうか。あとは沖縄のホームレスの方ですね。

モニュメントをつくる時、現場に残っている物を活用してほしいということで、この石材は墓石ですし、ところどころ小さくへこんでいると思いますが、弾痕ですね。ここは向こう側に貫通していますが、こうした穴に、子どもたちがよく石を詰めて遊んでいます。山の頂上だと、それほど遺骨の上に堆積はないのですが、裾に降りるに従って上から流れてきた土が堆積して、深いところだと四メートルくらいありました。

ここに見える物も収集品の一部ですが、一番多いのは砲弾の破片です。小銃弾もあったのですが、地上戦の跡が見てとれるように銃だとか水筒だとか、アメリカ軍の持ち物が出ていますが、それもここまでですね。つまり、戦場に残っている武器というものは、持ち主が戦死したことを表していて、アメリカ軍が犠牲を出すのも、地理的にここまでだということです。

アメリカ軍は読谷村から上陸し、北と南に分かれて進撃していくのですが、ここは南に向かう師団との激戦になった場所です。もう少し南の嘉数高地とか浦添の前田高地とか、末吉とか首里でも、アメリカ軍はそれなりの犠牲を出しているのですが、ここが最大の激戦地と言われるように、アメリカ軍の犠牲者がとても多いのです。ここと、すぐ近くのシュガーローフですね。一帯が、日本軍の一連の陣地です。アメリカ軍は首里城地下の、第三二軍の本部を目指すのですが、その西の守りの要衝がここです。ここでの戦闘が五月一二日から一八日まで約一週間続きます。ここは地下壕になっていて、丘のあちこちにだいぶ強力なものが作られていたのです。

ここには大きなクレーターが残っていました。着弾孔ですね。八一ミリ砲か、一〇五ミリ砲ですね。ここはもともと墓地があったのですが、開発のときに点在していたものを一か所に集め、現在のようになったのです。わたしたちが遺骨収集をして、それから工事に入り、そのときにお墓をここに集約したのです。向こうが真嘉比小学校。大きなビルが二つ見えますね。その下に白い水タングが見ますが、あれがシュガーローフです。あそことここが一連の陣地で、日本軍はここで待ち受けているのです。

那覇市と交渉をして分かった意外な実態

この場所の遺骨収集を手掛ける以前はほとんど南部に行っていましたが、ここが激戦地だったことは昔から知っていました。緑が残っているあの辺りには、まだ遺骨があるはずです。新都心が開発され、開発がここに及んできたとき、那覇市が遺骨収集をするもんだと思っていたのです。新都心の開発のときにもそう思ったのですが、ところが何もなされないまま開発されていった。

それで、ここでは開発の工事を止めてでも遺骨収集をしないといけないだろうということで、最初の遺骨が出たのは、目の前に白い建物がありますね、あそこなのですが、工事が止まっている日曜日にその工事現場に入っていって、遺骨を動かさないようにして周りの土を掘り下げていって遺骨があることが分かるようにし、そこに新聞記者を呼び、こんなふうに遺骨があるにもかかわらず、遺骨収集が行われないままに開発が行われているんだという話をしたのです。

那覇市にもその旨を申し出たら、話し合いがしたいということで応じると、遺骨収集は厚生労働省がやっています、沖縄県においては県の援護課がやっています、私たち那覇市にはその予算がないのですという。こっちは別に予算化してくれという話ではない、私たちが日曜日に工事現場に入って遺骨収集することを認めてくれたらそれでいい。そいう話をしたのです。結果は、いいということになりました。

本当は困ったことで、「私たち」じゃなくて、「私一人」なのです。役所との交渉なので、できるだけ団体であるかのようにして話をしていたのです。二〇〇七年か二〇〇八年ごろでしたね。そこで考えたのが、市民参加の遺骨収集でした。多くの市民に「一緒に遺骨収集をやりませんか」と訴える取り組みを考え、その呼びかけをしたときには那覇市も共催になってくれたのです。

それをおこなったのが〇八年の六月二八日。そのときにはたくさん来てくれました。そして遺骨もたくさん出ました、二回目を八月三日にやったのです。午後から、ものすごいどしゃ降りになって、午後からは中止にしたのですが、何人かで壕のなかで雨宿りをしていたら、別に掘らなくても土を少し寄せるだけで遺骨が出てくるもんだから、それならと皆で掘りはじめたのです。

それから二、三日して不発弾が出てきて、警察に届け、来てもらって確認し、今度は自衛隊に来てもらったのです。自衛隊が持っていったあと、どうも毒ガス弾のようだということが分かったという。それで市民参加は即中止です。毒ガスが出るような現場に不特定多数の市民を動員することはできないということで、環境省が入ってきました。地下水、土壌、空気にも漏えいがないということで、安全宣言は出たのですが、一般市民の公募はもうできないと思いました。

その頃から手伝いたいという人が、何人か手を上げてくれるようになってきたのです。そういう人たちといっしょに日曜日だけやっていて、我々が調べた所から那覇市が工事に入る、という取り決めをしていたのです。もっと早くできませんかと言われ、ボランティアの日曜だけの作業だからこんなものだろうと思っていたのですが、でも我々のせいで工事を遅らせるのは悪いから、ここからは国にやってもらおうかということで、国にお願いをするために県を訪ねたのです。厚生労働省の出先がなくて、県の援護課というところが遺骨収集を所管していました。そこに訪ねていって、真嘉比での遺骨収集を厚労省がやってくれませんか、とお願いをしたのです。

すると、とんでもないことを言われました。「国も沖縄県も、沖縄の遺骨収集はもう終ったものだと捉えている」、というのです。収束したものと捉えていると言ったって、現に出ているじゃないですか、といったのですが、それでも譲らないので、不思議だなと思いながら、じゃあどうすればやってくれるんですかと聞くと、「埋没壕があったらやります」というのです。入口が塞がっている壕ですね。それは建設機械をもってきて掘らないといけないので、民間のボランティアではできないだろうということでした。国の遺骨収集は終っていて、埋没壕だったらやるというのも、おかしな話ですよね。

それからもう一つ分かったことは、遺骨収集というのは国がやるのではないのですね。企業がやるのです。土木会社が委託をされてやるんです
よ。それも業者を入札で選んでやるというのです。このあたりから私も段々腹が立ってきて、あんたがた、じゃあ、遺骨収集を業者の金もうけにさせているのか、それだったら止めてくれということで帰ってきてしまったのです。お願いしに行って、やるなといって帰って来たようなものでしたけれどね。

緊急雇用創出作業としての遺骨収集

次に考えたことは、こちらはボランティアで日曜日しかできないし、少人数。国が金を出してもいいと言っている、周りを見てみるとホームレスの人たちがいっぱいいて、失業者もたくさんいる。それなら、仕事がなくて困っている人が、戦争で亡くなった人の遺骨を探す。そういうのはどうか。

ぼくはそのとき、戦争で亡くなった人たちの遺骨は、弱者のなかの弱者だと言っていたんだけれども、お互いを援けるという構図が書けるんじゃないか。ホームレスを支援しているNPOに「フロンスキーパーズ」という、キリスト教会関係のNPO法人があるのですが、そこを訪ねていってお願いをしてみたのです。

すると、それならやりますということで、国に対して、我々がホームレスの人たちを集めるから、彼らを作業員とした遺骨収集作業をやってほしいという要望書を、正式に出したのです。そうしたらある国会議員が、「厚労大臣に会えるとしたら、会ってみるかい」というので、「ぜひ、会いたい」と答えました。実現したのが〇九年の三月ごろでしたが、当時の厚生労働大臣は増添要一さんでした。会って話すと非常によく理解しておられ、話が速かったです。「沖縄戦の戦後処理と雇用対策・失業対策が同時にできて、いいアイデアだと思います。国も全面的に協力しますから、ぜひやってください」。そう言われたのです。「緊急雇用創出事業としてやりませんか」ともいう。内容をある程度知っていましたし、こっちが言っていることと変わらないので、「ぜひお願いします」というと「そのためには早く沖縄県から厚労省に、事業計画書を上げて下さい」という。

沖縄に帰ってきてすぐに県を訪ね、国がこういっているから、緊急雇用創出事業の事業主体としてぜひ沖縄県がやってほしいというと、「駄目だ、駄目だ」の一点張りです。どうしてですかと聞くと、「沖縄の遺骨収集はもう終わっている」という。「でも現に出ていますよ」というと、「しかし戦後処理は国に責任がある」と答えるので、「その国がやってくれと言っているんですよ」といっても、「駄目だ、駄目だ」なんです。

困ってしまったので、次には国会議員に一緒に行ってもらったのですが、県は同じことをいうのです。どうして一部署の個人がそういうことを言うことができるのか、ぼくには不思議だったですね。それで困ってしまって、都市開発の工事をやっているのは那覇市なので、市を訪ねていって、「那覇市が、国の緊急雇用創出事業の事業主体になることはできませんか」というと、「できます」というのです。

それはぜひお願いしたいというと、関係する部署をすぐに集めてくれたのです。そこではこちらが説明をし、県の方たちが「自分たちの仕事と関係があるところから問題点を洗い出すから」ということで持ち帰り、二日後にまた集まり、いろいろな部署から質問がありました。ど、やろうということになりました。それでこの真嘉比地区での遺骨収集作業を二カ月間、緊急雇用創出事業としてやったのです。

この事業は、本来半年間の期間をもらっていたのですが、工事の関係でできるだけ急いでほしいということで、最初は一か月でやってほしいといわれました。こちらは四ヶ月くらい粘りたかったのですが、それなら二カ月で、ということでした。そこで一人あたりの発掘面積を割り出したのですが、通常の労務作業と、教育委員会がやる考古学の発掘作業の中間をとったのです。結果として五五人のホームレスと失業者の人たちを、ハローワークを通じて募集し、遺骨収集をやってもらったのです。

宜野座村の捕虜収容所の埋葬地を掘る

現在、北部地区の捕虜収容所の埋葬地を手掛けています。始めたばかりです。宜野座村で、場所が大きいので数名で行っていますが、未収用の遺骨にはまだたどり着いてはいません。宜野座村だけで一一の収容所があって、九つの埋葬地があるのです。宜野座村などの北部に、当時の人口の三分の二が移されていたと言います。強制的に捕虜となってから移動させられています。

収容所の中ではたくさん人が死ぬのです。我々も認識を新たにさせられたのですが、最近分かったのは、遺族の方は、病気で死んだという言い方をするのです。マラリアのことを言っているのですが、マラリアに罹る以前、栄養失調になっているのです。戦闘地域で米軍の捕虜になれば、収容所で衣食住をあてがわれ、あとは助かったんだと我々は思っていたのですが、ところがそうではないことが分かった。

収容所から逃げようとしたら、射殺されることもあったと言われます。そういう強制収容であるにもかかわらず、食糧が十分になくて、食べられるものは何でも食べたと言います。桑の葉もほとんどなくなったというし、そんな中でみんな栄養失調になり、そこにマラリアが蔓延し、弱い者からどんどん死んでいった。死亡者の年齢を見てみると、ほとんどが子どもと年寄りなんです。

写真では子どもに優しくしたり、人道的な処遇をしたかのようなものがたくさんあります。一面では確かにそうなのですが、集められた人たちへの対応となると、まったく違いますね。収容所によっても差があって、コザ、石川、宜野座、辺野古、国頭というように、北に行くほど劣悪になっていきます。米軍が発給する食糧が、端に行くほど届かなくなるわけです。辺野古の次の大川という収容所では、四〇〇〇人余り収容されているうちの一〇一三人が死んだと言われます。たとえば南部で、九人家族だったかな、全員生きて捕虜になり、収容所で七人死んだと言います。収容所のなかも決して生き延びられる状況ではなかった。

亡くなった人たちがどうなったか。仮埋葬されます。家族が残っていれば、戦後、家族が掘り出しに来ます。しかし、一人で収容されて一人で死んだという人が少なからずいたわけです。年寄りと子供だけでいて、年寄りが死んで子どもはなす術を知らなくて、ただ見ていた。宜野座の埋葬地を掘るということが分かったとき、遺族から電話が来て、今からでも探せませんかという。やりますが、遺骨が出てこないことにはDNA鑑定まで持ち込めない。出てくれば、国に、まだ残っているんだから、遺骨収集をやってくれと言えるのです。DNA鑑定は厚生労働省にお願いすることになります。厚生労働省は、やってはいるのですが、鑑定するための条件をつくっていて、遺骨が見つかったときに、名前のある遺品を伴っていること。それがあれば遺族に照会し、遺族がDNA鑑定を了解すればやってもいいというのです。

でも、名前のある遺品を見つけ出すのは、とても至難の技で、兵隊ですら一〇〇体堀り出して五体もないです。いままで、沖縄戦の戦没者でDNA鑑定をやり、四体帰っているのですが、全部こちらが出した分だけです。この真嘉比からも三体帰りました。一番新しいのが、浦添・前田の、前田小学校の校門前から出てきたタバタコウゾウさんという方の遺骨です。

宜野座の収容所の場合、名前のある遺品がなくとも、そこに収容者名簿があてもなくても、やってほしい。どうしてかというと、名前の分からない埋葬者がいるのです。沖縄戦の特徴は、誰がどこで死んだのかが分からないということです。分からないのです。それで沖縄では、最期に見かけた場所を死に場所とし、そこから石を拾ってくるのです。それを遺骨代わりに納めています。

遺骨のDNA鑑定の問題

いま、収容所の名簿があるところを調べているのですが、摩文仁の平和の礎にも、沖縄戦の犠牲者は刻印されていますね。平和の礎の情報は、資料館に検索機があって、氏名を入れると、ある程度取り出すことができるのです。どこに刻銘されていますよ、ということが分かるのですね。発掘現場で名前が見つかると、沖縄戦の犠牲者かどうかを、その検索機を使って確認しているのです。

名前の書かれた万年筆が遺骨といっしょに出てきた、これを遺族に返すということでこれまでは済んでいたのですが、DNA鑑定というものが出てきたので、今度はそちらをやらないといけなくなった。遺骨と、遺族との血縁関係が、DNA鑑定で確認できるかということですね。

自分は、遺骨に持ち物がなくても、ある程度状況証拠がそろえばDNA鑑定をやってくれと言っているのです。遺族が浦添の前田で亡くなったと言っているのであれ、前田から見つかった遺体のDNA鑑定をすることに、何か無理がありますか。ほとんどの遺骨に名前がないわけですから、せめてそうやって亡くなったと言われている場所で鑑定をするのが、国の戦争責任ではないですか。そう言っているのです。本当だったら、本土の遺族に「沖縄のどこで亡くなったんですか」と聞くこと自体が、ぼくは不謹慎だと思うのです。沖縄の地名もよく分からないですよね。この小さな島で亡くなったのであれば、遺族とDNA鑑定をすることくらい、やってくれてもいいではないですか。ところがそれをやってくれないのです。

このまま何もしなかったら、遺族の方から、何もしてくれなかったと言われるから、戦後七〇年にしてやっと遺骨収集の法案をつくり、やりましたというポーズにはなるでしょうが、ぼくらとしては、七〇年を追い風に、できるだけのことはやりたいと思っているのです。

これまでも、遺骨収集をする人はいました。ぼくは彼らに、一生懸命DNA鑑定の話をするんだけれど、たくさん掘り出して、たくさん県に渡せばいい、というこれまでのやり方をずっと守り続けているんです。でもぼくとしては、見つかった遺骨は戦没者霊園に収めるのではなく、家族の元に帰るべきだろうと思うのです。

国にも言うのです。沖縄に遺骨がある理由は、日本全国の各家庭の父親や成人に達した息子たちを、召集令状一枚で呼び出し、沖縄の戦地へ送り、戦死させた。その遺体がまだ家族の元に帰っていないんだから、国は家族の元に返す責任があるでしょう、とそういうんです。するとはいっていう。でも身元が確認できないんですという。今はDNA鑑定というものがありますよというと、さっきいったように名前のある遺品があるという条件が整えばやるようにしています、と答えるのです。

今年は戦後七〇年で、マスコミも沖縄戦のことを取り上げるようになりましたが、これが最後のチャンスだと思います。戦後八〇年は、存在しないですよ。遺族はいないですからね。ほんとうは遺族の方たちがもっと国に対して、このままじゃ死ねないぞと言っていいんじゃないかと思うのです。遺族会も、個々人では、なかなか自由な発言はできないんでしょうね。わたしは遺族が生きているこの五年ないし一〇年にはけりをつけるという、それくらいのものにしてほしいなと思いますね。

沖縄は、工事をすれば不発弾が見つかるということになるはずです。我々がやっていた場所でも、あと一〇センチ掘っていれば、不発弾が出たということはありますし。

戦争遺跡をどう継承し保存するか
――いつまでも過去を向いているのではなく、将来を、明日のことを考えないといけない、という声が大きくなるにつれて、戦争の記憶も遺跡も風化していく。「戦後八〇年はもうない」と先ほど言われましたが、戦闘の当事者はもち論、家族も遺族もいなくなっていく。それにつれて、戦跡の保存とか、遺骨収集とか、どんどん難しくなっていきませんか。

この真嘉比の開発もそうですね。こうやって開発されるのは、だれにも止めることはできない。だからこそ、沖縄戦の継承と検証はむしろいま生きている自分たちでやらないといけないだろう。アジア太平洋戦争のなかでの沖縄戦の位置づけは、一五年戦争のなかで、自分たちは被害者ではあるけれども、加害者の側でもあったという面もありますね。そうした面もしっかりと継承していかないといけないわけで、その責任が私たちにはあるわけですね。そうすると継承は自分たちがやらないといけない。いずれは、当事者だった人たちがいなくなり、物がなくなり、記憶も薄れ、はじめて騒ぎ出すのは目に見えている。あの時もっと聞いておけばよかった、こういう記録をきちんと残すべきだった、ということになるだろうし、そうならないようにやっているのが南風原文化センターとか、宜野座村の博物館ですね。宜野座村ではいま収容所の特別展をやっています。

 ぼくは、ここから遺骨が出ている段階で何とか保存できないか、ということを申し出たのです。ここは戦闘の様子もわかる現場であるということで、何とか後世に残したい。相手が行政だけだったらがんばりようがあったのですが、個人の地主さんがいて、みんな早く家を造りたいんだと言っている。そういう話を聞くとさすがに悩みます。他の場所に換地してもらうというやり方ができなかったんだったら、せめてこの場所の一角だけでも残して、様子が分かる戦跡公園にする。遺骨は残すわけにはいかないから、レプリカと置き換えることもできる。

 沖縄のリゾートに遊びに来た本土の人たちにとっては、冷や水を掛けられるようなことになるかもしれないと思うのと同時に、沖縄が明るくて楽しい場所だけではなかったんだよということも知ってもらいたい。現在もそうですね。勝ったアメリカ軍は出ていってくれなかったんだよ、今度は、自衛隊という名前になった日本軍もやってきたんだよ、ということも知ってほしい。アメリカ軍も自衛隊もどんどん増えていくばかりで、このままだったら、また本土のための「南の防波堤」にされてしまうんじゃないか。そういう危機感を、我々は持っているんだよということを、知ってほしいのです。

――戦跡や戦争記念館の遺し方は、地域の人たちの意見を二分させると本には書いてありますね。できれば街おこしの機会にし、たくさん人を呼び寄せたい、「観光」の一つとして組み込みたいという意見。いや、戦跡を商売にするのはおかしい、失礼な話だとする意見。『「知覧」の誕生』という本を読むと、戦跡をもつ多くの地域が、意見を二分させている、と書かれていますね。

 地元の人や学者の人たちがいろいろなことを言っていますが、そこらへんに関しては、自分は何とも言えないですね。要は、たとえ観光という軽い気持ちで訪れたとしても、そこで知ることが、その人が戦争を真剣に考えていくきっかけになるかもしれないし、逆に、残す側がまじめに重く準備をしていても、来る人間が、もういいよ、おれは遊びに来たんだから、ということもあるでしょう。

押しつけることはなくても、そういうものが残っていると、とにかく見てくれるかもしれない、どう見るかはもうその人に任せるしかない。そのときは感じなくても、後で何かで触発されて、もう一回沖縄に行こうと思ってくれるかもしれない。だから、まったく残さないのではなく、できるだけオリジナルに近い状態のものを残し、押し付けるのではないかたちにして、自分で見て、聞いて、感じて、その時には整理できなくても、あとで自分のなかで消化していき、その人なりの判断に結び付いていけばいい。そう思っています。だからぼくは、はむしろ事実を残し、事実を示す。そういう意味で現場を残すというのは、とても大事なことだと思っています。

――わたしは沖縄戦については全く不勉強でお恥ずかしい限りなのですが、ここに、こういう戦争激戦地の跡があるということは、今日までまったく知らなかったですね。インターネットを見れば、いくつかのホームページがありますが、多くの人は知らないのではないでしょうか。

 そうですね。私たちももっと発信しないといけないのかと思いますね。説明不足なんです。石碑を読んで、帰ってから、それに関連する資料を調べて、それで始めて前後と中とがつながって、だんだん分かってくる。沖縄にはこういう現場は、もっとあります。オリジナルなものが残せる現場にしたいし、そういう現場がいくつも出てきているのです。現場を訪れてほしい。戦争の犠牲者である「遺骨の人たち」と会って欲しい。「その人たち」は声は出せないけれども、なにを言おうとしているのか、そこで自分で感じてほしい。そう思いますね。思うから、きちんとした遺跡を残したい。

 遺骨収集をやった現場を残したいのですが、人道上、遺骨をそこにずっと置いておくことはできないのです。西原では、遺骨が見つかったときにDNA鑑定を国に要求し、遺族の可能性がある人たちが現場を訪れたのです。それが判明したら、遺族の手でそこから取り上げてもらいたいという気持ちがあったのです。だから動かさず、見つかった状態をそのままにしておいたのです。分かった段階で遺族の人がそれを取り上げていく。置いてあった遺骨を見て、どうして収骨しないのかという意見もあったのですが、でも身元が分かったところで家族に取り上げて欲しい。そう考えたのです。

 長いこと南部で遺骨収集をやっていたときに、遺骨を掘り出すと、摩文仁に戦没者遺骨を受け取る事務所があるのですが、そこに引き渡していたのです。三月の末に毎年納骨式があって、そのときいつも呼ばれていたのです。でも、いつも悪いことをしているような気がしていたのです。自分は遺族でもないのに、見つけた遺骨を誰とも合わすこともなく国立墓苑に押し込んでしまった。せっかく明るいところに出せたのに、また暗い所押しこんでしまった。今度はもう二度と出てくることができない。その間、誰にも会わせられなかったわけです。

 もし遺族の人がそこに参加していれば、二〇万分の一の確率ではあっても、相まみえたことになるかもしれない。遺族である人が接するのと、他人である自分が接するのとでは、違うはずだという気がするし、遺族に関わって欲しい。しかし遺族は高齢化していて、もう現場には足を運ぶことができなくなっている。

 国立墓苑に納めるときには火葬され、その上で納骨されるのですが、DNA鑑定が判明して以降、県に対して、火葬中止の要請をおこなったのです。火葬してしまうと、DNA鑑定をして遺族のもとに帰るという道がなくなってしまう、だから火葬しないでほしいということを県議会に上げてもらい、県議会でそれが採択され、火葬が止まったのです。二〇一三年でした。

ところが去年(二〇一四年)の六月二三日の新聞に載っているのですが、仮安置の場所が満杯になったから、県が火葬を再開するというのです。また陳情を出し、これは物ではなくて人だよ、遺族の人にとって、DNAをして帰ってくるというのは希望であり、権利だよ。県が火葬をするというけど、そもそも遺族の了解を得ているの。おかしいですよ。そういう陳情を出したら、また採択されたんです。それで、現在まで六〇〇体余りたまっているという。

 私一人で陳情を出したのではなく、他の遺骨収集をしているグループもありますし、道路工事で見つかるケースもありますからね。宜野座村の埋葬地については、県とガマフェアと、宜野座村の博物館と、この三者でやっています。

沖縄戦と戦争孤児の問題

 沖縄戦にはじつはもう一つ戦争孤児の問題があって、これについては時期を逃してしまった。北部の収容所で作業をしている段階で分かったのですが、戦争孤児の方たちが、いろいろなケースで戦後を生きていくわけです。身元不明の戦争孤児ですね。あまり小さすぎて、本人が自分のことを語れない。そういう孤児が、収容所のなかの孤児院でどうにか生き延びていく。そしていまだに身元不明のまま生きているのです。
その人たちにはいくつかのパターンがあって、普通に結婚して、おじいちゃん、おばあちゃんになっている人もいる。なかには孤児院を脱走したという人、孤児院からもらわれたけれど、もらわれた先が児童労働のために酷使する場所で、そこから逃げたという人、本人が、自分のことをまったく知らないまま高齢になってしまったという人。

なかには戸籍のない人もいましたね。この人は、ホームレスの支援団体の支援を受けるようになったときに、そのことが分かったのです。自分の本当の名前もわからないし、字も書けない。学校に行っていないですからね。どうやって生きていたのかと聞くと、ずっと労務作業で食いつないでいたという。戸籍がないというので、病院に行くときどうしていたのと聞くと、病院は一回も行ったことがないという。

これを聞いたとき、いろんな問題があると感じた。人権の喪失であり、人格の喪失じゃないか。そういう人間がわたしたちの周りにいたことに対し、我々にも責任があるんじゃないか。ぼくは以前から戦没者遺骨と遺族のDNA鑑定を、と言っているのですが、その中にこの人たちも入れるべきじゃないか。この人たちは、家族にとっては死んだことになっているはずなんです。いま生きている人たちがDNA鑑定を希望すれば、身元が判明する人が出るかもしれない。もちろん色々な問題があり、双方が相手に知らせてもいいという前提があって、初めて知らせる。でも予測できない問題は他にもあるんだろうなと思います。

 このとき思ったのは、中国残留孤児の問題がありますね。あれだけやってもらったというか、少なくとも国が対応してくれたわけです。帰国できた人は何人もいますね。でも沖縄の身元不明の個人については、その人たちが声を上げないまま終わってしまうのかな。いまは結婚して幸せに暮らしている人たちもいます。そういう人たちは今さらと思うかもしれない。家族にはそのことを言っていないかもしれない。このことを少し追いかけたことがあったのですが、個人のプライバシーに立ち入るようなことになるのかなと思い、でもそれでも、国は一度でもいいから、そういう人たちに自らの身元を知りたい人に関しては応援するべきじゃないか。匿名のままでも、身元捜しに協力しますといってもいいんじゃないか。

 自分の支援団体に拾われ、そこで自分の身元を打ち明けた人たちですね。会えないかと聞いたら、これ以上恥をかかせないでくれと言っているというんです。その人たちに共通しているのは、全部自分が悪いと思っていることです。戦争の被害者だという意識はないのです。この人たちが生きている間に、なにかできないか。この人たちは、なにもいらないから、自分が誰であるか、それだけでも知りたい。親の墓参りがしたいと言います。

 何か望むことがあったら、それは国がやるべきだろう。それくらいのことは代わりに言ってもいいと思っています。言ってみれば、「生きている戦没者」ですよ。デリケートで気を使う問題ではあるのですが、この人たちが何もされないまま、年を取って死んでいくというのでは、国の戦争責任を免罪してしまうことになる。

 このまま国は知らん顔をして死ぬを待っているのか、それとも支援の用意があるから、匿名のままでも手を上げてくれませんか、呼びかけるのか。国としてではなく、人として最後の呼びかけをしてほしいですね。そういう幼かった妹弟を探している人はいるのです。自分には幼い妹や弟がいたんだ、収容所まで一緒だったんだん、怪我をしていたんで、アメリカ兵が病院に連れて行って、病院に預けられている間に連絡が断ち切られてしまった人たちですね。

 いまからでもいいから、国がそういう人たちに対応するんだということを、示してほしい。私はできる分だけ、やるだけですけれどね。
これが、戦後七〇年経っての沖縄戦ですね。今も続いているんです。
 (二〇一五年一一月二日 ハーフムーン・ヒルと呼ばれた真嘉比の丘にて)

[佐藤註]
 具志堅氏への取材は、二〇一六年五月一二日に第二回目が行われた(偶然にも、このあたりでの一週間に及ぶ戦闘が始まった日だった)。本稿、一回目のインタビュー後の経過をお聞きしたかったのだが、それは次号以降での報告となる。九月二七日、具志堅氏に、本インタビューの掲載の許諾をいただいた後、次のような「「戦没者遺骨返還のあり方を考える国会内集会」への参加のお願い」というタイトルのファックスが入ってきた。現在どのような進行状況にあるかをよく示しているため、ここに転記する。

呼びかけ団体 沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤ―」
「(前略)皆様ご存知のように、本年4月に施行された「戦没者遺骨収集推進法」では、第1条で、「戦没者遺骨収集」を初めて国の責務とし、第2条において、「戦没者遺骨収集」とは「収容し、本邦に送還し、及び当該戦没者の遺族に引き渡すこと等をいう」と明記されました。

 すでに沖縄戦での戦没者2533名のご遺族(沖縄、北海道、愛知県など)に対してDNA鑑定参加呼びかけ通知が始まっています。沖縄での実施のありようが、遺骨収集を行っている他の地域の先行事例になると私たちは考えます。しかし全国の遺族に今の鑑定が始まった状況が十分知れ渡っていないのが現状です。

 また法案の国会審議においては、参議院厚生労働委員会を中心に、一体でも多くのご遺骨を家族の元に戻すために、活発な議論が行われました。まず「照合する遺族」の鑑定については、現在、出土地点に関連する部隊の希望するご遺族に限定されていますが、ご遺族の照合範囲を拡大すべきという議論や、ご遺族の高齢化に鑑み、すべての希望するご遺族から検体を取るべきという議論がなされました。

 さらには、これまでご遺骨のDNA鑑定は「歯」のみに限定されていますが、「歯」だけではなく「手足など四肢骨」も対象にすべきであるとの議論が提起されました。これらの議論を踏まえ、2月18日には「戦没者の遺骨から抽出したDNA情報のデータベース化に当たっては、できるだけ多くの遺骨の身元を特定し遺族に引き渡せるよう、遺族からの幅広いDNA検体の提供の仕組みについて検討すること」との附帯決議が、参院公労委の全会一致で可決されています。国会ではさらに、朝鮮戦争時の遺骨収集を行っている韓国では「歯に比べ四肢骨の方がDNAデータが抽出している」ことが示され、厚労省は、米国や韓国の取り組みについて情報収集をしていくことを表明しています。沖縄では、現在保管されている出土遺骨600体に対し、「歯」は87体しかありません。四肢骨の鑑定は、沖縄戦遺族のみならず南方など他地域のご遺族にとっても大きな希望となると考えます。

 そこで法施行から半年の機会に、厚労省から現状の報告をいただいた上で、関係ご遺族の発言をいただくほか、ぜひ関係団体の皆さまからもご意見をいただき、衆参国会議員の皆様とともに遺骨返還のあり方のよりよい方向を探りたいと思います(後略)。」